第4話

 白の部屋。いつの間にか、そこに戻っていた。

 珠菜はこっけいな姿でかたまっていた。脚を少し曲げ、腰に力を入れた状態で何かを固定するように両手を前に伸ばしている。つい先ほどまで、この体勢で親友を支えていた。

 その親友、御暁芹はクラスメイトの茨楽香央に鋏で刺された。

 意味がわからなかった。

 香央との仲はクラスの中でも悪くないほうだ。行動的だが落ち着いた性格で、幼いころから愛用しているという香水をよく吹きかけていて、その匂いを感じると多少離れた場所にいても彼女の存在に気づくことができた。

 以前、その香水は何の香りなのかと珠菜は香央に訊ねたことがある。彼女は困ったように笑って「くだものの匂い」とだけ答えた。それ以上のことは本人にもわからないらしい。

 どこかなつかしく、やわらかい甘みの中にほのかな刺激のあるその香りは確かに果実的で、茨楽香央という少女によく馴染んでいた。

 珠菜と香央は同じ小学校出身だが小学生時代に接点はなく、中学二年生のとき同じクラスになり、すぐにうち解けてお互いの出身校の話題になったとき、お互い目を丸くした。

 香央の人となりを熟知しているわけではないけれど、それでも簡単に鋏で人を刺すような人間ではないことくらい珠菜はわかっているつもりだ。

 なぜ香央は芹にやいばを。最近になって二人の関係が険悪になった様子もないし、どれだけ思考をめぐらせても納得のいく結論は出てきてくれない。

 それに、あることを思い出して珠菜は肩をふるわせた。芹に鋏を刺したとき、香央の口元が微かに、確かに、ほほ笑んでいたように見えたのだ。

 わからない。芹も香央もまるで別人だった。珠菜はみんなが演劇をしている舞台に何も知らずに上がり込んでしまったまぬけな観客のようで、居心地が悪く、頭が割れそうだった。

「悲しい、悲しい──」

 背後からの声に、珠菜は再び肩をふるわせる。振り返るとティーアがいた。

「見慣れた人たちの見慣れない姿、まるで物語の中のよう。その世界で一人だけけ者。一人だけ一人ぼっち。一人だから一人ぼっち。一人ぼっちは悲しい」

 ティーアは右手に白い平皿を持っていた。そこに何かが盛られている。

「さっきキッチンにいくと、一人ぼっちの卵と一人ぼっちのミルクに一人ぼっちの小麦粉が寂しそうにしていたの。だから、みんなをまぜて一つにして、オーブンで焼いてクッキーにしてみたの。隠し味は涙。お一ついかが?」

 そう言ってクッキーの盛られた皿を珠菜に近づけた。水滴のような形に整えられたクッキーが綺麗な小麦色に焼けている。できたばかりなのか、香ばしさ鼻孔を撫でた。

「……ありがとう。でも、今はいらない」小さく首を振って遠慮を伝える。空腹感はあった。だけど食欲は砂粒ほどもなかった。

 珠菜は少しだけ周りを見わたす。相変わらずこの空間は愚直に白い。一体、キッチンなんてどこにあるのだろう。

「そう? せっかく美味しく焼けたのに、もったいない」

 ティーアは水滴型のクッキーを一つつまむと、それを頭よりも高い位置まで掲げた。それから上を向いて、口を開けて、指を離す。それはどこか、涙を飲み込んでいるようにも見えた。

 しゃくしゃくと音を立ててしゃくして、ごくんとのどを鳴らし、おいしいと言葉をこぼす。

「そんなことよりティーア、これはどういうことなの?」

「どういうこととは、どういうことかしら?」

「とぼけないでよ。さっきから私が繰り返している──」あの現象をどう表現していいのかわからず、珠菜は語尾を濁した。「──あれのことよ」

「御暁芹を救う時を与える。そう言ったはず」

「それはもう何回も聞いたよ。もっとちゃんと教えてよ。何で教室にいったり、ここに戻されたりするの? どうしてみんながいつもと違うみんなになってるの?」

「一つ勘違いをしている」ティーアはクッキーの入った皿を宙に浮かせた。よく見るとそこには白くて丸いテーブルがあった。白は白を隠す。「あそこにいたあなたのクラスメイトはどこも変わってなどいない」

「全然違うよ」珠菜は腕を振り下ろし、声を上げた。

 芹は自殺なんてしないし、香央は人を刺したりしない。

ひょうへんしたと感じるなら、それは瘴気しょうきのせい」

「しょうき?」聞き慣れない言葉に珠菜は顔をしかめる。

「瘴気は至るところに現れ、人の心を汚し、惑わし、支配する。瘴気にふれたものは、正気を失い、そこに魔が差し、魔が人を刺す」

 白いワンピースの少女はテーブルの上からクッキーを一つ摘むと、先ほどと同じように高く掲げてから口に入れた。よく噛んで飲み込み、おいしいとほほ笑む。

 えんきょくてきなティーアの表現をうまく理解できない珠菜は、額に手のひらをあてて頭を悩ませる。なぜもっとわかりやすい言葉で教えてくれないのだろうか。

「つまり、あの教室には瘴気っていう魔法みたいな力があって、それでみんなおかしくなってるってこと?」

「そうじゃない」ティーアは胸の前で両手を交差させ、小さなバツの形をつくる。「勇敢な心に瘴気は近づけない。不安や恐怖、疑念を瘴気は好み、そこに集まる。それを持つものが多く集まるほど瘴気は肥大して、そこに惨劇を生む」

 惨劇という言葉に珠菜は強く反応した。窓から飛び降りた親友。刺された親友。

「……つまり、みんな」珠菜は胸に手をあてて慎重に言葉を選んでいく。「なにか、おおきな、よくないことを、かくしてる──ってこと?」

「正しい」右手と左手で空気を包むようにティーアはマルをつくる。

「それはどんなことなの?」

「教えることはできない」ティーアはマルをバツに変えた。

「どうして?」珠菜はティーアの顔をのぞき込むように首をかしげる。「私を助けてくれるんじゃなかったの?」

「助けるとは言ってない。私はあなたに、御暁芹を救う時を与えると言った。時は試練でもある。あなたはそれを乗り越えなくてはいけない」

「どうすればいいの?」

「そこはかとなく、気づいているはず」ティーアは右手を伸ばして珠菜の左肩にふれた。「私はかえす者。かつて、私の魂はあなたに救われた。あなたの百の涙と、あなたの百の時に。それを今、かえしている。同時にそれこそが、あなたへの試練」

 教室に飛ばされるあの現象のことについて話をしているというのは、珠菜にもわかった。

 ティーアは言う。

「あなたへの試練は──御暁芹に死が訪れる前のあの教室で、百秒間、瘴気と戦うこと」

 ぽかんと口を開けたまま、珠菜は固まる。

「戦う? どうやって? 瘴気って見えるの?」

 ティーアは首をふった。「見えない。だけど安心していい、あの教室にはすでに膨大な瘴気が充満している」

 安心という言葉の概念が自分と彼女とでは違うのだろうか、と珠菜は思う。

「だったら、どうすれば?」

 不安と恐怖が瘴気を呼ぶというのなら、自分の周りにもかなりの瘴気が集まっているのではないだろうか、そんな気がしてならない。

「惨劇の誕生が瘴気の勝利。それ以外の全てがあなたの勝利。すなわち『百秒間、誰も眠らせてはいけない』それがあなたへの試練」

「百秒間?」勢いで聞き返してしまったのは、何かの聞き間違いだと思ったからだ。「百秒って、あの百秒のこと?」

「私と珠菜の認識にがなければ、九十九と百一の間に位置する時のことを言っている」

 その百秒だ。

「じゃあ『誰も眠らせてはいけない』っていうのは?」

「眠りとはすなわち永遠の眠り、死。あるいはそれに至らせるような致命的な傷を負うこと」

 瘴気と戦えなどという途方もない難題に面を食らわされたものの、その実体は一定時間、誰にも大きな怪我をさせなければいい程度のことだった。しかもそれは、わずか百秒でいいのだという。

「……百秒間」珠菜の声に希望の熱が宿る。「百秒間持ちこたえられたら、百秒間、安全な時間を作ることができたら、芹は、芹は生き返るの?」

「その表現は妥当ではない」ティーアは冷静に返す。「御暁芹が自殺した現在の時間が終わりを迎え、御暁芹が存在する新しい時間が進んでいくだけ。あなたにわかりやすく言うなら、あなたのこれまでの日常が戻るだけ」

 日常が戻る。その言葉に珠菜はこぶしを強く握る。それ以上の望みなど、ありはしない。

「だったら、すぐに芹を助けにいきたい」少女の声に強い意志。

「そんなに急がなくてもいい」ティーアは両手を水平に広げる。「この白の部屋は思考する空間でもある。涙の数は有限。少し落ち着いてから──」

「大丈夫だよ。きっと、うまくできるから」珠菜の目には、すでに解決へ道筋が見えていた。

「……わかった」まだ何か言いたげだったが相手の気迫にされ、ティーアは両手を背中にまわして、まぶたを閉じて顔を珠菜に近づけ「どうぞ」と言った。

「ティ、ティーア?」

 女の子が瞳を閉じて顔を寄せてきた。この行動にどう応えたらいいのかわからず、珠菜は赤面する。

「ああ、ごめんなさい」ティーアはぱちりとまぶたを開いた。「説明を忘れていた。あの教室に戻るときは、私の涙にふれてほしい。そうすることで、あそこにいける」その右目から、ずっと流れつづけている涙。「この涙はあなたの涙。かつて私を救った百の涙。すでに二回ふれているから、残りの涙は九十八粒。大切に使ってほしい」

「……うん、わかった」

 ティーアと自分の間には過去に何かがあったのだという。彼女はそのとき自分から受けたものを返すために、こんなことをしてくれていると言った。正直、まるで身に覚えがなかった。もしかして人違いなのでは、とさえ思える。

 でもそんなことより、今はとにかく親友を助けたくて、珠菜は少女の涙にふれた。

 九十八回も必要ない。次で救ってみせる。


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

 三度みたび、放課後の教室に戻ってきた。

 珠菜の視線は芹ではなく、他の生徒に向けられていた。

 その生徒は透明な卵形のボトルに入った香水をスプレーで自分の首に吹きかけながら、驚いた表情で珠菜を凝視している。

 茨楽香央。鋏で芹を刺したクラスメイト。しかし、今の彼女から殺意のようなものは感じられない。何がどうなって、これから数十秒後に殺人に至るほどの変化が彼女の中で起こったのか。それもやはり瘴気というもののせいなのだろうか。


【残り時間 九十五秒】

 やるべきことは決まっている。珠菜は芹に向かって走った。腰や脚を何度も机にぶつけたけれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。芹は珠菜に何か言葉を投げかけたが耳に入ってはこない。

 珠菜は強引に芹の腕を掴んで、力の限り引っ張って、教室の外へと連れ出した。


【残り時間 七十八秒】

 廊下は夏祭の準備を進める生徒たちで賑わい、珠菜はそこにかえるべき日常の片鱗を感じた。

「どうしたのよ、珠菜。っていうか、なんで珠菜がまだ学校にいるのよ? さっき帰らせたはずなのに」

 これ以上ないくらい、芹は困惑している。


【残り時間 七十二秒】

 慣れない行動に出て大きく体力を消耗してしまい、珠菜は肩で息をしていた。

 百秒間。とにかく百秒耐えればいい。それで全て元通りになる。

 今、どれくらい経ったのだろうか。

「……珠菜? どうしたの、大丈夫?」

 いきなり現れて自分を教室の外へと引っ張ってきた親友が、外に出た途端無口になり、御暁芹は困惑の色をさらに強めた。


【残り時間 六十八秒】

 そろそろ八十秒くらいは経ったのではないかと珠菜は考えた。それともまだ五十秒しか経っていないのか。授業と授業の間にある十五分の休み時間なんて、あっという間に過ぎていくのに、たった百秒が、重く、長い。


【残り時間 六十五秒】

「もう何がしたいのよ、珠菜!」たまらず、芹は声を上げた。

「……あ」その声で少しだけ我に返る。

 さすがにこのまま沈黙を貫くのは限界かもしれない、と珠菜は焦りを覚えはじめた。

「ね、ねえ、芹」考えもなく、とりあえず口を開く。

「……何よ」

「えっと、その……げ、元気?」

「はあ?」親友は呆気にとられている。


【残り時間 五十八秒】

「まあ、元気だけど……珠菜こそ大丈夫なの?」

 芹は腰をかがめて珠菜と視線をあわせた。

「大丈夫だよ。そ、そうだ芹、しょうしまの話でもしようよ」

 芹は怪訝な目つきに変わる。「なんでいきなり小豆島が出てくるのよ?」

「だってほら、旅行にいく約束してるでしょ?」

 珠菜と芹は夏休みに二人だけでそこへ旅行にいく計画を立てていた。それに芹が自殺した昨日だって、その話題に花を咲かせていたのだ。

「まあ、別にいいけど」

 不信感のぬぐえていない顔つきではあったものの、明らかに様子のおかしい親友をなだめるために、芹は話をあわせることにした。


【残り時間 三十八秒】

 珠菜は嬉しさのあまり笑みをこぼしそうになった。

 計画通りに事が進んでいる。芹をここにとどめることに成功した。もう大丈夫だ。おそらくあと十秒もすれば百秒になるはず。周囲に芹の身を危険にさらすようなものは何もない。これでいい。きっとうまくいく。芹は救われる。


【残り時間 三十六秒】

 悲痛な叫びが教室の中から響いてきたのは、そのときだった。

「何? どうしたの?」

 それに反応した芹が珠菜から離れ、教室に走った。

「あ──待って」

 自分のかつさに殺意すら覚えた。どうしてずっと手を握っていなかったのか。しかし、今は後悔の許される時間ではない。珠菜も急いで芹の背中を追う。


【残り時間 三十二秒】

 教室に入ってすぐに背中とぶつかった。芹の背中だ。

 ありとあらゆる悪い予感に怯え、そっと顔をのぞき込んでみたが、幸い、その身に何か不幸が訪れた様子はない。だが、芹の表情は石のように硬直していた。目の前にある何かを見つめたまま、微動だにしない。その視線を珠菜も追っていく。

 床に一人の女子生徒が倒れていた。

 運部桔京はこべききよう。髪は芹と同じくらい長く、身長は珠菜と同じくらい。でも胸は学年で一番大きくて、いつもそれを気にしていた彼女が、あおむけに倒れていた。その体を泣きながら茨楽香央がさすっている。

 どうしたの返事をして、と泣きながら声を上げている。まるで、もう返事がくることはないと悟っているかのように。

 騒然とする室内で、珠菜の目が異質なものを捉えた。ケーキやチョコレートのシールがこれでもかと貼り付けられたスマートフォンが自分の足下に転がっていた。これは運部桔京の持ちものだ。甘いものに目がない彼女は筆記用具から衣類まで、あらゆるものにこういうものを貼り付けていた。

 珠菜がそれを拾い上げたことに深い意味はなかった。誰かに踏まれて壊れたら大変だと無意識に思ったのかもしれない。

 そのスマートフォンにショートメッセージが一つ届く。口笛のような着信音が短く鳴り、バックライトが点灯して文字が浮かび上がる。

 そこで珠菜は息をんだ。

『見ちゃダメだよ、珠菜ちゃん』

 自分に、てられていた。

 差出人の名前は『おみなちゃん』となっている。これは桔京が登録した名前だろう。

 珠菜はゆっくりと視線をスマートフォンから離して、前を向く。

 不安になるほど細い脚を黒いタイツで覆った少女がスマートフォンを握って、こっちを見つめていた。

 少女の名は、葛谷御奈くずたにおみな


【残り時間 〇秒】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る