第3話

 読んでいる途中で絵本を奪われたみたいに景色は消え去り、白の部屋に戻されていた。

「悲しい、悲しい──」背後からティーアの声が近づいてくる。「もう会えないと思っていた大切な存在。それにまた出会えた」ティーアは詩を口ずさむようにつづける。「──それなのに、すぐにまたお別れはやってきてしまう。それは悲しい」

「……何、今のは」異常な現象に振りまわされ、珠菜はまばたきもできずに、こめかみを指で押さえていた。「幻覚、だったの?」

「幸運なことに」いつの間にか正面に立っていたティーアは言う。「幻覚ではなく現実よ」

 幸運という言葉の概念が彼女と自分とでは違うのだろうか、と珠菜は思う。

「一体、何が起きたの、今」

「伝えたはず。あなたに御暁芹を救う『時』を与える、と」

 珠菜はほんの数秒前まで体験していた事象を思い起こした。

 放課後の教室、確かにそこに芹はいた。だがその後、親友は。

 頭の中が赤く浸蝕されていく。それを拒否するように強く何度もかぶりを振った。それからまっすぐ、ティーアと向きあう。

「教えて。さっき私がいた場所はどこなの?」

「およそ二十四時間前の葉ノ咲中学、三年Aクラス。あなたの通っている学校のあなたの教室。そして御暁芹に死が訪れる寸刻前すこしまえの世界」

「二十四時間前の世界?」

 信じがたい言葉だった。しかし、デタラメを聞かされているとも思えない。夢やまぼろしではない確かな感触が、あの教室にはあった。それにこの白い部屋といい、自分が何らかの超越した力の中にいることを珠菜は漠然と理解しはじめていた。同時に、まだわからないことだらけでもある。

「えっと、それはあなたの力なの?」

「いいえ」ティーアは首を横に振った。「私のものではない」

「じゃあ、誰の力なの?」

「知る必要はない」即答だった。「今は、まだ」と小さく付け加えた。

「…………」

 訊きたいことが多すぎて逆に言葉が出ない。それが今の珠菜がおかれている状況だった。

 そのとき、何を思ったのかティーアが腕を広げて倒れるように抱きついてきた。

「ティ、ティーア? どうしたの」予測できない相手の行動に珠菜は声を緊張させる。

「きっと珠菜の頭の中は疑問符であふれている」白いワンピースの少女は珠菜の心を見透かしていた。「だからもう一度だけ、あえて飛び込んでもらう。その後で、もう少しだけお話をしましょう」

 ティーアはするすると自分の顔を珠菜の顔に近づけていく。白い少女の右目からは、出会ったときからずっと涙が流れていた。その雫が一つ、珠菜の頬に落ちる。

 同時に、珠菜の視界から、白が消えた。


【残り時間 一〇〇秒】

 チックタック チックタック

 放課後の教室に立っている。

 夕日が射し込み、目の前には数人の女子生徒。その中の一人に御暁芹がいる。


【残り時間 九〇秒】

「……珠菜?」

 芹はおぞましいものを見る目を珠菜に向けた。

 珠菜の脳裏に、先ほどの出来事が再生される。

 高いところから地面に落ちていく親友の姿が。


【残り時間 八十五秒】

 急ぎ足で言葉もなく、珠菜は芹に抱きついた。

「ど、どうしたのよ珠菜。ていうか何で珠菜がここにいるの? ちゃんと帰らしたはずなのに、意味わかんない」芹の声は、やはり怯えていた。

「大丈夫だから、とにかくおちつこう、芹」

 何があっても先ほどの惨事を繰り返してはいけない。珠菜の頭の中にはそれしかなかった。


【残り時間 七十二秒】

「す、珠菜こそおちつきなさいよ」

 言いながら、芹は強い力で珠菜を突き放そうと腕に力を入れている。珠菜はそれ以上の力で親友にしがみついてた。

 理由はわからない。しかし、芹が自分から逃れようとしていることだけは間違いなかった。


【残り時間 六十二秒】

「どうしたんだよ、芹。何があったのかしらないけど、何か困ってることがあるなら相談してよ、こんなの芹らしくないよ」

 気高いほど冷静で、人を寄せつけない。

「珠菜には関係ない」

 そのくせ誰よりも怖がりで、誰よりもあたたかい心の持ち主。

「関係なくなんかないよ」

 その親友が、かつてないほど取り乱しているのだ。放っておけるはずなどない。


【残り時間 五〇秒】

 逃げる力と離さない力。その二つはどこまでも拮抗しているかのように見えたが、どこかでバランスを崩し、芹の体は床に向かって倒れた。

「危ない」

 声を上げて芹の体を支えたのは、同じクラスの運部桔京はこべききょうだった。身長は珠菜とあまり差はなく中学三年生にしては少し低い。髪は腰まで伸ばしていて、これは芹と同じだ。ただ、胸の大きさは学年でも群を抜いており、本人はそれをとても気にしている。

「大丈夫? 御暁さん。それに珠菜ちゃんもどうしたんだよ」

 突然、教室で取っ組みあいをはじめた二人の少女に向ける言葉として、それはふさわしいものだった。

 桔京の声の柔らかさが、珠菜の緊張をわずかにほぐした。


【残り時間 二十五秒】

 珠菜は考える。今、芹は自分と桔京の二人から支えられている。簡単には逃げられないはず。

 少しだけ光が見えた気がした。ここから状況を立て直していかなくては。


【残り時間 二〇秒】

 ふわっとした甘い果実の匂いが珠菜の鼻孔をくすぐる。

 別の少女が珠菜たちに接近してきた。

 少女の名前は茨楽香央いばらかお。小さな顔と大きな瞳は人形のようで、その美貌は他校から見物客を呼ぶほどである。


【残り時間 十七秒】

 香央は芹に近寄る。途端、芹の体から力が抜けていくのが、その体を支えていた珠菜に伝わってきた。

 理由はすぐにわかった。

 はさみだ。

 細く長く鋭利な銀色の美しい鋏が、御暁芹の脇腹に刺さっていた。

 果実にナイフを刺せば、挿入口から果汁がこぼれるように、芹のそこからも赤い血液が流れ、白いスクールシャツを深紅に染めていく。


【残り時間 一〇秒】

「もうおしまいだよ」芹に鋏を刺したまま茨楽香央は言葉を漏らす。「どうして珠菜ちゃんがここにいるんだよ? わたし、車で帰っていくところ見たよ?」

 香央の声は珠菜や芹にではなく、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。

「あいつが──『あいつ』が私たちを裏切ったんだよ」

 そこで香央は珠菜と向きあった。その瞳は絶望とも怒りともとれる不可思議な色に支配されていた。

「ごめんね、珠菜ちゃん。本当にごめんなさい」

 香央は芹から鋏を抜いた。糸を切られたように芹の体は音をたてて床に倒れた。


【残り時間 〇秒】

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