第6話

「……私、夢を見ていたの」

「──夢? どんな?」

「……芹がね、自殺したの」

「──それから?」

「私はすごく悲しくて、とにかく悲しくて、悲しくて、悲しくて、そうしたらいつの間にか、どこかの白い部屋にいたの」

「へえ」

「その部屋にいた女の子が私にこう言ったの、芹を救う時間をあげるって。私は不思議な力で百秒だけ芹がまだ生きている時間の教室に戻された。その百秒間、教室にいる誰も傷つけなければ芹の自殺はなかったことになるって教えてもらった。私はそれを簡単なことだと思った。すぐに芹を助けられると思った。でも、いつも通っているはずのあの教室は、私のよく知ってる教室じゃなくなってて、瘴気っていうよくわからないものに支配されていて、そのせいで、そこにいたみんなも、私のよく知ってるみんなじゃなくなってた」

「もう少し詳しく教えて」

「詳しくっていわれても、芹は自殺しようとするし、いつも大人しい香央ちゃんは鋏で芹を刺すし、もっと大人しい御奈ちゃんは自分を鋏で刺すし、あんなの……どうかしてるよ」

「大変、だったみたいね」

「うん。でもいいんだ。夢ってときどきこんな感じで、わけがわからなくて、不思議で、怖かったりもするけど、夢は夢だし、目が覚めたらきっと朝だし、変な夢を見ちゃったって、あとで芹と通話するんだ」

「それもいいかもしれない。でも安心して」

「安心? ところで、あなたは一体──」

「幸運なことに、これまでのことは夢ではなく、全て現実だから」


 ゆらりとまぶたを開けると、世界はただ白かった。息を吹けば前髪をゆらせる距離にティーアの顔がある。やわらかくほほ笑んでいるその顔は、優しくも邪悪にも見えた。

「……夢じゃ、なかった」珠菜は小さく絶望をもらす。

 背中は地面に、頭はティーアの膝の上に預けていた。珠菜は上半身に力を入れて、じわりと起き上がる。周囲を見わたして改めて思う。ここは全てが白い。

 すぐそばの白いテーブルの上に、見慣れないものが置かれていた。水晶のような球体の中に二つの三角形が向きあう形ではめ込まれていた。片方の三角形の中にだけ水が入っている。珠菜がその球体を見たのとほぼ同時に、それはくるりと回転して水の入った三角形が上になり、ぽたぽたと涙を流すように下の三角形に水滴を移しはじめた。それは水時計だった。

 目覚めは脳の活性をうながし、先ほどのできごとを頭の中に呼び戻す。

 自らの首に刃を刺した葛谷御奈。噴き出す血液。その赤は自分にも。

 珠菜はおそるおそる手の甲で顔をさすってみたが、何かが付着しているような感触はなかった。次に視線を下げて身に着けているスクールシャツを確認する。汚れもしわもなく真っ白で、おろしたてのような清潔感すらあった。

「ティーアが綺麗にしてくれたの?」

 未だ正体のわからない白いワンピースの少女に、自分が眠っている間に自分の服と体をぬぐってくれたのかと訊ねた。

 ティーアは不思議そうに小首をかしげた。「気づいてなかったの? ここは再生の場所でもある。珠菜の言葉でいうリトライで珠菜がった怪我やけがれはここで浄化される。例えそれが死に至るほどのものであったとしても」

「……そうなんだ」便利だね、と力なくつづけた。それくらいのことでは、もう驚かない。

 テーブルの上の水時計は三割ほど水を移し終えていた。あれは何分間を計るものなのだろう。それ以前に、一体あれで何を計っているのだろう。

「……わからない」珠菜は世界から目を背けるように両手で顔を覆う。

「何が?」

「どうして御奈ちゃんはあんなことを」

 葛谷御奈くずたにおみなとは、三年生になってから知り合いになった。同じクラスで席は自分の斜め前だ。先月、一度席替えをすることになったのだが、なぜか直前でそれは中止され、彼女とは今でも席が近い。

 眉にのせるような高さできっちりと前髪を揃えたおかっぱ頭で、クラスの女子からせんぼうのまなざしをそそがれている細い脚は、七月の今になっても黒いタイツで包まれていた。

 珠菜の知るかぎり、御奈には二つのお気に入りがあった。本とスマートフォンだ。

 御奈はよく本を読んでいた。どっしりとした装丁の大きな本。それは漫画であったり小説であったり何かの専門書であったり。とにかくいつも大きな本を読んでいた。

 そして本を読むかたわら、その右手にはいつもスマートフォンが握られ、そこに常に何かを入力していた。

 抑揚のない静かな喋り方をする大人しい子だと思っていたので、野生動物のようなスマートフォンの手さばきを目の当たりにしたときは、我が目を疑った。

 ある日、いつも何をそんなに打ち込んでいるのか訊ねてみると、御奈は小さく短く「SNS」と答えた。珠菜が首をかしげると御奈は「インスタグラムとか、エックス」と補足した。

 名前くらいは知っているけれど、その分野にうとい珠菜は「へえ」と、わかったふりをして浅くうなずくことしかできなかった。

 一年生のときに買ってもらったスマートフォンは、通話とメッセージアプリ、あとは音楽を聴くことくらいにしか使えていなかった。

 公園の近くに深夜だけ営業しているそば屋があるらしい。中高生の間でブームになっている『一口日記』というアプリケーションソフトはパスワードを求められる画面で適当にタップしているだけでそれを回避して中身を見られるバグがあるから使わないほうがいい。

 おそらくSNSなるものから得たのであろう情報を定期的に御奈から教えてもらってはいるものの、今のところ珠菜の人生にそれらが役に立ったことはない。

 最近は写真にも凝っているようで、学校のいたるところでスマートフォンを構えて、何かを撮影する彼女の姿をよく目撃した。

 和室でまりでも転がしていそうな雰囲気を持つ少女の、その風貌からは想像できない趣味と特技と行動力を知った珠菜は、人を見かけで判断するべきではないという教訓を教わった。

 とはいえ、自分の首を鋏で刺すなんて、いくらなんでもあんまりだ。

 ──あなたはここにいてはいけない人でしょ?

 先ほどのリトライで御奈に言われた言葉が脳に響く。あれはどういうことなんだろう。

 芹や香央も自分の出現に過剰な反応を見せていた。確かに、みんなから見ればマジックみたいに突然あの場所に現れたのだから、驚かれてもしかたない。

 いや、そうじゃない。引っかかるのはそこじゃない。何かを見落としている気がする。

 その何かがわからない。もしかしたら、ただの思い過ごしかもしれない。

「思いふけているところ申し訳ないけれど、悲しいお知らせがある。涙をこぼさずに聞いてほしい」とティーアは言う。涙をこぼしながら。「この白の部屋は思考する場所でもあると、以前伝えたことを覚えているかしら?」

 珠菜はうなずいた。そんなことを聞いた記憶はある。

「決して短くない時間が思考のために設けられていた。ところが、あなたは先ほどのリトライで心に大きな負荷を負い、意識を失ってしまった。あなたたちの世界の時間でおよそ二十四時間ほど、あなたはここで眠っていた」

「二十四時間も?」

 自分の体感では、さっきのリトライからまだ十分も経っていない気がするのに、丸一日ここで気を失っていたのだという。

「その時間は、あなたがここで思考するためにてられた時間とほぼ同じ。つまり、あなたは思考のための時を全て使いきってしまった。さらにそれは、ここに滞在することを許された時間でもあった」

「え?」ティーアの言葉は十分理解できていた。それなのに聞き返すような声が口をいた。「じゃあ、私はもうここにはいられなくなるの?」

「最初はそうなるはずだった。だから掛け合った」

「だれと?」

 ティーアは人さし指を天に向け「高いところから見ている存在」と言った。

 珠菜は顔を上に向ける。そこはただ白く、はしごがあれば天井に手が届くようにも見えるし、どこまでも高く吹き抜けているようにも見える。その先に誰かがいるのだという。

 高みから、誰かがここを見つめているのだという。

「えっと、それはつまり、神様ってこと?」

「名前は知らない。高いところから見ている存在だから、私はそう呼んでいる」

「その、リトライする力とか全部、高いところから見ている存在さんのおかげなの?」

「珠菜を悲しみから救いたいと願ったのは私の想い。でも世界は想いだけではどうにもならない。だから高いところから見ている存在に力を借りた。かつて珠菜は百の時と百の涙で私を悲しみから救ってくれた。私はそれを高いところから見ている存在に話した。すると高いところから見ている存在は、それを珠菜自身の願いを叶えるための試練にした」

 百秒間、誰も眠らせてはいけない。そのチャンスは百回。

「時間は使ったかもしれない。でも涙はまだ残っている。だから慈悲の心がほしいと伝えた」その口から慈悲という言葉が出てくること自体、奇妙に思えるほど無表情な口調でティーアはつづける。「高いところから見ている存在は私の声を聞き入れてくれた。ただし条件つきで」

「条件って?」

「ここで思考する時間を制限された。その時間は一度のリトライにつき五百秒。もしその時間を過ぎれば、あなたは強制的にここから追放される。ちなみにその時間はそこで確認──あ」ティーアが言葉をとめた。

「どうしたの?」

「ごめんなさい。説明する順序を間違えていた。制限時間の五百秒はそこで確認できる。でも、もう──」

 珠菜はティーアの見ているものを目で追った。

 水晶の中の水時計。ちょうど最後の一滴を移し終えた瞬間。

 世界が飛んだ。


【残り時間 一〇〇秒】

 夕日の射す教室。五回目の、同じ教室。

 繰り返すことに体が慣れてきたのか、急に空間が切り替わっても大きな混乱はなかった。

 芹、桔京、香央、御奈、羽祇。五人の少女の姿が見える。

 まだ、誰も傷ついてはいない。

「珠菜……?」親友の姿に気づいた御暁芹は、なぜか怯えた声をもらす。「どうして珠菜がここにいるのよ、ちゃんと帰らしたはずなのに……意味わかんない」


【残り時間 九〇秒】

 珠菜は芹ではなく御奈を見た。御奈も珠菜を見ていた。静かで思考の読めないまっすぐな目で見つめていた。四月に出会ってからこれまで、彼女が明確な喜怒哀楽の感情を表したことはない。それは先ほどのリトライで自分の首に鋏を刺したときですらそうだった。

 今、彼女の右手には鋏ではなくスマートフォンが握られている。よく見るとディスプレイの上で親指がせわしなく動いている。その行為に意味はないのかもしれない。でも御奈なら画面を見なくてもそれを操作をすることは不可能ではないことを珠菜は知っている。


【残り時間 八十五秒】

「珠菜、ごめん」

 芹が背を向け、窓に向かって走り出す。正確にいえば、窓の先の、その先の下にある地面に向かって。

 余計なことに気をとられている間に、またしても親友を死に走らせようとしている。

 珠菜はとにかく声を上げた。

「──待って」

 その声の強さに、芹は思わず足をとめて振り返る。

 珠菜はすぐにでも飛びついて拘束したい衝動にられる。だけど、一歩でも足を動かせば即座に逃げられてしまうことは、これまでの経験から嫌になるほど理解できていた。


【残り時間 八〇秒】

「その、教えてほしいことがあるの」

 相手を刺激しないように、ゆっくりと語りかける。

「……なに」

 親友は語りかけに応じてくれた。

「…………」

 珠菜は戸惑う。訊きたいことなら宿題として提出したいくらいの量を用意できる自信がある。だけど今のは芹を引きめるための方便で、まだ言葉の準備は何もできていない。


【残り時間 七〇秒】

 珠菜の表情からいつわりだと気づいた芹は、視線を前に戻して走り出す。

 珠菜は次の手をさくする。目の前の机の上には二本の鋏。やはりこれで動きをとめるしかないのだろうか。珠菜は息をのみ、意を決して刃に手を伸ばす。そのとき、鋏の切っ先から赤い血液が涙のようにぽたぽたとこぼれた。

 珠菜は目を疑い、大きく素早いまばたきを二回した。その疑いは正しかった。鋏の先からは何もこぼれてはいない。

 親友を刺した鋏、御奈を刺した鋏、そこから流れたもの。まだ立ち直れていない心が、それにふれるべきではないという警告めいた幻覚を珠菜に見せていた。

 珠菜は歯を食いしばる。今の自分は『静か』じゃない。

 ダーツを正確に思い通りの場所に届けるためには、自分の中が静かでないといけない。

 心の中の雑音は例えそれがわずかであっても、手元を狂わせ、目標から外れてしまう。

 コルク製の丸いダーツボードがまとならそれでもいい。しかし、これから自分が狙おうとしているものは、人間、それも親友なのだ。


【残り時間 六十五秒】

 目を離したのが数秒であっても、狭い教室では、あっけないほど距離は離れてしまう。

 もうすぐ芹の手は窓に届く。

「待って」珠菜は思いつくままに、ただ叫んだ。「──『あいつ』って誰なの?」

 少女の声が教室に広がる。

 それを聞いた芹は、体のバランスを崩して転びそうになるのをなんとかこらえた。


【残り時間 六〇秒】

「なんで?」

 御暁芹ごぎょうせりは珠菜に振り返る。

「なんで?」

 茨楽香央いばらかおが言葉をこぼす。

「なんで?」

 運部桔京はこべききょうが声を震わせる。

「なんで?」

 葛谷御奈くずたにおみなはただつぶやく。

「なんで?」

 栖々木羽祇すすきはぎは茫然とする。

 五人の少女たちの疑問が伝言ゲームみたいに連鎖していく。教室内を支配していた暗澹あんたんとした何かがその濃度を一層深めたような感触が、珠菜の肌によだれをたらすように浸蝕していく。

「なんで?」

 もう一度、芹は同じ言葉を繰り返す。

 今日は見たこともない親友の顔を何度も見た。でも、今のこの顔は、見たこともないではなく、見たくない顔だった。

「なんで……」喉に震源が発生したようなふるえる声で「なんで……」死刑宣告を受けたみたいに瞳孔の開ききった瞳で「なんで珠菜が『あいつ』のことを……」


【残り時間 五〇秒】

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