救急医療センター・3


 病室の中の展開とは別な事件があった。

 ファビアンは、医者にアリを渡してしまうと、アガサに『まって!』の一言も言わせずに、病室を出ていた。色々質問されたり、面倒に巻き込まれることが嫌だったのだ。

 だが結局、今日は面倒が起きる日だったらしい。

 ファビアンは、医療センターの白い通路を足早に歩いていた。

 ところが帰る途中、やはりアリのお見舞いに駆けつけたジャン‐ルイとイミコにばったりと出会ったのである。


「今、アガサとイシャムが面会している」


 疑問の視線を投げかけるジャン‐ルイに、ファビアンは軽く声をかけ、去っていこうとした。だが、熱血貴公子のほうは、それですまなかった。


「イミコ、先に行っていてくれる?」


 おろおろするイミコに、やんわりと言った。イミコは、おろおろしたまま、言葉に従うしかなかった。

 こうして、ファビアンとジャン‐ルイは、白い通路で二人っきりになった。



 ジャン‐ルイは、いきなりファビアンの肩に腕を回して歩き出した。


「君が第一発見者で、アリとアガタを医療センターに運び込んだんだって? びっくりしたよ。それで、どうして君が第一発見者になりえたのか、僕には興味深いんだけど……」


 ジャン‐ルイの腕を嫌う事なく、歩調を合わせて歩き出していたファビアンだが、ピクリと眉が動いた。


「なんてことはない。たまたま散歩していたら、二人に遭遇した」


 ジャン‐ルイはにっこり笑ってみせた。


「ふーん、散歩ね。ハグレ地まで? ずいぶんと足を伸ばしたものだね。ハグレ地まで飛ぶのは校則違反だと思ったけれど? いや、その前に、そこまで往復できる君の力にも驚かされるけれど」


「…………」


 どう考えたって、ファビアンがアガサの行動を見張っていたとしか思えない事態である。

 これをどうやって言い逃れするのか? ジャン‐ルイは楽しくなってきた。

 しかし、ファビアンのほうは、あっけなく小さなため息とともに微笑みを漏らした。


「君には負けた」


 突然の敵の敗北宣言に、焦ったのはジャン‐ルイのほうだった。


「負けた? 負けたって何が?」


「君の熱心な申し出にさ。断ってみたものの、気になっていた。だから、アガサという子を探し出して、様子を見ていた」


 何だかあやしい。もっと秘密があるはずだ。


「でも、それだけでは……」


「それだけだ。君の言う通り、僕もアガサの訓練に力を貸すことにしよう。それで、いいだろう?」


 ファビアンは、水色の瞳を向けた。


 これは取引だ。

 ジャン‐ルイは、そう思った。

 ファビアンは、これ以上探りを入れられないために、折れたのだ。

 アガサの訓練を引き受ける代わりに、もう詮索するな! という事なのだ。


 ――冗談じゃない!


「君は、どうして【アガタ】を英語読みできる? おかしいじゃないか? マダム・フルールの翻訳を通している者は、アガタの本名は知らない。誰が君にアガタの本当の名前をおしえた?」


 ジャン‐ルイが握っている最強カードである。

 さすがにファビアンの顔色が変わった。やはり、彼は自分の失態に気がついていなかったのだ。

 ジャン‐ルイは、今度こそ……と思った。


「それを……説明しなくてはいけない?」


 ファビアンが歩を止め、ジャン‐ルイの腕を払った。


「そりゃあ、親友が隠し事をしているのは、気持ちがよくない」


 しばらく、二人はみつめあった。

 やがて、根負けしたファビアンがうつむいた。


「仕方がないね。じゃあ、コーヒーくらいおごってくれるかい?」


「ロビーの自販機でいいならば」


 ジャン‐ルイはにやりと笑った。



 緊急医療センターは、中央エリアでも特殊な空間である。

 一万年前のソーサリエ文明の多様性を示すかのような、ガラス張りの美しいロビーを持つ。

 自然光が差し込み、病人がくつろげるような椅子やベンチがあり、観葉植物がたくさん並んでいる。一瞬、温室か? と思えるような、緑の多さである。

 窓際の席に、ファビアンは足を組んで座っていた。

 ぼんやりと外を見ながら、何やら考え込んでいる。その髪に、いつもはまとわりついているレインの姿はない。

 そう。この場所は、精霊持ち込み厳禁の空間なのだ。


「お待たせ!」


 少し上機嫌のジャン‐ルイが、コーヒーを運んできた。

 ちょっとだけこぼして熱そうだった。

 しかし、そんなことよりもこれから聞く話が待ち遠しいらしい。

 ファビアンは苦笑した。

 それは、打ち明けなければいけない秘密のせいではない。

 この話が終わる頃に、きっとジャン‐ルイの機嫌が悪くなるだろうことを予測しての事だった。


 もとより、ファビアンには、秘密を打ち明けるつもりはなかった。

 ジャン‐ルイにも……。

 ではなく、彼だから、である。

 ファビアンにとって、アガサと自分の間にある秘密は、誰にも知られたくないことだった。

 うっかりジャン‐ルイの前で、アガサの本当の名前を呼んでしまったのは、最大のミスだった。

 指摘されて、もうどうにもならないか? とも思った。

 すっとぼけていられるほど、ジャン‐ルイはいい加減を許さない。

 彼が、アガサを妹のようにかわいがっているとなれば、黙っていて許してくれるとは思えない。

 だから……。

 ファビアンは時間稼ぎをしたのだ。

 ロビーまでの移動時間、ジャン‐ルイがコーヒーを運んでくるまでの時間。

 それだけ考える時間があれば、ファビアンには充分だった。


 ジャン‐ルイが、コーヒーにミルクと砂糖を入れた。


「さて。じゃあ、おしえてもらおうかな?」


 彼は、まるでゆとり……とでも言うように、コーヒーに口をつけた。


「たしかに、僕はアガサを知っていた。初めて会ったわけでもない」


 ミルクを入れずに、砂糖だけ。ファビアンは、ゆっくりとスプーンを回した。

 ジャン‐ルイが、少しだけ身を乗り出してくる。


 ――いつ? どこで? どうして?


 言葉にしなくても、顔に書いてあった。

 ファビアンは、ゆっくりとスプーンを置いた。


「アガサ・ブラウン。12歳。イギリス出身。専属の火の精霊はフレイ。赤毛、赤茶の瞳。家族構成は、両親と兄、姉、妹……」


 まるで履歴書を読むように、ファビアンは言った。

 ジャン‐ルイの顔が、やや肩すかしをくらったような表情に変わった。


「な、なんだい? それは?」


「アガサのプロフィールだよ。うっかり見てしまったんだ」


「プロフィール? 生徒の資料なんて、見れるはずがない」


 ジャン‐ルイは疑わしそうに言った。

 ファビアンは、コーヒーを一口飲んで、ふっとため息をついた。


「確かにね。普通はできない。ところが、アガサがこの学校に来た日、僕は悪い事をやらかしていて、学長室に呼び出されていた」


 それは、嘘偽りのない事実である。

 ファビアンは、あの日、学長室でマダム・フルールからお叱りの言葉を受けていた。そして、その帰り……ドアの前で、アガサと出会ったのだから。


「ばたばたしていたので、ちらりと机の上にあった資料を見てしまった。そこには 【ソーサリエとしての血筋になく、入学を不許可とするべき】とあった。だから、僕はものすごく興味深く思って、彼女のプロフィールを全部見てしまったっていうわけ」


「……それだけ?」


「その時、アガサにも会った。ああ、この子か……と思った」


「それだけ?」


「それだけだよ」


 ジャン‐ルイは、腕を組んでうーむ……と唸った。

 ミルク入りのコーヒーは減らなかった。


「本当にそれだけ? なら、どうして秘密にする?」


「見ちゃいけないものを覗き見したことを、どうして吹聴する必要がある?」


 ふたたびジャン‐ルイは唸った。

 ファビアンは、コーヒーを飲んでいる。


「……でも、それだけとは思えない。なら、君は何でマダムの呼び出しを受けたんだ?」


 ファビアンは楽しそうに笑った。


「おいおい、よしてくれよ。それまでも言えっていうのかい?」


「ああ、優等生の君が、マダム・フルール直々の呼び出しを食らうなんて、信じられないからね」


 コーヒーの残りを、ファビアンはすべて飲み干した。


「僕が優等生? ハグレ地まで飛ぶ校則違反をいとも簡単にやってのけるのに? 君は僕を買いかぶりすぎだよ」


「……」


 ついにジャン‐ルイの追求の言葉が途切れた。


「じゃあ、コーヒーごちそうさま。また授業で」


 ファビアンは席を立った。

 納得がいかないというジャン‐ルイの視線が絡み付く。

 ファビアンが三歩歩いたときだった。

 ジャン‐ルイの声が、ファビアンの背中に突き刺さった。


「おい、待てよ」


 ファビアンは足を止めた。

 ミルクと砂糖が入ったコーヒーは、ほとんど減っていない。だが、ジャン‐ルイも立ち上がっていた。

 ジャン‐ルイが納得していないのはわかっている。でも、これ以上追求する糸口もないはずだ。


「アガタの訓練は、水曜日にしているから。約束を忘れるなよ」


 振り向いたファビアンの顔には、笑顔が浮かんでいた。

 そして彼は、指を軽く額に当て、ウインクしてみせた。

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