寒中水泳教室・3


 帰路は、皆一様におとなしくなっていた。

 イシャムは、絨毯を隠しておいたにもかかわらず、焼け焦げが三カ所見つかって落ち込んでいた。

 しかも、勇ましい五倍眉毛も、池の水に流されて微妙に消え、薄い眉尻が情けなく垂れ下がった顔になっていた。正直な話、眉があってもおかしな顔だったのだが。

 イミコは、フレイの爆発を抑えきれなかったのは自分の力不足で邪魔をしたからだと思って落ち込んでいた。

 行きはあれほど怖がったのに、今は絨毯の下に広がる空と雲をぼんやり眺めていて、いつ飛び降りても不思議ではない状態だった。

 ジャン‐ルイは、じっと考え込んだままだった。想像していたよりも、ずっと事は難しいと感じて、対策を練っていたのだ。

 アリは、少し青ざめた顔をして震えていた。

 アガサは、みんながここまで手伝ってくれているのに、全然火を作れない自分にうんざりしていた。


 ――みんな、きっとあきれただろうな……。


 いくら春とはいえ、天空の世界は地上より寒い。この寒空に五人揃って水泳である。ぶるっと震えるアリの肩を見て、ちくりと心が痛んだ。


 ――ああ、早く暖をとらなくちゃ。火、火、、火よ……。


 そう思ったとたん。


 ぽっ。


 アガサは目を疑った。

 一瞬、アリの肩あたりに小さな火がおきたような気がしたのだ。

 フレイは、まだまだ赤黒い髪をしたままで、バーンとカエンのおしくらまんじゅうの中でふらふらしている。


 ――気のせい?

 いや、確かに火がおきた。でも……。


「このままじゃ、訓練ができない」


 アガサの思考はジャン‐ルイの言葉で断ち切れた。


「訓練するには水が必要だし、水があるとフレイが死んでしまうかもしれない。今回はうまく救い出せたけれど、下手をすると水没するところだった。やっぱり、ファビの力が必要なんだ」


「あ、あの……私……」


 今の事を言うべきか、言わないべきか? アガサは悩んだ。

 火がついたなどと言って、気のせいだったらみんなをがっかりさせてしまう。特に、ジャン‐ルイを。


「大丈夫。今度の水曜日までに、もう一度頼んでみるよ。水曜日に、あの池でもう一度訓練しよう」


「あの……」


「今度こそ、ノーとは言わせないから」


「……」


 そこまで言われると、つい口を塞いでしまうアガサだった。

 やはり、ファビアンの名前が出てくると、どうも弱い。

 だが、どうしてもアリの肩にぽっと浮かんだ炎が気になる。もしも、彼の服が濡れていなかったら、火がついたかも知れないのに。




 イシャムとジャン‐ルイとは、水曜日に再び訓練することを確認して、上空で別れた。

 部屋に戻ると、落ち込んでいるイミコは「わっ」と叫んでバス・ルームに飛んでいってしまった。


「では、水曜日に……」


 と言って去っていこうとするアリの服を、アガサは引っぱった。だが、そこに火のついたあとはなかった。


「あ、あの、アガタ姫?」


「あ、ご、ごめん!」


 アガサは慌てて謝った。が、どうしても火のことを確認したい。


「じ、実はね……。私、水曜日までに確認したいことがあるの」


「確認?」


「うん、本当は火がついたんじゃないかって気がする。でも、自信がない。だから、みんなに言ってがっかりさせたくない。それで、もう一度確認したいの」


 アリは、漆黒の瞳を見開いた。


「火が? どこにですか?」


「あなたに」


 とたんに、アリの顔が赤くなった。


「……い、いや、そういう意味じゃなく」


「あぁ、失礼」


 アリはこほこほと咳をした。


「では、こうしましょう。アガタ姫。明日の朝、再びあの池に行ってみましょう。二人で」


 それは、もうつきあってくれる人はいないかも? と、落ち込んでいたアガサにとって、とてもうれしい言葉だった。


「本当に? 本当にいいの? でも、授業があるんじゃない?」


「一度や二度、出なかったくらいで問題ありません。あなたのためならば、何の苦もないことです」


 やや目を潤ませてアリが微笑んだ。


「ありがとう! じゃあ、また明日!」



 アリは、アガサが手を振る中、何度も振り返りながら、戻っていった。

 姿が見えなくなるまで見送ったアガサだったが、ほんの少し、なぜか罪悪感を感じた。


 ――こんなに甘えていいのかな? なんか、私ってずるくない?


 そうアガサが悩んでいるとき、いつも突っ込んでくれるフレイは、今、ぐったりとロウに浸かっている。


 ――いいえ、アリだってうれしそうだったじゃない。

 いいんだよ。きっと。


 さすがにまだ服が濡れたままなので寒くなり、アガサは窓を閉めた。



 その時。


「きゃあああああ!」


 いきなりバス・ルームからイミコの悲鳴が聞こえた。


「な! 何事よ!」


 アガサはあわててバス・ルームへと飛び込んだ。

 すると、なんとイミコがカミソリを手首に当てて泣いていた。

 アガサは、思わず息をのんだ。


「イ、イミコ! は、早まらないで! あの、あの!」


「早まってなんかいないわ! 私ったら、愚図ぐずでのろまの亀ですもの。うっ、うっ、うっ……」


 イミコはカミソリをぽろっと落とした。

 アガサが駆け寄り、拾い上げてみると……カミソリには刃がなかった。


「ネガティブ思考、バス・ルーム、カミソリといえば、もうこれしかないでしょう?」


 カミソリの刃を持ったカエンが、石けんの上でくつろいでいる。


「ひひひ、ひどいわ! カエン。どうしてあなたは私を死なせてくれないの?」


「あなたの死は私の死。いくらでも何度でも落ち込んでくださるのは結構ですが、死ぬことだけは許しません」


 涼しそうな声。


「ひひひ、ひどいわ! 鬼!」


「鬼ではありません。精霊です」



 ……どうやら、いつもの漫才である。


 何となく、イミコにカエンという組み合わせも、それはそれでバランスが取れているのかも? と、アガサが思った瞬間。

 カエンが石けんに足を滑らせて転んだ。カエンが持っていたカミソリは宙に舞い、一回転して、カエンの頭に突き刺さった。


「きゃーーーーーー!」


 けたたましいイミコの悲鳴。と同時に、彼女は気を失った。


「い、イミコ? か、カエン?」


 あまりの出来事に、どちらを介抱すればいいのやら、アガサはうろついた。


「まず、これをとってもらえますか?」


 頭にカミソリの刃を突き刺したカエンの姿は、スプラッターというよりもちょんまげのようだった。

 アガサが刃を外してやると、カエンはよこらしょ、とばかりに、両手で頭を押えて貼付けた。

 あっけにとられているアガサのほうに、カエンはこけしのようにくくっと振り向いた。


「まったく。どうして人の形をしているだけで、人間は精霊を自分たちと同じ構造だと思うのでしょうか? 本当に失礼な話です」


 取り澄ました顔で、カエンはひらひらとバス・ルームから出て行ってしまった。


 この騒動で、アガサは先ほどまで考えていたことを忘れてしまった。

 きっと、もう少し考えれば、翌日の更なる騒動は起きなかったはずなのに……。


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