第8話 長月
百合子が亡くなってから三日後。中津川守は学校の音楽教室にいた。演奏の練習をする訳でも無く。熊本元康、彦根五郎と三人で無為の時間を過ごしていた。
「徹やんも。はるやんも。もう文化祭で演奏って気分じゃないよね」
熊本元康が大福を頬張りながら、口についた粉を舐める。
丘の上はるがなぜ一度断ったボーカルを引き受けたのか。その事情を守達は高坂徹から聞いていた。
「せやなあ。徹っちのお袋さんの為に歌うはずやったのに。本人が亡くなったら歌う意味ないし」
彦根五郎も元康のおやつの中からバームクーヘンを頂いていた。
勿論、徹も母親が亡くなったばかりで文化祭どころじゃないだろう。
「仕方ないさ。潔く演奏は諦めようぜ」
守は窓の外を見ながら、ため息混じりに呟く。今日の空は珍しく曇が優勢で太陽を隠していた。気温も下り残暑らしく過ごしやすい陽気だった。
その時、教室の扉が開いた。はると徹が揃って教室に入って来た。
「皆。練習三日も休んでごめんね」
「同じく。私もサボってごめん」
徹とはるが、矢継ぎ早に謝る。
守が一呼吸置いて遅れて入って来た二人に向き合う。
「高坂。丘ノ上。今、熊本と彦根とも話してたんだけど。もう文化祭の演奏は······」
「やるよ」
はるが即答する。
「え?」
驚いた守は声が裏返ってしまった。
「私も高坂も文化祭の演奏やるよ。その為にここに来たんだから」
はるの思いがけない言葉に中津川守、熊本元康、彦根五郎は戸惑う。
「まだ丘ノ上はともかくとして。高坂。お前は大丈夫なのか?」
心配そうな表情の守の問いに徹は頷く。
「大丈夫だよ。丘ノ上とも話したんだ。母さんの為にも精一杯演奏しようって」
守、元康、五郎は、さっき迄の沈んだ表情から見る見る内に快活な顔になって行く。
「皆に一つだけお願いがあるの。演奏予定の曲をニ曲増やして欲しいの」
はるはそう言うと、カバンから二枚の楽譜を取り出した。
机の上に置かれた楽譜を、守。元康。五郎は食い入るように凝視する。
「高坂のお袋さんの為に歌う曲だな?」
守は高坂とはるの意図をすぐ理解した。そのはると高坂が頷く。
「私がボーカルをやろうと思ったのは、高坂のお母さん。百合子さんの為なの」
元康と五郎も神妙に頷いている。
「だから文化祭の演奏は最後まで百合子さんの為に歌いたいの」
背筋をピンと伸ばしはるは宣言する。それは徹の好きな。堂々としたいつものはるらしい立ち姿だった。
「よし! 文化祭まで練習時間は足りないかもだけど。やるだけやろうぜ」
バンドのリーダーである守が、演奏練習の再開を宣言した。
「そうだね中やん。可能な限りやろう」
「こりゃ休みも返上せんと間に合わへんな」
元康と五郎が練習を始める前におやつを口に詰め込んでいく。徹は火葬場から帰宅した時の事を思い出していた。
徹の自宅前には、中津川守。熊本元康。彦根五郎の三人が立っていた。母を亡くした徹を心配しての事だった。
三人は口数少なく、百合子に手を合わせ帰って行った。その様子を見ていた徹の父は、息子の友人達を賞賛した。
「丘ノ上さんのお嬢さんもそうだったが。人が亡くなってすぐに駆けつけると言うのはなかなか出来る事じゃないよ」
徹はいい友達がいる。父は息子にそう言った。
徹ははるを見た。今から格闘技でもするのかと思わせるような柔軟体操をしている。
守を見ると、大海原うみのグラビアが掲載されている雑誌を名残惜しそうにカバンにしまっている。
元康と五郎はあと一口だけといいながら、おやつであるお菓子を食べ続けていた。このメンバーで演奏が出来る。母。百合子の為に。
徹は自分は恵まれていると思った。それは母の死から初めて自分の事を考える事が出来た瞬間だった。
お盆休みが明けてからは、それまでの酷暑が嘘のように過ごしやすかった。また八月の残り半月で、台風が合わせて五個も発生するという記録的な残暑にもなった。
正式に決まったバンド名。セプタンブルのメンバーは、連日練習と夏休みの課題に忙殺された。
茶髪とピアスの少年は、丘の上はる若しくは高坂徹に課題を写させて貰うつもりだった。だが、両人とも課題に手をつけてないという有様だった。
「夏休みの課題は計画的に片付けないと駄目だろう」
まるで説得力の無い言葉を吐いてしまったセプタンブルのリーダーは、はるから冷たい目で睨まれた。
夏休みが明けて学校が始まっても、メンバー達は休みぼけをしている暇さえ無かった。演奏当日の段取り。曲順。衣装。文化祭実行委員会との折衝。
五人は目の回るような日々を過ごし、あっという間に文化祭前日になった。
文化祭を明日に控えた土曜日。学校は休みの為、部活動で登校している生徒以外、校内の人影はまばらだった。
はるの通う丘登園高校は文化祭前後の前夜祭、後夜祭が無かった為、生徒達は当日の一日に楽しみの全てを委ねるのだった。
はる達セミタンブルのメンバーは体育館にいた。担任の各務勤を加え、明日の演奏の為の準備をする為だ。
各務が指示を出しながら、必要な機材を設置し配線を繋いでいく。
「これは、なんて機械?」
見慣れない機材の数々に、はるは質問しか出来ない。
「ミキサーっていう機材だよ。はるやん」
ミキサーは音を混ぜたり、切り替えたりする機器だと熊本元康が教えてくれた。
首に掛けたタオルで汗を拭う今日の元康のTシャツの文字は〔夕日は何を教えてくれる?〕だった。
男子達がギターやベースのアンプを運んでいく。
「はるっち。これ渡しとくで」
彦根五郎がイヤホンがついた黒い機材を渡してきた。
「これ。イヤホン?」
「イヤーモニターっちゅうんや。これ付けとけば演奏中も自分の声が分かるで」
「へー」
音響機器にまるで無知のはるは、ただ頷くしかなかった。
「俺はマイク要らないって」
ピアノ用のマイクスタンドを設置する際、徹が抗議していた。
「形だけだって。別に歌えとは言ってないからさ。マイクのトラブルを考えて、出来るだけ多く用意しときたいんだ」
守が分かりやすく徹に説明する。確かに、ボーカルのはるが使用するマイクが故障した時、予備のマイクは必ず必要だ。徹は渋々了承した。
『本当に歌うのが嫌なんだなあ』
はるはその様子を見ながら高坂に歌をリクエストした事を思い出した。自分は徹に嫌な思いをさせたのかと反省する。
機材の設置が終わると、各務がミキサーを操作し音響の調整が始まった。
セプタンブルのメンバーは全員体育館の壇上に立ち、マイク、楽器の音を調節していく。
はるはリハーサルさながらの徹達の演奏を背に、歌ってはまた止め。音の調節をしていった。
時計が十六時を過ぎた頃、メンバーは明日の為の打ち合わせを始めた。
「皆の衣装なんだけどさあ」
守が申し訳無さそうにメンバーに話す。演奏当日の衣装は、各自持ち前の服を守の母が補正。飾り付けする手はずだった。
すでに一週間前に守が皆から服を預かり、今日それを渡す筈だった。
「うちの母ちゃんが、納得できる出来になってないって」
守は両手を合わせて謝罪した。今夜皆の衣装を仕上げて、文化祭当日の明日届けるとの事だった。
「いいじゃない中やん。明日。間に合えば問題ないよ」
着ているTシャツが汗で重たそうな元康が優しく言った。
「そやね。好意でやってくれるマモーのお袋さんに感謝せな」
指を擦りむいたのか、五郎はバンドエイドを貼りながらフォローする。
「で。丘ノ上に頼みがあるんだか」
肩と背中のストレッチをしていたはるは、守の言葉を聞いてなかった。
九月も上旬になると、日が傾くのが少しずつ早くなったような気がした。夏の盛りは十九時くらいまで明るいというのに。はるの好きな夏が、終わって行こうとしていた。
そんな感傷的な気分の時に、なぜかはるは茶髪とピアノの少年と一緒に下校していた。
「疲れてる所悪いな。丘ノ上」
守が申し訳無さそうに片手を上げて謝る。
「いいよ。中津川の家、そんな遠くなさそうだし」
衣装を仕立てている守の母が、どうしてもはるの寸法を確認したいと言ってきたのだ。
「うちの母ちゃんも無駄にこだわりがあって」
そう不平を漏らしながら守は内心落ち着かなかった。はると二人きりになるのは初めてだったからだ。
守は自分の気持ちに気付いてから、何か意思表示をしなければと思いながらも、バンド内で色濃い沙汰は危険だと用心していた。
事実。自分達と同じように文化祭で演奏する予定だったもう一組のグループは、メンバー内の惚れた腫れたで崩壊してしまったのだ。
『今は駄目だ』
それが守の結論だった。何かするにしても文化祭の演奏が終わった後。茶髪とピアスの少年はそう真面目に考えていた。
守がもう一つ気になっていたのが、はると徹の関係だった。
そもそも、はるがボーカルを引き受けたのは徹の母に息子の晴れ舞台を見せる為だった。その過程ではると徹が親密になるという可能性はないだろうか。
守から見て今の所はると徹が特別親しいとは感じなかった。
守がそんな事を取り留めなく考えている内に、二人は守の自宅についた。守の自宅は一階が美容院になっており、二階が自宅になっていた。
「あんたの家って。美容院やってるんだ」
守の自宅兼美容院の建物を眺めながら、はるが以外そうな顔で守を見る。
「ああ。自営でお袋がな」
守は素っ気なく答える。美容院の入り口の上の看板には〔 Croix du Sud 〕という文字が書かれていた。
「これ。なんて意味?」
年季の入った木製の看板を見上げながら、はるは守に質問する。
「ああ。クロワ・デュ・シュッド。フランス語で南十字星って意味だ」
店の中に入ると、座り心地の良さそうなピンクのソファーが置かれていた。背の高い観葉植物とレジが置かれているL字カウンターの奥に椅子とシャンプー台がニ台あった。
店内は落ち着いた色合いで統一されており、所々にぬいぐるみや小物が配置されていた。はるは小さな雑貨屋に来たような気分になった。
「可愛いお店だね」
はるがそう言うと、守が答える前に自宅の台所と繋がっている扉が開いた。
「守。帰ったの?」
金髪の長い髪を後ろで束ね、縁無しメガネを掛けた四十代と思われる女性が現れた。
「あら。あなた。もしかして丘ノ上はるさん?」
洗い物の途中だったのか、豹柄のエプロンで手を拭きながら女性ははるに問いかけてきた。
「母ちゃん。リクエスト通り丘ノ上連れて来たぞ」
守がはるに自分の母親を紹介した。
「ごめんなさいね。ご足労頂いて。どうしてもアナタの寸法を確認しときたくて」
「いえ。こちらこそお世話になります」
はるが守に預けた服は衣装としてはインパクトに欠けると守の母は判断し、自分でオリジナルの衣装を作ると息巻いたのだ。
「服作るの好きなんだ。うちの母ちゃん」
守の母ははるの周囲を回りながら、はるの身体を無遠慮にチェックする。
「あなた。スタイルいいわね。娘の場合、父親似が多いけど。お父さんも?」
「いえ。うちの父は胴長短足です」
はるは迷わず即答した。
「あら。じゃあお母さん似ね。いい方に似て良かったわね」
守の母は片目を閉じて笑みを浮かべた。
「早速測らせてもらうわね」
はるが預けた自前の服でサイズは概ね分かっているので後は服の調整のみ。との事だった。
「なにしてんの守。女子が身体のサイズを測るんだから。男子はあっちへ行く」
指を指され。言われなくとも、と守は台所へ向かおうとした。その時、はるの衣装と思われるショートパンツが目に入った。
「ちょっと待て母ちゃん。このショートパンツ。足が出過ぎだろ!」
明日はるがこのショートパンツを履いて体育館の壇上に立つ。観客の男子達がはるの足をスケベな目で見る事を想像すると、守の嫉妬心に火がついた。
「はあ? 何言ってんのアンタ。これくらい普通よ。ねえ? 丘ノ上さん」
そう言いながら、守の母がショートパンツをはるに当てて見せる。
「よく分かんないけど。涼しそうでいいと思います」
「駄目だ駄目! 丘ノ上。嫁入り前の娘が言う事じゃないぞ!」
「アンタは箱入り娘の父親か!」
母親に怒鳴られ守は怯んだ。
ブツブツと小声で文句を言いながら仕方なく台所に向かおうとした息子に、母は思い出したように声を掛ける。
「日菜子からの手紙。ちゃんと返事だしなさいよ!」
息子から「へーい」とやる気の無い返事が帰ってくる。
長くもないサイズ調整が終わり。守の母に手作りタルトをご馳走になった後、はるは中津川家を後にした。
外に出ると、夕焼けが雲を紅く染めていた。はるが記憶している予報では確か明日も快晴らしい。
「一人でいいのに」
はるが隣で歩いている守に言った。
「夜に女子一人で帰らせたら。母ちゃんに殴られる」
両手を頭の後ろで組み「本当なんだからな」と
守はブツブツ言っている。
「中津川のお母さんが言ってたけど。あんた妹いるんだね」
寸法を測っている間、お喋りな守の母君は色々とはるに吹聴したらしい。
「中学生なんだけど、イジメで学校行けなくなってさ。今、長野の爺ちゃんの家にいるんだ」
守の妹。日菜子は祖父の住まいの近くにあるフリースクールに通っているという。幸い少しずつ明るさを取り戻しているらしい。
はるは以前から中津川のクラス内での行動を観察していた。今日、守の自宅を訪れ、その行動理由が明らかになった。
「あんたがクラスで目立たない子に声をけてるのって。その子がいじめられない為?」
普段。観察癖があるはるにとって、それは確信を持った質問だった。
「別に。そんな格好いいモンじゃないさ。たださ。いじめなんて下らない事、起こらないのに越した事はないだろう」
守は顔をはるとは逆の方向を向け、その表情を悟られまいとした。
はるはやはりそうだったと内心で納得していた。守は妹の日菜子の事があり、クラスでいじめが起こらないように立ち回っていたのだ。
以前、熊本元康と彦根五郎が誤魔化していたが、元康と五郎をいじめから助ける為バンドに誘ったという話も真実だろう。
はるは守を見つめる。軽薄な奴と思っていたが、妹思いの優しい兄という一面もあったのだ。
「中津川。私。アンタの事······」
夕暮れの帰り道、はるが神妙な面持ちで守を見つめる。
「え?」
中津川の鼓動が元気良く振動する。
『コイツ、改まって俺に何を言うつもりだ?』
急に心臓が忙しく運動を始める恋する少年に、少女は浪漫の欠片も無い言葉を浴びせる。
「頭軽くて。調子良くて。いいかげんな奴と思ってた」
「ちょっと待て! 全部悪口じゃねーか!」
すぐさま抗議する守に、はるが一歩近づく。
「あんたって。結構いい奴だね」
はるは笑顔で守にそう言った。
守の鼓動が激しい振動から、締め付けられるような痛みに変わった。
守にだけ向けられたはるの笑顔。その笑顔を見るのは二度目だった。
だか一度目より二度目の笑顔のほうが、比べ物にならないくらい可愛く守には見えた。守は今、告白するべきだと思った。
告白にはタイミングがある。それを逃すと上手くいく物も行かない。今が絶好の好機だと。
守は軽く深呼吸をして真剣な顔ではるを見た。
「丘ノ上! 俺······」
何かを言いかけた守の口が停止した。はるは夕焼けを見上げていた。夕日に紅く染められた雲はその面積を広げ、空一面紅く染めようとしていた。
それは、一枚の絵画のように美しい光景だった。
好きな娘が夕焼けを見ながら目の前で立っている。それは守にとって、どんな名声を得た絵画より価値のある絵のように思えた。
「ん。何?」
はるが空から守に視線を移す。
「あ。明日は遅刻すんなよ」
守は伝えたい事とは無関係な言葉を口にしてしまった。
「セプタンブルの遅刻王に言われたくないんだけど」
はるの言う通り、守は練習に度々遅刻をしていた。
「知ってたか? うちのメンバーで俺の次に遅刻が多いのはお前だぞ」
はるがそんな筈が無いと必死に抗議する。
守はなぜか泣きたい気分になった。必死でその気持ちを押さえる。
それは告白出来なかったからか。はるとのこの時間が愛おしかったからか。茶髪とピアスの少年は、その答えを出す事が出来なかった。
人生の中でほんの短い。本当にごく短い期間。好きな人を純粋に想える貴重な時間の中に、守はその身を置いていた。
夕日がさらに傾こうとしている中、守とはるは、憎まれ口を言い合いながら緩やかな登り坂を歩いて行った。
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