寒中水泳教室・5


 ――ねーさん! 負けるな! 根性だ!


 ……と、フレイの声が響いたような気がした。

 だが、根性があっても水には勝てないらしい。

 溺れて死ぬ人というのは、足が届かないような深い海に入るからだ、とアガサは長年思っていた。

 それに、両親もアガサの胸のあたりに線を引き、それよりも深いところに行ってはダメと言ったものだ。

 だが、なんと足が届く場所でも、胸の線よりも水が少ないところでも、溺れる人は溺れるのだ。アガサも仲間入りである。


 ――焼け焦げ熊ちゃんの次は、ドザエモン?


 だが、アガサが諦めかけたとき、突然、水がぐるぐると渦を巻き、体が持ち上げられた。

 たくさんの気泡がきらきらと舞い、そのうちの幾つかが勝手にアガサの口の中に飛び込み、呼吸させた。

 水は水面から更に高く持ち上がり、竜巻となった。その中心でゆっくり回りながら、アガサは水越しにあたりの風景や青空を見た。


 そして……。


 水を動かしている一匹の精霊。

 青白色の髪と切れ長の細い瞳。アガサには、見覚えがある。


「え? あの精霊は……う、嘘!」


 嘘ではない。

 水の精霊・レインは、ゆるりと水を操っていた。

 体がくるりと回転したところで、アガサは岸辺に立つ水のソーサリエの姿を見たのだ。

 風になびくブロンド。まぶしげに目元に手をかざしていて、顔ははっきりと見えない。

 でも、間違いなくファビアンだった。

 次の瞬間、水の竜巻は方向を変え、ファビアンの近くにアガサを運ぶと、あっという間に形を失い、池の中へと戻って行った。

 しかも、上手にフレイのコップまで、アガサの手の中にきれいに収まっていた。ただし、フレイは中で目を回していたが。

 呆然として言葉を失って突っ立っているアガサに、ファビアンは青い裏地のマントを外して、ふわりと掛けた。


 前にも感じたいい香り。

 薔薇の花のような……。

 そして、地肌に感じるぬくもり。


(はっ! 地肌?)


 アガサはぎょっとした。

 だが、それと同時にファビアンが口を開いた。


「早く服を着たほうがいい」


 ――ぎゃあああ!

 わ、わ、私。体育の授業用水着姿だわ!



 なぜ、ファビアンと出会うとき、アガサはまともな格好でいられないのだろう?

 最初は髭面パジャマ、次はタイツかぶりの忍びの者、そして今度は胸に炎マークのダサダサ水着姿なのだ。

 しかも、アガサの場合、お世辞にも細身とは言えない。大地を踏みしめる太くてたくましい足を持っているのである。

 陸にあげられたコイのように、アガサはパクパクと口を動かした。

 だが、ファビアンのほうは、アガサにマントを貸しただけで身を翻し、無言で小走りにアリのほうへと移動した。

 そして、絨毯の上でぐったりしている彼を抱き起こした。


「ひどい熱だ」


 ファビアンの声で、アガサはやっとアリが風邪をこじらせている事を知った。


 なぜ、気がつかなかったのだろう?

 昨日の時点で、こんこんと咳をしていたし、顔も赤かったり青かったりした。

 なのに、5人揃ってこの冷たい池に飛び込み、その後も濡れた服のまま、空を飛び回った。


 アリはおそらく無理をしていたのだ。

 アガサにお願いされて、断れなくて……。



「わ、私……。どうしよう? どうしよう?」


「君は早く着替えて!」


 動揺してうろうろしているアガサに、ファビアンが短く命令した。

 アガサは、ファビアンのマントを借りたまま、濡れた水着のままだった。


「そのままだと君も風邪をひく。だから、早く。着替えたら中央の医療センターまで一気に飛ぶから」


 そう言いながら、ファビアンはアリの体に絨毯を巻き付けていた。簀巻きのようであるが、それしか風を防ぐ方法がない。

 アガサは、あまりにも冷静なファビアンの命令に突き動かされるようにして、水着を脱ぎ出した。

 が、すっぽんぽんになったところで、服がファビアンたちの向こう側にあることに気がついた。


(げげげ……)


 まさか、服をとってとも言えず、アガサはそっと回り込もうとした。だが、つった足がもつれてしまう。

 どうにかこうにか、ファビアンの後ろを回って服にたどり着いた。

 ほっとして服に手を掛けた瞬間。

 急な突風でがばっとマントが持ち上がった。


 ――あーーれええええええ!


 慌ててマントの裾を押さえ込んだが、間違いなく遅かった。

 この姿には、けして地下鉄の風圧でスカートを持ち上げる女優のような優雅さはない。

 イミコが側にいたら、逆さのてるてる坊主か、頭が寝ぐせで逆立った目玉親父に例えたことだろう。

 そして、カエンに

「イミコ、目玉親父に髪の毛はありません。目玉だけなのですから」

 と、突っ込まれ、ショックで泣き出すに違いない。


 アガサも泣きたいぐらいに恥ずかしかった。

 しかも、誰かの視線を感じていた。

 真っ赤になりながら振り返ると。

 ファビアンはアリの様子を見ているのか、後ろ姿のままだった。でも薄の穂のような色のブロンドの上に、精霊・レインが棒のような足を組み、座っていた。

 彼はにんまりと笑い、今更ながらに細長い指先の手で、自分の目を覆ってみせた。

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