第六章 比と肩  … 弐

「ヒヴァナさん……」

「悪いねぇ、待たせちゃったかい?」

 待ち構えるように扉の前で立っていたヒヴァナは、ニタァと笑みを浮かべると同時にいきなり彼女の首を掴み、そのまま持ち上げてエレベーター内から引きずり出した。

 呻き声を上げながら足をばたつかせる月島を気にも留めず、ヒヴァナはゆっくりと階段を上がっていく。


 屋上の扉を勢いよく開け放つと、ビル風がビュウビュウと音を立てて建物の中へ逃げ場を求め流れていく。

 ヒヴァナも月島も風に目を細めながら外を見た。中央には巨大な卵の殻の底が、屋上を占拠するが如く平然とそこにあった。怪しげに青く、微かに発光しているその殻の薄く透けた底には液状のものが溜まっているのが見えた。そして今こうしている間にも、その液溜まりから新たな人魚が産まれようとしていた。

 辺りには、同じく青光りする卵の殻が散乱していて、足の踏み場がなかった。

「さて、これからどうしてくれようか……」

 ヒヴァナは楽しげにそう呟きながら屋上へと足を踏み出す。一歩踏み出すごとに卵が近づいていく。そのことに、月島は言い知れぬ恐怖を抱いた。

「ヒヴァナさん……目を、目を覚まして……!」

 首元を掴んだまま卵の横までやってきたヒヴァナは、ニタニタと何か悪巧みするような笑みを浮かべながら月島の顔を覗く。

「なぁ、アンタ。卵の中へ放り投げられて人魚たちの餌になるか、それとも、このまま私に焼き殺されるか。どっちが良い。選ばせてやるよ」

 選択肢を与えられたものの、端から答えさせる気などないのだろう、月島の首を絞める手が一層強くなり、もはや声を出すことも息をすることも、それらはおろか首を振ることすらも儘ならなくなった。

 顔に血が集まり、ぼーっと熱くなる感覚と視野が徐々に失われていくような、景色が遠のいていくような感覚、それらをかすれゆく意識の中で感じていた月島。そんな彼女の耳にヒヴァナの声が微かに届いた。

「デュプリケートだか何だか知らねぇけど、暢気にノコノコと今頃現れやがって。なんで今なんだよ。なんで……なんで私の母さんの時には現れなかったんだよ!」

 ぼんやりとした視界の中で視線がヒヴァナの目を捉えた。その目を見て月島はハッとする。彼女の目は血走り、鬼の形相で真っ直ぐにこちらを捉えていた。

(こんなこと、思ってたんだ……)

 失望感に襲われ、月島は自身の首を締め付けるヒヴァナの腕を掴むのをやめた。

「お前らデュプリケートが母さんの前に現れていたら、きっと、もしかしたら……!」

 ヒヴァナの身体が徐々に発熱し、その熱が彼女の腕を通して月島に伝わってくる。このままだと本当に絞め殺されるか、焼き殺されてしまう。そう本能的に悟ったとき、月島はヒヴァナのズボンのポケットに、空の薬莢が入っているのが何故か透視したかの如く見えた。

 わらをも掴む思いで月島はそれに手を伸ばす。それが何か意味を成すのかどうか、それは彼女自身にもわからなかったが、それでもただ無心で、必死に手を伸ばした。

 すると不思議なことに、月島の身体に伝わっていた熱が彼女の腕を通って逃げていき、それがヒヴァナのポケットに入っていた薬莢へと全て注がれていくのを感じた。

 月島を焼かんとしていたヒヴァナの熱が全て薬莢へと注がれ、次第に薬莢は高温に熱せられていく。それはヒヴァナのズボンの一部を焼き、彼女の肌に接触した。

「っ!?」

 違和感に気づいたヒヴァナは、驚いて手を離す。月島は屋上に落とされる形となり、思わず尻餅をついた。

「わ、私は……?」

 徐々にヒヴァナの視界の焦点が合い始めた。キョロキョロと辺りを見渡した後、ゆっくりと月島の顔を見る。

「ヒヴァナ……さん?」

「エリィ……エリィ!」

 ヒヴァナが正気に戻ったのを確信し、月島が彼女の方へ行こうとした時だった。

 突然、月島の背後に気配を放ちながら何者かが現れ、彼女の首元に「彼」の持つ武器の刃先が突きつけられた。

「困るんだよなぁ……此奴らが、デュプリケートが憎いんだろ、なぁ。殺したいだろ? なら最後までやり遂げてもらわないと」

「何を言ってるんだい、あんた……。何者なんだ。あたしの何を知ってるんだい」

 突如姿を現した男を警戒して睨みつけつつも、自身の秘密を知られているような、底知れぬ不気味さに、ヒヴァナは下唇を噛んだ。

 一方、男はケタケタと笑いだし、自慢げに語りだす。

「『何を知ってる』? あぁ、何でも知ってるよ。君たちからどう見えてるかは分からないけど、俺は長生きでね。ヒヴァナ・マレドナ。君のご両親とも知り合いなんだ」

「っ!?」

 ヒヴァナは、見ず知らずの男からフルネームを呼ばれ、且つ両親の話題も出てきたことに驚き、目を見開いた。人の反応を楽しんでいるのか、男はその様子を見てまたも頬を緩ませた。

「とりわけお母さまとは深い『因縁』があってね、よく覚えているよ」

「貴様……何なんだ、貴様は!」

 怒りに駆られ、ヒヴァナは咄嗟に柄に手をかけ身動いだが男はそれを牽制する。

「おっと、下手な真似するな。俺の持つこのザグナルは、刃でほんの少しでも傷つけた相手から精気を奪える」

「なっ……!」

 男の言葉に、わずかだが怯んだヒヴァナの様子を見て、男は満足げに、嬉しそうにニタニタと笑みを浮かべた。

「この小娘の命が大事なんだったら、下手に動かないのが賢明な判断ってやつだよ」

「その子を、エリィを放しな!」

「そうは問屋が卸さねぇってな。俺らにとっても、此奴らデュプリケートが邪魔なんでね……あんたが手を下さないなら、俺が下す」

「待て!」

「おら、立てよ!」

 男は月島の襟首を掴むと、力任せに引き上げて無理矢理に彼女を立たせる。

「ぐっ……!」

「お前。お前も下手なこと考えないことだ。どうせ、今のお前の反射神経ごときじゃ俺にどうこうすることもできやしねぇ」

 男の放つ殺気に月島も気圧されて、睨むことしかできない。

 するとそこへ、男の両脇からモヤでできた生命体が姿を現し、そして月島を挟んで立つと、男の左から現れた体格のやや大きい方のモヤが月島の顔を掴んで自身の方へ無理やりに向かせた。

「お、お前らは……!」

「きゃっ、な、なに?!」

 動揺しパニックになる月島をよそに、体格の大きな方のモヤの目は大きく見開かれ、それが赤く光ると月島の身体から力が抜けた。

「エリィ!」

 男の右から現れたやや体格の小さな方が、崩れ落ちそうになる月島の身体を抱え、それを軽々と持ち上げる。

 ヒヴァナが力なく座り込み見つめている先で、月島の体が宙を舞いやがて人魚の卵の中へ、そしてその水溜りの中へと落ちていった。

 呆然とその全てを見つめることしかできなかったヒヴァナの耳に男の声が響く。

「俺の名はルシ。こいつらが本陣と呼ぶ集団、『空朱(からす)』のボスだ。こいつらは『闇者(あんじゃ)』。俺たちの目的は運命を否定し、ただ一定の決められた流れってやつを壊す」

「何故そんなことをするんだ。そんな必要があるのか。貴様ら、逆行する気か!」

 自分への不甲斐なさか、それとも相手への怒りか。小さく震えながら相手を睨みつけ声を荒げるヒヴァナに対し、ルシと名乗った男は不思議そうな目を向けた。

「何を言ってるんだ。だって嫌だろ? 決まりきった流れ、何が起きようと、何を行おうと行わなかろうと、全て予定通り。均等がとれた秩序。正しさ。そんなもの退屈で窮屈で仕方がないだろ。だから壊すのさ。流れを壊し、起きるはずもなかったことを起こし、それを正そうとする、軌道を修正しようとする全て、運命も時空の流れも、そしてもちろんデュプリケートもお前たちも! 全て、全て壊し、乱していく。そうでなくちゃつまらない。だからやるんだ」

「呆れた奴らだねぇ。自ら永遠の苦しみに突き進んでいくなんて」

 ゆっくりと立ち上がり、相手を睨みながら様子を窺うヒヴァナに、ルシと名乗った男は鼻であしらった。

「ずいぶんと余裕なんだな。仲間が一人、卵の中で今まさに人魚たちの養分になろうってのに」

「クッ……」

「あぁ、それと、卵の中に入って助けようと思うな? お前も一緒に溶かされるぞ。それに、卵の外殻を攻撃して割ろうものなら、中にいる仲間もろとも蒸発して消えるからな」

 男は一方的に非常な通達を述べ、高笑いを上げた。「闇者」と呼ばれた者たちはすでに姿を消し、ルシもその後を追うようにヒヴァナへ背中を向ける。

「さて、向こうの方はどうなっているかな……にしても、ただの筋肉バカだと思っていた彼奴らが錯乱の術に嵌まるとはな」

 男の聞こえるような声で呟く独り言に、ヒヴァナは俯いていた顔を上げた。

「まさか……ロッソとエミールが……!?」

「だったらなんだ? 仲間を置いて、見に行ってくるか?」

 男は嫌味な表情でヒヴァナを嘲笑し、そのまま空間に溶けていくように消えてしまった。

 屋上には、今この瞬間も月島の躯体を飲み込まんとする巨大な卵と、膝をついて茫然自失とするヒヴァナ。彼女たちだけが取り残された。

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