第8話

 二〇〇〇年初頭。

 ここに他の色は必要ないと、どこまでも傲慢に青く広がる澄んだ空。そこにふれてみたいと指を伸ばすように、いくつもの岩山や台地だいちが点在する赤い大地。

 アメリカ合衆国、ユタ州南部からアリゾナ州北部へとつづいていくその一帯の名をモニュメントバレーという。幻想的で歴史的な景色に彩られ、映画のロケーションや観光名所としても愛されている。

 まっすぐ伸びていく一本の道を一人の青年が運転する一台の白いスポーツ用多目的車、いわゆるSUVが意気揚々と走っていた。

 青年の名前はグレゴリー。年齢は二十七歳。彼は今、人生の絶頂にいた。

 はじまりは、こうだ。

 学生時代、遊び半分で取得した『携帯端末に特定の操作をすることでユーザーインターフェースに特定のアニメーションを表示する特許』が国内最大手のソフトウェア企業に侵害されることを友人の弁護士がデスクワーク中につきとめた。

 その友人にそそのかされ、酔っ払った勢いで訴訟を起こすと、いともたやすく連邦地方裁判所はグレゴリー青年の主張を認め、企業に七〇万ドルの支払いを命じた。

 当然のように企業は控訴。ここまでは珍しくない流れだが、連戦連勝を誇る一人の顧問弁護士は慢心が災いし、愚かな行動に出た。この件に注目していたマスメディアの取材の中で、グレゴリー青年の人格を否定するような差別的な発言を何度も口にしてしまったのだ。

 無論、その様子は映像という形で国内を駆け巡り、一部では暴動めいた不買運動まで起こり、グレゴリー青年を応援するサイトがいくつも立ち上げられた。

 数日後、グレゴリー青年は国内最大手ソフトフェア企業の本社最上階、大会議室に招かれていた。ここでギリシャ神話を舞台にした映画を撮影する予定でもあるのか、神秘的な石像がいくつも並んでいる。かと思えば日本のサムライが身に着けているような立派な鎧も飾られていた。天井には八〇年代の映画のポスターがステンドグラスみたいに貼りつけられている。そういえばここの創設者は変わり者として有名なことを思い出す。

 会議室には二人の男と一人の女がいた。二人の男の内の一人は、自分を侮辱したことで一躍有名人となったあの弁護士だ。街の子供たちは大統領の名前は知らなくても彼の名前なら知っている。

 謝罪の言葉でも聞かせてくれるのか、もしくは大企業的なスタイルで社会から抹消されるのか、今さらながら一人でやってきたことを後悔していると、友人の弁護士が慌てて会議室に飛び込んできた。彼のスーツ千着分の値段と目の前の男と女が着ているスーツ一着分の値段は同じに思えたが、それでも今は友の存在が頼もしかった。

「五二〇万ドル」

 グレゴリー青年を侮辱した弁護士の口から、レジみたいに金額だけが告げられた。

「それできみに本件はすでに和解済みだとメディアの前で語ってもらう。言っておくが、つまらない欲は出すなよ。こっちが本気になればきみは必ず負ける」

 その言葉が嘘や脅しでないことはグレゴリー青年も承知していた。正義とは道義ではなく弁護士の質と数で決められる。だからこの破格の申し出にはむしろ誠意すら感じる。

 最初から素直に謝罪の言葉が聞けるとは思っていなかった。あんた人にあやまるとカエルになる魔法でもかけられてるのか? と洒落た台詞の練習までしていたのに、それもこれも全て五二〇万ドルという数字に粉砕された。正直、立っているのもやっとだった。

 数ヶ月後、グレゴリー青年はカウボーイ気分で新型のSUVにまたがりモニュメントバレーの赤い大地を駆けていた。

 今日は予行演習。五年前から付き合っている恋人は、去年からそこはかとなく結婚を望む言葉を会話の節々に織り交ぜてきていた。自分もそれに応えるつもりだ。

 人生を変えられるほどの金額を手にした。しかしグレゴリー青年に大きな欲はない。ただ、プロボーズはロマンチックに演出したい。それは自分のためではなく、こんな自分をいつもそばで支えてくれた大切な恋人のために。

 だから彼女が大好きな映画の舞台となっているこのモニュメントバレーで最高のプロポーズをするために、視察にきていたのだ。

 グレゴリー青年の運転するSUVのフロントガラスの向こうには小型のUFOの姿がいくつも確認できる。なんでもここ数日、この付近の上空で大型の未確認飛行物体が何度も目撃されているようで、こうたちが集まりラジコンのUFOを飛ばして、なんとか『本物』と交流しようと切磋琢磨しているのだ。

 こういうのも面白いかもしれないとグレゴリー青年は想像力を羽ばたかせる。友人の弁護士に頼んで、ラジコンのUFOを操作してもらい、最高のタイミングで指輪を運んでもらうのはどうだろう。我ながら悪くないアイデアに口元が緩む。

 まるでその微笑みが合図だったかのように、すぐそばで大きな爆発があった。

 すさまじい爆風に新型のSUVは力士がを踏むように持ち上がり、その状態を数秒維持したのち、ゆっくりと体勢を元に戻す。車体が激しく揺れる。パンパンパンと銃声のような音が三回した。同時にグレゴリー青年の顔と右半身と左半身の三点に弾力性のある何かがぶつかってきた。

 本当に宇宙人が攻めてきたのかと錯乱するが、弾力性のある物体の正体はすぐにわかった。エアバッグだ。強い爆風がセンサーを誤動作させエアバッグを暴発させた。新型のSUVに搭載されている新型のエアバッグシステムは車内全体を覆うように設計された実に優秀なもので、それが全て自分にかぶさってきたのだ。

 シートベルトをはずしエアバッグを強引にしぼませてドアガラスから外を確認すると、襲撃を受けたように赤い大地の一部が黒く焦げていた。

 グレゴリー青年にこの状況を分析する余裕は与えられなかった。背後から大きな衝撃に襲われ、フロントガラスに強く頭をぶつけ、意識を失ってしまったからだ。


 どうしてそんな場所でばくはつがおきたのかというと、だれかがそこの地面に、ふはつだん(バクダンみたいなもの?)をすてていて、それがばくはつしたからなんだって。

 グレゴリーさんは事故に目をうばわれた後続車に追突されて、フロントガラスに頭をぶつけちゃったの。シートベルトをはずしていたから普通なら本当にあぶないんだけど、グレゴリーさんは、ほとんどケガなんてなかったんだよ。どうしてだと思う?

 あのね、芹ちゃんのお父さんの会社が作ったエアガラスっていう、とくべつなガラスのおかげなんだよ。

 事故がおきたとき、フロントガラスでおおきなケガをする人がすごく多いから、芹ちゃんのお父さんが中心になって安全なガラスをけんきゅうして、完成したのがエアガラスなんだよ。

 このガラスにはいろんな可能性があって、芹ちゃんのお父さんはこのガラスをもっといろんなところでかつやくさせたいってインタビューでいってたよ。

 そうそう、まだ何年も先だけど、私たちが通うことになる中学校にもこのエアガラスが使われるみたいです。楽しみだね。じゃあ、また書きます。


 と、日記に書いたのが数日前。以前、芹から無理やり押しつけられた『世界の奇想天外交通事故集』というタイトルのDVDの感想だった。

 意外と面白くて見入っていると、再現ドラマの後に見知った顔が出てきたので驚いた。芹の父親だ。いつも芹の家に遊びにいったときに優しい笑顔で迎えてくれる男性はテレビ画面の中で一人の技術者として、新しいガラスの可能性について誠実に語っていた。

 世界有数のガラスメーカーである御暁硝子ごぎようガラスが満を持して世に送り出した新製品『エアガラス』

 自動車事故が発生した際、ドライバーの死傷原因の上位であるフロントガラスとの接触による頭部、および肉体への影響を最小限に食いとめるために、衝撃吸収効果を高めた次世代の特殊なガラスである。

 インタビューが進んでいくと、芹の父親は興奮気味にあることについて身振りをまじえて語りはじめた。ガラスに強い力が加わっても割れないように衝撃を吸収して分散する加工を施す過程で、ガラスの透過率とうかりつが飛躍的に上昇する現象と遭遇したのだという。

 これは全く予期していなかった出来事であり、結果として、エアガラスは高い衝撃耐性と同時に、まるで空気のような高い透明度をあわせ持つ、新しいガラスとなり得たのだと。

 エアガラスは優れた安全性の追求を目的としたプロダクトで、自動車や子供たちの集まる場所での使用を想定していたが、今後はそれにとどまらず、例えば街の景観をより生かすようなかたちでも提供していきたい。この発見は医学で例えるならペニシリンのようなセレンディピティだ。と、芹の父親はテレビ画面の中で熱く語っていた。

 ペニシリンもセレンディピティも意味のわからない単語だったが、きっと世の中をよくする何かなんだろう、と珠菜はそれ以上考えなかった。

 昨日は芹が日記を書く番だった。学校でわたされた日記帳を自分の部屋のベッドの上で開いて中を確認する。

 退屈で窮屈な場所につれていかれて、退屈で窮屈な音楽を延々と聞かされたという愚痴が延々と書かれていた。確か芹は昨日、都内の大きなコンサートホールでクラシックを鑑賞していたはずだと思い出す。指揮者が芹の両親の友人だとか。

 珠菜は自分が書いた日記のページに赤い修正が入っていることに注目する。

 芹ちゃんの『ちゃん』の部分全てに赤ペンでバツ印がついていた。これは不正解だといわんばかりに。

 珠菜は右手に握りこぶしをつくり、親指から順番に伸ばしていく。親指、人さし指、中指、薬指、小指まで伸ばすと、今度は小指から曲げていく。小指、薬指、中指までくると、動きをとめた。珠菜の右手は拳銃のようなかたちになる。遊んでいるわけではなく、数をかぞえていたのだ。

 八ヶ月。芹に誘われて交換日記をはじめて、もうすぐ八ヶ月になる。

 小学三年生に上がった今年の四月、まだ名前もよく知らない新しいクラスメイトたちからアドレスやIDを教えてと口々にせがまれた。

 アドレスはともかくIDが何のことかさっぱりわからなくて首をかしげていると、スマートフォンを持っていないのかと問われ、うんとうなずくと、地底人を見るような目で驚かれた。

 たったそれだけのことで、数人のクラスメイトから距離を置かれていくのがわかった。

 自分もそういうものがほしくて、母親に買ってと頼んでみたこがある。すぐさま、まだ必要ないと答えが返ってきた。珠菜はそれ以上の議論を望まなかった。実際、クラスのみんなが持っているから以外にほしい理由がなかったからだ。

「…………」

 でも、そういうものを持っていないことで、こういう疎外感を覚えることもある。

 椅子に座ってうつむいていると、ふわっと机の上に御暁芹が腰かけてきた。そして、ぽんっと頭の上に何かを置かれた。それを手に取る。品のいい草色のノートだった。

「これは?」と訊ねる。

「日記帳よ」と答える。

 珠菜は首を傾げる。「私の?」

 芹は首を横に振る。「私たちの、よ」

「え?」

「プライバシーとプライベートを犠牲にまでして短い言葉で意味のないやりとりなんて、人生を下水道に流すようなものよ。そんなつまらない流行なんて『こわして』私たちは、価値のあることを共有しましょう」

 プライバシーとプライベートの意味がよくわからなかったけど、もしかしたら、早くも特定のグループから仲間はずれにされつつある自分に気をつかってくれているのかな、と思った。

 その気持ちは、なんだか嬉しかった。

「ありがとう、芹ちゃん」感情を素直に言葉にした。

 芹は人さし指で珠菜の額を小突く。

「いたい」感情を素直に言葉にした。

「何度も言ってるけど、私の名前は芹ちゃん、じゃなくて、芹」

 何度も聞かされてはいるけれど、呼び捨てで名前を呼ぶことにはどうしても抵抗があった。

「まあいいわ。最初は珠菜からね、言っておくけど毎日交換だからね。休みの日とか関係ないから。適当なこと書いてもダメだからね」

 そう言って、自分の席へと戻っていった。

 早いもので、あれから八ヶ月。季節は冬。

 芹との交換日記はあの日から毎日つづいている。思えば、あのときは言葉の意味も知らなかったプライバシーとプライベートを、気づけば盛大に犠牲にしていた。この草色の日記帳を開けば自分と芹のこれまでがわかる、もはや歴史の教科書といっていい。だけど、嫌な気持ちは少しもなかった。日記を書くことも読むことも、日常の中の喜びの一つとなっていたからだ。

 ただ、小さな負い目を覚えることもある。その一つが、文字。

 開かれた日記帳。右側に自分の書いたもの、左側に芹の書いたもの。内容はともかく、文字の完成度に大人と子供ほどの開きがあった。芹の文字は彼女の容姿同様にとても綺麗だった。

 だからときどき、違和感を覚えることがある。芹の綺麗な文字の隣に、綺麗じゃない自分の文字があることがふさわしくないのではと。

 それはノートの中より、むしろ日々の生活で感じることのほうが多かった。

 芹と友達になりたがる人はたくさんいた。同級生だけではなく、下級生や上級生まで。しかし、芹は誰に対しても常に一定の距離を保っていた。それはときに冷たさを感じさせるほどで、嫌われたのではと早とちりして泣き出す子もいた。

 そんな芹もなぜか珠菜にだけは、自らその距離を詰めてきた。授業で二人組を作れと言われたとき、珠菜があたふたしていると、いつの間にか隣に芹がいた。教室を移動するとき、休み時間、いつも珠菜の隣には芹がいた。芹のほうから近づいてきていた。

 多くの目にそれは奇異きいに映り、二人はどういう関係なのかと生徒だけではなく先生にまで、何度も訊ねられた。その答えを誰よりも知りたいのは他でもない珠菜自身なのに。

 珠菜は深呼吸をして、頭の中のもやもやを吐き出した。

 日記のテーマが決まったので、机に向かい椅子に腰かけシャープペンを手に取り、ペンの上部をノックして、日記帳に思いをつむぎ出す。

 芹ちゃんの文字は綺麗でうらやましい──そんな内容だった。

 二日後、芹からわたされた日記帳を自室のベッドの上で開くと、珠菜は目を疑った。

 芹ちゃんの『ちゃん』に赤いバツがつけられているのは、もはや様式美となっているので特に思うことはない。問題は、こうひつのお手本みたいに綺麗だった芹の文字が、実に、非常に、個性的な変貌を遂げていたことだ。

 写実的な作風の画家が、何を思ったのか抽象画に目覚めたような、突然変異の文字だった。

「一体どうしちゃったの?」気づけば珠菜は芹に電話をしていた。

「こわしたの」芹は受話器の向こうで楽しそうにつぶやいた。珠菜からの連絡を予測していたかのような余裕を感じる声だった。

「どういうこと?」

「だって、整った文字なんて練習すれば誰だって書けるでしょ? それじゃ面白くないから、こわすことにしたの。これから私は私にしか書けない文字で書いていくから。それじゃ」

 通話が終わってからも、しばらく珠菜は受話器を握ったまま、茫然としていた。

 部屋に戻って再び日記帳を開く。

 もったいない。わけがわならない。二つの感情が沸き上がってくる。せっかく上手な字が書けるのに、どうしてそれを捨てるようなことをするのか理解できなかった。

 ただ、決して下手というわけでもない。むしろこれはこれで味わい深いともいえる。

 例えばこの『体』という字の『にんべん』の部分はとても力強くて、ある種の美学を感じる。

 そうやって珠菜は、無理やり自分を納得させようとした。


 その『体』という文字が栖々木羽祇の体に油性ペンで書かれていた。

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