寒中水泳教室・4


 翌朝、アガサは張り切っていた。

 ぐったりしているイミコに、散々、おかげでいい感触が掴めた、イミコのおかげよ、きっとうまくいくわ、などと言い含め、授業に向かわせた。

 だが、実は、イミコ以上にアガサの方が自己暗示にかかっていたのだ。


 ――今日はきっとうまく行く!


 そう思えてならず、鼻歌まで出てきてしまう。

 歌のほうは余りうまくないのだが。

 


 アリは元々鳶色の肌をしているのだが、今日はやや顔色が悪く、土色に見えた。


「朝、張り切って早起きしたからです」


 などとアリが言うので、アガサもますますがんばる気がおきてきた。

 ただ、フレイだけは……。


「おいら、昨日でパワー使い果たした」


 と、やる気なげである。


「うん、だからいいのよ、きっと。パワーをセーブできる状態なんじゃない?」


 ジャン‐ルイもイシャムも、フレイには力がありすぎるのだと言っていた。だから、元気がないくらいがちょうどいいに違いない。


「ねーさん、人使い荒いからな」


「フレイは人じゃないでしょ?」


「……そうじゃなくて」


 フレイはぐったりしてしまった。




 ハグレ地に着く。

 アガサはロウソクを立てたコップともうひとつコップを用意していた。


「万が一、爆発しちゃっても、別のコップの中だったら、水の中に落ちなくてすむかも?」


「……その、かも? って、嫌かも?」


「いざって時は飛びなさいよ。何のための羽なの?」


「ねーさん、それってマラソンしながら歌を歌ってメシ食ってツーステップ、ツーステップで踊りながらギターと笛を同時に演奏するようなもんだぜ」


 フレイの言葉を無視して、アガサは服を脱ぎ出した。

 慌てたのはアリである。何せ、バルバルでは女性は人前で肌を露出しないのだから。


「あの、あの、あの、アガタ姫?」


「どうせ水に入るんだから、水着のほうがいいでしょ?」


 なんと、服の下は水着だった。

 ただし、その水着は色気がない。体育の授業のための水着である。

 紺色のワンピースで、胸元にはオレンジと黄色で炎のマークが入っている。肩ひも部分は太い、胸元は開きが少なく首あたりまであり、当然ハイレッグでも何でもない。


「ああ、私には見ていられません」


 頭を抱え込んでいるアリに、アガサは言った。


「大丈夫。見ていなくても。かえって、避難していてくれたほうがありがたいわ」


「でも! 万が一、フレイが爆発したら? 今日は、ヴァンセンヌ殿もイシャム様もイミコさんもいないのですよ?」


 アガサはウインクしてみせた。両目つぶりのウインクだが。


「だから、水着を着ているんでしょ?」


「ねーさん、何をやらかす気だよ?」


 アガサはにやりと笑うと、冷たい水の中に足を入れた。


「ひやっ!」


 一瞬、水の冷たさにすくみ上がったアガサだったが。


「ええい! 根性よ!」


 どぼんと水に飛び込んだ。



 昨日はたった一人で風に流されたフレイだった。

 だが、今日はアガサがいっしょである。


「ね、ねーさん、風邪ひくぞ! 寒くねーのかよ!」


「寒くたって何だって、あなたが消えてしまうよりマシでしょ? いっしょに水の中に入れば、万が一、あなたが水に落ちたって、私が助けられるじゃない?」


「うっ、あ、あ、アガタ……」


 フレイがうるうるしている。涙は火の精霊に禁物である。だが、フレイの目から吹き出したのは炎だった。

 ほんの少しだけ温かかった。


「よし! では、一発目! がんばって行こう!」


 アガサは大きく深呼吸した。

 それは、呪文のためではない。呪文を唱えたとたん、爆発を避けるため、水に潜るからである。


「ロウソクに火、ついたらいいな!」


 どっかああああああーーーーーーんんっつ!



 やはり、物事はそう簡単ではない。

 アガサはフレイの入ったコップが転覆しないよう抑えながらも、水越しに炎が消え去るのをもった。

 ぶほっ! と顔を水面から出すと、ロウソクの入ったコップを探した。が、案の定、昨日と同じ運命を辿ったようである。

 ただ、フレイは力を使って弱っているものの、水に落ちなかった分だけ元気だった。


「よし! もう一度!」


 アガサは張り切って次のロウソクを取りに戻る。


「えーっ! ねーさん、まだやるの?」


 どっかああああああーーーーんっつ!


「よし! もう一回!」


 どっかーーーん!



 それを三度も続けたら、さすがにアガサも元気がなくなった。

 フレイもすっかり赤黒くなってきた。


「う……やっぱり昨日のことは目の錯覚だったんだわ」


 アガサの唇もさすがにむらさき色である。

 すっかりあきらめかけた時、フレイのほうが言い出した。


「ねーさん、おいら、いけそうな気がする……」


「え?」


「なんか、だんだんパワーが尽きてきて……爆発の規模が小さくなっているんだ。だから、今度はうまくいく」


「で、でも……。あなた、大丈夫なの?」


「うん。今度はロウソクのある方に乗る。そうすれば、火で元気になる」

「でも……もしもまた爆発したら」


「もうしない。おいらを信じてくれよ」


「じゃあ、あと一回だけ」


 アガサは再びロウソクを用意した。

 なんだかもう手の感覚も足の感覚も麻痺してきて、へとへとである。

 アリは、上空に避難しているらしい。空を見上げると、青い絨毯の底が見えた。


「アリー! あ、あと、い、一回だから!」


 アガサは手を振ったが、アリの反応はなかった。

 不思議に思ったが、アガサの声も震えていていつもの大声が出ていないからだろう、と納得した。

 再び、池の真ん中へと歩いて行く。

 途中、何回か足がもつれた。


「じゃあ、フ、フレイ! い、行くよ!」


「火……つ、つ、ついて…;くらさい」


 ぽっ!


 アガサは水に潜りかけたが、再び浮き上がった。

 なんと! ロウソクに火がついている。

 フレイがくたくたになりながらも、その火にあたっている。


「やった!」


「やったね、ねーさん!」


 水面に浮かんだコップ。かすかに光が水に反射している。

 アガサはコップをとろうと追いかけた。

 だが……。


 ばしゃん!


 転んだ。

 何と、水の冷たさで足がつってしまったのだ。


「あ、あれ?」


 しかも、起き上がれない。全く足の感覚がないのだ。


「ね、ねーさん?」


 水面に流されていくフレイ入りのコップ。だが、伸ばす手もかじかんでいてうまく取れない。

 冷たい水の中に長くいすぎたのだ。

 一生懸命すぎて、自分がどのような状態に陥っているのか、全く気がつかなかった。

 アガサは焦った。

 間違いなく足が届く深さのはずなのに、底なしの沼のよう。手で水面を叩いて浮き上がろうとしても、元々アガサは水泳が苦手。体育の授業で、やっと犬かき五メートル泳げただけである。

 ばたばたと暴れれば暴れるほど、ますます水底に引っ張られるようである。


「ぶほっ! た、助けて! 誰か!」


「ね、ね、ねーさん!」


 フレイが必死に手で水を漕いでいる。きっと、弱るだろうに。だが、フレイではアガサを助けることはできないだろう。


「あ、あ、アリ! 助け……ぶほっ!」


 アガサは必死に空に向かって叫んだ。

 だが、空には誰もいなかった。

 ちらりと見える岸辺に青い絨毯が見えた。

 そして、その上に倒れているアリの姿がアガサの目に映った。


「あ、アリ??」


 その一言を最後に、アガサの体は冷たい水の中にブクブクと沈んだ。

 必死に伸ばした指先の上、フレイの入ったコップの底が揺らめいた。

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