第11話

 記憶。小学六年生の記憶。

 ある日、珠菜たちの通っている小学校に世界中から注目されるできごとが起きた。

 飼育小屋で飼っている三羽の白ウサギ。そのうちの一羽の耳が星のようなかたちに変化していることに飼育係の岡村さんが気づいたのだ。

 当時、世界中でヒットしていたCGアニメーション映画に、宇宙からやってきたという設定の星形の耳をした白ウサギのキャラクターがいた。

 そのウサギは映画のラストシーンで主人公をかばってトラックにはねられてしまい、きっとまたどこかで会えるよ、という言葉を残して死亡してしまう。

 これはあのウサギの生まれ変わりに違いないと子供たちは大騒ぎした。

 スマートフォンで撮影した動画はアップロードした直後から世界中でシェアされ、一週間たらずで二千万回以上再生された。

 映画のポスターや等身大のぬいぐるみ、ステッカーにお菓子、他にもたくさんのお土産を持って、そのウサギを見るためだけに、映画のスタッフとキャラクターの声を担当したハリウッドスターが来日した。

 興奮さめやらぬある日、有名な大学の動物保護研究室と名乗る施設の代表者から、とても珍しい現象なのでこちらで保護させてほしいと提案がきた。

 信頼と実績のある場所なので、それを受けるべきだと教師たちは口を揃え、生徒たちも特に異論はなかった。ただ一人、第一発見者である岡村さんを除いて。

 岡村さんは放課後毎日、クラスメイト全員の前で話し合いの場を設けた。

 あのウサギはうちの学校で生まれたのだから、環境の変化はよくないのではないか。大人たちには任せられない。研究室なんて怖いところで何をされるかわからない。

 そんな意見が毎日繰り返された。文字通り、繰り返すだけで進展はない。

「退屈すぎて死にそう。ねえ珠菜、こっそり帰らない?」

 ある日の放課後、隣の席の芹が耳打ちしてきた。

「そんなことしたら岡村さんに怒られるよ」小声で珠菜は返す。

「あの人、自分が話題の中心にいるのが気持ちいいだけで、ウサギのことなんてどうでもいいのよ。本当にウサギが大切なら、あんなことできないから」

 芹は視線を教壇に向ける。得意げに話している岡村さんの後ろには木製の教卓がある。その上で星形の耳をしたウサギが仔犬用のケージに入れられていた。

 ところどころサビついた灰色のそれは、携帯できるおりのようだ。

「ちょっと、御暁さんと珠城さん、何か意見があるなら手を上げて言ってよ」

 珠菜の予想通り、岡村さんに目をつけられてしまう。

「私たちは専門家じゃないし、いつまでもここで世話をできるわけでもないから、一日も早く施設に預けるのがいいと思います」

 ちゃんと手を上げて芹は発言した。

「そんなのダメよ。そんな不自由な場所に連れていったら、この子がどうなるかわからないじゃない」

 狭いケージに閉じ込めてる人の言葉とは思えないなと、珠菜はある意味、感心した。

 今週になって何度も繰り返される議論。

 現実的で安全な解決策を、感情論でかき消されてきた。

 うんざりした様子で芹は席を立ち、教壇に近づく。

「そんなにこのウサギを不自由にしたくないなら、今すぐ自由にしてあげれば?」

 そう言って、教卓の上にあるケージの鍵をはずして扉を開く。

 まさにだつのごとくウサギはそこから飛び出し器用に床に着地して、開かれた教室のドアの向こうへと駆けだした。

「なんてことするのよ!」室内が揺れるほど岡村さんは怒鳴り散らす。「い、今すぐ、捕まえてきてよ! いなくなったら御暁さんに責任取ってもらうからね!」

「言われなくてもそうする」

 てっきり反発すると思ったのに、芹は素直に教室から出ていった。

 しばらくして、外から車が急ブレーキを踏む音がした。さらにしばらくして芹が教室に戻ってきた。

 一番最初に芹の姿を確認した女子が、なぜか悲鳴を上げる。

 数秒後、つまり芹が教室に入ってきたとき、その理由をクラス全員が理解した。

 芹の右手に、ウサギくらいの大きさの何かが雑に握られていた。

 赤黒く汚れているそれは、特徴的な耳のかたちをして、ぽたぽたと赤い液体をこぼしている。

「捕まえてきた」芹はそれを教卓に置く。「お望み通り、真の自由を手に入れた状態で」

「ご、御暁さん、そ、それ、は……」外国語の練習みたいに、岡村さんの声はたどたどしい。

「私は見てないから知らないけど、映画のラストでトラックにはねられて死ぬんでしょ? 原作通りってやつ?」

 どうでもいいといったふうに芹はつぶやく。

 教室のなかに、すっぱいにおいが充満する。

 一人の女子がおうした。それが合図になった。

「芹ちゃんの、あくまー!」別の女子が叫ぶ。

「みんな、おちついて、とにかく今日はもう帰りましょう。ね?」

 教卓の上にある何かとは対照的に顔を蒼白にした担任の教師は無理やりな笑顔を作り、追い払うように生徒たちに教室から出ていくよううながす。

 珠菜は、それこそ映画を見ているような非現実的な光景のなかで何もできず、ただ自分の席についていた。

 教卓の上の物体を見つめながら、芹は心ない声を落とす。

「もったいないことしたわね」


 記憶。小学二年生の記憶。

 御暁芹が転校してきたその日の昼休み。

「どうしてこの学校にきたの?」

 何気ない疑問を珠菜から投げられると、芹の表情にわずかな変化があった。それを悟られたくないように背を向け、極めて退屈そうにこう答えた。

「珠菜を見張りにきたのよ」


 記憶。幼い日の記憶。

 よく晴れた夏の日。少女は水たまりの中で膝をついて、何かを抱えて泣いていた。

 その少女に同い年くらいの少女が近づいてこう訊ねる。

 ──それ、あなたがやったの?──


 現在。それはすでに十二回繰り返されていた。

 白の部屋に戻る。ただもうろうと時間をつぶす。リトライがはじまる。珠菜を見た芹は窓から飛び降りる。珠菜は何もしない。リトライが終わる。

 それを十二回。

 部屋に戻る。時間を潰す。リトライがはじまる。何もしない。リトライが終わる。

 そんな無意味をさらに三回繰り返したあとで、わずかな変化が起きた。

「……私ね、ハラマキとの出会いをよく覚えてないんだ」

 白の部屋にて、記憶を手探りするように珠菜は語りはじめる。

「……小さいころ、学校の帰り道で背中とお腹を誰かに傷つけられた仔犬を私が拾ってきたみたいなの。この子を助けてって親に頼んで、知り合いの動物病院の先生に治療してもらって、なんとか命は助かって、それで私ね、この子を飼うって言ったらしいの。親は反対したみたいなんだけど、そしたら私が信じられないくらい大泣きして、それまで私はそんなことしたことなかったから、それで飼ってもいいって言ってもらえたらしいの」

「…………そう」どこかせつなそうに、ティーアは目を細める。

「体が回復しても、その子はいつも背中のきずあとを気にしてるみたいで、ためしにおばあちゃんが手作りの腹巻きをつけてあげたら、それが嬉しかったみたいで元気に食べたり走ったりするようになって、それでその子の名前もハラマキにしようって──あんちよくだよね」

「……そうは思わない」

「でもハラマキはすごくこわがりで、たぶん昔、誰かに傷つけられたことが忘れられなくて、うちの家族以外にはなつかなかったのに、はじめて芹がうちに遊びにきたとき、自分の友達が遊びにきたみたいに走って飛びついて、すぐになついたの」じっと手のひらを見つめる。「芹もね、少し前まで飼ってた仔猫とハラマキがなんだか似てるって言って、散歩に連れていってくれたり、よく遊んでくれてたんだ」

「…………」

 悲しみをまぎらわすような、ため息が一つ。

「それなのにどうして芹は──」開いた手のひらで顔を覆う。

「珠菜、あなたはどうしたいの? もうすぐ次のリトライがはじまる。もしあなたがこれ以上のリトライを望まないのなら、ここで終わらせることもできる」

 顔を両手で覆ったまま、珠菜はこう答えた。

「……わからない」


【残り時間 一〇〇秒】

「……珠菜?」唐突に姿を見せた珠菜に芹は驚愕する。「……なんで、どうして?」怪物と遭遇したような目で、珠菜を見つめる。「ちゃんと見送ったはずなのに。車に乗せて帰らせたはずなのに、なんでここに珠菜がいるの? どこから出てきたのよ、意味わかんない」

「…………」

 珠菜は何も返さない。

 芹は口に手をあてて思考をめぐらせる。

【残り時間 八十五秒】

「……珠菜、ごめん」

 そして芹は窓に向かい、飛び降りる。


【残り時間 六十九秒】

 教室にいた少女たちは悲鳴を上げ、一斉に窓まで走った。

 運部桔京が芹の後を追いそうな勢いで窓から身を乗り出している。

 おちついて、と茨楽香央がその体を必死に抱きしめる。

 かれこれ十回以上、目にした光景。

 これまでは呆然とリトライが終わるまで眺めているだけだった。

 先ほどティーアと少し会話をしたせいか、今回はわずかに意識がめている。

 だから、ある少女の不可解な視線に気づくことができた。


【残り時間 六〇秒】

 栖々木羽祇が、戸惑った顔で教室の床を見つめていた。

 彼女の視線の先には近衛兵のストラップが見える。そのストラップは一台のスマートフォンと結ばれている。芹のものだ。

 ああ、そういうことか、と珠菜はその理由を察して、彼女に近づいた。


【残り時間 五十一秒】

「大丈夫だよ、羽祇ちゃん」ささやくようにつぶやいたのは、相手を気遣きづかっているからではない。普通に声を出す気力がないのだ。「あの写真、ちゃんと消しておくから」

 芹のスマートフォンを拾い上げ、画面に人さし指を重ねる。認証され画面に明かりがともる。

 珠菜は信頼してるから、何かあったときに使えるようにしておくね。

 そんな約束を交わして、お互いのスマートフォンにお互いの指紋を登録していた。

 アルバムのアイコンをタップすると、たくさんのサムネイルが広がる。そのほとんどは珠菜と芹の自撮り写真ばかりだった。

 おどけた二人、あえて真顔の二人、わざと怒った二人、素直に笑う二人。

 しかし、アルバムの最後の一枚は栖々木羽祇の体を撮影したものだった。

 羽祇の体に『この体は汚れています』という芹の文字。

 珠菜は、全ての写真を選択して、何もかも消そうとした。

『削除してよろしいですか?』とメッセージが表示される。

『はい』を迷わずタップする。これで全部、消えてくれる。

「ちょっと、やめてよ!」

 羽祇は声を荒げ、珠菜の手から芹のスマートフォンをさらう。

 スマートフォンは珠菜の手から離れたが、奪う勢いが強すぎたせいで、羽祇の手にもおさまらず、宙を舞い、床に叩きつけられた。

「やめてよ!」羽祇はそれを拾って、珠菜に怒声を浴びせてくる。「まだ転送してもらってないのに!」


【残り時間 三十六秒】

「…………え?」激しい違和感に襲われ、珠菜は困惑する。「だって羽祇ちゃん、あの写真は芹に無理やり撮られたって……」

「は?」羽祇は訝しい顔つきになる。「なにそれ」

 珠菜は思わず叫んだ。「さっきと言ってることが違う」

「さっきって何だよ、そもそも珠菜ちゃん、どうしてこの写真のこと知ってるの?」

 騙された。

 あのとき、芹はもういなかった。だから嘘をついて、羽祇は芹を悪者に仕立て上げた。

 そういうことなのだろう。

「……しんじられない」相手に対する感情が、そのまま口からこぼれる。

 羽祇の手にある芹のスマートフォン。そこには小学五年生のときから近衛兵のストラップが結ばれている。スマートフォンは二回機種変更されたけれど、ストラップだけはずっと同じ。

 さきほどの衝撃が致命傷になったのか、近衛兵の象徴ともいえる黒く長い帽子と人形が分離した。

 そして、帽子の中からゴミが出てきた。


【残り時間 十六秒】

「……え」

 珠菜はそのゴミを拾う。

「……なんで……どうして……」

 少なくとも、捨てた本人はこれをゴミだと思った。

 あまりにも不器用で、へたくそで、見るに堪えなかった。

 だから捨てたのに。

 それがどうして芹のストラップの中から出てきたのだろう。

 あのときちゃんと焼却炉に投げたはずなのに。

 まさか、わざわざ焼却炉の蓋を開けて、その奥にあるゴミの山の中からこんな小さなものを探し出したのだろうか。

 一つ確かなことは、小学五年生のとき珠菜が失敗作の烙印を押した、あのみすぼらしいアクセサリーを、あのときからずっと芹は身につけてくれていたという事実だけだった。


【残り時間 〇秒】


 激しい動悸のなか、白の部屋で珠菜は額に手の甲をあてて、事態を整理する。

 栖々木羽祇は芹に無理やり文字を書かれたと訴えた。しかしそれが疑わしくなってきた。

 御暁芹は珠菜をいじめていたと白状した。しかし小学生のころに捨てたはずのアクセサリーをずっと持っていてくれた。いじめている相手への態度としてはあまりにも不適切に思える。

 ここにきて、はじめて珠菜の思考が一歩前進した。

『何もわからない』から『ここがわからない』に。

 だから決意した。

「すぐに戻らないと」

 目の前にいるティーアに告げる。

 白い服の少女はうなずく。

 その少女の右目からこぼれる雫に珠菜は指をのばす。


【残り時間 一〇〇秒】

『恥ずかしがらずに私に訊くこと。自分だけで悩まない』

 かつて芹はそう教えてくれた。それはきっと正しい。だけどあのとき珠菜は間違っていた。

 だから今回は間違えない。

「教えてほしいことがあるの」相手をしっかりと見据える。「──羽祇ちゃん」

 話を訊く相手を。


【残り時間 九十五秒】

「……どうしたの? 珠菜ちゃん」

 いつの間にかすぐそばにいたクラスメイトに名前を呼ばれて、少なからず緊張する。

 珠菜は羽祇の胸のあたりを指でさす。

「そこに書いてある文字、どうしたの?」

「──え?」

 どうしてそれを知っているの? と表情に出る。

 珠菜は歩み寄って羽祇の手を掴んだ。

「芹が書いたのは知ってる、お願いだからその理由を教えて」とこんがんする。

「え? じゃあ、御暁さん、もしかして、あの写真、見せたの?」

「芹は関係ない」珠菜はまくしたてる。「更衣室で羽祇ちゃんの体に芹が何かを書いてたって水泳部の人が話してるのを聞いたの」

 完全なでまかせだった。ここを疑われると、もう後がない。

「……そんな」羽祇の顔が曇る。「ちゃんと確認したのに。まだ人が残ってたなんて……」

 押しきることに成功した。

「ねえ、本当のことを教えて」羽祇の手を握る珠菜の手の力が増す。「お願いだから」

「痛い、離してよ!」

 羽祇はその手を強引に振り払う。

 珠菜は体制を崩して床に膝と手をついた。


【残り時間 八十一秒】

「どうしたの珠菜ちゃん、急に出てくるし、何だか怒ってるっぽいし、ちょっと変だよ?」

 あわてた口ぶりで強がりながらゆっくりと後ずさり、羽祇は珠菜から退いていく。少しして背中に何かがぶつかり、振り返ると教室の壁があった。

 物理的に相手と距離ができたことで羽祇の心に余裕が生まれる。

 珠菜は床に膝をついたまま、うつむいていた。そこで何を思ったのか、左手で前髪をかき上げるような仕草を見せる。

 次の瞬間、羽祇の耳元で、すとんと音がして、ほおがひやっとした。

 目を動かすと、一本の鋏が稲妻のように顔のすぐそばに突き刺さっていた。

 羽祇の表情が凍りつく。


【残り時間 七十二秒】

「本当のことを教えてくれないなら──」珠菜はゆっくりと顔を上げる。「次は、耳を、狙う」

 その左手には、二本目の鋏が。


【残り時間 六十七秒】

 栖々木羽祇にはクラスメイトの名前をネットで検索する癖があった。

 たいていの場合、何らかのSNSにヒットするか、似た名前の有名人か同姓同名の別人に出くわすかのいずれかだった。

 でも今年は例外が二つあった。一つは御暁芹について。世界的に有名なガラス会社の社長令嬢とのことだが、これはもう知っている。もう一つは珠城珠菜について。

 都内にオープンしたダーツを楽しめるカフェにゲストとしてダーツの日本人チャンピオンが来店し、そのチャンピオンに小学生の女の子が勝負で勝ったという内容の数年前のニュースがヒットした。

 乾いた笑顔のチャンピオンと満面の笑みを浮かべる小学生時代の珠菜と、その隣で誇らしそうに珠菜を見つめる御暁芹の画像があった。

 ニュースの記事は、かわいいチャレンジャーにチャンピオンがわざと負けてあげたという文脈だったが、画像の表情を見て直感的に羽祇は思った。おそらくチャンピオンは本気を出して負けたのだろう。だけど珠菜からはまだまだ余力を感じる。

 そして現在、羽祇はその実力を肌で感じていた。

 珠菜が膝をついている教壇のあたりから自分が立っている教室の壁際ここまでこんなに離れているのに、どうしてこんなことができるのか。そもそも珠菜はこっちを見てさえいなかった。床に名画でも描いてあるみたいに、うなだれたまま、雑な動きで投げてきた。

 それなのに、どうしてここまで正確に精密に狙えるのか。

 それはつまり、簡単だからなんだ。珠城珠菜にとって、離れた場所にいる相手の頬を刃でなでるように鋏を投げることなんて、前髪をかき上げる程度のことにすぎないのだ。

 なぜなら彼女は、刃物を投げることにおいては、少なくともこの国で最も長けた能力を持っているのだから。

 本当のことを言わないなら、次は耳を狙うと警告してきた。

 羽祇はおびえながら、珠菜を見る。

 これまでの人生で一度も怒りをあらわにしたことのない人間が、それを一気に開放しようとしている。そんな怒気がここまで伝わってくる。

 もしかしたら、生まれてはじめて目にしているのかもしれないと羽祇は思った。

 本気で怒っている人を。

 真実を告げるか、痛みを受けるか。羽祇の選択は迅速だった。

「──わかった、わかったから、本当のこと言うから、お願いだからその手に持ってるのどうにかしてよ」

 泣きそうな声を出したのは相手から慈悲を誘う演技ではなく、純粋な恐怖心からきていた。

 珠菜はどこかほっとした顔で、柄がプラスチック製の鋏を近くの机に置いた。

 それを確認して、羽祇は約束通り真実を告げる。

「……私が、頼んで、書いてもらったの」


【残り時間 五十七秒】

「────へ?」口の中で油をまかれたように珠菜の声がすべる。「なんで?」

「だって、最近……減ってきてるから……」

「なにが?」

「リスナーさんの数、とか」

「リスナーさん?」オウム返しで首をかしげる。

「私がネットでゲーム実況してるときに見てくれてる人の数が減ってるの!」どうしてそんなこともわからないのと羽祇は苛立いらだつ。「これまではSNSで告知したら、すぐに二千人くらい集まってくれてたのに、最近は千二百人とか、もっと少ない日もあるし」羽祇の声は落胆を隠せない。「今朝エックス確認したらフォロワーさんが三人も減ってた。私、変なことつぶやいてないのに、なんで……」と唇を噛みしめる。

 羽祇はとても悲しんでいる、ということ以外、珠菜には理解できるところがなかった。

 ゲームを実況するだけで何百人も人があつまるというのは、どういう状況なのだろう。

「それで、どうして芹に文字を?」

「御暁さんってかっこいい字書くから、ちょっとエッチなこと書いてもらって、自分のページにアップしたら……みんな戻ってきてくれるかなって……」

「あれを人に見せるつもりなの?」驚きと不安と心配を混ぜた声を上げる。

「もちろん全部見せたらアカウント消されちゃうから、ちゃんとボカしたりするよ?」

 そういう問題ではない気がした。

「よくわからないけど……よくないと思うよ?」珠菜は精一杯の忠告をする。

「あんなの普通だよ」羽祇は助言を受けつけない。「もっとすごいのアップしてる子とか何人も知ってるし」

 間違ったことをしてるのは自分だけではないと居直る羽祇の態度に珠菜は言葉を失う。

 同じ学校の同じクラスでそれなりに仲も悪くないと思っていた友人が、急に遠くにいってしまったような疎外感。とてもわかりあえる気がしない。ブレーキランプと話をしていたほうが、よほど理解しあえる気がした。

「だけど、芹もどうしてなの?」

 なぜ芹がそんな頼みを聞いたのかわからなかった。ネットにアップするから卑猥な言葉を書いてほしいと言われて、はいわかりましたと応じるような芹ではない。

「それは私が『あいつ』からそう命令されてるって言ったから──ほら、私たちって『あいつ』には逆らえないし──」

「……そういうことだったの」何かに納得して、相手を軽蔑する声色で芹がつぶやく。

 そこで羽祇は口を手で覆う。喋りすぎてしまったと、眉をひそめている。


【残り時間 三〇秒】

「誰なの、その『あいつ』って」

 もう何度聞いたかわからない、いまだに輪郭もつかめない、その曖昧な呼称の存在。

「そんなの、珠菜は知らなくていい」芹が問いかけに壁を作る。


【残り時間 二十七秒】

「わかった。それじゃあ別のことを訊く」珠菜は芹と向き合った。「ねえ芹、正直に答えて。芹が私をいじめてたり、ハラマキを傷つけたってある人から聞いたの。それって本当?」

「え?」一瞬、きょとんとして見せるが、左手を強く握り、そこに右手を被せてから険しい顔になった。「……ええ、本当よ。ところで誰からそんなこと聞いたの?」

「誰でもいいでしょ、そんなの。それより芹、どうしてハラマキの口に──」とつに思いついた言葉で賭けに出る。「ハラマキの口に──マカロンなんて詰めたの?」

「え?」芹はまた表情を崩す。今度はすぐに険しさは戻らない。「それは、その……床に転がってたから詰めたのよ!」

 厳しい顔で強く主張する。しかし、その顔を珠菜は見ていなかった。珠菜が注目していたのは芹の手だった。左手を強く握って、そこを右手で覆っている。

 それを確認して、珠菜はこの場で最もふさわしくない表情を作った。

 つまり、笑ったのだ。

「ねえ、みんな……」混乱した口ぶりで茨楽香央が割って入る。「急に桔京ちゃんが倒れて、全然動かないんだけど、どうして? どうなってるの?」

 香央の足下、教室の床に運部桔京が仰向けになっている。

 その表情はあまりにも安らかだった。


【残り時間 〇秒】


「──違った」白の部屋に戻るなり、珠菜は口を開く。「──芹じゃなかった」涙のせいで声がにじんでいる。「私をいじめたのも、ハラマキにあんなひどいことしたのも、芹じゃなかった」

 ティーアはただ、珠菜の言葉に耳を傾けている。

「……あのね、芹が嘘ついてるときってすぐにわかるんだよ。芹って嘘をつくときはいつもこうやって──」言いながら左手を握り、そこから小指だけ伸ばす。「こうするんだよ」その小指を右手で包む。

 先ほどのリトライで珠菜をいじめてハラマキを傷つけたのは自分だと言ったときに芹が無意識におこなった動作と同じだった。

「それに芹は私がどうしてハラマキの口にマカロンなんて入れたのって訊いたときに変な顔してた。芹は知らないんだよ、ハラマキが何をされたのか、私よりも」

 ハラマキの口に詰められていたのは、フランスの焼き菓子などではなかった。

「たぶん芹が知ってるのは、ハラマキの体が傷つけられたところまで。その先は知らないんだ。だから──だから──芹じゃなかった」

 涙をこぼしながら。頬をふるわせながら。歯を鳴らしながら。

 感情が惨状に炎上した症状の表情を献上するように珠菜は一歩踏み出して、ティーアにそう告げた。

 嬉しいことなんて何一つない。自分をいじめている犯人はわからないままで、ハラマキは悪夢のような仕打ちを受けた。なぜ芹が自分から罪を被るような真似をしているのかもわからない。だけど涙一粒ぶんくらいは救われた気持ちがした。少なくとも、その犯人が自分の親友ではないという確証を持てたから。


 記憶。小学六年生の記憶。

 教卓の上には、すっぱい匂いのする赤黒い物体。

 さっきよりも匂いがきつくなった気がする。

 教室には芹と珠菜の二人ぼっち。

「それじゃ、私たちも帰ろっか」

 芹の言葉に珠菜の体は電気を流されたような反応をする。

 ぜつこうしたほうがいいのかな、と考えていたところなのだ。

 あんなことをする人とはもう友達でいることはできない。

 だから珠菜は芹に言葉を返さなかった。

「……まあ、別にいいけど」

 珠菜の態度から何かを察した芹はランドセルを持って、一人で教室から出ていった。

 教室に充満する匂いがまた一段と強くなった気がした。

 すっぱい匂い。

 そこでふと、珠菜に疑問符が浮かぶ。

 すっぱいのだ、匂いが。

 古い記憶が微かによみがえる。確か血の匂いって──。

 自分の中に芽生えた違和感を解消するために、珠菜は席を立ち、おそるおそる赤黒い物体に近づく。

 ホラー映画を見るときみたいに、わざと焦点をあわせずにそれに目を向けるものの、いつまでたってもらちがあかないので勇気を振り絞り、まぶたを開いてその正体を確認する。

 十秒後、ランドセルを乱暴に掴み、急いで芹を追いかけた。

 下駄箱でその背中を発見する。

 待って、芹ちゃん──そう叫びたいのに、声を出すことにちゆうちよしてしまった。

 よく確かめもしないで、あっさりと絶交することまで考えた浅はかな自分が、どのつらをさげて芹を呼び止めようというのか。

 そんなわずかな思考でも、自分と芹の距離は離れていく。

 実際に絶交すると伝えたわけではない、だけど、もしこのまま芹を一人で帰らせてしまったら、明日からはもう芹と友達でいられなくなってしまう気がした。

 それだけは、絶対にいやだった。

「待ってよ──芹」

 頭ではなく、鼓動がそう声を出させた。

 芹は少し驚いた様子で振り返る。そして珠菜のいる場所まで戻ってきた。

 芹は珠菜の前までくると、何かを宣言するみたいに小さく手のひらを掲げて、親指から小指まで順番に曲げて、握りこぶしを作った。

 珠菜は、はっとする。無意識だったとはいえ、呼び捨てで名前を呼んでしまっていた。

 叩かれる。そう思って、反射的に珠菜は身構える。

 御暁芹はこう言った。

「私の名前を普通に呼ぶのに五年もかかった」

 どうやら握り拳を作ったのではなく、指を曲げて数をかぞえていただけのようだった。

「まあ別にいいけど、それじゃあ帰ろっか」

 どういうわけか声がはずんでいる。何か嬉しいことでもあったのだろうかと珠菜は小首をかしげる。

「ダメだよ、まずは教室に戻ってぬいぐるみを片づけないと」

 言いながら教室の方へ指をさす。

「ああ、そうね。でも本当にもったいないことしたなあ」

 残念そうに芹はスカートのポケットから小さなペットボトルを取り出す。昔から飲んでいる紅い色の野菜ジュースが入っている容器が今はからっぽ。

 わざわざアメリカから映画会社の人が持ってきてくれた等身大のぬいぐるみに全部かけてしまったせいだろう。

 翌日、ぬいぐるみは新品同様の白さを取り戻し、芹が別の場所で保護していたウサギは無事、施設に届けられ快適な環境で育てられることになった。

 ほんの少しの勇気と代償で、芹が一人で全部解決してしまった。


「……そうだよ」気高いほど冷静で人を寄せつけない。「昔からそうだって知ってたのに……」それでいて誰よりもあたたかい心の持ち主。「どうして私はちゃんと思い出せなかったの? また芹を疑おうとするなんて──」

 白の部屋で、珠菜は自分の情けなさを悔いるように歯を食いしばる。

「それは珠菜、あなたが──」

「……ゆるせない」

「──え?」

 珠菜はティーアの顔に指を伸ばす。

 少し強引に涙にふれる。


【残り時間 一〇〇秒】

「……珠菜?」どこからともなく現れた親友の姿に、御暁芹は目を疑う。「……なんで、どうして?」


【残り時間 九十五秒】

「──芹」珠菜は短く、それだけつぶやいた。


【残り時間 九十一秒】

 御暁芹、栖々木羽祇、茨楽香央、葛谷御奈、運部桔京、一人一人に目を向ける。

 全員、驚いた顔で珠菜を見ている。


【残り時間 八十一秒】

 珠菜は知っている。この教室の中でただ一人、明確に罰を受けなければならない者がいることに。


【残り時間 七十七秒】

 珠菜は一歩一歩、歩いていく。


【残り時間 七〇秒】

 そしてたどり着く。窓際に。


【残り時間 六十八秒】

 振り返って、芹を見つめながらこう言った。


【残り時間 六十五秒】

「──ごめんね、芹」


【残り時間 六十四秒】

 それだけ伝えると、開いた窓の向こうに背中から落ちていく。


【残り時間 六十三秒】

 自分の名を叫ぶ親友の声が耳元をかすめた気がした。


【残り時間 六〇秒】


【残り時間 五〇秒】


【残り時間 四〇秒】


【残り時間 三〇秒】


【残り時間 二〇秒】


【残り時間 一〇秒】


【残り時間  〇秒】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る