第7話

 十秒間に九回も『なんで?』と問われた。疑問を伝えたはずなのに、それを疑問で返された。

 足早に距離を詰めてきた芹は、強引に珠菜の肩を掴む。

「どうして珠菜が『あいつ』のことを知ってるの?」

 そのまま勢いよく、体を二回揺らされる。

 どうして、と訊かれても、どう答えればいいのか。珠菜は口をつぐむしかなかった。

『あいつ』については何かしらの算段があって訊ねたわけではい。ただ、過去のリトライで香央や御奈が口にしていた名前のおぼつかない『あいつ』という存在が胸に引っかかっていたのは確かだ。

『あいつ』が裏切ったとか、『あいつ』の出した宿題がどうとか。昨日ここで芹が自殺するに至った理由に、そいつが無関係とは思えなかった。

 そして今、親友の動揺を見て、珠菜は推測を確証へと昇格させた。


【残り時間 三〇秒】

「何か見たの? 誰かに聞いたの? どうなの? 答えて!」

 何かを見たわけではない、聞いたのだ。そこにいる香央と御奈に、リトライで。

 それを話して信じてもらえるとは思えない。だがそこで珠菜はひらめいた。それでいいんじゃないか。真実をありのまま話せば、間違いなく芹は混乱する。そうすれば時間が稼げる。

 リトライの目的は芹に何かを納得させることではない。安全に時間を消費することだ。

 ここまでで、それなりに時間は経過したはず。全てをゆっくりと話そう。それで全てを終わらせよう。


【残り時間 二十五秒】

「わかった」と口を開いたのは、芹の少し後ろに立っていた羽祇だった。「──『あいつ』が、あいつが私たちを裏切ったんだよ」

 それは二度目のリトライで香央が口にした言葉と同じだった。

「でも、だったら、おかしいよ」羽祇の言葉はつづく。その声は明らかに怯えていた。「それなら、どうして『あいつ』はあんな宿題を出してきたの?」

 それは先ほどのリトライで御奈が言ったことと同じ。

 リトライのリトライをしているような不安と悪寒が珠菜の首をしめる。どうしようもなく良くない予感がする。

 ふと、前を見る。痛みに耐えるような表情の親友がそこにいた。その口がこう言う。

「珠菜、ごめん」

 それはこれまでのリトライで何度も聞いた言葉だった。

 芹はうつむいて、力任せに珠菜を両手で突き飛ばす。珠菜は床に尻餅をつく。

 腰をさすりながら顔を上げると、こちらを見下ろす芹の視線と自分のそれが重なる。

 ものを言わぬ親友の悲しげな瞳から、珠菜は確かに声を聞いた。

『たすけて』と。

 それなのに芹は窓に向かって走り出す。珠菜は全力で立ち上がり、追いかけて、親友の背中に手を伸ばす。

 間に合う。つかめる。芹のスクールシャツの裾に指先が届く。届きそうだった。

 寸前のところで何者かの手が珠菜の腕を掴んで動きをとめた。

 相手に振り返ると、叱られている子供のように強くまぶたを閉じた栖々木羽祇がいた。

「なんで──」

 それだけ言って慌てて窓のほうに振り向く。窓の先に一瞬、落ちていく芹のつま先が見えた。

 心臓が、砕かれた気がした。その場に崩れそうになる。

「何するんだよ、羽祇ちゃん」あらゆる感情を怒りに変えて、羽祇にぶつけた。

「珠菜ちゃんこそ何しようとしたんだよ、これで全部うまくいったじゃん!」

 まぶたを開いて、羽祇も負けじと怒鳴り返してきた。

「そもそも珠菜ちゃんが悪いんだよ、珠菜ちゃんがみんなを


【残り時間 〇秒】


「──え?」

 白の部屋に戻り、珠菜はたった一言、そうもらした。

 芹をとめられると思ったのに、それを羽祇に阻止された。思わず怒鳴ってしまった。ところが怒鳴り返された。まるで自分のほうが正しいのだといわんばかりの、まっすぐな怒りだった。

 これで全部うまくいったと羽祇は言った。全て台無しにしておきながら、何がうまくいったというのだろう。

 それに。

 それに羽祇はこうも言っていた。

 そもそも自分が悪いのだと。

 珠菜は胸に手をあてて考える。これまでの十五年間の人生で、誰かに誇れるようなことは何一つできてはいないけれど、同時に誰かに恥じるような行為に手を染めたこともない。

 自分の知らないところで何かが起きている。漠然と、そんな思いがくすぶっていた。

 だけど、自分とは関わりがないと思っていたその場所に、自分は関与している。そのことに自分が気づいていないだけ。そういうことなのだろうか。

 珠菜は肩を落として、ため息をつく。

 繰り返すたびに、真実はにごり、疑問だけが膨らんでいく。

 泣きそうだ。

「悲しい、悲しい──」

 そういえば姿の見えなかったティーアが前方から歩いてきた。左手に白い何かを持っている。

「答えを知りたかった。だから訊ねた。何度も訊ねた。それなのに返ってきたのは、より大きな疑問。そして無慈悲な結果」

 白いテーブルの上に、コトンと音を立てて持っていたものを置いた。車のおもちゃだった。

「……あ」

 声をこぼして、ほんの数秒間、珠菜はそれに目を奪われる。

 ファストバッククーペ。珠菜の一番好きな車種だ。しかもこのフォルムは、珠菜が大好きなドイツメーカーの有名なシリーズのものだった。

 外見はもちろん、内装も計算され尽くした秀麗しゅうれいなデザイン。頭の中の映像を出力できる機械があれば内部構造まで完璧な模型が作れるくらい、毎日この車のパンフレットに目を通していた時期があった。

「これは?」とティーアに訊ねる。

「これは景品。涙のコンテストの参加賞。サメの涙を描くコンテストの参加賞。私は真剣に優勝を狙っていた。でも相手にされなかった。私の描いた涙はサメの涙ではないと言われた。だったら答えを見せてほしいと頼んだ。それも相手にされなかった。そして投げるように参加賞だけわたされた。悲しい」

 結果がよほど不服だったのか、これまで以上に事務的な口調で、ここまでのあらましを教えてくれた。

「へえ」

 珠菜はテーブルの上の白い車に指を伸ばしてふれてみた。プラスチックとシリコンの中間くらいといった、なめらかな感触がする。

「珠菜は車が好きなの?」

「……うん、ちょっとね」

 珠菜は少しだけ、過去に振り返る。

 小学三年生の夏だった。


 休み時間、自分の席でオムレツについて想像を羽ばたかせていると、それを遮るように机の上にドカドカと本が積まれた。教科書でも漫画でも小説でもない。大人が読むような、ぶ厚くて難しそうで楽しくなさそうな本だった。

 驚いて顔を上げると、仁王立ちの御暁芹がいた。

 彼女は一言「これ読んで」と言った。

 そこから更にトールケースに入ったDVDを、あばれんぼうのサンタクロースみたいに頼んでもないのに鞄に詰め込んで「これも見ておいて」と言った。

 最後に「それから、アメリカ人になって」と言った。

 本を読み、映像を鑑賞し、国籍を変える。言葉は理解できた。意味は一つも理解できない。

「芹ちゃん、どうしたの?」

 このクラスメイトが突拍子もないことで絡んでくるのは今にはじまったことではない。しかし、今日のそれはいつもとスケールが違う。

「もう私はうんざりなの」夜のドラマで女の人が男の人に向かって叫ぶような台詞を、感情たっぷり込めて芹は言った。「もう車は嫌なの」

 御暁芹がこの小学校にやってきたのは去年のことだ。かなり有名な私立の進学校からの転校だったらしく、教師や保護者たちは驚いていた。

 転校初日、教室に入ってきた芹を見て、なぜ数日前に知り合いになったばかりの女の子が自分の学校にいるのだろうかと、珠菜は驚いた。

「先生、私、あの子の隣がいいです」

 しっかりとした声で宣言して、芹は自分の隣までやってきて、それまで隣の席だった岡本さんに向かって「ごめんなさい、席を替わってもらえるかしら?」とほほ笑んだ。

 社交的という言葉の見本みたいな隙のない立ち振る舞い、同性でも見蕩みとれる整った容姿、そして逆らうことを許さない独特の緊張感を見せつける転校生に、普段は怒りっぽい岡本さんも「あ、はい」と気の抜けた返事をして、机の中のものをランドセルに入れて、御暁芹のために用意されていた教室の一番前の席に移動した。

 異様で傲慢なその態度に教師も他の生徒たちも口を挟まなかったのは、珠菜の隣の席に芹がいたとき、不思議な納得があったからだ。失われていた絵画や彫刻があるべき場所に戻ってきたような説得力。そういうものがあった。

 それに御暁芹が支配的な行動に出たのはその一件だけで、それ以降はどこにでもいる小学生らしい小学生として日常をおうしていた。ある一点を除いて。

「車が嫌いになったの?」

 三年一組の教室。席に座ったまま、珠菜は芹が積み上げた本を眺めていた。よく見ると、どの本も表紙に車の絵が印刷されている。その中の一冊を手にとってぱらぱらとめくる。おそろしいことに漢字に振り仮名がふられていない。やはり大人向けの本だ。この『幅員はばいん』というのはなんだろう。

「そうじゃなくて、もう車で送り迎えされたくないの」

 我慢の限界をアピールするみたいに、芹は両手を激しく上下させている。

 一年前、突然転校してきたこの少女がいまだに他の生徒と違う特別な一つの点。それは登下校を車で送迎されていること。

「……ああ」

 珠菜は少しわかる気がした。芹の車には何度か乗せてもらったことがある。黒くてつやのある高級な外見なのに、車の中は白くてふかふかで気持ちいい。運転手の桜井さんもいつも紺色の背広姿できっちりとしている白髪の優しいおじいさんだ。

 車での送迎は嬉しい。まるで自分が偉い人になったような気分に浸れるからだ。でも、すぐに寂しさに気づく。だって、車は急にとまれない。

 帰り道、ぼうっと立ち止まって川の流れを眺めることも、遭遇した猫を追いかけることも許されない。店に入るのだって駐車場を探す必要がある。

 まっすぐ正しく進んでいく。それが車。それはどこか寂しくて、いつも誰かに車を運転してもらっている偉い人は、きっと普通の人よりもたくさんの寂しさに耐えているのではないかと珠菜は考えた。

「もう退屈なのは嫌なの」

 芹は寂しさを、退屈と表現した。

「でもね、思いついたのよ」これから名案を発表しますと言わんばかりに芹の大きな瞳は輝く。「珠菜が私の運転手になればいいのよ」

「私が、芹ちゃんの……」

 ピンと音をたてて、芹が珠菜の額を人さし指で弾く。

「いたい」珠菜は額を右手でおさえた。「何するんだよ」

「珠菜もいい加減に覚えなさいよ。私の名前は芹ちゃんじゃなくて、芹」

「でも呼びすてはよくないって先生が……」

 聞く耳を持たない芹は、額をおさえていた珠菜の手の甲を二回、指で弾いた。

 いたい、いたい、と叩かれた数だけ声が出る。

「そういう大人が決めたくだらない常識は『こわして』いかなきゃダメでしょ」

 そう言って芹はスカートのポケットから小さなペットボトルを取り出した。彼女が一日一本飲んでいる野菜ジュース。キャップを開けて深い紅色あかいろの液体を一口だけ飲んで、キャップを閉めてスカートに戻す。

 珠菜の大好きなアメリカのテレビドラマシリーズ『刑事アルバート・アルメイダ』の主人公、その名もずばりアルバート・アルメイダは、悪党を銃で撃った後、その銃を優雅な動きでホルスターにしまう。芹がペットボトルをスカートに戻す動作はどこかそれに似ていて、思わず見入ってしまう。

「どうしたの、顔に何かついてる?」と芹は首をかしげる。

「え、いや、べつに」慌てて目をそらす。

 かっこいいから見つめてました、なんて言えるわけがない。

 離れた場所から女子生徒が一人、芹に声をかける。

「ねえ芹ちゃん、先生が理科のプリントみんなから集めておいてって言ってたよ」

「わかった。ありがとう」芹は相手に片手をあげて応えた。

「…………」

 珠菜は思った。なんだろう、この理不尽は。

「だからさ」芹は顔をぐっと珠菜に近づける。「珠菜が私の運転手になってよ。それで毎日一緒に学校いこうよ。学校以外にも、もっと色んなところに」

 芹といつも一緒に、色んな場所に。なるほど、それはきっと、寂しくない気がする。

 小さな昂揚こうようが珠菜の中で芽生える。ただ、気になることが一つ。

「でも、どうしてアメリカ人にならないといけないの?」

「だって、アメリカって日本より早く免許がもらえるんでしょ?」

 芹もあまり詳しくは知らない様子だった。

「へえ」

 例えどれだけ若く海外で免許を取得できたとしても、国内で自動車を運転する場合は道路交通法にのっとり、十八歳以上でなければならないことを、芹から押しつけられた膨大な資料を読んで、その日の晩、知った。

 翌日、そのことを芹に告げると、一瞬だけくやしそうな表情を見せたあと、「……まあ、知ってたけどね」そう言って、何かに耐えるように左手の小指を、ぎゅっと右手で握りしめた。

 物事を察することが不得意な珠菜も、目の前の少女が本当のことを言っているわけではないことくらいわかっていた。

 放課後。一人寂しく車で帰路を進んでいく芹を見て、少しだけ車の勉強を頑張ってみようかなと、ぎゅっと拳を握った。

 幸運だったのは、芹からわたされた資料に載っていた車の歴史やエピソードに珠菜が興味を示したことだ。一つ一つの車が生まれるまでの秘話。タイヤのみぞに込められたメッセージなどは、なぜこれを映画にしないのか首をひねったほどだ。

 好奇心が膨らむとおのずと新しい知識を欲するようになる。とはいえ、小学三年生の理解力の上限は高くない。だが例えそれがパンケーキのように平らなものであっても、時間をかけて積み重ねたものは、いつしか塔にもなり得る。

 一ヶ月後、隣町にできたデパートに母親が運転する車で移動中のこと。道路標識に気づいた珠菜は言った。

「お母さん、この先、幅員減少ふくいんげんしょうみたいだから気をつけてね」

 さらに一ヶ月後、道端で立ち往生している白い車と、その隣であたふたしているドライバーと思しき女性の姿を目撃した。

 彼女はときどきガラスの開いた窓から手を入れ、車内のスイッチを操作してヘッドライトを点灯させ、それを確認しては頭をひねっていた。

 そこで珠菜はピンときた。これはきっと教本で見た『よくある運転中のトラブル、その六』の可能性が高いと。

 珠菜は彼女に近づいて、たぶんバッテリーの問題だと思いますよ、と伝えた。

 彼女は珠菜を見た。正確にいうと見おろした。ランドセルをせおった小さな子供が自分に意見を述べている。バッテリーという言葉が出てきたので、からかいにきたわけではなく、自分の持っているわずかな知識をひけらかしにきたのだろうなと考えた。そういう時期は自分が幼いころにもあった。

「でもライトはつくみたいだからバッテリーは悪くないんじゃないかな、バッテリーの問題だとライトがつかなくなるっていうし」

「セルモーターが原因だと思います」

「え?」知らない言葉に声が詰まる。

「エンジンをかけてもらえますか?」

「えっと、ええ」

 言われるままに鍵を回す。うんともすんとも言わない。そもそもエンジンがかからなくなったからここでこうやって困っているというのに。

 子供のほうを見ると、何やら納得したような顔つきでうなずいている。

「音がしませんね。やっぱりセルモーターだと思います」少女はこうつづけた。「たぶん直せますから、ボンネットを開けてもらえますか?」

 ずいぶん簡単に直せると言われてしまった。左手に持っているボールを右手に持ちかえるくらいの感覚で言われてしまった。この子を信じていいのだろうか。

 助けを求めて電話をした友人たちは全員留守か仕事中で連絡がつかず、スマートフォンを使って調べた付近の交通救援センターに依頼すると一万三千円と別途手数料を請求されるようで、現在の懐事情がそこに応援を頼むことを困難にしていた。

 わらにもすがりたい事態であることは確かだ。それに救いの手として藁か小学生、どちらか選べと問われたら、消去法で小学生にする。しかもこの女の子は車に詳しそうだ。言うことを聞くべきだと本能がさとしてくる。でも困ったことがある。ボンネットの開け方がわからない。

 ハンドルの近くにいくつか並んでいるさわったことのないボタンを適当に一つ押すと、背後でガチャンと施錠する音がした。

「それはトランクの鍵ですね」と少女から冷静につっこまれる。

 前を開けるではなく、後ろを閉めてしまった。

 恥ずかしくなって、また別のボタンを押すと、今度は目前に壁が生えたように、前部のパーツが盛り上がってしまった。自爆ボタンでも押してしまったのかと困惑する。

「ありがとうございます。開きました」

 どうやら今のがボンネットを開けるボタンで正解だったようだ。そもそも彼女はボンネットが何なのか知らなかった。

 少女はその場にしゃがんで、せおっていたランドセルを地面に置いて、かぶりを開き、これでいいかなと、中から何かを取り出した。

 立ち上った少女が手にしていたものを見て、彼女は疑問をぶつけずにはいられなかった。

「それは?」

「リコーダーです」

 と少女は答えた。正確にいうとソプラノリコーダー。

 見ればわかる。聞きたいのはそれの名称ではなく、それの使い道である。

 彼女の疑問に答えるように少女はこう説明した。

「今からこれを使ってセルモーターを回復させます」

 彼女は味わったことのないタイプの頭痛に襲われていた。間違いなくこの女の子は自分より車の知識を持っている。自分はボンネットの開け方もボンネットの意味も知らなかった。だけど車の修理に縦笛を使わないことくらいは知っている。

 それをどうするつもりなのか。元気になる曲でも聴かせるおつもりか。

「では、はじめます」

 彼女の不安をよそに、少女は開いたボンネットの下に上半身を入れて、作業を開始した。その姿は車に飲み込まれているようにも見える。

 二秒後、彼女の悪い予感が的中する。ガシンガシンと攻撃の音が響く。物で物を叩くという極めて原始的な行為が購入から一年も経過していない愛車の中で試みられているようだ。

 彼女はすぐさま大切な愛車から、文明の利器を扱うには早すぎる幼いアウストラロピテクスを引きずりだそうとした。だがそこで車内から少女の声が響く。

「エンジンをかけてください」

 そんなことはどうでもいいから車から離れろ、そう言いたい気持ちをぐっと抑え、もしかしたら本当に直っているかもしれないと、わずかな期待にかけて鍵を回す。

 反応はない。一枚だけ買った宝くじがひょっとして一等に選ばれるかもしれない。そんな期待に世の中が応えてくれるはずもなく、わびしさが胸に広がる。

「もういいから、やめて」

 彼女は窓から顔を出して、まだ攻撃の手を休めない少女に向かって言った。

「もう一度、お願いします」

 彼女は鍵を回す。何も起こらない。

 もう一度、もう一度、何度繰り返しても、車は黙秘を貫いている。お宅のお子さんが自分の車にいたずらして使い物にならなくなったから弁償してほしい。そんなことをこの子の両親に言ってやるべきだと彼女が考えはじめたころ、こちらに近づいてくる人影の存在が目に映った。こんなところを見られたら、どんなことを思われるかわからない。

「もういいから、お願いだからやめて!」

「これで最後です。最後にもう一度、お願いします」

 いい加減にして、と彼女は力任せに鍵を回す。

 息を吹き返したようにエンジンがうなりを上げた。

「……うそ」

 直ることを望んでおきながら、それが現実になった途端、疑いの言葉が口からこぼれ落ちた。

 少女は上半身を車から出すと、手を伸ばし、ピョンピョンと跳ねて頭上にあるボンネットを掴み、バタンとおろして車を本来あるべき姿に戻す。

「終わりました」と一仕事終えた笑顔で言う。「応急処置なんで、帰ったらすぐ業者の人を呼んで点検してもらってください」

「あ、ありがとう」このお嬢さんは小学生に化けた整備士か何かだろうかと彼女は思った。「あの、それ、汚しちゃったみたいでごめんなさい」

 少女の手にしているソプラノリコーダーを見た。全体がすすで黒ずんでしまっている。ほんの数分前までは綺麗な白だったのに。

「大丈夫ですよ、洗えば使えますから」

 そう言って、少女はリコーダーを口にくわえてピロピロと奏でてみせた。

 洗ってないのに使ってる。

 この純粋な少女にお礼をするべきだ。全身がそう騒ぎ立てる。一万三千円と別途手数料にあたいする仕事をしてもらったのだ。とはいえ持ちあわせはない。一応、財布を開いてみると、二十六円だけ入っていた。今の自分の価値を財布に計算されたような気がした。

 そうだ、と思い出して彼女は後部座席で眠っていた紙袋を取り出し、それを少女にわたした。

「これ、お礼。よかったらみんなで食べて」

「そんな、悪いですよ」少女は両手と首を同時に左右に振った。

「悪くない。全然悪くないから」

 ぱんぱんに膨らんだ茶色の紙袋を押しつけるように少女に持たせる。

 申し訳なさそうにそれを両手で抱え、ありがとうございますと少女は頭を下げた。

 彼女はそのあと何度も少女に感謝の言葉を伝え、生き返った愛車で走っていった。

 少女は白い車が小さくなって見えなくなるまで、その後ろ姿を見送った。

 バッテリーが弱っていると、ライトなどいくつかの電気系統をつけることはできても、セルモーターを回転させるほどの電力をまわせないことがある。この場合の応急処置は二つ。

 一つは他の車のバッテリーと自分のバッテリーをケーブルでつないで電気を供給してもらうこと。

 もう一つはレンチなどの重すぎず軽すぎるないものを使い、強すぎず弱すぎない力でセルモーターに直接刺激を与えること。それで息を吹き返すこともあるという。

 三日前に教本で学んだことが、こんなに早く日常で役に立つとは思わなかった。

 それに車が直った女性の笑顔を見たとき、珠菜はなんとなく自分の将来の道を見た気がした。

 帰宅して、もらった紙袋の中身を台所のテーブルの上で広げると、透明なケースに一つずつ丁寧に梱包されたカラフルなマカロンがごろごろと出てきた。

 それを見た年の離れた珠菜の姉が驚きの声を上げる。

「どうしたのこれ、カシスのお菓子じゃないの」

 珠菜は首をかしげる。紙袋にはよく見ると『cassis』とプリントされている。

「有名なの?」

「有名よ。すごい高価なのにいつも行列でなかなか買えないし、取材もお断りだから困ってるのよ」

 珠菜の姉は雑誌で有名店の主にデザートを紹介するライターをしていた。

 廊下からバタバタと音をたてて一匹の子犬が足早に珠菜に近づいて、少女のくるぶしに頭をこすりつけてきた。

「ただいま、ハラマキ」

 珠菜はハラマキという名の茶色い子犬の頭をなでた。子犬の胴体には腹巻きをしているような布がぐるりと巻かれている。

「でもちょっと待って」姉はこめかみを指でおさえながら考える。「あそこって確かマカロンはまだ扱ってなかったような」

 カバンの中からタブレットを取り出して、何かを調べている。珠菜は姉の後ろからその様子をうかがっている。

「ほら、やっぱり。マカロンはまだ試作段階で年末に発売だって。でもこのパッケージは本物だし。珠菜、あんたこれどこで手に入れたの?」

「この人にもらった」

 珠菜はタブレットの中央を指でさす。昼間、立ち往生していた女性が笑顔でそこにいた。

「え?」姉は再び驚きの声を上げた。さっきよりも大きな声で。「あんたチーフパティシエの斎藤さんと知り合いなの? どういう人脈よ」

 今度紹介してと猫なで声で子犬みたいに頭を体にこすりつけてくる姉を無視して、珠菜はテーブルの上のマカロンを一つ手に取り、透明な梱包をといて口の中に入れた。

 次の瞬間、思わず両手で口を塞いだ。

 舌の上で優しい甘さと微かな酸味が柔らかな舌ざわりで豊潤に絡み、気品のある風味が口の中で溶けて歌いはじめる。それは複雑なようでいてシンプルで、その感覚は美味しいというより、嬉しいに近く、体が喜びで満たされていく。これがマカロンだというのなら、今まで自分がマカロンだと思って食べていたものは、ただの変な色のビスケットだ。

 この味を一欠片ひとかけらも逃してはならないと、珠菜は手で口を塞いだのだ。

 珠菜がそんなことをしてしまったのは、人生で二度目のことだった。


 白い部屋。白いテーブルの上には水時計と白い車のおもちゃ。

 珠菜は車の屋根の上に指を乗せて前進させてみようと押してみるも、根が生えているみたいに車体はびくともしない。

「走らせたいの?」ティーアが訊く。

「いや、別にそういうわけじゃ」

 テーブルの上の白い車を見て、白い車とマカロンの思い出がよみがえり、なんとなく動かしてみたくなったのだ。あのとき最高のマカロンを味わえたのも、元はといえば芹の無茶なお願いのおかげだった。

「これは涙の車。だから走らせるときは、こう」

 ティーアは真上から見おろすような姿勢で車を見つめる。彼女の右目からずっと流れつづけている涙が一粒、車の屋根に落ちた。

 すると、するすると白い車は前進をはじめる。秒速一センチメートルほどの速さはカタツムリの散歩のようで、お世辞にも走っているとはいい難い。

 車の前方には水時計。時計の中の水は三割ほど移し終えていた。全ての水が移動するまでにかかる時間は五百秒。その時がくれば、自動的に昨日に飛ばされる。つまりあと六分弱の間に何か解決策を見つけなければ、何の準備もできていないままリトライをすることになる。

 白い車は水時計にぶつかって強制的に停車した。

 ゆるやかな衝突だったにもかかわらず、少量の火薬が弾けたような破裂音を鳴らして、車の前部は細かく派手に破壊された。元々そういう仕掛けがほどこされていたのかもしれないけれど、イタズラ目的だったとしても、少しやりすぎでは、と珠菜は思った。

 テーブルの上に四散した車の破片の一つに、そっと手を伸ばしてみる。が、指先に痛みが走り、思わず手を引く。破損してできた鋭利な箇所で刺してしまったらしく、小さな球を作るように血があふれてくる。

「大変」言葉の意味とは裏腹に穏やかな口調でティーアは近づいて、珠菜の指先をそっとなでる。たったそれだけで、血も傷も痛みも消えていた。

 ここが自分の常識の通じる場所でないことを珠菜は改めて思い知る。

「気をつけて珠菜」起伏のない声でティーアは珠菜の背後に回る。「怪我をあなどってはいけない」

 珠菜の背中にぴたりと体をくっつけて、右手で珠菜の右膝にふれ、そこから蜥蜴とかげのように手を登らせ、スカートをまくり上げてもものあたりでとめる。

「脚や」言いながら次は、自分の左手の指を珠菜の左手の指に絡ませる。「手の怪我なら危なくはない。でも──」

 くるりと珠菜の前に立ち、珠菜の右手を掴んで指先を自分の首筋にあてる。

「首や」と言って、指先を下へと導いていく。胸と胸の間を通り、へそでとまった。「お腹の怪我は危なくない、なんてことはない」

 すそが短くそでのない白いワンピース。その腹部は花のような形に裂け、肌を露出している。

「……ええっと、その」

 指の傷を治してくれてありがとうと伝えたかったのに、体をぺたぺたとさわられて、間髪入れずに体をぺたぺたとさわらされてしまい、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。

「ティーアのその服は、自分で作ったの? 前の開いてる部分とか見たことないデザインだし」

 だから適当な言葉で場をつくろった。

「何か思い出してくれた?」

「え?」

「なんでもない。それにこの模様は前だけじゃない」

 ティーアは、ふわりと回転してみせる。貫通しているみたいに背中の腰のあたりも花の形に裂けていた。

 感情を表に出そうとしないティーアがほんの一瞬だけ、その片鱗をうかがわせたように思えた。でもそれはすぐに誤魔化された。そんな気がした。

「気に入ってくれたのなら、珠菜も着ればいい。ちょうど予備が一枚ここにある。どういうわけかサイズも珠菜にぴったり」

 白いワンピースの少女の左手に、いつの間にか御揃おそろいのワンピース。さあ着ろと、それを押しつけてくる。

「……えっと、えっと、遠慮します。ティーアはすごく似合ってるけど、私が着たら変な人みたいになっちゃうと思うから」手を振りながら、乾いた笑いで逃げる。

『そんな──はいません』

 ふいに、ある女性の声が脳裏に浮かぶ。

「…………」

 どうして今、その言葉を思い出したのか自分でもわからない。ただ、何かを見つけ、気づけ、そんなを感じた。

 珠菜は周囲をよく観察する。

 目の前の少女の裂けた服、のぞく肌。

 テーブルの上の水時計は、ほとんどの水を移し終えている。目分量で計っても、あと一分もない。

 水時計の足元には破損した車のおもちゃ。フロントガラスは粉々に割れ、ご丁寧にエアバッグまで膨らんでいる。意外なほど細かい造りだが、爆破事故にでも巻き込まれなければこうはならないだろう。

 爆破事故。

「──あ」

 壮大な景色とそこで起きた惨事、そしてUFOが珠菜の記憶によみがえる。

「モニュメントバレー」小さく、つぶやく。

 思いついたというよりは、ってきたと表現したほうがふさわしい。

「ティーア」名前を呼んだ少女と向き合う。「もしかしたら……次で芹を助けられるかもしれない」

 答えを見つけた。今、目の前あるもの、その全てが答えなのだ。

「それは素敵なことね。成功を祈っているわ」

 ティーアは静かに瞳を閉じる。珠菜は少女の涙に向かって手を伸ばす。だが、寸前のところで戸惑いが生じる。これにふれてしまうとリトライがはじまる。そこで自分がしようとしていることには少なくない勇気と決断が必要で、小さなミスが危ないでは済まない怪我を誰かに負わせてしまう。

「どうしたの?」

 まぶたを閉じていることに飽きたのか、瞳を開いてティーアが訊ねてきた。

「いや、その」情けないことに、いいわけをはじめようとしている。

「怖いのね。でも安心して」ティーアはおっとりとつづけた。「もう時がきてしまったから」

 水時計の最後の一滴がこぼれ、白の部屋から追放された。


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

 夕陽の射す放課後の教室。リトライがはじまる。


【残り時間 九十八秒】

 珠菜の立っている場所は教壇のすぐ前。右を向けば歩いて七歩の距離に芹がいる。

 芹から見て右に五歩の距離に桔京、そのすぐ隣に香央がいる。一番離れているのは御奈で、時計の針で十一時の方向、つまり教室の後ろ出入り口付近にいる。そこまでいくのに何歩必要かはわからない。

 そして、一時の方角に四歩。ほとんど目の前に羽祇がいる。


【残り時間 九十五秒】

 珠菜は横目でちらりと芹の姿を確認する。安心と後悔が同時にやってきた。

 まだちゃんと生きている。でも、さっきは助けることができなかった。妨害されたからだ。


【残り時間 九十四秒】

 目の前にある一番近い机の上には二本の鋏。が金属製のものとプラスチックのもの。

 珠菜はこれから自分が実行しようとすることを強くイメージする。


【残り時間 九十二秒】

 だが、うまくいかない。

 想像の中の自分はいつだって万能なのに、いざそれを行動に変えようとするとき、あきれるほど臆病になっている。いつだってそうだ。

 でも今だけは、少なくともこの百秒間だけはそうであってはならない。


【残り時間 八十九秒】

 もう一度、芹を見た。その口が動いている。何かを言っている音が聞こえる。それを言葉として認識できない。それくらい緊張していた。


【残り時間 八十五秒】

 知りたいことはいくつもある。特に『あいつ』のこと。でも今、そのことはどうでもいい。大切なのは、この百秒の空間から抜け出すこと。そいつのことは、その後でゆっくりと時間をかけて聞けばいい。

 もう一度、芹を見た。怯えた表情。このままだと芹はまた──。

 珠菜は覚悟を決めた。


【残り時間 八十二秒】

 すっと、一歩前に出る。左手を小さく動かして、机の上から鋏を一つ取り、そっとスカートのポケットに忍ばせる。

 また一歩、さらに一歩。あと一歩で羽祇に密着する。彼女の顔は見ないようにした。


【残り時間 七十八秒】

 中学三年生になったばかりの今年の四月。全クラスの女子が体操服姿で体育館に集められ、そこで護身術の講習を受けた。

 大声を出す、足を踏む、体当たりの他に、本格的な体術を一つだけ教わった。

 いきなり難しいものは無理だし、いざというときのために、なんとなくでいいので、これだけ覚えて帰って下さい。

 講師の女性警察官はそう言った。年は自分たちとそこまで離れているようには見えなくて、親近感を覚えた。帽子がかわいいな、とも思った。だが、練習台として投げ飛ばされた時点でその思いは消えた。

 あのときかけられた技の名前は大外刈り。

 体育館にいる女子生徒たちはみんな不真面目で、お互いの体をつつきあって、じゃれているだけだった。幸か不幸か女性警察官と組むことになった自分を除いて。

 相手のえりはしっかり握る。戦うというイメージが怖かったら踊るイメージで相手を引き寄せて、そのあとはブランコをぐように自分の右足を振り上げて、そのブランコを勢いよく戻す感じで相手の右足を刈る。

 どう、簡単でしょう? と女性警察官は涼しい顔で言った。

 簡単ではなかった。何度も何度も練習させられた。でもおかげでうまくいった。羽祇を床に倒すことに成功した。ちゃんと後頭部をぶつけないように配慮もできた。


【残り時間 七〇秒】

 教室の床に仰向あおむけに倒され、あっけにとられている羽祇の腰の上に馬乗りになる。

 これから自分がやろうとしていることの正当性を必死に考えてみたが、何も思いつかず、考えることをやめた。

「どうしたの、珠菜ちゃん……なにするつもり?」

 困惑で感情の行き場を失っている羽祇の疑問に珠菜は行動で答えた。

 羽祇の白いスクールシャツの裾を両手でしっかり握って、朝日を浴びるためにカーテンを開くように、力いっぱい、引っ張っる。

 ボタンのちぎれる音、飛ぶ音、どこかにぶつかる音、転がる音、同時に羽祇の悲鳴。

 引き裂かれたシャツの先に紺色の競泳用水着。

「どうしちゃったの、珠菜ちゃん……なにを」

 困惑は消え、純粋な恐怖にまみれた羽祇の言葉に、珠菜はやはり態度で示した。

 ポケットの中から鋏を抜き出す。柄がプラスチックの鋏だ。


【残り時間 四十九秒】

 背後から芹が何か叫んでいる。聞こえないふりをした。

 腰のあたりの水着をつまみあげ、そこに鋏の切っ先を挿し込む。羽祇は痛みに耐えるような声を上げたが、肌にあたっていないことは感触でわかる。


【残り時間 四十六秒】

「ごめんなさい……ごめんなさい、珠菜ちゃん……もう、ゆるして」

 泣きながら、ロウソクみたいに揺れる声で羽祇は許しをう。一つ前のリトライではあれだけの剣幕で怒鳴ってきたのが嘘のようだ。それになぜ謝罪をしてくるのか珠菜には理解できなかった。最低のことをしているのはこっちなのに、どうしてあやまってくるのだろう。刃物を握っているからだろうか。


【残り時間 三十九秒】

 珠菜は羽祇の水着を腰から首に向かって一直線に切り開きはじめる。ナイロン製の競泳用水着は、見えない切れ目でもあるみたいに、まっすぐ正確に進んでいく。

 四月におこなわれた護身術の講習。実地じつちのあとで、珠菜たちは女性警察官からこんな話を聞かされた。

『そんな変質者はいません』

『全身ジャージ姿ではありません。帽子やマスクで顔を隠したりしていません。極端に太ったり痩せたりしていません。それらは強盗や通り魔などでまれに見られる風貌であり、あなたたちを本当に不幸な目にあわせようとする変質者は、一見、真面目で誠実そうで、立派な職業についていたりします。惑わされないで下さい。相手をよく見て、簡単に信じたりしないで、危険を感じたらすぐ逃げてください。それはときに、あなたたちのすぐそばにいます』

 あのときの女性警察官の言葉は正しかった。変質者はすぐそばにいた。自分がそうなるとは思わなかっただけで。

 これまでの人生で、ここまで最低の気持ちになったことはない。しかしそれも、水着を切り裂かれてあらわになった羽祇の肌と、その肌に書かれていた文字を見て、全て消し飛んだ。


【残り時間 三〇秒】

 例えるなら指についた接着剤のように、どうにかして拭いたい感情があった。

 四回目のリトライで、芹をとめようとして投げた鋏を誤って羽祇にぶつけてしまった。幸い怪我をさせることはなかったが、服を切り裂いて、その先に一つの文字を見てしまった。

 その文字をどうしても確かめておきたい理由が珠菜にはあった。

「羽祇ちゃん……どうしたの、それ」香央がぽつりと言葉をもらす。

「……あ、あの……」香央の隣にいた桔京は、見てはいけないと、両手を広げて顔を覆った。


 この体は汚れています


 右の胸から左の脇腹に向かってたすきをかけるように、油性ペンで、そのように書かれていた。

 日々、水泳をたしなんでいる成果で羽祇の顔や手足はほんのりと小麦色に焼けている。しかし夕陽の射すこの教室でも、そこだけは日焼けすることのない胴の部分は、ひどく白く映る。

 珠菜はそっと背後に振り返る。時がとまったように、棒立ちの芹がいた。

 すさまじい動悸が珠菜の胸で暴れている。だけど、最大の目的は果たすことができた。

 芹を百秒間、教室に留めることができた。あとはここから──

 ばたん、とすぐそばで何かが倒れた。

 反射的に振り向いたそこには、茨楽香央の姿があった。その瞳に光りは宿っていない。


【残り時間 〇秒】


 白の部屋。帰還と同時に、ひざまずく。

「どうしたの珠菜、顔色がよくないわよ」

 ティーアは白い椅子に座って、アルバムのような大きさの白い書籍をめくっていた。

 珠菜はひざまずいたまま、強く二回咳いた。

 罪悪感、という言葉そのものは知っていても、それがどんな感情なのかイメージすることができなかった。

 これが、そうだ。

 脚を、腕を、頭を、胸を、汚れた油に浸すような、どぶどぶした感情。

 目的はあった。だからといって許されることではない。しかし、今、珠菜の頭は一つのことに支配されていた。

 羽祇の体に油性ペンで太く刻まれていた、あの文章。

 不潔な一文だった。禍々まがまがしい文字列だった。

 だが珠菜を恐れさせているのは、あの文章から推察される事象ではなく、さらにもっと根本的なもの。

 あの文章のあの文字は。

「──芹の字だ」

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