第5話

「おかえりなさい」

 白い部屋に戻ると、ごく自然にティーアが迎えてくれた。

「……ただいま」力の抜けた声を返して、その場にしゃがみ込む。

「どうしたの? お腹がすいた? クッキーはいかが?」

 そう言ってクッキーの入った平皿を差し出す。たっぷりと盛られていたクッキーは、もうほとんど残っていない。

「いらない」タンポポの種のように、吹けば飛んでいきそうなもろい声だった。 

「そう」ティーアはテーブルに皿を戻した。

「ねえ、どういうことなの?」

 珠菜は立ち上がり、白いワンピースからむき出しになっているティーアの両肩を掴む。そこに埋めてしまいそうなほど力がこもっていた。

「珠菜、言葉には主語というものがある。疑問だけていされても答えようがない。あと痛い」

 淡々としたティーアの声に、あわてて手を離し、ごめんなさいと謝った。ティーアの肩には日焼けのように珠菜の手形が残された。

「ごめんなさい」もう一度、謝って頭を下げる。

「気にしていない。だから珠菜も気に病む必要はない」ティーアはどこか嬉しそうに自分の肩についた手形を指で撫でた。「それより、何がどういうことなのかを教えてほしい」

 珠菜はうなずく。

「どうして桔京ちゃんが倒れていたの?」

 先ほどの光景が脳裏によみがえる。教室中央列の一番後ろの席。運部桔京は彼女自身の席の近くで倒れていた。よく見てはいないけれど、外傷のようなものは確認できなかった。眠るように倒れていたけれど、文字通り眠っていたわけでないことは、涙声で彼女の体を揺らしていた茨楽香央の様子から察しがつく。

 つまり彼女は教室で突然、死んだということになる。

「私にかれても困る」

「……もしかして」珠菜の中に二つの可能性が浮かんだ。「あれも瘴気のせいなの?」これが一つ目の可能性。

「いいえ」ティーアは首を左右にふる。「瘴気は人を狂わせるものではあるけれど、あれは精神をむしばむもので、肉体に直接影響を与えるものではない」

「だったら、あの場所にも私が今ここにいるような不思議な力があって、そういう力で桔京ちゃんが攻撃された、とか?」これが二つ目の可能性。

「あなたたちの理解のはんちゅうにない超越した力。例えば魔法のようなものが存在して、それを操るものに運部桔京は命を奪われた。珠菜はそう考えているのかしら?」

 珠菜は首を縦にふる。バカげた妄想、とは言い切れない。なぜなら、今の自分が正にその魔法のような超越した力の中にいるのだから。

「残念だけどそれも違う。一つ加えるなら、あの場所に何かしらの力は働いていない。あそこにあるのは濃密な瘴気だけ」

「だったら──」それ以上、言葉がつづくことはなかった。

 だったら運部桔京はなぜ死んだのだろう。魔法でないというのなら、答えは二つしかない。自殺か他殺だ。

 襲われたような形跡はなかった気がする。つまり、自殺ということなのだろうか。茨楽香央も本気で悲しんでいたように見えた。しかし、そこで珠菜の背中に違和感が走る。

 あのタイミングで自殺をしなければいけない理由なんてあるのだろうか。そもそも人はそんなに簡単に死ねるものなのだろうか。

 それに、珠菜は茨楽香央のとある行動が頭から離れずにいた。

 香央と桔京が親友同士であることはクラスの誰もが知っている。目の前で急に親友が倒れたら、誰でも香央と同じようなことをするだろう。芹が倒れたら自分も必死になって安否を確認するに決まってる。

 香央のやったことに間違いはない。それでも珠菜の頭には芹を鋏で刺した香央の姿が、鋏で刺したときほほ笑んだように見えた香央の表情が焼きついていた。

 なぜだろう。なぜ香央は倒れた桔京の体をあそこまでしつようさすっていたのだろう。

 肩から、胸、腰、脚、体の隅々を入念に丁寧に。まるで手のひらで相手の体をめまわすように、まるで何かを探すように。あんな心配のしかたって、あるだろうか。

 そこまで思考を巡らせて、珠菜は頭を抱えた。人を疑ってばかりの自分がとても醜い生き物に感じられたからだ。

「どうしたの、珠菜」ティーアが声をかけてくる。

「……頭がどうにかなりそうだよ。同じ百秒のはずなのに、リトライするたびに違う世界につれていかれてるみたい」

「リトライ?」ティーアが小首をかしげた。

「えっと……」珠菜は言葉をにごす。「その、私が昨日に戻る魔法のこと。なんて呼べばいいのかわからなくて、とりあえずそう呼んでるだけど、本当はなんて言うの?」

「あれは魔法ではないし、あれに名前はない。でも」とティーアは言う。「リトライ。いい響きね。珠菜には名前をつける才能がある」

「ただの英語だよ」と困ったように笑う。

「私もそう呼んでいい?」

 ティーアの言葉に、もちろん、と珠菜はうなずいた。

「ねえ、ティーア」珠菜は真剣な顔つきになる。「さっきのリトライで、桔京ちゃんはあんなことになったけど、芹は生きてた──」

「──だから芹が生きている新しい時間がはじまったのかと聞きたいなら、そんなことはないとあらかじめ言っておく」ティーアが珠菜の言葉を引き継いだ。「すでに伝えた通り、珠菜が百秒間の瘴気と戦い、誰も眠らせない世界を作らない限り、御暁芹に新たな時間は訪れない」

「……うん、わかってた」まぶたを閉じて小さくうなずく。「それに友達を犠牲にした明日なんて、誰も幸せになれないし、芹も喜ばないよ」まぶたを開いて、真っ直ぐ向きあう。

「私は珠菜のそういうところが好きだ」ティーアは優しくほほ笑んだように見えた。「どれだけ考えても答えの出ない問題は、思考以外の手段で解決するしかない。さっき珠菜はリトライするたびに別の世界にいくようだと言った。それは正しい。生命のいとなみは刹那の選択の連続。わずかな変化でもその先を大きく変えてしまう。それを忘れないでほしい。さあ」ティーアはそっと目を閉じる。

「うん」

 少女は少女の涙にふれた。


【残り時間 一〇〇秒】

 放課後の教室。ここだけは何も変わらない。

 目の前には御暁芹を含む数人の女子生徒がいる。

「……珠菜?」と芹が怯えた目でつぶやく。

 そういえばここがわからなかった。どうして芹は自分にこんな顔をして見せるのだろう。

 一体、何をおそれているのだろう。


【残り時間 八〇秒】

「珠菜、ごめん」

 芹はつぶやくと、背を向けて窓に向かって走り出した。

「……あ」

 何をするべきか迷っているうちに、芹が行動に出てしまった。背筋に悪寒が走る。


【残り時間 七十八秒】

 目の前の机の上に二本の鋏を見つけた。夏祭で使う紙吹雪をクラス全員で作っているので、この教室にはたくさんの鋏がある。

 そのうちの一本を掴み、一瞬で狙いを定めて芹に向かって投げた。


【残り時間 七十七秒】

 鋏は芹の脚と脚の間を綺麗に飛び抜け、彼女の行く手を阻むように一歩先の地点に突き立つ。

 芹は思わず足をとめて、珠菜に振り向いた。

 珠菜は言う。「……う、動かないで」ふるえる声で言う。「わ、私がダーツ得意なの知ってるでしょ? つ、つぎはあてるよ?」

 机の上にあったもう一本の鋏を掲げて、攻撃の意思を見せつける。


【残り時間 七〇秒】

 珠菜は他の生徒にも目を向ける。「みんなも動かないで。い、一分でいいから、そのままでいて」

 安い言葉で周囲をおどしてみせるが、その心境はむしろ脅されている側のようで、鼓動は早く、心臓が破裂しそうだった。

 しかし、このまま制限時間を迎えるまでこうやって全員を監視していれば、何も起こらず全てが上手く収まるのではないかとも思えた。


【残り時間 五十一秒】

「知ってる」ふいに芹が口を開く。「珠菜がダーツ上手いの知ってる。くやしいくらい上手いよ」負けを認めるように薄く笑う。「でもね、珠菜が私を狙えるわけない。それも知ってる」

 事実だった。芹を傷つけるなんてできない。

 そして芹は再び走り出す。


【残り時間 四十三秒】

 このままだと芹は飛び降りてしまう。もう走って追いつける距離ではない。

 珠菜は迷わなかった。かまわない。死なれるくらいなら、傷つけたってかまわない。そのせいで一生口を聞いてもらえなくなったってかまわない。生きていてくれるなら、それでいい。

 珠菜は芹に焦点を絞って意識を集中させる。なるべく痛みがないように、怪我をしてもあとが残らないように、確実に安全に動きをとめる必要がある。

 首や頭は論外、腕や脚は傷が目立つし、背中は臓器を刺すことに直結する。

 時間にしてほぼ一瞬。その中で考慮に考慮を重ねた結果、珠菜は結論を出す。

 少女は、親友の右肩を狙って鋏を投げた。


【残り時間 四十一秒】

 あやまちに気づいたのは、鋏が手から離れた瞬間だった。

 刃は金属だがハンドル部分がプラスチック製のその鋏は、先ほど投げた全体が金属製のものと違い、重心が安定していない。それで狙いがはずれるくらいならまだよかった。珠菜の手から離れたのと同時に、プラスチックのハンドルは空気抵抗で開いてしまい、それはブーメランのように曲線を描いて、あらぬ方角へと飛んだ。

 鋏は芹の近くにいた栖々木羽祇すすきはぎに牙をいた。刃が羽祇の制服を水平にぐ。一瞬遅れてそのことに気づいた羽祇は悲鳴を上げ、それを聞いた芹は足をとめた。

「あ、ごめ──」

 ごめんなさいを最後まで言えなかったことには理由があった。

 破れた制服の向こうに紺色の競泳用水着が見える。羽祇が制服の下に水着を着用していることはこの学校の生徒なら二年生でも知っている。問題はさらにその奥、胸元が裂けた競泳用水着の向こうにのぞく羽祇の素肌に、黒く太い文字で文章のようなものが書かれていたのだ。

 辛うじて文字が一つ読めただけで、全体で何と書かれているのかまではわからなかった。

 そこを見られていると視線を感じた羽祇は、それを覆い隠すように自分で自分を抱きしめる。


【残り時間 二十一秒】

「もういいよ」背後から声。

 おかっぱ頭に黒のタイツ。振り返ると、すぐそばに葛谷御奈くずたにおみながいた。

「珠菜ちゃん、どうしてあなたがここにいるの? あなたはここにいてはいけない人でしょ?」

「……え?」御奈の言葉に戸惑う。

「それとも、これこそが『あいつ』の真の狙い?」御奈は小指を噛んで、何か考えている素振りを見せる。「……わからないなあ」小指を口から離した。指先が唾液で濡れている。「ねえ、珠菜ちゃん」

「……なに?」ただならぬ御奈の様子に珠菜は身構える。

「私、珠菜ちゃんのこと好きだよ」

「へ?」

「珠菜ちゃんだけじゃない。御暁さんも、羽祇ちゃんも、香央ちゃんも、桔京ちゃんも、みんなのこと、大好き」

 葛谷御奈は、クラスにいる生徒の名前を一人ずつ呼んでいく。

「だからね、私、決めたの。『あいつ』の出した宿題の答えとは違うけど、私なりに考えた私の答え。だからお願い、みんなはもう苦しまないで、私が全部、背負うから」

 そこで珠菜は気づいた。御奈の右手に無駄に刃の長い鋏が握られていることに。

 御奈は躊躇ためらうことなく自らの首に鋏を刺す。赤い血液が何かを祝うように激しくき出した。

 ぴしゃぴしゃと、ぶきが珠菜の顔にかかる。


【残り時間 〇秒】


「お帰りなさい」

 白の部屋でティーアが迎えの言葉を口にする。彼女は床に寝そべって、白い画用紙に自分の涙を使って何かを描いていた。

「ねえ見て。今度、涙のコンクールに提出する絵を描いていたの。サメの涙よ。でも私はサメの涙を見たことがないから想像で描いてみた。どう、よく描けているかしら?」

 ティーアは画用紙を珠菜に向けた。涙で引かれた茄子なすびのような模様が、画用紙にうっすらとにじんでいる。

 珠菜は何も返さない。

「……珠菜? どうしたの?」

 小首をかしげて、ティーアはゆっくりと立ち上がった。

 入れ替わるように、白目を剥いて珠菜は床に倒れた。

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