第12話

 がげぎぐげごがご。

 体が砕かれていく音を無理やりに文字にするなら、きっとこう。

 がげぎぐげごがご。

 三階の窓から飛び降りて、地面に叩きつけられる。

 がげぎぐげごがご。

 誰からも愛されることなく、生まれた瞬間、捨てられた楽器のような醜い音をかなでて。

 がげぎぐげごがご。

 もう何度繰り返したかわからない。そもそも最初から数えてなどいない。

 がげぎぐげごがご。

 ティーアの涙にふれる、リトライがはじまる、窓から落ちる、白の部屋に戻る、ティーアの涙にふれる、リトライがはじまる、窓から落ちる、白の部屋に戻る、ティーアの涙にふれる。

 その動作だけをプログラムされた機械みたいに、何度も何度も丁寧に繰り返す。壊れるまで繰り返す。壊れても繰り返す。

 がげぎぐげごがご。

 繰り返すだけでも成長していくものはあるようだ。

 がげぎぐげごがご。

 何度も落ちているうちに、落下する世界に目が慣れてきた。

 がげぎぐげごがご。

 三階の教室には芹たちがいるのに、二階と一階の教室には人影がないことに気づく。

 がげぎぐげごがご。

 校庭に叩きつけられる。地面から嫌われたような衝撃に肌は裂け、骨は粉砕される。

 痛覚が機能することを拒絶しているのか、痛みはなく、代わりに体が松明たいまつにでもなったかのように、ただただあつい。

 誰が何のためにそうしているのか、落下地点のあたりにだけ意味のないクッションみたいにせつかいが多めにかれていた。

 その石灰を囲おうように赤いパイロンが四つと、立ち入り禁止の看板もある。この区画に出店の予定でもあるのかもしれない。

 石灰に接触して、それが煙のように舞い上がると同時にいつも意識は途切れた。

 死ぬことですら慣れてしまうことはあるのか、あるいは偶然、当たり所が良かったのか悪かったのか、今回のリトライで珠菜はまだ辛うじて意識を保っている。

 石灰の煙が散っていく、視界が開けていく、しかし体から力は抜けていく、死は近い。

 薄れていく意識の中、珠菜の目は三つの異質な影をとらえた。

 料理人、作業員、ピエロ。

 清潔感のある白いユニフォームに、テレビの中でしか見たことのないあの白くて長い帽子を被った、いかにシェフといった風貌の料理人。カーキー色のキャップを被り、カーキー色の作業服を身にまとった作業員。そして頂上に丸い玉のついた三角形の帽子を被り、形容しがたい複雑な模様の衣装に身を包んだピエロ。

 その三人が、かけ足で珠菜に近づいてくる。

 あまりにも統一感のない並びに、天国からの使者かとも思ったが、三人ともこの学校の女子生徒で、三日後に開催される夏祭の予行でそのような格好をしているのだと気づく。

 急いで! 誰か先生を呼んできて! 早く!

 周囲が騒がしくなってくる。

 自分を気遣きづかってくれているのだろうかと珠菜は思った。

 どうでもよかった。

 そのとき、奇妙な視線を感じて、無意識に体がふるえた。

 心配をしている、様子をうかがっている、そういう類いのものではなく、それはただ珠菜を見つめていた。

 どこから見られているのかわからない。調べようにも、体はとっくに動かない。

 魂を感じない、闇に吸い込まれていくような視線を体中に受けて、珠菜はこう思った。

 どうでもいい。


 部屋に戻る。

 これまでと同じように珠菜はティーアの涙に手を伸ばす。

 しかし指先が雫にふれる瞬間、手首をつかまれ動きをとめられた。

 腕に力を込めて強引に涙にたどり着こうとするも、相手の力のほうが強く、涙には届かない。

「あなたへの助けとなるような言動は、高いところから見ている存在に禁じられている」これまで以上に事務的な口調でティーアはつづけた。「だけど疑問をぶつけることや罵声を浴びせることは禁じられていない。だからまず疑問をぶつける」ティーアは極めて冷静な口調で言う。「さっきから、なにをしているの?」

「……じゃま、しないでよ」その声は、あらゆる感情が欠けていた。

「答えになってない」

 なんとしてでもリトライをはじめようと、一心不乱に珠菜は腕に力を込める。

 だが、珠菜の手首をつかむティーアの手は、びくともしない。

 むきになってもっと力を込める。

 びくともしない。

「……ねえ、この部屋ってこんなに暗かった?」

 相手の気をまぎらわせようと声をかける。それは少し前から気になっていたことでもあった。

 純白だったはずのこの部屋は、蛍光灯がいくつかきれたみたいに、今はやや薄暗い。

「この空間はあなたの場所。そう伝えたはず」

 ティーアの感情と腕は微動だにしない。

「珠菜、リトライする能力は、あなたに窓から飛び降りる特訓をさせたくて与えてもらったわけではない。それくらいは理解してほしい。あなたが随分無駄遣いしたせいで、もう数えるくらいしか涙は残ってない」

「……だったら、それ全部使って、芹にごめんなさいする」声に生気はなくとも、腕の力は増していく。

「では今度はあなたに罵声を浴びせる」これまでと何一つ変わらない抑揚のない声でティーアはこう言った。「ばかげてる」

「……私にこういうことしたらいけないんじゃなかったの?」

「その通り。私は今、高いところから見ている存在との約束をにしている。だから私の腕は今、ちぎれそうなくらい痛い。でも、今のあなたを見ている痛みと比べたら、どうということはない」

「だったら、もう離してよ」声を上げて、つかまれている腕を強引に振り上げる。

 珠菜の腕をつかんでいたティーアの腕は、模型の部品みたいに、文字通り肩からはずれた。

 珠菜の右の手首には、ティーアの左腕だけがぶらさがっている。

 感情のこもった悲鳴をあげて、珠菜はそれを白い床に落とした。

「……ご、ごめんなさい、ティーア……私、なんてことを」とろうばいする。

「ちゃんと言ったはず。ちぎれそうなくらい痛いと」腕を失ったティーアの左肩からは血液ではなく、溶けたアイスクリームのような白い粘液がれていた。「でも、少しは冷静になってくれてよかった」

 ティーアは珠菜の足下に転がった自分の左腕を拾い上げ、腕輪をはめるように、腕をはめた。

 それは難なく、あるべき場所におさまった。

 何度か腕を回し、手のひらを閉じたり開いたりを繰り返す。正常に機能するか確認しているように見えた。

「…………」

 珠菜はこれっぽっちも冷静になどなっていなかった。感情を乱す要素がさらに増えて言葉をなくしているだけだった。

 目の前にいる彼女は何者なのか、なにものなのか。その存在を正しく形容するためにあてはめるべき妥当な言葉が思い浮かばない。

「私はかえす者」出会ったときと同じ言葉をティーアは口にする。「かつて、私の魂はあなたに救われた。あなたの百の涙と、あなたの百の時に──だからもしあなたが悲しみの涙に潰されそうなときがきたら、この想いをかえそうと誓った。だけど、せっかくの涙をあなたは台無しにしようとしている」ティーアは、じっと珠菜を見つめる。

「……わかってるよ、そんなこと」珠菜は目をそらして唇を噛みしめる。「……でも、私にはもう芹を助ける資格なんてないよ」そう言って、強くまぶたを閉じる。

「なぜ?」

「私が恥ずかしくて捨てたアクセサリーを、芹は何年もずっと大切に持っていてくれた。それなのに私はたった百秒くらいのことで芹に裏切られたと思い込んだ。私こそ最低の裏切り者だよ……こんな最低なやつ見たことないよ」行き場のない力が手のひらに指の爪を食い込ませる。「もう『あいつ』がどうとか、そんなのどうでもいいよ。私はどうしても──『こいつ』が許せないよ」

 短い爪が手のひらの皮膚を貫き血が滲む。

「珠菜」ティーアはつぶやいて、珠菜の手のひらに自分の手のひらを重ねた。「自分を傷つけたところで何も解決しない。それは反省でも後悔でもなく、単に自分をなぐさめているだけ」

 ティーアの手のひらが離れる。傷はえていた。

「じゃあ……どうすればいいの?」

 濡れた瞳で答えを求める。

「許せない自分を許してあげて。それがまだ難しいのだとしたら、せめてこれを飲んで。あなたは涙を流しすぎた」

 いつから用意していたのか、ティーアは白いスープカップを差し出した。

 珠菜はそれを受けとる。カップの中の液体は透明で匂いもなく、ただの水だとわかる。

 一口飲む。途端、強烈な刺激と全身が痺れるような感覚に珠菜はせた。

「──なにこれ? 薬?」

「ただの水」

「そんなの絶対嘘だよ。すごく苦くてすっぱくて、口の中で変な匂いもしたし」喉と胸のあたりがヒリヒリする。小学生のころ、イタズラで姉から飲まされたブラックコーヒーよりも自分と相性の悪い風味が体内で暴れている。

「珠菜、あなたに自信を持って言えることが一つある」

「……なに?」謎の液体の後味の悪さに苦悶の表情を浮かべていた。

「あなたの心は瘴気に支配されつつある」

「──え?」

「あなたが飲んだそれは、人間がまだ足を踏み入れたことのない山巓さんてんの湧き水。それはこの世界で唯一、瘴気を浄化できるもの。精神が闇に魅入られていない者が飲んでもただの水でしかないけれど、あなたのように瘴気におかされた者が口にすれば、あなたのように不快感をあらわにすると聞いている」

「私が……瘴気に?」

 ティーアは両手を広げた。「ここはありとあらゆる傷を癒やす空間。だけど、心に巣くう瘴気だけは取り除くことができない」

「私が……瘴気に?」

「何度同じことを訊いても答えは変わらない。あなたの心には屋敷の壁を覆うつたのように瘴気がからみついている。さあ、もっと飲んで」

 カップの中の液体に目をやる。本当に透明で匂いもない、はずなのに、それがまがまがしい沼のように見えてしかたない。

「……いらない、もういいよ」珠菜は近くにあったテーブルの上にカップを置いた。「それに私の中に瘴気があるなんて……私の体、なんともないよ?」逃げるように笑う。

「自動車のことに詳しい珠菜に一つ訊きたい」ティーアは言う。「飲酒運転による事故はどうして起きると思う?」

「え?」唐突な問いに戸惑う。「それは……自分だけは大丈夫だっていう勘違いから?」

「そう。つまり今の珠菜と同じで、まんしんによって悲劇は生まれる」

「私はお酒なんて飲んでないよ」

「あなたの場合はもっとたちが悪い。酒精アルコールではなく瘴気なのだから」

「私はちゃんと自分の意思で動いてるよ?」少し、むきになる。

「それは酔人すいじんも同じ。自分が酔っているなんて自覚はない。その傲慢さが人をき、ガードレールを飛びこえ、コンビニエンスストアをつらぬく。瘴気はそれよりもこうかつで卑劣。理性を奪い、凶暴にして、記憶をくだき、やがて自棄やけになる。例えば誰かのころもいたり、刃を投げつけたり、自分自身を投げ捨てたり」

「……これまで私のしたことは、私の中に瘴気がいたから……あんなことを?」

「そう」ティーアはうなずく。「そしてあなたの中の瘴気は最後の仕上げとして、あなた自身を破滅させようとしている。だから早く飲んで」

 テーブルの上のカップに目を向ける。あの水を飲んだときの苦しみを体が思い出して、肩がぞわっとした。あの液体こそ瘴気の元なのではと思えてならない。

「……い、いいよ、別に。それに私の中に瘴気があるってわかったから、これからは注意して行動するから……大丈夫、だよ」

「飲酒運転のたとえは我ながら悪くないと思ったのに、まるで理解されてなくていっそ清々しい」この酔っ払いをどうするべきか思案するようにティーアは右耳を指でなぞる。「その状態でリトライをつづけたところで、すぐにまた瘴気に支配されて、これまでと同じ破滅的行動をとるだけ。そして全てを無意味に消費したとき、あなたは絶望する」

「だから、そうはならないって」

「飲んで」

 これ以上、議論で進展を望むのは不可能と判断し、ティーアはテーブルの上のカップを手に取り珠菜に押しつける。

「いらない」両手を小さく振って、拒否の意思を示す。

「飲んで」

「いらない」両手を背中に回して、受け取りを退しりぞける。

「飲んで」

「…………」言葉を返さないことで何とか時間を稼ぐ。

「──だったらもう飲まなくていい。代わりに私が飲む」

 そう言うと、ティーアは左手に持っていたカップを口に近づけ中身を口にふくむ。次の瞬間、右手を珠菜の後頭部に伸ばし、魚を釣るように引き寄せ、自分の唇と珠菜の唇を重ねた。

 相手の唇を舌で強引に開いて、自分の口の中のものを相手の口に流し込む。

 何もかもが力任せで、唇を重ねているあいだ、歯と歯、舌と舌が何度もぶつかり、押し込みきれない水がたぽたぽと唇と唇のすきまから漏れた。

 でこぼこの坂道を自転車ですべるように、珠菜の体は何度も何度もけいれんする。

 その体をティーアは両手でしっかりと抱きしめていた。

 数十秒後、ようやくそれは終わり、ティーアは珠菜を解放する。

 短い呼吸を繰り返し、珠菜は息を整えた。不思議な気持ちだった。苦しみも不快感もなく、見えないかせがはずれたように体が軽い。

「おはよう」とティーアは言った。

 確かにこの気持ちは、目覚めに似ていた。

 ふと、ティーアの唇を見てしまう。数秒前の記憶がよみがえり、自分の顔がじわじわと赤面していくのがわかる。

 一方ティーアは相変わらず飄々ひょうひょうとつかみどころのない表情のままでいた。

 でも、どうしてだろう。とてつもなく取り返しのつかないことをされたはずなのに、近所の仔犬か仔猫がじゃれてきた程度の感触しかないのも確かだった。

 それだけではない。珠菜はゆっくりと指で唇をなぞる。

 はじめて見た景色や経験のはずなのに、それがはじめてと思えない感覚のことを既視感と呼ぶのは知っている。問題は、その既視感が自分の唇にもあらわれていることだった。

 唇と唇を重ねた感触。

 ただの気のせいなのは間違いないはずなのに。

「唇がどうかしたの?」顔の下からのぞき込むような体勢でティーアは問う。

「え? いや、べつに、何でもないよ」唇という言葉に必要以上に大きく反応して、慌ててはぐらかす。「あれ? そういえばこの部屋、なんだか明るくなった?」

 少し前まで薄暗かった空間が、気がつけば以前の明るさを取り戻していた。

「この空間はあなたの場所。そう伝えたはず」

「そう、なんだ」言葉の意味はわからないけど、相づちを打つ。

「珠菜に聞いてもらいたいことがある」背筋を伸ばして、ティーアは言う。「あなたの中にいた瘴気を浄化させたあの水は、高いところから見ている存在からのたった一つの贈り物だった」

「そうなの?」

 リトライする力とそのための試練を自分に与えたという存在。ティーアに助言することさえ許さなかったその誰かから出された助け船だったとは、意外だった。

「リトライがはじまる前に高いところから見ている存在は言った。珠菜は必ず瘴気に支配され、御暁芹を救うことはできない、と」

「…………」

「だから私はこう返した。そんなことはない、と」

「……ティーア」

「そしてその答えは──まだわからない」

「…………」

「ねえ、珠菜。きっと世界は取り返しのつかないことにまみれている。だけどあなたは、あなただけは取り返すことができる。たくさんの涙を失ってしまたけれど、まだ終わってはいない」

 珠菜はうなずいた。テーブルの上の水時計を見ると、わずかながらまだ時間が残されていた。

「あのねティーア、私からも聞いてもらいたいことがあるの。思い出したことと、気づいたことと、伝えたいことが一つずつあるんだ」

「なに?」

 珠菜は日記をめくるように語りはじめる。

「中学生になったばかりのころ、スマートフォンを買ってもらってそれが嬉しくて、ネットのニュースなんかも見られて、すごいなって思ってたんだ。でもね、ある日、すごくいやなサイトを見つけたの」

 表情が曇る。

「あれはどういえばいいのかな、いろんなニュースにいろんな人の意見がまとめられてるんだけど、なんだかみんな言葉が乱暴でこわかったんだけど、どうしてもそこを見るのがやめられなくて」

 声が沈んでいく。

「中一の夏くらいだったかな、そこのサイトに中学校の給食で配られてるパンはコストを下げるために悪い環境で作られてて、そのせいでゴキブリの卵が混入されて、それを食べたどこかの中学の生徒のお腹の中がゴキブリだらけになって死んだっていうニュースが取り上げられてたの。そういうケースが全国で多発してるのに政府と業者が癒着して隠されてるんだって」

 ため息をつく。

「バカみたいだけど私はそれがこわくてしかたなくて、給食が食べられなくなって、芹にどうしたのって心配されて全部話したら──芹にね、こうされて、こう言われたの」

 珠菜は人さし指をこつんと、こめかみにあてる。

「落ち込む努力はやめなさい──って」

 そのときのことを思い出して、それが嬉しかったのか、珠菜は少し微笑む。

「芹はそういうことに詳しいから、私のスマホで変なサイトにアクセスできないようにしてくれて、それから私が信じていたのは全部デマだって証拠を教えてくれたんだ」

 珠菜はもう一度こめかみに人さし指を、こつんとあてる。

「ちっとも痛くなかったけど、あれはいたなあ」小さく笑って、ため息を一つ。「……それなのに私はまた一生懸命、落ち込む努力をしてたよ。ダメだなあ、ちっとも成長してないや」

「それで、気づいたことというのは?」ティーアは訊く。

「うん。あのね、違和感っていうのかな、リトライをしてるときにずっとおかしいなって感じることがあって、その理由がやっとわかったの」

「それは、なに?」

「芹が私に必ずこう言うの──『ごめん』って」右手と左手の指だけをあわせて三角形をつくる。「芹ってときどき信じられないようなことをして、私も困ったりすることもあるんだけど、芹って絶対にあやまってくれないんだ。それなのにリトライのときはいつも芹の『ごめん』からはじまるの。どうしてだろう」指を少しずらすと三角形はくずれて、小さなペケが五つ重なった。「あっ、でも昔、一度だけ芹からごめんって聞いたことがあるような……」

「ねえ珠菜、そろそろ」とティーアは言う。右手の先を水時計に向けている。あと数滴の水が落ちれば強制的にリトライがはじまる。

「──うん」

「だけどまだ、伝えたいことを聞いてない」

「大丈夫だよ。ティーアには言わなくてもわかってくれてると思うから。だからこれは、ちゃんと芹に伝えてくるよ」

「……わかった」

 ティーアはそっと瞳を閉じる。

 優しくドアを開くように、珠菜は少女の涙にふれた。


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

「……珠菜?」突然その姿を現した親友に御暁芹は驚きの声を上げる。「どうして珠菜がここにいるの? ちゃんと車で帰らせたはずなのに……どこから出てきたのよ」

 そこで芹は気づいた。明らかにいつもと様子の違う、親友のある部分に。

「……珠菜、泣いてるの?」


【残り時間 九十一秒】

 ダメだった。耐えることができなかった。

 我慢しようと強く誓ったのに、相手の顔を見た瞬間、こぼしてしまった。涙を。


【残り時間 八〇秒】

「ごめん、芹……ほんとうに、ごめんなさい」

 信じることができなかった自分、疑ってしまった自分を、どうしてもまだ許せない。


【残り時間 七十六秒】

「何かあったの?」

 不安と心配でできた表情で芹が近づいてくる。


【残り時間 七十二秒】

「大丈夫だから、心配しないで」

 手を前に伸ばして芹を制する。

 何より強く心に刻んだのは、もう自分を慰めるような後悔は繰り返さないこと。

「芹と、みんなに伝えたいことがあるの」


【残り時間 六十三秒】

「どうして私がここにいるのか、みんな驚いてると思うけど、でもそれは私も同じで、どうしてみんながここにいるのかわからないの」

 涙はとまらないが、かまわずつづけた。

「一つ確かなことは、このリトライでも、信じられないようなよくないことが起きて、きっと私はまた失敗するってことだけ。でもね、これだけは信じて」


【残り時間 五十一秒】

 珠城珠菜は伝える。

「──あきらめないから、私。絶対に助けるから、みんなを」


【残り時間 四十一秒】

 全員、珠菜に釘付けだった。

 どこからともなく現れたクラスメイトが、泣きながら自分たちを助けると言ってきた。リトライというのは何のことなのか。

 あまりにも唐突で意味不明で、誰も何も言えない。


【残り時間 二〇秒】

 そして、珠菜以外の全員がこう思った。

 決して現れるはずのない珠城珠菜が、なぜここにいるのか。


【残り時間 一〇秒】

 御暁芹、茨楽香央、運部桔京、葛谷御奈、栖々木羽祇の五人は、言葉を発することもなく、珠城珠菜を見守っていた。

 チックタック チックタック


【残り時間 〇秒】


「──あれ?」

 白の部屋にて、珠菜はしばし停止する。

 いまのリトライでは、なにも悪いことは起きなかった。

 間違いなく誰も死んだり傷ついたりしてはいなかった。

 つまりこれで、芹は救われたということなのだろうか。

 つまりこれで、全て終わったということなのだろうか。

「ねえ、ティーア」

 呼びかけても、返事はない。

 白の部屋で、ひとりぼっち。

 水時計だけが、時をこぼす。

「……ティーア、いないの?」

 それでも返事はない。

 どうすればいいのかわからず、水時計の水滴をながめていると、誰かが近づく気配があった。

「悲しい、悲しい……」ティーアだった。「ふいに訪れた幸運。これで全ては救われた」両手を使わなければ持てないほど大きな白いトロフィーを抱えている。「……でもそれが、とんだ勘違いだと思い知らされるのは悲しい」

 珠菜の前で立ち止まる。

「えっと、ティーア、それは?」

 上半身を隠すほどの大きなトロフィーについて訊ねる。

「これ? 涙の競技で優勝したのでもらってきた。でも決勝戦はあきれるほど単純で退屈だった。悲しい」

 手を離して、トロフィーを床に落とす。重たい音がした。

「それよりティーア、私、今のリトライで誰にもケガをさせたりしなかったよ。だから──」珠菜は希望に満ちた声を上げる。

「だから、なに?」これまでどおり平淡な声でティーアは首をかしげる。

「え? だから……これでもうリトライはしなくてもよくて、芹は生き返るんだよね?」

「珠菜、あなたは何を言っているの?」

 少しだけティーアの声に表情が見えた気がした。冷酷だった。

「──え?」数秒間、言葉を失う。「──ティーアこそ何言ってるの。だってみんなを眠らせなかったら、芹に新しい時間がやってくるって」

「みんな、とは?」

「だから、芹と、香央ちゃんに、桔京ちゃん、御奈ちゃんと、羽祇ちゃんだよ」

「……珠菜、過去おもいでを都合よく書き換えるのはさぞや気持ちのいいことかもしれない。だけど、そうしたところで現実が変わるわけではない」

「だって、そういう約束だったでしょ?」落ち着きのない声を上げる。「羽祇ちゃんたちを眠らせなければ芹は助かるって」

「私はそんなことを言った覚えはない」

 胸のあたりがぞわぞわした。自分はあざむかれたのだろうか。でもどうして。

 ティーアは言う。「私が言った言葉はこう。『あの教室にいる誰も眠らせてはいけない』と」

 珠菜はまくし立てるように叫ぶ。「だから私はみんなを──」しかし、そこで口はとまった。

「だから、わたしは、みんなを……みんな、を……」

 おそろしい考えが浮かんでしまった。

「……まさか、あの教室に……まだ、誰かいるの?」

 ティーアは肯定も否定もすることなく、床に置いたトロフィーを指でなでている。

「涙の競技の決勝戦は本当に退屈だった。決勝の種目は『涙の居場所』という」そんなことを語り出す。「競技がはじまると円状に並ぶ少女たちの中心に立たされる。少女たちの中で一人だけ泣いている子がいるけれど、全員こちらに背中を向けているので誰が泣いているのかはわからない。ルールはいたって簡単、その泣いている一人を当てればいいだけ」

「……どうして今、そんなことを言うの?」

「ただ聞いてほしかっただけ。それじゃあ珠菜、幸運を」

「──え?」


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

 リトライがはじまってしまう。

「……珠菜?」こちらを見ながら芹は目を疑っている。「……なんで、どうして? ちゃんと見送ったはずなのに。車に乗せて帰らせたはずなのに、なんでここに珠菜がいるの? どこから出てきたのよ、意味わかんない」

 目の前にいるのは、芹、羽祇、香央、桔京、御奈の五人。

 何度も繰り返しているのだから、はっきりしている。

 ここにはそれ以上、誰もいないことくらい。


【残り時間 八十九秒】

 チックタック チックタック

 砂のたくさん入った袋で後頭部を殴られたみたいに、頭がぐらぐらした。

 どうすればいいのか、何をするのが最善なのか、思考が定まらない。


【残り時間 八十五秒】

「……珠菜、ごめん」

 親友が窓に向かって走り出す。

「芹──」

 声を上げるも、その後がつづかない。

 窓に向かって駆けていく芹の背中を目で追うことしかできなくて、そして落下の瞬間は、思わず目を背けた。

 それでも、拳は強く握りしめている。


【残り時間 八十二秒】

 えろ。こらえろ。受け入れろ。

 きしきしと音がするほど歯を食いしばる。

 今、芹をとめてもそれで全ては救えない。

 探さなくてはいけない。ここにいる誰かを。


【残り時間 六十一秒】

 チックタック チックタック

 香央たちが窓際で悲鳴を上げている。

 珠菜は教室中に目をらす。

 机や椅子、床、天井も──当然、そこには誰もいない。


【残り時間 五〇秒】

 チックタック チックタック

 目で蚊を追うように、あたりを見回すだけで、何も成果はない。


【残り時間 四〇秒】

 チックタック チックタック

 時間だけが無駄に過ぎていく。


【残り時間 三十六秒】

 チックタック チックタック


【残り時間 三十二秒】

 チックタック チックタック


【残り時間 二十八秒】

 そういえば、気になることが一つだけあった。


【残り時間 二十四秒】

 チックタック チックタック

 一体、この『音』はどこから聞こえてくるのだろうか。

 チックタック チックタック


【残り時間 十六秒】

 この教室にアナログ時計はあるけれど、秒針はなく、これまで秒針を刻むような音を聞いたこともない。


【残り時間 一〇秒】

 チックタック チックタック

 耳をすますと、その音はすぐ後ろから聞こえてくる気がした。

 背後には木製の教卓がある。内側に回り込むと、そこには──。


【残り時間 五秒】

 人がいた。

 小学生なら低学年、幼稚園児なら年長組といった年頃の小さな女の子がすやすやと眠るように息をひきとっていた。

 そして、少女の首からさげている懐中時計が居場所を告げるように時を刻んでいた。

 チックタック チックタックと。


【残り時間 〇秒】

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