第9話

 栖々木羽祇すすきはぎは明るく活発で、クラスのムードーメーカーといえる存在である。

 制服の下には一年中水着をつけて、毎日のように学校のプールで泳いでいた。本人曰く、スタイルを維持するのに泳ぐのが一番効果的だから、ということらしい。その甲斐あって体つきはスレンダーで、ボーイッシュなショートヘアも手伝って、中性的な魅力を持つ少女だ。

 そんな彼女が青春の全てを費やしているもの、それはゲーム。

 ネットの動画共有サイトで自分がゲームをプレイしている様子を実況するのが趣味ではなく生きがいなのだという。

 実際、羽祇はその筋ではそれなりに有名らしく、ネット上に彼女のファンコミュニティまで存在することを御奈に教えてもらったことがある。

 今度発売されるゲームの実況者を特集した雑誌に美少女中学生プレイヤーとして紹介されることを羽祇本人の口から、照れた様子で教わった。

 彼女にとってゲームこそ全て。

 教室の席順で、珠菜のすぐ後ろが羽祇の席だ。

 授業中、背後でカチャカチャと何かを操作する音が気になって、そっと振り返ると、携帯ゲーム機に夢中になっている羽祇がいた。

 まるで受験勉強のような真剣なぎようそうにおののいて、珠菜は注意することをあきらめた。

 しかし、それだけ日々ゲーム漬けにも関わらず、羽祇は学業をおろそかにしていなかった。

 珠菜の通っている中学では、毎月実力テストが実施され、成績の上位五十名は名前を掲示板に貼り出される仕組みとなっている。

 そこが指定席みたいに芹の名前はいつも一番上にある。

 芹から少し離れた二十位前後の位置に珠菜はいる。この学校の三年生の総数は二八〇名なので、悪い順位ではない。

 そして教室での席順を反映したかのように、珠菜のすぐ後ろに羽祇の名前はあった。

 試験前は鬼教官と化した芹にこっぴどくしごかれてやっとこの順位なのに、試験開始直前ですらゲーム雑誌に目を通している羽祇と大差がないことに、尊敬の念すら覚えた。

 いつ勉強しているの? という珠菜の疑問に、コツがあるんだよ、と羽祇は笑った。

 できる人の言葉だな、と珠菜は思った。


 渇いた音が白い部屋に響く。

 自分の手のひらで自分の顔をはたく音。

「……教えて、ほしいことがあるの」痛みでほほを赤く染め、低い声で珠菜は訊ねた。

「なにかしら?」

「私にはこれまで繰り返してきたリトライの記憶が全部ある。それってクラスのみんなも同じなの? みんなにも何をしたか、されたかっていう記憶が──」

「珠菜の言葉でいうリトライは珠菜にだけ起きている現象。珠菜にとっては数回目のことでも、彼女たちにとっては、常にはじめてのできごと。そうでなければ、リトライのたびに御暁芹はあなたの出現に驚いたりはしない」

「……そうだよね。うん、なんとなくわかってたけど、どうしても確認しておきたかったの」

 わずかにあんする表情。そこから歯をくいしばり、また頬を叩く。一呼吸おいて、もう一度。

「顔に虫でもついているの?」ティーアは小首をかしげる。

 少しでも多く自分に罰を与えなければ、罪悪感でどうにかなりそうだった。

 頭がどうかしていた。

 幼いころに見た世界中の変わった事故を特集した映像。モニュメントバレーでの一件。

 事故というものはいやおうなく人目を奪う。だから、こちらからそれを起こしてしまえば、みんなの注目を集め、動きをとめることができるのではないか、そう考えた。

 どうして羽祇の体に芹の筆跡で文字が書かれているのか、それも確認しておきたかった。

 一つの行動で二つの目的が果たせる。素晴らしいアイディア。まさに一石二鳥と思った。

 バカだった。

 みんなの前で着ているものを引き裂くなんて、じよういつした行動だ。

 それに、逸脱していたことは他にもある。

 先ほどのリトライにも一つだけ成果はあった。芹の足止めに成功したことだ。

 友人をはずかしめるという最低の行為によって、親友の死という最悪の未来を回避したように思えた。

 しかし、大きな事故には得てして不測の事態が発生する。

 前方不注意の後続車に追突されるような、二次災害。

 すなわち、茨楽香央いばらかおの死。

 珠菜はこめかみを手のひらで押さえて、可能なかぎり記憶をたぐりよせる。

 自分が羽祇の水着に鋏を通していたとき、すぐ後ろに彼女はいた。

 羽祇の肌が露出され、そこに書かれていた文字を見て何かをつぶやいていた気がする。

 その直後、倒れた。

 自宅で映画を見ているとき、間違ってスキップボタンを押してしまったような、いくつもの過程を飛ばした、唐突な命の終わり。

 それは何度目かのリトライで、桔京が教室で倒れていたときのことを脳裏によみがえらせた。

「……一体、どういうことなの」

 自分の愚かさと、立てつづけに起きた理解を超えるいくつもの事実に頭の処理は追いつかず、心の動揺は広がるばかりで、いまにも体ごとパンクしそうだった。

 理由のわからない涙が目からあふれてくる。

「それは混乱と後悔の涙」とティーアは言う。

「え?」

「ここにそう書いてある」

 ティーアはアルバムほどの大きさの書籍を両手で広げてみせる。

 まだ製本の途中みたいに、表紙と背表紙と裏表紙、どれも真っ白。

「それは、なに?」親指で涙を拭いながら訊く。

「これは涙の辞典。世界中のありとあらゆる涙がここにしるされている。私はサメの涙を知りたくて、まずは自分の涙とパンを交換してもらった。そのパンを野菜と交換してもらった。その野菜を魚と交換してもらった。魚はれたてだった。だから少しかじって、その魚をこの辞典と交換してもらった」

「……そう、なんだ」

 いつの間に、どこでそんなことを。そういう当然の疑問はあえて口に出さなかった。これ以上、思考を乱す情報を頭に入れたくはない。

辞典これによると、珠菜は今、混乱と後悔の涙を流している」

 言いながら、ティーアはくるっと本をひるがえして該当のページを見せてくる。

 真っ白。

「……何も見えないけど?」

「涙に色はないから」

「……そう、だね」

 とぼけた会話のやりとりで、かすかに落ち着きを取り戻す。

 水時計を見ると、既に半分以上の水を移し終わっていた。

 このままの状態でリトライをしても、事態を解決できるなんて、とても思えない。

 何をどうすればいいのか、何もわからない。

 何もわからない。


「だったら深呼吸をして」

「え?」

「いいから、一度、深呼吸」

「う、うん────したよ」

「いい? まずは落ち着くこと。それからていねいに問題全体に目を向けるの。問題の意味すらわからなくても、とにかく丁寧に。雑に扱うと雑な答えしか出てこないから」

「……よく見たけど、やっぱりわからないよ」

「ねえ、珠菜。『問題そのものは問題じゃない問題』って感覚、わかる?」

「全然わからない」

「……素直なのはいいことだけど、少しは考える素振りを見せなさいよ、まあいいわ。例えばさっきからつまずいてるその難しそうな数式の羅列だけど、注目するのは最初に定義されている『a=1』だけでいいの」

「どうして?」

「いかにもこれをヒントに解きましょうって長い方程式が後につづいているけど、どこにも『a』と関連の記述はないでしょ。だけど最終的に求められているのは『a』のあたい。つまり?」

「……つまり答えは『1』なぜなら『a=1』だから。途中の式はただの引っかけ?」

「正解」

「ずるいよ。これ数学じゃなくて、ただの頭の体操だよ」

「私はあの先生のこういう遊び心、嫌いじゃないけどね。確かにこれは例外的だけど、解答にたどり着く手段はどんな問題でも同じよ。まずは全体を丁寧に扱う、そこから細部を整理する。それを繰り返して『何もわからない』から『ここがわからない』に一歩進める」

「ずっと考えても、それでも何もわからないときは?」

「恥ずかしがらずに私に訊くこと。自分だけで悩まない。今はテストの時間じゃないんだから、わかる人がわからない人に教えればいいの」

「でもいつも私は芹に教えてもらってばかりで、なんだか情けないというか」

「そんなこと気にしなくていいの。それに私だって珠菜からは──」

「私から、なに?」

「ど、どうでもいいでしょ。集中しなさい、集中。それが一番必要なことよ」

「芹、なんだか顔が赤いけど大丈夫?」


 試験前になると芹の部屋で繰り広げられる勉強会での一幕を思い出す。

 珠菜は一度深呼吸をして、丁寧に問題の全体に目を向ける。

 与えられた課題は百秒間のリトライで、教室にいる誰一人、死なせてはならないこと。死へといざなうような致命傷をわせてもいけない。

 リトライがはじまると、芹は自分から離れ、窓から飛び降り、死へ向かおうとする。

 ここまでは確実なこと。問題はここから。

 芹の死を防ぐために何かしようとすると、あるときは茨楽香央が鋏で芹を刺した。あるときは運部桔京が倒れていた。あるときは葛谷御奈が自分の首を鋏で刺した。あるときは栖々木羽祇に芹の救出を妨害され、前回は茨楽香央がすぐそばで命尽きた。

「…………」

 すでに大きな白旗が珠菜の中でゆらめいている。

 やっぱり、何もわからない。精一杯考えて行動しても、答に近づくどころか、そこには必ず別の壁が現れた。

 こんな問題、解けるわけがない。

 逃げ出すように頭を下げて、強くまぶたを閉じる。

 困難にぶつかると、できない理由を探して課題から目をそらす癖が珠菜にはあった。

 提出期限の迫った難しい宿題を前に頭を悩ませること三分。珠菜はひらめく。

 気分転換に散歩にいって、帰りにコンビニで甘いお菓子を買ったら、なんだか頭が冴えて答が浮かぶような気がする。

 下手な言い訳を考えるのも上手かった。

 お菓子を食べ終わると、シャワーを浴びてさっぱりすれば柔軟な発想が生まれるのではないかと思いつき、着替えをもって浴室に移動した。

 ドライヤーで髪を乾かしながらスマートフォンでネットニュースを追っていると、一日に最低七時間は睡眠をとらなければ、脳のパフォーマンスは半分以下になるという衝撃的な見出しが飛び込んできた。

 時計を見ると二十二時二十分。もう深夜だ。

 これはいけない。宿題は当然やるべきだが、脳のパフォーマンスが落ちた状態で立ち向かえる相手ではない。だんちようの思いで眠るほかない。

 部屋の電気を消して、布団にもぐり込む。そうして先延さきのばしに先延ばしをつづけた結果、最後は芹に泣きつくのだ。

 ゆっくりとまぶたを開いて、少しだけ顔を上げる。

 過去を振り返ってみると、なさけなくて、また泣きそうになる。

 いつもいつも言い訳と先延ばしを繰り返して、どうしようもなくなって、芹に助けを求めてきた。

 そっと水時計に目を向ける。あと一分も残っていない。

 今回は先延ばしする時間も、助けてくれる芹もいない。

 これまで自分がなまけてきたツケを一気に払わされているのではないかという想像に胸をしめつけられる。

 残り時間はわずか。対策は何もない。焦りだけが増していく。

 両手を強く握り締め、それでも祈るように心の中の芹に助けを求める。

『恥ずかしがらずに私に訊くこと。自分だけで悩まない』

 ふと、耳元で芹がそうささやいてくれた気がした。

「…………」

 おもむろに顔を上げる。

 もう一度、大きく深呼吸。それから小さくうなずいて、ティーアと目を合わせた。

「何かわかったの?」

 珠菜は首を横に振る。

「まだ何もわからない。だから『何もわからない』から『ここがわからない』に一歩だけでも進んでくるよ」

「そう。わかった」

 ティーアはまぶたを閉じる。

 白い衣の少女の右目からずっとこぼれつづけている涙。

 珠菜は腕を伸ばし、くすり指でそっと、それにふれた。


【残り時間 一〇〇秒】

「教えてほしいことがあるの」

 リトライがはじまった瞬間、芹に向かって口を開く。

「どうして羽祇ちゃんの体に、あんな──あんな文字、書いたの?」


【残り時間 九十五秒】

「え?」

 御暁芹はぜんとした。

「私が栖々木さんの体に? え? どうして珠菜がそんなこと……それよりどうして珠菜がここにいるの? どうして? 意味、わかんない」


【残り時間 八十九秒】

「え?」

 栖々木羽祇はがくぜんとしている。

「御暁さん、もしかして、あの写真、珠菜ちゃんに見せたの?」

「……写真?」珠菜は大きくまばたきをする。「何のこと?」


【残り時間 八十二秒】

「ひどいよ御暁さん!」羽祇は芹に詰め寄る。「絶対誰にも見せないでって約束したのに!」


【残り時間 七十九秒】

「落ち着いて栖々木さん、私はそんなことしてないから」

 芹は動揺して。

「御暁さんがあれを見せる以外にありえないじゃない!」

 羽祇は怒りを隠さない。


【残り時間 七〇秒】

「……あの、二人とも、ケンカしないで……落ち着いて」

 珠菜は胸の前で手を開いて、冷静になってほしいという仕草を見せる。

 芹は珠菜に鋭い目つきをぶつけ、大きく踏み込んで、電車が連結するように珠菜の手を強く掴んだ。

「説明して! どうして珠菜がそんなこと知ってるの」

「それは、その……」

 思わず後ずさるが、ここで引き下がってはいけないと、力を振り絞って一歩前に出た。自分は知るためにここにきたのだから。

「芹こそ教えてよ、どうして羽祇ちゃんの体にあんなこと書いたの? それに写真って何のことだよ?」

「だからどうしてそのことを珠菜が知ってるのよ!」


【残り時間 六〇秒】

「それは、だから、えっと……」

 言葉がつづかない。どうしようもなくなって、ただ目が泳ぐ。

 その隣で震える肩をおさえながら羽祇が口を開く。

「どうしよう……あの写真、誰かに見られてるんだったら、私、もう……」

 悪い想像をさらに悪い想像で塗りつぶすように、顔をこわばらせている。

 その声と表情から何があったのか、おおよその検討はつく。芹が羽祇の体に文字を書いた。それを写真に撮った。そういうことなのだろう。

「どうして……そんなことを?」

 珠菜は問う。

「珠菜には関係……ない、でしょ」

 逃げるように芹は顔をそむける。


【残り時間 四十九秒】

「ねえ、御暁さん──」

 思い詰めた声で栖々木羽祇はこう言った。


【残り時間 四十六秒】

「──死んでよ」


【残り時間 四十二秒】

 教室に短い沈黙が生まれ、重い空気が落ちる。

「……なに、いってるの、羽祇ちゃん」

「だってそうでしょ? 珠菜ちゃんだけじゃなくて、どうせ他の人にも見せてるんでしょ? もう私、生きていけないよ。だから死んでよ。死んでつぐなってよ」

 商品を買ったんだから代金を払え。それくらい当然の権利を主張するようなぜんとした態度だった。

 珠菜はぼうぜんとする。

 同時に、こんな思いがぎった。

 例えば、自分が誰かに裸にされて体に卑猥な言葉を書かれて、それを撮影されて、その写真をみんなにバラまかれたとする。自分はその相手を許せるだろうか。

 仮に、その相手に罰を与えられるとするなら、自分は何を望むだろう。

 とても嫌な気持ちになった。自分の頭が羽祇の主張に一定の理解を示してしまったからだ。

 突然、運部桔京の悲鳴が教室を切り裂く。

 目の前にいたはずの芹の姿が消えている。

 とっさに振り返ると、確かに自分の手を掴んでいたはずの芹が、今まさに窓から飛び降りようとしていた。

 そして落ちた。


【残り時間 二十九秒】

「──芹」

 もう手遅れとわかっていても、体は一目散に窓に向かって走ろうとする。

 しかし羽祇に腕を掴まれ、それを阻止される。

「無駄だよ。それにあんな人、死んで当然だよ」

「──え?」

 雑な言葉で親友の名誉を傷つけられ、珠菜の中で怒りが芽吹く。

「あの人、私に何したか知ってる?」こんなこと言いたくない、そんな恥じらいを目に浮かべながら羽祇はつづけた。「……今朝、プールから出て更衣室で着替えようとしたら、御暁さんが入ってきて、怖い顔で脅されて、体にあんなこと書かれて……スマホで撮られたんだよ」

「──でも」

 何か理由があるのではないか、そんなことを言おうとしたけれど、舌は空回りする。

 どんな理由があったとしても、あんなことをされていい理由なんて、ないことくらいわかるから。

「どうしてあの人のことそんなにかばうの? 友達だから? あの人、珠菜ちゃんのことずっといじめてたんだよ?」

「──え?」

 羽祇のいう『あの人』が芹のことだと理解するのに、数秒、必要だった。


【残り時間 十二秒】

 一瞬、躊躇ためらいのようなものを見せたが、意を決するように羽祇は言った。

「珠菜ちゃんの財布からお金盗ってるとか靴捨ててやったとか、いつも楽しそうに話してたんだよ」

 それから、と言いながら羽祇はスマートフォンを取り出し、何か操作をして画面を珠菜に見せてきた。

 そこには芹と四十代くらいの身なりのいい男が写っていた。

 男は純粋に嬉しそうに、芹は少し照れた様子で笑っている。

 二人の関係はわからないけれど、親戚の叔父おじめい。そういうふうに見えた。

「このおじさんのこと知ってるんでしょ? 御暁さん笑いながら言ってたんだよ、いつかこのおじさんに珠菜ちゃんのこと無理やり──


【残り時間 〇秒】

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