第10話

 最初は気のせいだと思った。でも、気のせいじゃなかった。

 すぐに終わるものと思った。でも、終わってくれなかった。

 財布からお金が減っていた。下駄箱から、靴が消えていた。

 確かに提出したはずの宿題のノートがゴミ箱に入っていた。

 ほかにもまだ思い出したくもないことがいくつもいくつも。

 いくら現実から目を背けてもこの事実は変わりそうにない。

 中学三年になったある日、珠城珠菜にいじめがはじまった。


 露骨に誰かに嫌悪を向けられたりすることはない。

 しかし、何者かが自分に悪意をぶつけている。それは疑いようがなかった。

 何がそれの引き金になったのか、全く見当はつかない。

 一つだけ確かなことがあるとすれば、相手はこのクラスの中にいるということ。

 受けた嫌がらせの大半はここにいなければできないことであったからだ。

 それは珠菜の心を一層、へいさせた。

 日常生活の中では明るく話しかけてくれるクラスメイトの誰かが、その裏では自分を標的にしているのかもしれないと考えると、それだけで背筋が凍った。

 でも、やっぱり考えすぎかもしれない。そう思うことにして授業中にノートを開くと、すみをぶちまけたような文字で『死ね』とあった。

 そしてあの日、あの男があらわれた。

「珠城珠菜ちゃん、だよね?」

 下校中に名前を呼ばれて振り向くと、身なりのいい四十代くらいの男がにこにこしながら立っていた。

 はいそうですけど、と答えると、じゃあいこうか、と男は背後にある車に手を向ける。

 ドイツメーカーの限定モデル。定価七千万円以上するはずのそれに珠菜の目は奪われる。

 男はなれた手つきでドアを開け、なれた手つきで珠菜の肩にふれて車内へ誘導しようとする。そこで珠菜は我に返る。

「あの……やめて、ください」

 男の手を振り払い、一歩下がる。

 男は笑顔を絶やさない。

「怖がらなくてもいいんだよ。今日はきみのために最高の部屋も用意してあるんだ」

「何のことですか?」

「きみは珠城珠菜ちゃんだろ? 目印のバッジもついてるし」

 男は指で珠菜の鞄をさした。珠菜はそこを目で追う。覚えのない黒い星形のバッジが鞄につけられていた。

「それにしても珠菜ちゃんは本当にかわいいね。最近はアプリとかで別人みたいに加工した写真を送ってくる子も少なくないのに、珠菜ちゃんは写真より実物のほうがずっとかわいいよ。それに──」と言いながら男は珠菜の顔に手を伸ばす。

 男の指が珠菜のほおにふれる。

 ぞっ、とした。

「やっぱり中学生はいいなあ。高校生くらいからもう肌につやがない子もいるからね」

 逃げ出したいのに、怖くて動けない。

「ねえ珠菜ちゃん。四万円っていう約束だったけど、一度しかないことだし自分を安売りしちゃいけないよ」

 何か、値段の話をしている。

「僕、珠菜ちゃんのこと気に入ったから、終わったあとに特別に二十万円あげるよ。それからときどき会おうよ。一回につき十万円出すからさ、それとは別に服とか靴とか好きなもの買ってあげるよ。ね? いいでしょ? こんなこと言ったの、珠菜ちゃんがはじめてなんだよ?」

 一方的に恩着せがましいことを言ってくる素性の知れない男に、そっと目を向ける。

 国内に数台しか存在しない高級車の持ち主だけあって、スーツや靴、ネクタイピンも気品あるものを選んでいた。顔も清潔感があり、遠目から見れば悪人に見えることはない気がする。

 だけど、珠菜はこの距離でなければ見えない男の素顔を知ってしまった。

 金の力ではどうしようもない内面を、金の力を総動員しておおっているこの男の正体に気づいてしまった。

『そんな変質者はいません』

 以前、学校にきた女性警察官の言葉がよみがえる。

「それじゃ、そろそろいこうか」

 返事も待たず、男はカマキリのように珠菜の肩を抱いて、車に押し込もうとする。

 さけぶ、スマートフォンを鳴らす、あばれる、とにかくさけぶ──いくつかの回避行動が浮かぶも、混乱と恐怖で体は硬直して、むしろ素直に車内に導かれていく。

「何してるの!」

 大きな声に反応して、男と珠菜は同時にその方角を見た。

 芹がいた。

 足早に近づき、芹は男から珠菜を引きがす。

「消えて」

 強く珠菜を抱きしめて、怒気を込めた声で芹は男をかくする。

「えっと、きみは珠菜ちゃんのお友達なのかな? 心配しなくても珠菜ちゃんとは契約を──」そこで男はまじまじと芹を見つめる。「きみ、すごい美人だね。もしかして芸能人? ねえ、きみも一緒においでよ、きみにだったら五十万円払っ」

「消えて!」

 芹は男の声をなぎ払う。

 それに反応して人が集まりはじめた。

 男は舌打ちをする。

「なんだよ、もう……」

 もごもごと口の中でぼやきながら、せかせかと車に乗って走り去った。

「ごめんね珠菜、やっぱり一緒に帰るべきだったね」

「……芹」やっと珠菜は声を出せた。

 恐怖と安心が同時にやってきた。

 殺されるよりひどいことをされたかもしれない。でも芹が助けてくれた。だけどもし芹がきてくれなかったら。

 いくつもの感情が衝突して、涙になって、とまらなくて、芹の胸で声をあげて泣いた。

 芹は珠菜の肩を優しく抱く。

「ねえ珠菜、最近の世の中って物騒だから、しばらくはうちの車で帰ろっか。ね?」

 珠菜は泣きながら、何度もうなずいた。


 白の部屋。

 水時計の残りは、ちょうど半分。

 ここに戻ってきてから珠菜は土に刺さった枝みたいに、ただ立ち尽くしていた。

 あのときの男と芹が写っていた画像。二人とも笑っていた。あれはどういう意味なんだろう。

 栖々木羽祇はこう言った。

 芹が自分をいじめていた、と。

 あれはどういうことなんだろう。

 お金を盗んだのも、宿題を捨てたのも、全部、芹がやったことだった?

 意味が、わからない。

『何もわかない』から『ここがわからない』に一歩だけでも進みたかった。

 それなのに『何もわからない』から『何もかもわからない』に後退してしまった。

 目の前でぼんやりと細い指のようなものがいそぎんちゃくみたいに揺らめきはじめる。焦点をあわせると実際それは指だった。

「……何してるの? ティーア」

 顔の前で指をわしわしと動かしている少女にたずねる。

「珠菜が動かないので心配していた。反応があったので安心した」

 相変わらず無味乾燥な口調でティーアは腕をおろす。

「それで、何か成果はあった?」

「……何も」

 得るものがなかったわけではない。むしろ多すぎた。問題はそのすべてが自分にあだなすものばかりだったというだけで。

「せめて、あと少し時間があったら……」口から言い訳がこぼれる。

「なぜ?」

「羽祇ちゃんが何か大切なことを言ってたのに、そこでリトライが終わった。前にも一度、同じことがあったの」

「珠菜に与えられた時間は百秒。それ以上でも以下でもない」

「うん、それはわかってるけど……」

「珠菜に自慢したいものがある」

 唐突にそう言って、ティーアは透明で光るものを指でつまんで見せてきた。

 消しゴムほどの大きさで、そのかたちは風になびく桜の花びらにも、キツネのしっぽのようにも見える。ガラスかクリスタルか何かの宝石なのか、その材質を見極める才能はないけれど、高価なものだという気がした。

「綺麗だね」

「これは涙のアクセサリー。サメの涙をしたもの。私が作った」

「へえ。ティーアは上手なんだ」

「そんなに難しくはない。珠菜にも簡単に作れる」

「私には無理だよ……」頼んでもいないのに過去の光景が脳裏に浮かぶ。「不器用だから」


 小学五年生のとき。図工の時間。

 紙粘土を使ったアクセサリーを作って、それにひもをつけてオリジナルのストラップを作りましょうという授業だった。

 完成したストラップを交換してお互いのスマートフォンにつけようと芹が提案してきた。

 珠菜は喜んでうなずいた。自分はまだスマートフォンを持っていないので、家の鍵につけようと思った。

 およそ一時間後、珠菜の表情から笑みが消えていた。

 イメージの中では立派な太陽だったのに、いざそれを自分の手でかたちにすると、餓死寸前のヒトデになってしまうのはなぜだろう。

 ちらりと横目で作業中の芹を見る。店に並べてあっても違和感のない白い花のアクセサリーが今まさに完成しようとしている。

 珠菜は、恥ずかしくて、いたたまれなくなって、自分の作ったヒトデを握って教室を出た。

 一階に降りて、裏口にまわって、そこにある焼却炉のふたを開けてヒトデを火葬した。

 どこにいってたの? それよりアクセサリーは?

 教室に戻ると待ち構えていた芹からの質問に珠菜は力なく笑いながら、落として壊しちゃったから、捨てちゃった。と嘘をつく。

 交換できなくてごめんね、と謝った。

 翌日、芹のスマートフォンに個性的なストラップがつけられていた。

 黒くて長い帽子と赤い制服を身につけたプラスチック製の人形のストラップ。本や映画で見たことのあるイギリスのこのへいのストラップだった。

 人形は太めに、帽子は長めにデフォルメされた、かわいらしいデザインだった。

 それ、どうしたの? と珠菜が問うと、イギリスに住んでいる父の友人からプレゼントされたものだと芹は答えた。

 面白いのよ、これ。と芹は言う。

 どんなところが? と珠菜は訊く。

 ──教えない。それだけ言って芹は会話を終了させた。

 珠菜は近衛兵をじっと見つめる。

 本来なら、そこに自分のつくったストラップが結ばれるはずだった。でも、あんなものをつけられるわけないし、芹だってつけたくはないだろう。

 それでもなぜか、もくな兵士に自分の居場所を奪われたような寂しさが、しばらく珠菜の胸から離れなかった。


 いそぎんちゃくが目の前で舞っている。

 目をまっすぐ前に向けると、両手の指をわしわしとティーアが動かしていた。

「ごめん。また、ぼーっとしてた」しっかりしろとかつを入れるように、握りこぶしをこつんとこめかみにぶつける。「そういえば、どうしてそのアクセサリーを見せてくれたの?」

「これは涙のアトリエで作ったもの。涙のアトリエを使う権利は涙の競技で一等にならなければいけない」

「涙の競技?」

「その名の通り、涙に関する技術で競うこと。今回の題目は『涙の理由』だった」

「──?」珠菜は首をかしげる。

「競技は小さな部屋でおこなわれる。その部屋の中央では小さな女の子が床にふさぎこんで泣いている。女の子の服はところどころ破れている。よく見ると手足に叩かれたあとがある。右足は靴をいているのに、左足は裸足」

「……いじめ、られてるの?」心を強く保つように、無意識に左胸を右手で掴んでいた。

「女の子のまわりには何枚かの写真がある。両親と一緒に写ったもの。祖父母と一緒に写ったもの。ペットと一緒に写ったもの。どの写真の中でも女の子は明るい笑顔だった」

「家族になにかあった、とか?」

「買ったばかりの大きなぬいぐるみ、できたてのあたたかい料理、同じシーンが繰り返し映されるモニター、女の子にはまだ早い下着、壊れないメガネ、びっくり箱──部屋にはあらゆるものが並んでいる。競技のルールは簡単。女の子はここにあるものの中のたった一つが原因で涙をこぼしている。それを当てればいいだけ。制限時間は二十秒。そして一度だけ女の子に話しかけることができる」

 その競技について、珠菜は少し考えてみた。

 いじめられているのかもしれない。家庭の問題かもしれない。それ以外に何か道具が関わっているのかもしれない。それを二十秒で推理なんて可能なんだろうか。泣いている女の子には一度だけ質問ができるという。だったら、思いきって原因をけばいいのではないかと思った。

「一つ言い忘れたことがある」ティーアは言う。「どうして泣いているの? と直接理由を訊くのは反則」

 自分の回答を封じられてしまった。

「この涙の競技と珠菜のリトライは本質的に似ている」とティーアは言う。

「どういうこと?」

「限られた時間の中ではとても解決できない膨大な情報がある──でも、それはそう見えているだけで真実ではない。思い込みと言ってもいい」

「どういうこと?」珠菜は同じ疑問を繰り返す。

「私は問題の答えを知っていたわけでも、あてずっぽうで当てたわけでもない。でも私はこの競技で一番になれた。つまり誰よりも早く、正解にたどり着けた」

「……どうやって?」

「答えはわからない。答えを訊くことも許されていない。だったら答えは一つしかない──」

 そこでティーアはむき出しになっている左手の二の腕を右手で掴んだ。

「どうしたの?」

「ちょっと、チクっとしただけ」そう言って二の腕から手を離す。

「ケガをしてるの?」

 生まれたてのような白い肌に、具合の悪そうなところは見当たらない。

「この痛みは、高いところから見ている存在からの警告。珠菜の試練を台無しにするような助言を与えると、チクリとさせると言われている。それでもやめない場合はもっとチクリとさせると言われている。それでもそれでもやめない場合はリトライを終わらせると告げられている」

「まだ、痛む?」心配そうにティーアの腕を見つめる。

「もう痛みはない。それから珠菜、これは助言のはんちゅうにない言葉だと思うので今のうちに言っておきたいことがある」

「なに?」

「健闘を祈ってる」

「──え?」


【残り時間 一〇〇秒】

 放課後の教室。

 白の部屋での滞在許容時間が過ぎ、強制的にリトライがはじまる。

「……珠菜?」

 芹の声に反応して、反射的に顔を向けて目を合わせる。

 羽祇の言葉がぶり返す。

 芹が自分をいじめていた。

 とても信じられない。

 でも、自分を乱暴しようとしてきた男と芹は親密そうな写真を撮っていた。

 あのときは怒りをぶつけて守ってくれたのに、どうしてあんなに仲睦まじい笑顔で一緒にいたのだろう。

 そもそも、なぜあの写真を羽祇が持っていたのか。それもわからない。

 珠菜は羽祇に目を向ける。

 彼女はおびえた様子でひとごとのように口を動かしていた。

 そのくちびるは、こうつぶやいているように見えた。

『もしかして、あいつが』


【残り時間 八十九秒】

 点と点が線でつながるとは、こういう気持ちをいうのだろうか。

 前触れもなく、ある問題の答えが珠菜に舞い降りた。

 さっきティーアから聞かされた、涙の競技について。

 その答えが、突然ひらめいた。そしてそれは、この状況に応用できる気がした。

「──そ、そうだよ」珠菜は言う。

 小さな部屋で女の子が泣いている。その涙の理由を見つけなくてはならない。

「実は──」

 女の子の周りにはいくつもの情報があり、女の子はその中のどれか一つが原因で泣いているのだという。

「私も──」

 女の子には一度だけ声をかけることが許されている。ただし、泣いている理由をじかに訊いてはいけない。ではどうやって答えにたどり着くのか。珠菜の出した結論はこうだ。

「──みんなと同じ理由でここにいるの」

 みずから歩み寄って同調してみる。

「えっ?」羽祇の声が上擦うわずる。「珠菜ちゃんも『あいつ』に呼ばれたの?」

 そうすれば相手のほうから答えを教えてくれる。ちょうど、こんなふうに。


【残り時間 八〇秒】

「う、うん。そうだよ」

 へいせいを装うことに全力をそそぐ。何を言われても相手に話を合わせようと誓う。

「そうだったんだ」栖々木羽祇の表情から警戒心が一枚剥がれたように見えた。「だったら、珠菜ちゃんも、私たちと同じ理由で?」

「うん」

 迷わずうなずく。わざとらしくなかっただろうか、信じてもらえているだろうか。嘘をつくのに慣れていない珠菜は、些細なことが負荷となる。

「それってつまり、珠菜ちゃんも──するつもりってことなんだよね?」そこで急に羽祇の顔に警戒心が宿る。「それとも珠菜ちゃん、もしかして止めにきたの?」

 二者択一を迫られる。

 その内容は不明でも、この選択を誤れば一気に信用を失うことは想像に難くない。

「もちろん、するつもりできたよ」

 そう言って笑ってみせる。上手く笑えていないことは顔の震えでわかった。

「そうなんだ」

 特に怪しまれることもなく羽祇は安心した表情で応えてくれた。

 珠菜もそれを見て安堵する。

 ──嘘。


【残り時間 六十二秒】

 釘で打ちつけるような声がした。

「嘘」

 もう一度、その少女は言う。

 おかっぱ頭、細い足に黒のタイツ。

 葛谷御奈くずたにおみなが、疑いのまなざしを珠菜に向けていた。

「珠菜ちゃん、どうしてそんな嘘つくの?」

「……え? 私、嘘なんて」

「珠菜ちゃん、嘘つくの下手だから無理しなくていいよ」

 ここまでの珠菜の努力を御奈は一蹴する。


【残り時間 四十六秒】

 御奈は珠菜の前で立ち止まり、じっと目を合わせる。

「どうして珠菜ちゃんが『あいつ』のことを知ってるのかわからない。でも『あいつ』が珠菜ちゃんと接触してきたなんて絶対に嘘。それだけはありえない」

 なぜそこまで自信を持って断言できるのか、その強気の理由が珠菜にはわからなかった。

「珠菜ちゃんは私たちを試したんでしょ? 『あいつ』のことを知りたくて、知ってるふりをした。違う?」

「違うよ……わ、私は本当に『あいつ』って人に呼ばれて……」

 自分は嘘つきです、と白状しているような、ひどい演技だった。

「……だったら、珠菜ちゃんにも『あいつ』からあの画像が届いてるはずでしょ? あれを見ておきながら、どうして珠菜ちゃんは平気でいられるの?」

「それは、だから、意外と平気だったとうか……」

 どんな画像なのか見当もつかなかったので、かえって素直に言い返せた。

「家族にあんなひどいことされたのに?」

「家族?」

 思いがけない言葉に、珠菜の声は完全に演技を忘れる。

「……もしかしたら私たちに送られてきた画像と珠菜ちゃんの知ってる画像は違うのかもしれない」

 わざとらしくつぶやくと、御奈はスマートフォンを取り出して画面を珠菜に向ける。

 彼女の側からでは画面は見えないはずなのに、器用に指を動かして正確に操作を進める。

「これは『あいつ』から送られてきた御暁さんの罪」言いながら御奈はアルバムのアイコンをタップする。大量のサムネイルが画面いっぱいに並ぶ。「珠菜ちゃんの家族に、御暁さんがしたこと」

 サムネイルを一つタップして、それを拡大させる。

「これは……なに?」

 その画像を一見した率直な感想は、いくつか赤い線状の模様が入った茶色い毛皮だった。

「…………うそ」およそ二秒後、その画像の意味を理解した。「……ハラマキ」

 一週間前から行方がわからなくなっていたペットの犬の名前をつぶやく。

 体中を切りつけられ、血を流し、苦しむ表情で倒れている犬の画像だった。

「この画像は今朝送られてきたもの。それからそのつづきがこれ」

 画面を指でスワイプさせて画像を次に進める。

「これが御暁さんのしたことだよ」そう言って新しい画像を見せてくる。

 今度の画像は、それが何を意味しているのか瞬時に理解できた。

 そのとき、茨楽香央が悲鳴を上げる。

 声に誘導されて顔を向けると、運部桔京が床に倒れていた。

 混乱が連鎖するなか、何かの見間違いだったのではないかと、もう一度、御奈のスマートフォンに目を向ける。

 やはり、そこには無残な家族の姿があった。

 珠菜の腹部から猛烈に何かがわき上がってくる。


【残り時間 〇秒】


 白の部屋に戻される。

 珠菜は地面に膝をつき、次に両手をついた。そして背中に水道のレバーを突き刺され、それを勢いよく動かされたように大きく吐いた。

 その後、数回、く。

「なにあれ……どういうことなの?」

 葛谷御奈から見せられた画像。もう十年近く共に生活している犬のハラマキ。

 一枚目の画像は、そのハラマキが体中に傷をつけられ苦しんでいるものだった。

 二枚目の画像は、ハラマキの腹部を裂いて、そこから飛び出た臓器を無理やり口に押し込んでいるものだった。

 生命の尊厳を無視した、異常で卑劣で残酷な記録だった。

『これは御暁さんの罪』『珠菜ちゃんの家族に、御暁さんがしたこと』

 御奈の声を頭ではんすうする。

 言葉通りの意味なら、芹があれをやったということになる。

 信じられるわけがなかった。

 珠菜は立ち上がる。

 目の前にはティーアがいた。

「大丈夫? 珠菜。お水、いる?」どことなく心配そうに、そう訊いてきた。

「大丈夫」ではなかった。「だから今は──」

 それだけ言って、手を伸ばす。

 その指で、少女の涙にふれた。


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

「……珠菜?」突然その姿を現した親友に御暁芹は驚きの声を上げる。「どうして珠菜がここにいるの? ちゃんと車で帰らせたはずなのに……どこから出てきたのよ」

 そこで芹は気づいた。明らかにいつもと様子の違う、親友のある部分に。

「……珠菜、泣いてるの?」


【残り時間 九十一秒】

「芹……」涙をこぼしながら、一歩一歩、親友に近づいていく。「お願いだから本当のこと話してよ、嘘だっていってよ。芹が私のこといじめてたとか芹がハラマキに……ハラマキに……」涙が一層強くなる。「ハラマキに、あんなひどいことしたなんて、嘘だって言ってよ」

 芹と体を密着させ、顔と声を同時に上げる。


【残り時間 七十六秒】

「…………」

 御暁芹は、しばらく沈黙した。

「どうしたの芹? どうして何も言ってくれないの? 簡単なことだよね? 芹がそんなことするわけ──」

「……わるい」ぽつり、つぶやく。

「え? 何? どこか具合が悪いの?」

「……きもちわるい。気持ちが悪いって言ってるのよ!」

 御暁芹は豹変した。


【残り時間 五十八秒】

「──芹?」

「どういうこと? どうして珠菜がそんなこと知ってるの? 心が読めるの? そこまで知ってるなら少しは気づきなさいよ!」

「……気づくって、何に?」


【残り時間 五十一秒】

 御暁芹は左手に握り拳をつくり、それを右手で包み、力をこめる。

「だいきらいだった。ずっと迷惑してたの」憎しみをぶつける。「だから嫌がらせしてあげてたの。なんでもないふりしてへらへらしてる珠菜を見るのは楽しかったわ」あざ笑う。「本当は毎日学校にくるのがこわくて、不安でしかたなかったんでしょ?」

「……芹?」

 目の前で自分をあおってくる、親友によく似たこの人は誰なんだろう。珠菜の心はくずれてしまわないように、必死に都合のいい言い訳をさぐっていた。

「だけど珠菜はこわれなかった。だからもっと現実的な方法でこわしてあげようとしたの」芹は口笛を吹くようにつづける。「知り合いに頼んで車でいいところまで連れていってもらって、そこで、ね」

 カマキリみたいに車に押し込もうとしてきた、あの男が脳裏に浮かぶ。

「芹があの人を……? だけど、あのとき芹はあのおじさんから私を助けてくれたのに──」

「あれは珠菜を助けたんじゃなくて、民崎みんざきさんを助けたのよ! 周りに人がいたから見られたらやっかいだと思ったの」

 男の名前まで知っているということは、知り合いだということに間違いはないのだろう。

「なんでそんな……意味がわからないよ。だっていつも夏休みにいく旅行の話とかしてたのに」

「その旅行に民崎さんを呼ぶつもりだったの」

「……なんで?」

「そこなら邪魔も入らないし、スマホがあれば撮影も配信もできるのよ。子供じゃないんだからそれ以上は言わなくてもわかるでしょ?」

 御暁芹は冷酷に言い放つ。


【残り時間 三十一秒】

「……うそだ」ただ立っているだけでも腕に汗がにじむ七月の教室で、珠菜は一人だけ違う季節に閉じ込められたように、ふるえながら首を横に振る。「そんなの信じない。芹はそんなことする人じゃないよ。さっきから言ってること、全部嘘なんでしょ? 誰かに脅されてるとか……命令されて言ってるんだよね?」

「だからそういうところが嫌いなの! そうやってなんでも自分に都合よく思い込める頭がうらやましいくらいよ」芹は左手を掴む右手の力をさらに強めた。「あの犬を斬りつけてるときにどんな声で鳴いてたか聞かせてあげたかった!」

「────」


【残り時間 二十一秒】

 それはそれは、とてもとても、ふしぎなふしぎなきもちだった。

 感じたことのない膨大な怒りと悲しみ。そのせいで心は混乱し、麻痺し、やがて停止した。

「なにそれ、じゃあ、本当に、本当に、芹は、私のことや、ハラマキを──?」

 だから気づかなかった。

 じめじめとしたなにかが、しめしめと自分の中に入ってくることに。

「……もういいよ……芹なんて、芹なんて──はやくここからいなくなってよ」

 たれたみたいに顔をそむけて吐き捨てる。

 だから見えなかった。

 それを言われたとき、親友が、どんな顔をしていたのか。

「珠菜……」その小さな小さな声は、誰にも届かない。

 御暁芹は振り返って走り出す。

 窓枠を掴み、その先へ体を落とす。スカートのポケットに入っていたスマートフォンは窓枠に引っかかり、近衛兵のストラップと一緒に教室の中へ落ちた。

 運部桔京の悲鳴が教室に響く。その声で芹が飛び降りたことを珠菜は理解する。

 珠城珠菜は両手で頭を抱えて、その場にうずくまっていた。

 チックタック チックタック


【残り時間 〇秒】

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