アガサ、忍びの者となる・4


 図書館からは、かすかなインクのにおいがした。

 もっと強く香っているのかもしれないが、鼻まで押さえられたタイツのせいで、それほど感じないのかもしれない。

 ほどよい湿気のせいか、ひんやりとした空気が流れ、汗だくのアガサには心地よく感じられた。


 抜き足・差し足・忍び足……。


 アガサはそっと奥に進んだ。

 暗闇に目が慣れていたせいで、本棚などはぼんやりと見える。かなりの数で、どこに何の本があるのか検討もつかない。

 しかし、フレイは過去の記憶を思い出したのか、アガサを目的の本棚まで真直ぐに導いた。

 その途中、時々ろうそくの光を見た。

 見ると、本棚の影に隠れて本を読んでいる生徒たちがいるのだ。

 彼らは黒いマントを着ているので、あまりよく姿が見えない。しかし、そのマントの裏地が、燃えるような赤だったり、爽やかな青だったり、萌立つ緑だったり、鮮やかな黄色だったりする。それが、時々目につくのだ。

 ジャン‐ルイが、はじめて会ったときに着ていたものと同じ……それに、学長室で会ったファビアンとも……。

 マントは、3年生以上のソーサリエが着用する、いわば、属性を見分ける制服なのだ。


「今はもう閉館の時間なんだけれど、ここの本は持ち出し禁止だから、熱心な生徒が忍び込んで勉強しているってわけさ。学校側もそれを大目に見ているけれど、火の管理は大事だから、水のソーサリエたちが当番制で監視している。見つからないようにな……」


 フレイが小声で言った。


「それに、水のソーサリエに見つかったら……あぶねーからな」


「うん、わかった」


 アガサは小声で答えたが、本当の危険の意味を知るのは、もう少し後になってからである。



 ついに目的の本にたどり着いた。


「ねーさん、人の気配はしないか?」


 フレイは珍しく神経質になっている。羽根をブルブルと揺らしながら、目もきょろきょろとさせている。


「大丈夫みたい」


「監視係は、精霊の明かりだけで動いているし、本を読んでいるヤツラみたいに一ヵ所に留まっちゃくれねぇ。気をつけろよ!」


 うるさいフレイを無視して、アガサは本を取り出し読み始めた。

 頭に叩き込まなければ! と思ったが、その気力は疲労困憊と眠気に時々阻害された。


『火をつけるには、火の精霊の力を利用して、それを制御しなければならない。しかるに、精神力が問題となり……』


 コクリ。


『強く念じることは禁物であるが、念じる力が足りないと火はつかない』


 コクリ。


『つまり、火をつけるには火の精霊の力は微弱でいいのであり……』


 コクリ。


「ちょっと! ねーさん! 眠っている場合かよ!」


 フレイがそう怒鳴って、アガサの頬にキスをした。


「あちちちちっ!」


 突然、頬に火を押し付けられたような熱さを感じて、アガサは手を払った。

 しかし、フレイはすでに学習していた。同じ手は食わないとばかりに、アガサの手をかいくぐり、アガサの膝の上にある本の上に着陸した。


「アガタ! しっかりしてくれよ! 眠気ぐらいこらえろよ!」


 とは言われても。

 ここまで来るのに体力を使い果たしている。

 今日一日で上った階段の数は計り知れない。カエンがいたならば、丁寧に数えてくれたかもしれないが。

 さらにケンスイのごとく階段ぶら下がりと、激しい踊りである。

 それに、まずい食事は食欲がわかず、ここにきて、アガサはおなかがすいていた。

 眠い要素はたくさんあった。


「ううう、ごめん。フレイ。また眠りそうになっていたら、起こしてね」


 と、情けないことをいうアガサであった。


「ううう、しょうがないねーさんだなぁ!」


 仁王立ちになって、フレイは文句を言った。


 そのとたん。


 アガサは目を疑った。

 フレイの足元の本が黒く変色したかと思うと、メラメラと燃え始めた。


「フレイ! 本が!」


「え? 何、何だよ!」


 不機嫌そうなフレイの髪は、いつもよりも赤みを増し、さらに量が増えている。


「本が燃えているよ! フレイ!」


 え? とばかりに、フレイは飛び上がった。

 アガサは慌てて本を膝の上から払うと、マントを取り、必死になって本の火を消そうとした。

 しかし。

 アガサは回りが急に明るくなったことに気がついた。

 なんと、フレイが大きくなっていた。炎をまとってさらに大きくなりつつある。

 しかも、横にある本棚が燃え始めている。

 その様子に、フレイは自分に何が起こっているのかわかったたしく、大声で怒鳴った。


「アガタ! まずい! 近くに水のソーサリエがいる! 早くおいらを抑えて!」


「抑えてって言っても、どうやって!」


 やっと本の火を消し止めたアガサは、次に何をすればいいのかわからない。


「どうやってって言われても、おいら、火のソーサリエじゃないから、わかんねーよ!」


 そう泣きそうな声を上げながらも、フレイはますます膨張した。


 遠くから声が聞こえた。


「なんです? いったい何事です!」


 監視係の水のソーサリエの声に違いない。ばたばたとこちらに近づいてくる。

 これだけ騒いでいたら、もう見つかるのは間違いない。いや、それよりも、火を消さないともっとまずい。

 フレイは燃え盛る髪を振り乱して叫んだ。


「ダメだ! アガタ! これ以上、水のソーサリエを近づけさせるな! おいら、対抗して爆発しちまう!」


 とは言われても、燃え始めた本棚をどうにかしなければならないし、どんどん大きくなってしまうフレイを抑えなくてはならない。

 アガサは、おどおどするしかなかった。


 どうしよう?

 どうしよう?

 どうしよう!


 アガサにはできることは何もない。

 ソーサリエなんかじゃないから、フレイをどうすることもできない。

 そう、ソーサリエなんかじゃないから。


 フレイは、もうすでに人間の大きさになっていた。

 それと同時に、火の手はどんどん大きく広がってゆく。


「アガタ! おいらを抑えるんだ!」


 どうやって? アガサは泣き出した。

 このままでは、図書館……いや、学校中に燃え広がってしまうかもしれない。


「ごめん! フレイ! 何もできない私を許して!」


 アガサは泣きながら唐草風呂敷をフレイに押し当て、その上から抱きついた。

 ソーサリエでないアガサには、火を小さくする方法なんて、それぐらいしか思い当たらない。

 一か八か。それしかない。


「ばかヤロー! ねーさん焼死する気か!」


 フレイの叫び声と同時に、頭に被ったタイツの溶ける音がした。

 じりじりじり……と。焦げた臭い。そして、強い痛み。


 う、うわ!

 あ、熱い! 熱い! い、痛い!


 火事の時。

 フレイの炎は優しかった。

 火からアガサを守ってくれた。

 でも……それは、マダム・フルールをはじめとするソーサリエたちの力がフレイに作用していたからなのだ。

 熱さで飛び上がりそうな体を、ますますフレイにしがみついて、アガサは目をつぶって堪えた。

 ソーサリエではないアガサには、フレイの力を抑えることはできない。

 自分の情けなさに涙が止まらない。


「いっそ、涙で弱ってよ! フレイ」


 今や人間大のフレイの首にしがみついて、アガサは耳元で叫んでいた。

 涙はフレイの肩や髪に落ちているはずなのに、ただ、じゅわっと蒸発するだけ……。

 火はますます強くなる。

 目を硬くつぶり、アガサは歯を食いしばって痛みに堪えた。

 そして、何度も何度も、心に念じた。


 お願い! フレイ!

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