第9話 長月②

 文化祭当日、その日も空は快晴だった。暦ではもう秋だか、夏がその季節の終わりを名残惜しむように気温を上昇させる。

 

 十七歳の少女、丘の上はるは普段と変わらない様子で朝食を食べている。今日は日曜日なので近所もまだ静かな様子だ。

 

 父の心太がいつものだらしない格好で部屋を行ったり来たりしていた。

 

「はるのクラスはエコ喫茶店なんだってな。ウェイトレスとかやるのか?」

 

 「やらない」と言うはるの返事を聞き流した心太は、ある疑念を抱いていた。

 

 人付き合いが皆無の娘が、連日遅くまで外出していた夏休み。はる本人は文化祭の準備と補習と言っていたが怪しいと父は疑っていた。

 

 はるの周囲に男の影がちらつく。心太は色々な意味で娘を心配していた。

 

「はる。お父さんがはるに彼氏が出来たんじゃないかって心配してるわよ」

 

 心太は内心で絶句する。少しずつ遠回しに聞こうと思っていたのに、妻の幸恵の一言でその計画が一瞬で破壊された。

 

「いないよ。彼氏なんて」

 

 娘の答えを聞いた夫は、妻の破壊行為に心から感謝し、安心して朝食を食べ始めた。年頃の娘に恋人が居ても居なくても。父親の心配は尽きないのだった。

 

「高校を卒業したら自立して生きて行けって言う割には、これだもんね」

 

 母の幸恵が半ば呆れたように呟く。

 

「私が家出てく時。父さん泣くかな?」

 

 娘のはるは意地悪く微笑む。

 

「絶対泣くわね」

 

 幸恵は予言にもならない、と言うような表情をした。その父は、三年漬けた梅干しが酸っぱかった様子で顔をしかめていた。

 

 

 学校の校門には、文化祭らしい手作り感のある飾り付けが施されていた。


 「第五十二回 丘登園高校文化祭」ベニヤ板に貼られた紙に書かれたその文字は、間違いなく今日ここで賑やかなお祭りが開かれる事を見るものに知らせていた。

 

 丘の上はる。中津川守。高坂徹の三人は、バンド演奏の為クラスの出し物であるエコ喫茶店の仕事は免除されていた。

 

 三人は話し合い、せめてクラスの皆に差し入れをすると言う事になり、はるが代表でお菓子が入った袋を教室に届ける事になった。

 

 校内には放送部が流すクラシックの音色が聴こえている。

 

 各所で賑やかな声が沸き。廊下は友達同士。恋人同士達が楽しそうに歩いている。どこかの出し物か、動物の着ぐるみを着ている生徒もいた。

 

 はるのクラスのエコ喫茶は教室を中央で仕切り、二つの入口はお客用とスッタフ用に分けられていた。

 

 はるはスタッフ用の入り口から入ろうとした時、扉からクラスメイトの多々野薫が出てきた。

 

 多々野薫は白とピンクのチェック柄の服の上に、白いエプロンをしていた。腕の怪我がすっかり癒えた薫は、今日はエコ喫茶のウェイトレス店員だった。廊下に水を汲みに行く途中、入り口ではると遭遇した。

 

「丘ノ上さん。どうしたの?」

 

 ウエイトレス姿の薫は笑顔をはるに向ける。

  

「うん。クラスの仕事出来ないから、お詫びの差し入れ持ってきたの。その格好。似合ってるね」

 

 はるはお菓子が入った袋を薫に渡しながら微笑して答える。

 

「ありがとう。でも、三組も喫茶室でうちと被ってるの。しかも松高慶子さんがウェイトレスやってるから。皆そっちに行くかも」

 

 学年一の美女がウェイトレスをやる噂は真実だったようだ。

  

「多々野さんだって負けてないと思うよ」

 

 それを聞いた薫は数秒沈黙した後、花が咲いたような笑顔を見せた。

 

「ありがとう。私頑張るね! あ。午後からのバンド演奏。必ず見に行くから!」

  

 薫のおかげて、セプタンブルの演奏は観客ゼロを回避できそうだった。

 

 

 茶髪とピアスの少年は、セプタンブルの遅刻王の名に恥じない行動を見せた。

 

 体育館のステージ横にある舞台の袖に中津川守が現れたのは、集合時間を二十分過ぎた頃だ

った。

 

 悪びれず笑顔で挨拶をする守の前に、見慣れない男が二人立ってた。

 

 他校の制服を着ているその男達は、年齢こそ守達に近いように見えた。だが眼光鋭く、胸は厚く腕も足も太かった。


その見事な体躯は、何か格闘技でもやっているかのようだった。

 

「マモー。また遅刻やで」

  

 彦根五郎が煎餅を食べながら守を責める。

 

「中やん。今日くらいは時間守ろうよ」

 

 熊本元康は流れて出る汗をタオルで必死に拭いている。

  

「わ、悪いな。で。この人達誰だ?」

 

 守が高坂徹に訪ねた。徹が口を開く前に、鋭い声が返ってきた。

 

「押忍! 自分は千代ケ丘といいます」


「押忍! 自分は片平といいます」

 

 二人の威勢の良い声に守は怯む。

 

「厳ついのが健太。ごっついのが健二よ」

  

 はるが簡潔に二人を紹介する。


『お前は国語を小学生からやり直せ』


 守は、はるの説明になっていない紹介に心からそう思った。そして内心で呟く。


『どっちも厳ついし。ごっついじゃねーか!』

 

 健太と健二は年齢ははる達より一つ下。幼少の頃からはると同じ空手教室に通っている昔馴染みらしい。


 二人ははるが通う学校の文化祭に遊びに来たのだが、バンド演奏をする事を知り何か手伝いたいと言って聞かないらしい。

  

「まさか。はるちゃんがステージで歌うなんてビックリしたよ」

 

 厳つい方が顔に似合わず可愛い声を出した。

 

「俺達に一言も言ってくれないしさ。先輩達も、はるちゃんには手を焼いているんじゃないですか?」

 

 ごっつい方がこの機に溜めている不満を漏らそうとした。

 

「だよな! コイツ。本当に無愛想な女だよな」

  

 守がそれに乗っかろうとした時、健太と健二の空気が突如変わった。

 

「先輩。それはちょっと言い過ぎじゃないですか?」

 

 厳つい方の目が据わる。

 

「す、すいません」

 

 守が即座に健太に謝罪する。

 

「そうッスよ。こう見えて、はるちゃんは情に深い所もあるんです。あれは、まだ自分が空手教室に通い始めた頃の事です」

 

「健坊! 余計な事言わない」

 

 ごっつい方が昔話を口にしようとした時、はるの怒鳴り声が舞台の袖の中に響いた。


「押忍! スイマセンでした」

 

 ごっつい方が口を閉じる。その後、健二がはるの前に立ち、目を閉じ歯を食いしばり両手を後ろで組んでいた。


 その光景に 守は、この体罰上等体育会系の連中の世界に関わりたくないと心から願った。

 

「健太君と健二君には、映像記録係をやってもらったらどうかな?」

 

 高坂徹がズレた眼鏡を直しながら建設的な意見を述べた。確かに人手はいくらあっても越した事がない。

 

 厳つい方が是非にと喜び勇み、ごっつい方が嬉しそうに何度も頷く。健太と健二は、演奏が始まる午後ニ時まで文化祭を楽しむ為に去って行った。

 

「丘ノ上にあんな逞しい友達が居たんだね」

 

 徹がずれた眼鏡を直しながら以外そうな表情ではるを見る。

 

「友達じゃないよ。二人とも弟みたいな感じかな」

 

 確かにと、はる以外のメンバーはそう納得した。今しがたの短い会話で、この姉弟の力関係が明らか過ぎる程分かった。

 

 その時、音響設備がすでに設置されている壇上の方から男女の言い争う声が聞こえてきた。

 

 バンドリーダーである中津川守が、代表でそれを覗いてきた。

 

「カガッチと万福寺女子がいつものバトルやってたよ」

 

 苦笑しながら守がメンバーに事の顚末を報告する。

 

 カガッチこと各務勤は、現国教師、万福寺妙子と文化祭に置ける教師の役割について何やら口論していた。

 

 各務勤がげんなりした顔ではる達の前に現れる。結局各務は、セプタンブルの演奏の裏方仕事を最後まで引き受けてくれた。

 

「先生。今日はお祭りなんだからさあ。この日ぐらいは喧嘩無しで行こうよ」

 

 守が「飽きずによくやるねえ」という表情で各務に苦言を呈する。

 

「俺は今日だけとは言わず、毎日平和に過ごしたいんだかな。全くあの人は杓子定規の見本みたいな人でな」

 

 各務が深いため息をつく。セプタンブルのメンバーは世話になった担任の愚痴も聞いてあげたい所だったか、昨日調整した音響の最終チェックをしなくてはならない。


 各務がメンバーに指示を出す。体育館の時計の針は十一時を指していた。



「文化祭実行委員会からお知らせします。本日十四時より、体育館でセプタンブルによるバンド演奏が行われます。皆様、是非セプタンブルの演奏を聴きに来てください。」

 

 はるを除く男子達は、体育館の開放された扉の前で昼食を食べていた。

 

「放送されるといよいよかって実感するねぇ」

 

 熊本元康が普通の大きさの三倍はあるオニギリを両手に持って呑気に呟いていた。

 

「徹っちのアイデアが効果あるとええんやけど」

 

 彦根五郎は、食後のデザートのバナナをかじって心配そうな表情をする。

   

 夏休みが終わりに近づいた頃、徹はメンバーにある提案をした。

 

 セプタンブルの演奏を録音して、それを学校の昼休みに流しもらおうという提案だった。

 

「悪くないアイデアだけど。俺としては当日のお楽しみにしたいんだよなあ。」

 

 リーダーである守が難色を示す。当日はるの歌声を聞いた時の観客の驚きを、演奏の盛り上がりの計算に入れていたからだ。

 

「うん。それもいいけど。ミュージシャンってアルバムを出してからコンサートをするでしょ?」

 

 徹は続ける。コンサートが始まるまでの期間。ファンはアルバムの曲をゆっくり聴きながら、覚える

。そしてコンサートでは、ミュージシャンと一緒に曲を歌ったり盛り上がったり出来る。

 

「丘ノ上の歌声を聴けば、きっと興味を持って聴きにくる人がいると思うんだ」

 

 徹がメンバーに訴える。徹がこれ程自信を持って意見を述べるのは珍しかった。守は目を閉じ、しばし考え込む。

 

「よし。高坂の意見を採用しよう」

 

 その後放送委員に頼み込み、昼休みの二十分だけ毎日セプタンブルの演奏をダイジェストで流してもらった。

 

 練習に時間を取られ、その放送の効果の程は残念ながら調査できなかったが。だが、守、徹は自分達のクラス内では手応えを感じていた。

 

 あの歌い手は本当にあの無愛想な丘ノ上なのか?守も徹も、何人ものクラスメイトにそう聞かれたのだ。


 触らぬ神に祟りなし。それが今までクラス中がはるを見る目だった。だが、それが興味の色に変わってきた。はる本人はそんな視線も気にせず、相変わらず無愛想だった。

  

「で。うちの歌姫の所在はどこだ?」

 

 昼食を終え弁当箱をしまいながら、守は嫌味っぽく呟く。

 

「食事は一人で静かに。いつもの事や」

 

 そう言いながら彦根五郎も片付けを始める。

 

「全く最後までブレない奴だよな」

 

 守は嫌味と称賛を混ぜ合わせてぼやく。今日ぐらいメンバー全員で食事をしてもいいものだか、歌姫は最後まで自分のスタイルを通すようだった。

 

 その歌姫は体育館の裏で食事を摂っていた。もうすぐ演奏が始まる。観客が何人来るか分からいが、はるは自分が緊張しているか今ひとつ分からなかった。

 

 所詮自分は素人だ。高望みなどせず、出来る事だけやろうと思っていた。

 

 それよりも今日は食後の昼寝が出来ない。その方がはるにとっては問題だった。昼寝ほどはるにとって欠かせない事はないのだ。

 

 時計は午後一時を過ぎていた。十五分だけ昼寝をしようと目を閉じたとき、徹の声が聞こえた。

 

「丘ノ上。そろそろ集合だよ」


「だ、大丈夫。寝てないよ!」

 

 聞かれもしない行為を自供してしまったはるは、若干慌てながら素早く立ち上がった。

 

「今日は日課の昼寝が出来ないね。緊張はしてない?」 

 

 徹は笑った。以前、夜通し話し込んだ時のはるの日課を細見の少年は覚えていた。

 

「あ。うん。多分、緊張はあんまりしてないと思うよ」

 

 「いや待てよ」とはるは思った。こういう時は緊張してると言ったほうが女の子らしいのだろうか。

 

 はるは頭を振った。なぜ徹の前で猫を被る必要があるのか。その時はるの脳裏に、一つの考えが浮かんだ。

 

『私は、高坂に女の子らしく見てもらいたいのだろうか?』

 

 外の気温は落ち着く気配を見せず、まだまだ暑くなりそうだった。


 開演時間まで残り四十分。セプタンブルのメンバーは舞台の袖に揃っていた。


 全員折りたたみ椅子に座り、その時を待っていた。衣装を持った守の母も、もうこちらに到着する頃だった。

 

 守はメンバーを見渡す。はるは両手を組んで俯いて椅子に座っている。表情は見えないが、空手経験者の彼女の事だ。彼女なりに集中の仕方があるのだろう。守はそう思った。

 

 徹はズレた眼鏡を何度も直し、落ち着かない様子だ。元康は汗が止まらす、それを拭うのに必死。五郎は黒糖棒を食べるでもなく、口に挟んだままだった。

 

 メンバーは漏れなく緊張している。守はそう判断した。

 

 無理も無い事だか緊張は演奏に即影響する。リーダとして、皆の緊張を少しでも取り除かなければならない。そう思った守は椅子から立ち上がった。

 

「皆。そのままでいいから聞いてくれ」

 

 中津川徹。熊本元康。彦根五郎が守を見上げる。

 

「もうすぐ開演だ。緊張していると思うけど心配すんな。失敗してもいい。音外しても。曲順間違えても。歌詞忘れてもいい。」

 

 右拳を握りしめる守の口調は、だんだん熱を帯びていく。 

 

「最悪演奏が止まったっていい。俺が絶対皆をフォローするから」

 

 徹。元康。五郎の三人の男子は皆頷いている。

 

「今日はお祭りた。皆で楽しもうぜ!」


 守が右腕を突き上げる。

 

「うん。楽しもう!」

 

「中やん! 中学のあの時のリベンジだね!」

 

「よっしゃ! 気合入ってきたで」


 徹。元康。五郎が守に呼応するように叫ぶ。折りたたみ椅子が軋む音が響き全員が立ち上がった。一人を除いて。

 

 はるが動かない。椅子に座ったまま、俯いている。

 

 守。元康。五郎に悪寒が走った。どこかで見た光景だった。それは中学時代。三人が今まさにこれから演奏を始める時の光景だ。

 

 あの時、ボーカルの柿生加奈子が極度の緊張から、椅子から立ち上がる事が出来なかった。今この状態は、あの時の悪夢と酷似していた。


 守はその一件以来、女子をボーカルにする事を避けていた。その女子である丘の上はるをボーカルに据えたのは歌声も勿論だか、彼女のその度胸を買っての事だった。

 

 クラスで誰とも関わらなくとも堂々とし。ゴキブリを足で踏み潰すような女子だ。クラスでイジメが起こらないよう気を配っていた守がはるには声を掛けなかったのは、その必要がなかったからだ。

 

 そんな女子が緊張して歌えません。そんな事はないと確信していた。

 

 だが目の前のはるは椅子から動かない。肝が据わっているからと言って、はるが本番に弱くないなどと誰が断言できるだろうか。

 

 守の悪寒は増して行った。一度ある事はニ度あるのか。諺の使い方を間違える程、守は動揺していた。

 

「丘ノ上。丘ノ上」

 

 守。元康。五郎が固まって動けない中、徹の手がはるの肩を揺らす。

 

「丘ノ上。起きて。そろそろ時間だよ」

 

 徹の声は優しく穏やかだった。

 

「······ん? もう時間? はーい」

 

 はるが欠伸をしながら両腕を伸ばす。

 

 守。元康。五郎は呆気に取らている。三人の中で守が一番早く自失から自分を取り戻した。

 

「お、お前寝てたな! 俺の熱くて感動的な話を聞いていなかったな!?」

 

「どうせ常温で平凡な話でしょう」

 

 寝ぼけ眼で立ち上がりながら、守の説教にはるは毒づいた。ぐうの音も出ない守は、次の言葉を必死で考えた。

 

「丘ノ上。口元。よだれ付いてるよ」

 

 胸のポケットから出したティッシュを、徹がはるに差し出す。

 

「ありがとう。高坂って準備がいいね」

 

 ちっとも準備の良くない歌姫は、ありがたくティッシュを受け取る。

 

「はるやん。やっぱり大物だね」


「せやなあ。本番前、普通居眠り出来る?」

 

 元康と五郎が感嘆の声を上げる。

   

 その時、守のスマホが鳴った。画面を確認すると守の母からだった。電話に出た守は、今どこに居るのかと母に質問をする。

 

「え? 事故った!?」

  

 守の叫び声にセプタンブル全員に緊張が走る。

 

 守の母はメンバーの衣装を車で届ける途中、接触事故を起こしてしまったらしい。幸い軽い接触で、双方怪我はなかったが、こらから警察の事情聴取がある為動けないという。

 

「······悪い皆。衣装が間に合わない」

 

 守が顔を強ばらせながら謝罪する。

 

「中津川のお母さんが無事で良かった。皆。制服のままでいいんじゃない?」

 

 ヨダレを拭いたティッシュを握りしめ、はるは提案する。

 

「そうだよ中津川。気にしないで」

 

 徹も守を気遣う。守は分かりやすく落ち込んでいた。

 

「皆。これどうかな?」

 

 元康が自分のカバンから、白いTシャツを何枚も出した。いつもの文字が書かれているシャツだ。シャツは全員分ある。

 

 はるが目を輝かせて、そのTシャツを食い入るように見る。

 

「統一感って意味ではアリだと思うんだ」


 汗が止まらない元康は、お腹を揺らしながらシャツを皆に配る。

 

 取り敢えず全員で着てみる事にした。シャツに書かれた文字は以下の通りだ。

 

 守 〔当たって砕けろ〕

 徹 〔駄目で元々〕

 はる〔失敗上等〕

 五郎〔そこそこで御の字〕

 元康〔愛は勝つ〕

  

「何が統一感だ! 不吉な言葉ばかりじゃねーか!しかも熊本、お前のだけ俺らとは関係ない文字だぞ!」

 

 徹は即座に抗議しが、目の前で歌姫が狂喜している。

 

「やった! 私、これ一度着てみたかったんだ」

 

『お前の服のセンスは、絶対壊れているぞ』

 

 はるの喜ぶ様子を見て守は本気でそう心配した。

 

「それにしても。なんで熊本はこんなに枚数持っているの?」

 

 最もな事を徹が不思議そうに元康に聞く。

 

「僕って汗っかきだから。いつも着替えを用意してるんだ」

 

 元康の汗は永遠に止まらない様子だった。


「にしても着替え五枚は多すぎだろ! どんだけ汗かくんだお前は!」

 

 守が元康に抗議を続けていると、はるの視線に気づいた。何か物欲しそうな目で守を見つめる。

 

「な、なんだよ丘ノ上?」

 

 自分を見つめるはるに、守の鼓動が高鳴った。

 

「私。中津川の着てるシャツの方がいいなあ」

 

「いいから黙ってそのシャツで我慢しろ!」

 

 リーダーは即座にボーカルに厳命する。そして守は白旗を上げた。元康の言う通り統一感のある衣装は現状ではこのシャツ以上は望めそうになかった。

 

 気づけは開演時間まで十分を切っていた。壇上の幕は閉められている。あと数分後、自分達の演奏が始まる。

 

〔失敗上等〕の文字が入ったシャツを着ている者を除いて、四人は万感の思いで各担当の場所に立つ。

 

「うちのオカンが見に来るって聞かんから参るなあ」

 

 彦根五郎がジャズベースを両手に持ちながらぼやいた。

 

「彦っちの両親って、二人とも関西の人なの?」

 

 はるはサイズが合わないシャツの裾を結びながら質問する。

 

「何言ってんだ? 彦根も両親も。神奈川生まれ神奈川育ちだぞ」


 守がレスポールのギターベルトを肩に掛けながら話に割り込む。

 

「え? じゃあ彦っちの普段の関西弁って?」

 

 シャツが上手く結べないはるは、手の動きが止まった。

 

「俺。熊っちと将来芸人目指してるから。関西弁はキャラ作りの一貫で使ってるんよ」

  

 彦根五郎は笑顔で将来の夢を語った。

 

「そうだったんだ」 

 

 はるが感心したように五郎と元康を交互に見た。


「彦根の関西弁、結構いい加減だぞ。気づかなかったか?」

 

 守が人の悪い笑顔ではるを皮肉る。

 

 十五年後。熊本元康と彦根五郎は長い下積みを経て念願の芸人デビューを果たす。

 

 人気芸人とまでは行かなかったが、イジメ体験を笑いに昇華させるその芸風は、玄人受けした。

 

 小さい仕事も誠実にこなし。仲違いもせず。細く長く。その芸人人生を全うする事となる。

 

 二人なコンビ名はセプタンブルだった。青春時代の初心を忘れないように。コンビ名には、そんな想いが込められていた。

 

 文化祭実行委員会の放送が流れる。


「只今の時間より、体育館でセプタンブルのバンド演奏が行われます。繰り返します」

 

 担任の各務勤が壇上横で、音響調整の為に控えている。

 

 高坂徹はズレた眼鏡を直す。

 

 熊本元康はドラムスティックのグリップを握りしめる。

 

 彦根五郎は母親が来てない事を願う。

 

 丘の上はるは小さな欠伸をする。

 

 中津川守はそんなメンバー達を見守るように眺める。

 

 幕が、開かれていく。

 

 

 


 

 


 



  

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


 

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