第7話 葉月②

 職員室の入り口に、担任の各務勤とスーツ姿の男が立っていた。細見で長身。年齢は四十後半と思われた。

 

 高坂徹がその長身の男と向き合う。長身の男は徹を見ながら、沈痛な表情でしばらく沈黙していた。

 

 丘の上はるは徹の後ろで、その様子を固唾を飲んで見守っていた。一体これから何が起こるのだろうか。先程体育館で徹の蒼白な顔を見てから、はるは嫌な予感しかしなかった。

 

 徹が長身の男と黙って向かい合う様子を見て、その予感は更に不吉な物へと変わっていく。目に見えない手で心臓を鷲掴みされているかのような悪寒がはるを襲った。


「徹······。母さんが······」

 

 沈黙からどれくらいの時間が経過しただろうか。長身の男が重い口を開いた。

 

「うん。分かってるよ父さん。亡くなったんだね。母さんが」

 

 徹は表面上は落ち着いた口調で答えた。

 

 はるは二人が何を言っているのか理解出来なかった。否。理解したくなかった。だか言葉は残酷にも、その意味をはるに知らしめる。百合子が亡くなったと。

  

「丘ノ上。まだ練習の途中だけど、今日はこのまま帰るよ。中津川達にそう伝えてくれるかな?」

 

 徹は、はるの方を振り返り静かな口調で伝言を頼むと父親と共に学校を後にした。

 

 徹が去って行くまで、はるは何も言えず、廊下に立ち尽くしたままだった。

 

「今朝未明。まだ日が明けない時間だったらしい。心不全だそうだ」

 

 隣にいた担任の各務勤が知りたくもない情報を教えてくれた。

 

 徹と父親が歩いて行った廊下の先は、外の日差しも入らず暗かった。なぜこんな明るい時間に、夜の暗闇を連想させるのだろうか。

 

 はるは回転が鈍った頭の中で、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 

 その日の練習は直ちに中止になった。はるは重い足取りで音楽教室に戻り、事態の顛末をメンバーに伝えた。

 

 あまにも突然の事に、中津川守。熊本元康。彦根五郎の三人は黙り込む。いつもの軽口を叩く者は一人も居なかった。

 

 学校を後にしたはるは、急いで丘登園総合病院に向かった。

 

 とにかく早く。百合子に手を合わせたかった。まだ百合子の死の実感すら無い。だか、そうしなくてはならないと、はるは病院までの長い坂を走って行った。

 

「御家族の方ですか?」

 

 病院の受付事務で小柄な女性事務員がはるに質問してきた。

 

「家族ではありません。高坂百合子さんの友人です」

 

 はるの額から滝のような汗が流れてくる。事務員はお待ち下さいと言い残して、奥のデスクで上司と思われる男性と何かを確認していた。

 

 はるはこの待たされている時間が終わるのが怖かった。会う事を望んで来た筈なのに。これから百合子の亡骸と対面しなければならない。

 

 気づくと事務員の女性は、はるの目の前に戻っていた。

 

「お待たせいたしました。高坂様と今連絡が取れ、伝えていいと許可が出ました。ご遺体はもうご自宅に運ばれています」

 

「······自宅に。ありがとうございました」

 

 はるは事務員の女性に頭を下げ病院を出た。

 

 この総合病院は行きは長い登り坂だか、帰りは急な下りになる。汗を拭いながら、はるは考えていた。

 

 百合子を初めて見た時の胸が痛むような感覚。それは会う度に強くなっていった。そして、バンド演奏を早く百合子に観てもらわなければと何かに急かされていた。

 

 自分は百合子が深刻な病状で、長くないのかもしれないと本当は気付いていたのではないだろうか。百合子がどんな病気だったのか聞かなかったのも、聞くことが怖くて出来なかったのだとはるは今更ながらに気付く。

 

 自分はこらからどうすればいいのか。百合子に対して。徹に対して。はるは何をすればいいのか全く分からなかった。



「お帰りはる。どうした? 酷い顔をしてるぞ」

 

 父の心太がいつものだらしない格好ではるを出迎えた。

 

 はるが帰宅したのは、十八時を過ぎていた。すぐに帰る気にもなれず外を歩き回っていた。日も傾き初め、雲が多くなったせいか空は薄暗くなっていた。

 

「夜にまで、セクハラ発言止めてくれる······」

 

 頭も体も疲れ果て、はるは六畳の和室に座り込んでしまった。母の幸恵も心配してやってくる。

 

 心配する両親に、はるは百合子の事。徹の事を話した。病院で知り合った女性が今朝亡くなった。


 その女性がクラスメイトの母親だった。そして遺体は自宅に運ばれて病院では手を合わす事が出来なかった。 

 

 両親に話した途端、百合子の死が急に現実味を帯びてきた。はるは両膝を両手で抱え頭を沈めた。涙が出てきたからだ。

 

「そう。会えなかったの。残念ね」


 母の幸恵が娘の側に寄り頭を撫でる。

 

「自宅に運ばれたって事は今夜は寝ずの番かな」

 

 父の心太の言葉に、はるは顔を上げた。

 

「寝ずの番って何?」

 

 心太は思う。最後に娘の泣き顔を見たのはいつだったか。娘が何歳になっても、それを見るのは親には辛い事だった。

 

「簡単に言うと、遺体を焼く前に家族で最後の時間を一緒に過ごす事だよ」

 

 これで正解だったかと心太は内心不安になっていた。

 

「······最後に。一緒に」

 

 はるはそう呟くと、急に思い出しかのようにカバンから中津川守が作成した練習スケジュール表を取り出した。

 

 そこにはメンバーの連絡先と住所が書かれていた。はるは高坂の住所を見る。はるの自宅からなんとか歩いていける距離と思われた。守のマメさに、この時はるは心から感謝した。

 

「私。今から百合子さんの自宅に行ってくる。今晩。私も一緒に寝ずの番をする」

 

 言い終える前に、はるは出かける準備をし始めた。

 

「ちょ、ちょっと待ってはる。向こうのご家族の迷惑も考えなさい」

 

 母の幸恵が正論で娘を嗜める。

 

「迷惑······?」

 

「家族で一緒に過ごす時間を、他人のあんたが割り込んだら迷惑よ」

 

 母のその言葉に、はるはまた泣きそうな顔になった。立ったまま足元の畳を見つめる。

 

「こうしよう。はる。今からそのお宅に伺って聞いてみよう。はるが寝ずの番をしてもいいか」

 

 心太の言葉に、娘の瞳に生気が戻った。

 

「父さんも一緒に行ってお願いするよ。でも向こうの家族の方に断られたらあきらめるんだ。いいね?」

 

 はるは無言で何度も頷いた。

 

「よし。じゃあ今からお風呂に入りなさい。汗はちゃんと落としていかないとな。その後でしっかり夕飯を食べて行きなさい。ご遺体の前でお腹が鳴ったら失礼だろ?」

 

 はるはまるで小さい子供のように繰り返し頷いた。

 

 自宅を出発したのは二十時過ぎだった。今夜はよく星が見え、上弦の月は静かに空に浮かんでいた。

 

 夜の静かな住宅街を父と娘が歩いていく。丘ノ上家は自家用車がなかった。心太はタクシーを呼ぶと言ってくれたがはるは謝絶した。高坂宅まで歩きながら心の準備をしたかったからだ。

 

「お母さんが言ってる事が正しいよね。他人の私が行っても迷惑だよね」

 

 少し跳ねた後ろ髪を撫でながら、はるは気弱な口調で呟く。

 

「まあ普通ならな。でもはるの性格だと、行動した後のほうが納得出来るだろう? 断られるにしても」

 

 心太はそう言いながらスマホの地図で住所を確認していた。

 

「私の性格って。父さん。母さん。どっちに似たのかな?」

 

「どちらでも無いな。はるの今夜みたいな行動力は、俺にも幸恵にも無いよ」

 

 心太は苦笑しながらスマホをズボンのポケットに入れた。

 

「でもはるの人付き合いが苦手な所は、間違いなく俺の血のせいだな。ごめんな」

 

 突然の父からの謝罪に娘は戸惑った。

 

「気にしなくてもいいよ。別に私。それを引け目に思った事ないから」

 

 二人は緩やかな下り道から、急な登り坂の道に入った。

 

「幸恵は社交的だから、その血が勝ってればなあ」

  

 心太がため息をしながらボヤく。

 

「父さんも一人好きのに、よく社交的な母さんと結婚出来たね」

 

 これは、はるにとって丘ノ上家最大の謎であり疑問だった。

 

「そうだなあ。もの好きな幸恵が、俺と結婚してくれたから既婚者でいられるけど。そうじゃなかったら、確実に今でも独身だったな」

 

「結婚してくれた母さんに感謝してる?」

  

「ああしてるよ。はるの親にもなる事が出来たしな」

 

 急な登り道が終わると、今度は緩やかな下り道が続く。二人の話題は家を出る前にテレビで報道されていたニュースの内容になっていた。

 

「酷いよね。いじめが原因で自殺未遂だなんて」

 

 身近な人が亡くなったばかりのはるには、人の命に関わる事柄に過敏になっていた。


「残念だけどいじめが無くなる事はないよ。昔も。今も。これからも。戦争が無くならないのと一緒さ」

   

 心太は苦い表情で吐き出すようにため息をついた。

 

「確かに。歴史の年表よく見ると大昔から戦争ばっかりしてるよね」

 

 歴史が苦手なはるも、教科書の年表くらい見た事があった。

  

「その大昔からいじめもあったさ。学校でも。職場でも。軍隊でも」

 

 だから親が子に出来る事は、せめて自分の子供がいじめに合わないよう祈る事だけだった。

  

「ひょっとして、私に空手を習わせたのはいじめに合わせない為?」

 

 はるは今自分の頭の中で閃いた事を言語化した。

 

「学校って所は一部の奴らが大きな顔をしてるだろう? 喧嘩の強い奴。明るくて人気がある奴。スポーツが出来る奴」

 

 はるは黙って心太の言葉の続きを待った。

 

「残念で残酷だけど、その一部以外の人間には全て可能性があるんだ。あのニュースで報道されていた被害者の子と同じような目にあう可能性がな」

 

 はるは自分の考えが間違ってないと確信した。

 

「武道をやっている奴をいじめるような物好きはあまりいないだろう?」  

 

 一人で自立した時、自分の身は自分で守れるように。父が娘に空手を習わせる理由はそれだけだと思っていた。


 だがもう一つ理由があったのだ。子供が辛い目に合わないように。それは全ての親が、子に持つ願いであり。祈りでもあった。

 

 百合子は徹にどんな願いや祈りを持っていただろうか。答えは出ないまま二人は目的地に着いた。

 

 高坂徹の自宅は、はると同じく閑静な住宅街にあった。白の色を基調とした木造の一戸建てで、小さいながらも庭があるのが外から見えた。

 

 家庭菜園で植えられた、ピーマンやプチトマトの実がなっていた。

 

 表札の下にあるインターホンを父の心太が押す。数秒後、応答があった。

 

「夜分遅くに申し訳ありません。私、徹君のクラスメイトの丘ノ上はるの父親で、丘ノ上心太と申します」

  

 玄関が開けられ、あの時職員室入り口にいた長身の男がでてきた。徹の父親と思われた。心太とはるは徹の父に会釈をし、来訪の目的を伝えた。

 

「君がはるちゃんか。妻から聞いてたよ。うちの家内と仲良くしてくれてありがとう」

 

 徹の父は幾分か憔悴している様子だったが、優しく微笑んでくれた。

 

「はるちゃんが来てくれて妻も喜んでいるでしょう。どうぞお入り下さい」

 

 二人は快く家の中に通された。玄関を上がると、高坂家の匂いとお線香の香りがした。

 

 家の中は静まりかえっていた。居住者の三分の一が永遠に失われたのだ。当然かもしれない。

 

 廊下を歩いていると、どこから出て来たのか薄茶色の毛の色をしたパグが短い足で走ってきた。はるの足元を前足で叩いてくる。

 

 百合子が生前話してくれた飼い犬のパグだ。初めて見たのに、はるにはなぜか懐かしく感じられた。パグは短い足と尻尾を忙しく動かし、はるの周りをグルグルと周った。

 

 パグの頭を優しく撫でると、パグは目を閉じ大人しくなった。鼻が詰まったような呼吸が苦しそうだとはるは感じた。

 

 八畳の和室に徹と百合子はいた。徹は立ち上がり、はると心太を迎えた。

 

「迷惑も考えずに、押し掛けてごめんなさい」

 

 はるは深々と徹に頭を下げた。

 

「来てくれてありがとう。丘ノ上が来てくれて母さんも喜んでるよ」

 

 徹は弱々しく微笑んだ。徹の足元でパグがはるを見上げている。

 

 はると心太は、並んで百合子の前で手を合わせた。それが終わると、心太は徹の父と話すため隣の居間に移った。

 

「この度はご愁傷様です。そんな時に非常識にも押し掛けて申し訳ありません」

 

 心太は改めて徹の父に非礼を詫びる。

 

 「いえ。気になさらないで下さい。正直、息子と二人では気が重かった所です。娘さんは生前妻の最後の友達になってくれた人です。妻も歓迎している筈でしょう」

 

 心太は徹とも挨拶を交わし高坂邸を後にした。娘さんは責任を持ってお預かりします。徹の父は心太の帰り際そう言ってくれた。

 

 八畳の部屋に徹。はる。パグが残った。徹の父は持ち帰った仕事の為、二階に上がっていった。

 

 急いで片づけたのか、部屋の隅に荷物が大雑把にまとめられていた。

 

 百合子は白い布団に寝かされていた。顔には白い布がかけられており、どんな顔をしているのかはるには想像出来ない。


 布団の前に置かれている渦巻き状の形をした線香の煙が、真っ直ぐ一本の糸のように天井に昇っている。

  

「線香って。死んだ人があの世に行く途中、迷わない為に焚くんだって」

 

 徹は線香の煙の先を見つめながら、はるに教えてくれた。

 

「母さん。丘ノ上が来てくれたよ」

 

 徹は百合子の顔にかかってる白い布を優しくめくった。

 

 はるは緊張しながら百合子の顔を見た。

  

 百合子は穏やかな顔をしていた。それはまるで眠るように。生者が逃れる事の出来ない、全ての苦痛から解放されたような静かな死がそこに横たわっていた。

 

 はるは百合子の顔を見て涙腺が決壊してしまった。パグが百合子の頭や足の匂いを嗅ぎ、困ったように走り回っていた。

 

「土佐次郎も気付いてるのかな。母さんがもう目を覚まさないって」

  

「······土佐次郎?」

 

 はるは徹が渡してくれたティシュで、涙と鼻を拭っていた。

 

「この犬の名前。土佐犬に似てるからって母さんがつけたんだ。変な名前でしょ?」

 

 百合子と土佐次郎が散歩をしている光景が、はるの頭に浮かんで消えた。

  

「徹。ちょっといいか?」

 

 徹の父が息子を居間に呼んだ。職場でトラブルがあり、どうしても会社に行かなくてはならないらしい。

 

「済まない。こんな時に」


「気にしないでよ。父さん。運転気をつけて」

 

「丘ノ上さんのお嬢さんを頼むな」

 

 そう言い残して、徹の父は車で家を出た。和室に戻る前に、徹は台所で二人分のお茶を淹れた。


 部屋には自分の母親がいるのに、お茶は二人分で事足りる。もう百合子はお茶を飲む必要が無いのだ。永遠に。徹はお茶一つの事で母の死を身近に感じていた。

 

 この先。こらから先。一体どれ程母の死を感じ続けるのだろうか。徹はもう使われる事が無い母の湯呑を見つめていた。

 

「丘ノ上。良かったら飲んで」

 

 和室に戻り、徹がお茶をはるに手渡す。


「ありがとう。頂きます」


 二人はしばらく無言のまま、お茶を口にした。土佐次郎が百合子の足元で大人しくしている。

 

「母さんは。悪性の腫瘍が原因だったんだ」

 

 徹は淡々とした口調で口を開いた。はるにはやはり。という思いしか無かった。

 

「俺が中学一年の時。病気が分かって。その時は余命一年って医者から言われた」

 

「一年······」


 小学生の匂いがまだ抜けきれてない少年に、その宣告はあまりにも残酷に思われた。

 

「今まで何回か危ない時もあって。その度に病院に駆け込んだ」

 

 はるは携帯電話の着信音の事を思いだした。

 

「······高坂が携帯電話を持たない理由って。もしかして」

 

 着信音が鳴る度、徹が怯えた顔をしているのをはるはニ度目撃していた。

 

「中学の時は、携帯電話持っていたんだ。でも着信がある度に怖くなったんだ。母さんに何かあったのかって」 

 

 それ以降、徹は携帯電話を持つ事が出来なくなった。

 

「学校に連絡が来るから、結局同じ事なんだけどね」

 

 百合子の足元にいた土佐次郎が、大きなあくびをし、しばらく徹を見つめていた。

  

「余命一年が過ぎた時、また医者からはもってあと一年って言われたんだ」

 

 はるはその宣告をした医者に怒りが湧いてきた。人の命を。家族の思いを何だと思っているのか。

 

 それは理不尽な怒りだった。医者は勿論手を尽くしただろう。だか、繰り返し余命宣告をするなんて。百合子が。家族があまりにも可哀想だった。

 

「最初の余命宣告から今日まで。母さんは三年半生きたんだ」

 

 徹は眠る百合子を見つめながら話す。

 

「······頑張ったんだね。百合子さん」

 

 今のはるには気の利いた事も言えず、ただ徹の言葉を聞く事しか出来なかった。

 

「うん。頑張ったんだ。母さんは。辛い思いをしながら。抗がん剤の副作用で苦しみながら。三年半も」

 

 はるは息を飲んだ。徹の雰囲気が少し変わってきた。

 

「三年半も薬と言う名の猛毒を体に入れながら、苦しみ抜いたんだ。丘ノ上、何でだと思う?」

 

 徹は視線を百合子から動かさず、はるに問いかけてきた。

 

「······家族の為に。生きる為じゃないかな?」

 

 それが正しい返答なのか、はるにはまるで自信が無かった。

 

「そうだよね。俺と父さんの為に、母さんは苦しんだんだ。楽になる方法も選べずに」

 

 はるは徹の話を聞くのが、だんだん怖くなってきた。一体徹は何を言おうとしているのか。

 

「母さんを三年半も苦しめたのは、俺と父さんなんだ。俺達の為に母さんは······」


  この部屋から逃げ出したい気分になっていたはるは、必死にその衝動に耐えていた。


「母さんは。俺と父さんを恨んでいるかな?」

 

 文字通り絶句する はるは、何も答える事が出来ななかった。

 

「俺達のせいで、楽になる選択肢を奪われたんだ。当然だよね」

 

土佐次郎がただならぬ様子の徹を見ながら立ち上がった。鼻息が荒くなる。

 

「母さんは。きっと俺と父さんを······」

 

「高坂。もうやめて」

 

「俺と父さんを、恨みながら死んだんだ」


  徹の言葉は、自分自身を呪う言葉だった。三年半苦しみながら闘病生活を送る百合子を見続けるうちに、徹は自分も母と同じように苦しまなければならない。そう自分を追い詰めるようになって行った。

 

それは母の苦しみを一部でも自分が引き受けるかのような行為だった。そうしなければ。何かをしなければ。徹は百合子の苦しむ姿を正視出来なかった。

 

はるは言葉を続ける事が出来ない。いま目の前で最愛の母親を失い。自分を責める十七歳の少年が、肩を震わせ嗚咽を漏らしている。

 

その少年の心を軽くする言葉を、はるは持ち合わせていなかった。

 

これはツケだ。はるはそう感じていた。今まで人との関わりを遠ざけ。軽んじ。関心を示さなかった自分への。

 

他人の荒ぶる感情に間近で接した事のない自分に一体何が出来るというのか。

 

はるは体の力が抜けて行くような絶望感に襲われた。自分は赤子や幼児のように、なんて無力なのか。同い年の少年一人慰める事が出来ない。

 

体の力が全て抜け落ちて行く寸前、はるは心を奮い立たせ踏み止まった。

 

今は傍観して許される時ではない。赤子なら赤子の。幼児なら幼児なりのやり方がある筈だった。

 

はるは自分の記憶を遡って探していた。こんな自分でも徹を勇気づける方法を。

 

他人との人間関係が未熟なはるは必死で探した。自分と関わりのある人間を。そこから学んだ他人との接し方を。

 

はるの思考は、父と母である心太と幸恵に辿り着いた。冷静に考えれば当然かもしれない。はるが自分以外の人間と最も深く関わったのは、他ならぬ自分の両親だった。

 

一縷の光明の糸を、はるは逃さまいと懸命に手繰り寄せる。自分の両親は。心太と幸恵は自分が落ち込んだ時。悲しんだ時。泣いた時。どうしてくれたか。どうやって自分を慰めてくれたか。

 

思考と記憶を辿る旅は、急速に終わりに近づいてきた。はるは辿り着いた答えを行動に変えた。

 

はるは震える徹の顔を両手で胸に抱きしめた。徹身体の震えが直にはるに伝わってくる。

 

「······丘ノ上?」


「·······飛んでいけ」


「え?」

 

「痛いの痛いの。飛んでいけ」

 

「痛いの痛いの。飛んでいけ」


「······痛いの痛いの。どっかに飛んでいけ!」


  

 ······どれ位の時間が経過しただろうか。突然のはるの大きな声に立ち上がった土佐次郎も、いつのまにか座っていた。

 

一時の激情から、次第に頭が冷えていくのをはるは感じていた。両腕に徹の体温を感じる。

 

 はるは考える。ここはどこだったか。そうだ。百合子が眠る部屋だ。線香の香りがはるを現実に引き戻す。

 

『私は高坂とここの部屋にいて。話をして。高坂が自分を責め始めて。それから······』

 

 はるは自分が口にした言葉を思いだした。


 その途端。心と身体、両面で赤面した。一体自分は何を口走ったのか。

 

 十七才の少年に。赤子や幼児にかける言葉を使ってしまった。しかも、母の死に直面し自分を責めている最中の彼に。

 

 それはあまりにも場違いで。余りにもこの場に相応しくない台詞だった。

 

 はるはこの場から消えて無くなりたかった。穴があったら入りたかった。その穴に入り、内側から強固な鍵をかけ永遠にそこに留まりたかった。

 

「······ははは」

 

 徹のか細い笑い声が聞こえた。


「ははははっ」

 

 続けて徹が笑う。

 

 それは嘲笑の笑いでは無かった。力強さは無かったが、いつもの徹の穏やかな笑い声だった。

  

「すごいね。丘ノ上のおまじないは。痛いの。どこかへ飛んでいったよ」

 

 はるは、徹の顔を見下ろした。徹の両目から流れていた涙が止まっていた。

 

 徹は、はるの顔を見上げた。はるの両目から涙が溢れている。

 

 二人は微笑みあった。その後は、声を上げて笑いあった。土佐次郎はその様子を、片目を開いて静かに見守っていた。

 

 

 その後の事は、はるはぼんやりと覚えていた。はるは徹と色んな事を話した。

 

 お互いの家族の事。どんな子供だったか。好きな食べ物やよく見るテレビ番組。夜通し話込んでいるうちに、いつしか二人は眠りに落ちていた。

 

 はるはその晩、夢を見た。


 自分は向日葵になっていて、高坂家の庭に植えられていた。


 目の前に百合子がいる。麦わら帽子を被った百合子は、やせ細った身体では無く血色の良い健康的な姿をしていた。

 

 百合子は向日葵のはるに近づきはるを優しく撫でると、微笑みながらはるに話しかける。


『はるちゃん。徹と仲良くしてやってね』

 

 

 まだ覚醒し切れていない意識の中で、何かが自分の頬を舐めているような感覚がした。

 

 はるは徹の肩に寄りかかっていた。そのはるの頬を、土佐次郎が一心不乱で舐めている。

 

『犬を飼っていると朝起こしてくれるんだ。便利だな』

 

 まだ回転しない頭で、はるはそんな事を考えていた。二人には毛布が掛けられていた。百合子の側にあった線香は、いつの間にか消えていた。

 


 今朝の空気は、冷気と言って差し支えないくらい冷たく感じた。今までが暑すぎたのだろう。僅かな気温差でも、暑さで疲れが溜まった身体には染み渡る涼しさだった。


 寝ずの番の役目を果たせず、迂闊にも寝てしまったはるは何度も百合子に謝罪した。徹が自分も同罪だから気にしないでと笑って慰めてくれた。

 

 勇んで寝ずの番をやると言って来たのに、はるは立つ背が無かった。

 

 居心地が悪くなったはるは、急いでお暇しようとした。だが、徹が作ってくれた朝食を図々しくも頂いてしまった。

 

 しかも玉ねぎの卵炒めが美味しかったので、ご飯のお替りまでしてしまった。徹の父は、沢山食べる女の子は可愛くて結構だね。と笑ってくれた。

 

 百合子は今日、火葬場に運ばれ出棺される。生前の百合子の希望で通夜も葬式も行わなかった。

 

 百合子は自分の死期を悟っていたのか、その時の為に準備をしていた。

 

 自分名義の保険や口座の解約。私物の処分。息子と夫の為に料理のレピシをノートにまとめた。親しい友人には手紙を用意してあり、ポストに投函すればいいようになっていた。

 

 お墓も必要ない。それも百合子の強い希望だった。お墓参りはせっかく眠っている者を起こす野暮な行為。百合子は生前そう笑っていたという。

 

 遺灰も保管せず、どこか海に行く事があったら蒔いて欲しいと希望していた。

 

 残された遺族が困らないように。百合子の行為は全てその為だと思われた。死に直面しても家族の為を想う。これ程見事な人生の帰結があるだろうか。

 

 はるは心に刻んだ。自分も百合子のように在りたいと。

 

 これ以上高坂家の別れの儀式に関わるのは失礼だとはるは思い高坂家を辞した。徹と別れ際、お互いにありがとうと言葉を交わした。

 

 帰りに青空を見上げたはるは、ある思いが心の中で強く育っていた。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る