第8話

伊月先輩は今日も練習に来ない。

プールサイドをひととおり見渡して溜め息をついた。今日は顧問が来ているから、まりん先輩が看病に当たっているのだろう。

"看病とかいって部屋で何やってんのか分かったもんじゃねーぜ"

「……………。」

「どうした市川?顔色悪いぞ。」

顧問の先生が心配そうに私に声をかけた。

その顔を見て咄嗟に声が出た。

「……あ…お腹、痛くて…トイレ行ってきてもいいですか…?」


階段を駆け上がりながら頭の中がぐるぐると目まぐるしく回る。

何を言ってるんだ私は。

何をしているんだ私は。

おかしい。どうもおかしい。大好きなプールが目の前にあったのに万全な健康体で嘘までついて私は一体どこに向かっているんだ。

でも。それでも。足が止まらない。涙で滲んで前がよく見えない。私は地上でもこんなに早く走れたのか。ずっと自分の居場所は水の中だけだと思っていた。でも私はちゃんと地に足をつけて歩ける。走れる。

──伊月先輩の、元へと。

会いたい。

「……伊月先輩ッ……!!」

「…はーい?」

突然、後ろから声が聴こえた。

何時間前にも聞いたはずのその声がひどく懐かしく愛おしく感じた。

「…なにしてんの、魚ちゃん。」

振り返ると階段の踊り場から眩しそうに私を見上げたその顔が、見えた。

その目を細めてうすく笑う顔が、どれほど見たかったか。

「……会いたくなりました。」

震える声で想いが零れた。

「え?」

一気に階段を駆け下りて私より少し背の高い伊月先輩を見上げる。

「会いたくなったので会いに来ました。」

「…え、…な、何言ってるの?」

珍しく動揺した顔を見せた伊月先輩はぷるぷると震えだし最後には吹き出した。

「…ほんとおもしろいね。それで部活抜けてきたの?大好きなプールなのに?」

「……会いたかったので。」

「…それだけ?」

「はい。」

「…わっかんないなぁ、ほんと。魚ちゃんはほんとに不思議な子だね。」

「伝えたいことがあって。」

「ふぅん、なぁに?」

私は勢いよく頭を下げた。そして驚いた顔の伊月先輩を真っ直ぐ見つめる。

「私、伊月先輩のお陰でたくさんのことに気がつけました。肘のサポートのこともいつも夜練付き合ってくれていることもちゃんとお礼言えてなくて…ごめんなさい。伊月先輩のことマネージャーとして心から尊敬してます。だから、えっと…。」

そこまで一気に言ってから伊月先輩の瞳に気がつき言葉に詰まってしまった。

まただ。

伊月先輩はまた私を甘く優しい瞳で見つめる。

「えっと…だ、だからつまりですね!私伊月先輩にしてもらってばかりでずっとずっと逃げてばっかだったから何を返していいのか分からなくて。でも伊月先輩のおかげで…。」

違う。それはさっき言ったんだった。

私もっと伝えたかったことあったはずなのに。ちゃんと伝えなきゃいけないことがあったはずなのに。

「……だから、だから……。」

そこまで言って視界が涙で歪んできた。

「魚ちゃん。」

伊月先輩の柔らかな声が耳に響いてハッとした。

そうだ。

私は、自分の足で立ってここまで来た。

ナイフも魔女も必要ない。

私は私としてこの人を掴む。

私は、泡になんてならない──。

「……だから…………傍に、居てください。」

精一杯の力で顔を上げて涙で歪んだ伊月先輩を見つめた。

ふわりと暖かい手の感触が背中にしたと思った瞬間、私の顔は伊月先輩の肩に乗っていた。伊月先輩に抱き締められている、と気がつくのに少し時間が掛かった。

「い、伊月先ぱ…。」

「魚ちゃん。」

「…は、はひ……。」

「大好きだ。」

耳元で甘く爽やかな中音が響いた。

その声に、その言葉に、抑えてきた涙が零れ落ちた。そして胸のわだかまりがすぅっと溶けて永遠に消えてなくなった。

溢れる想いに何と言葉をつけたらいいんだろう。

そうだ、私も伊月先輩が、好きだ。




はじめて会った時のこと、彼女は覚えているんだろうか。新1年が仮入部で体験で泳いでた時だった。

俺がプールサイドに来るとまりんちゃんが駆け寄ってきた。

「純先輩!見てくださいあの子。すごいですよぉ〜!」

まりんちゃんの白い指先の指す方見た瞬間、その一瞬で心を鷲掴みにされたような気がした。みんなが楽しそうに一生懸命泳ぐ中、君だけは違った。君は1人、水の中を生きていた。楽しそう、とか嬉しそう、とかそんなんじゃなかった。ただ、ただ、水の中を穏やかに生きていた。その時、思ったよ。美しい魚みたいだって。羨ましかったんだ。

俺は小さい頃からプールに入ると蕁麻疹が出て痒くて痛くて泣きながら水泳の授業を見学していた。クラスメイトが泳ぐ姿を見て溜め息をついた。泳ぎたくて、泳ぎたくて、でも泳げなくて水に憧れるだけのただの弱い人間。それが俺だった。そんな奴からしたら美しい魚はずっと憧れだった。あぁ、彼女の力になりたい。彼女がどこまでもどこまでも泳いでいけるように。

「ねぇ、魚ちゃん!」

「…はい?」

振り向いた彼女は怪訝そうに俺を見つめた。

その顔さえも美しいと思ってしまうほど俺は君に夢中だった。それから仲良くなるつれて陸でも水でも彼女は俺を置いてスタスタと行ってしまう。俺はその後ろ姿をどこまでも追いかけたい。だからあの夜もつい深夜に抜け出した君の後をつけてしまった。


プールに戻ってさっそく得意のクロールで泳いでいる彼女を今度は俺もプールサイドから眺めていた。

「良かったぁ。あまはちゃん肘、大丈夫そうですねえ。」

「まりんちゃん。」

「はい?」

「魚ちゃんはあげないよ。」

姫の鋭い睨みを隣から感じながら美しい人魚姫に目を落とす。

 ―正直言うと、この想いを伝えることで水の中でのびのびと泳ぐ君を邪魔しないか心配だった。でもそれは杞憂だったようだ。ただの人間に邪魔できるほど彼女は弱くない。好きだと伝えても伝えなくてもきっと彼女は最高の泳ぎをするし俺にも誰にもそれは止められない。だからこそ、好きなのだ。それでこそ、魚ちゃんなのだ。

 ―そうだ、まだ伝えていなかったことがあった。

ねえ、人魚姫。…助けてくれて、ありがとね。

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