5話 幻術の沼

1 姿なき襲撃

 盛夏



 アイマール王国の気候は温暖、夏は旅人に優しくない季節だ。

 俺達はレーレを送り届けるために北へ向かっているが、とにかく暑い。


 こんな日はまともに歩いていては倒れてしまう。

 早朝から歩き、日中は休む。この様に体力を保つ工夫をしながら旅人は歩くのだ。


「それにしても暑いなあ」


 俺の胸ポケットからレーレが声を上げた。

 彼女は涼しいうちはシェイラに張り付いてお喋りをしていたが、日差しが強くなり「ポケットの中の方がまし」と隠れていたのだ。


 俺はじっと、レーレを見つめた。


 実はあれ以来、レーレ様は降臨なされていない。

 ホッとしたような残念なような複雑な気持ちである。


 酒に酔えばどうかと思い何度か勧めてみたものの、あれ以来、何故かレーレは酒を一滴も飲まなかった。


 男女3人が一緒に旅をするのだ、色は無しの方が気が楽ではあるし、トラブルも少ないに決まってる。

 だが、もう一度だけでもいい、レーレ様の容赦の無い責めを味わいたいものだ……クセになったかな。


「ん? どうしたの?」


 俺がじっと見つめていると、胸ポケットから首だけ出したレーレが首をかしげた。

 どうしたも何もお前が開発した体がうずくと言ってやりたいのだが。


「なんか変だな、2人とも何か怪しいぞ」


 何かに勘づいているのか、シェイラが不機嫌そうに耳をヒクつかせている。

 最近気づいたが、彼女はストレスを感じると長い耳が後ろに倒れ気味になるようだ。


 レーレが「何が怪しいの?」と尋ねるが、シェイラはぷくっと膨れたままだ。56才の癖に子供、不思議な生き物である。


「分かんないよ! でもエステバン変だっ!」


 シェイラがヒステリックに大声を上げた。

 女ってやつはこれだから困る。どうでも良いことばかり勘が良く、無遠慮にこちらの事情を詮索してきやがる。

 さすがに俺とレーレには体格差がありすぎるために関係を測りかねているようだが、油断はできない。


 俺が偏見に満ちた視線をシェイラに向け、小さく舌打ちをする――まさにその瞬間、凄まじい豪雨が起きた。


 ……バカな!? 雲一つ無い晴天だったろうが!


 俺は慌ててシェイラの手を掴む。凄まじい雨音で互いの声が聞こえない。

 これでは側にいてもはぐれてしまう。


「――っ! だ――」


 シェイラが何かを訴えてくるが、全く聞こえない。

 彼女は必死で何かを伝えようと指で示す。


「――ンッ!! う――ろだっ!!」


 どうやら後ろを指差しているようだ。


 ……後ろ? 後ろに何が?


 振り向くと、そこには大きな醜い鱗のある青色ネズミが鉤爪を俺に振り上げていた。

 アヴァングと言う水辺のモンスターだ。


 ……何だこれは!? アヴァングがこんな平地にいるだと!?


 俺は咄嗟とっさに蹴り付けると、不思議な手応えと共に100センチサイズのネズミが消え去った。


 その感触に違和感を覚えたものの考える暇はない。

 周囲からはアヴァングがぞろぞろと現れたのだ。


 アヴァングはその鉤爪を誇示しながら、じりじりと包囲を狭めてくる。

 その数は20や30では利かない。


 ……まさか、アヴァングが大規模な群れを作るなんて聞いたこと無いぞ!


 こいつらは本来は水辺に棲息し、獲物を水に引きずり込んで補食するモンスターである。

 つがいで行動することは知られているが、群れをなす例は無いはずだ。


 だが『無いはずだ』と言っても目の前にはアヴァングの大群が存在している。

 その数は増える一方だ。


 俺はシェイラの手を引いて走った。

 アヴァングは肉食で素早く危険なモンスターだ。とても相手をできる数ではない。


 雨足は一向に弱まらず、いつの間にか周囲は水溜まりになっている。


 ……糞っ、このままじゃ不味いぞ、シェイラだけでも逃がすか……?


 剣を振り、魔法で威嚇しながら俺たちは逃げ続けた。

 アヴァングは必ず一方向だけ包囲を空けており、俺たちはそちらに逃げる事しかできない

 妙に組織的な動きだ。どこかに誘導されているような気がしてならない。


 ネズミごときが組織的な狩りをするはずがないとも思うが、事実として俺たちは徐々に追い詰められている。


 俺は嫌な予感に囚われた。




――――――




 どれだけ走らされたのか、雨はピタリと止み、アヴァングの大群は姿を消した。

 アヴァングが襲撃を諦めたにしても色々と不自然すぎる。


 ……一体、何だったんだ? ここはどこだ?


 俺は弾む息を整え、慎重に周囲を警戒する。


 ここは見知らぬ湿地帯だ。木々が鬱蒼うっそうとしており、見通しが悪い。

 かなり街道から離れた場所のようだ。


「――バンッ! エステバン!! 正気に戻ったの!?」


 胸ポケットからレーレが声を上げた。

 彼女はポケットの中から俺の胸を叩いている。


「正気に?」

「そうだよっ! 2人ともいきなり大声を上げて走り出したんだ!! まるで戦ってるみたいに!」


 俺はレーレの言葉で自分の姿を確認した。雨の中を走り続けたはずなのに濡れていない。

 ただ足元だけが湿地の泥を跳ねて汚れていた。


「どういうこと?」


 シェイラが不安気にこちらを見てくるが、彼女も濡れていない。

 ならば雨は降っていなかったのだろう。


「幻術だ、それもかなりの腕前……」


 俺はゴクリと唾を飲んだ。

 どこからどこまでが幻覚か全く判断がつかない。

 ひょっとしたら、この湿地帯すらも幻覚かも知れなかった。


「幻術? でも、全く気づかなかった」

「当たり前だ。幻術ってのはそう言うものだ、俺には今話しているシェイラが本物かどうかすら判断がつかない」


 シェイラは「本物だよっ」と慌ててくっついてきた。

 俺たちは互いに軽く抱き合い、存在を確認する。


「ちゃんとエステバンだ。良かった」

「ああ、だがやばいぞ。とんでもない相手に狙われてる」


 これほどの幻術はただ事ではない。使い手は並の相手では無いだろう。


 シェイラは俺の言葉を聞き、腕にぎゅっと力を込めた。


「大丈夫だ。先に進もう」


 俺はシェイラの手を引き、先へ進む。


 俺たちは幻覚に誘導され、ここまで来た。

 幻術使いの意に反して引き返すと、また同じような目に遭うかもしれない。

 先に進むしか無いのだ。


 ……毒食らわば皿までか、こりゃヤバイな。


 薄暗くなってきた先には数台の幌馬車とキャンプの火が見える。


 鬼が出るか蛇が出るか――そもそも、あれも幻覚かもしれない。

 俺は気を引き締め直してキャンプに近づいた。





■■■■■■



アヴァング


水辺に棲息する肉食モンスター。

エステバンはネズミと表現したが、尻尾がヒレになっており、どちらかと言えばビーバーに近い姿をしている。

全身に青黒い鱗が生え、大きな鉤爪で素早く家畜や人間を襲い、水中へ引きずり込む。

危険な存在だが、鉤爪や鱗は工芸品に加工され肉は食用となる。そのため危険度の高いモンスターでありながら冒険者に乱獲され、徐々に数が減りつつある。

肉は固くてクセがあり不味いとされているが、尻尾の肉はコラーゲンたっぷりでぷるぷるとした食感をしており珍味として知られている。

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