第5話
恋愛をせずスポーツに熱中してきた、といえば聞こえはいいが私の場合、恋愛というより人と関わるすべて、だった。
「市川さん!」
その声ではっと目が覚めた。
「……え、何。」
というか、誰、が喉まででかかった時その少女は甲高い声で叫んだ。
「今日、日直あたしとでしょ!日誌半分こしたから、あと半分ちゃんと書いてね!」
「…あ、うん。…ごめん。」
「あたし、せんせーに怒られるのやだからね!」
「う、うん、あ、ありが…。」
とう、と最後まで届くことなく胸に付けた名札を揺らしながら少女は取り巻きの仲間の輪の中へ入っていった。
えーペア市川さんなのー?
かわいそー!
でしょ、あたしはちゃんとやったけどー
女子の全く隠せてないひそひそ声を聴きながら今日の天気の欄にはれと記入する。
小学生の時から私のポジションはこんな感じだった。
どうしてこんなことくらいでそんなにぷりぷり怒れるんだろう。他人のすることにどうしてそんなに感情を抱けるんだろう。面倒くさいなぁ。疲れるなぁ。でもまぁいいや。早く放課後にならないかな。早く施設のプールに行きたいな。
窓からの景色を見ながらそんなことばかり考え日々を過ごしていた。
あまり喋らない暗い女の子。いじめられなかったのは幸運ともいえるだろう。人と関わること、それは面倒くさい。それ以上でもそれ以下でもなかった。ただ何も考えずに水の底に沈む。そこに居るのは市川 天羽ではなく暗い女の子でもなくただのひとつの生命なのだ。そこに確かにある自分の居場所に心から安心できた。水面から差し込む光に手をかざしここだけが私の生きる場所だ、と言い聞かせた。
あれから10年経った今でも私の居場所は水の中だけだ。水の中だけにしてきたのだ。
今更それを後悔しているわけではない。
ひとりでいるのは気楽だし好きだった。
ただ、分からなくなるのだ。どうしたらいいのか。なんと答えればいいのか。
私は、ありがとう、も言えなかった。
「市川さん元気ないのぉ?」
突然白雪まりんの声が耳に響いてはっと我に返る。
区大会の夏の合宿はまさかの海で行われた。波に逆らって泳ぐことにより筋力がどーちゃらこーちゃらという顧問の持論が説かれ私たちは8月下旬に揃って下関へやって来た。
自由時間、打ちつける波の音がうるさい砂浜にパラソルを立てその影に2人そろって腰を下ろしていた。他の部員は全員我先にと海へ飛び込んで行ったようだった。
「…そんな、ことは…。」
「嘘ぉ。いつもの市川さんならすぐに海に飛び込むでしょお。」
白雪まりんがうふふ、とわざとらしく伸ばした笑い声に泳ぐ気になんかなれるか、と言い返したくなるのをぐっと堪えて口の端あげる。
「…少し肘が痛むんです。だから今はちょっと…。」
「ええっ〜!何で早く言ってくれなかったのぉ!大丈夫なのぉ?病院行ったぁ?」
「え…いや、そこまでじゃ…。」
「駄目だよぉ!大会近いし水泳部期待のエースなのにぃ。」
白雪まりんは頬を膨らまして怒りながら私の肘を持ち上げた。
「…どのへん?どんな風に痛む?」
その声にドキリとした。いつものような高い声ではなく落ち着いたマネージャーの声だったからだ。
「……えっ、と…関節あたりの…ピリッとするんです。」
「……うん、筋肉の炎症とかではなさそうかな…。市川さん、いつもフォーム綺麗だけどたまにクロールの時少し肘上げすぎな時あるからね。体に負担がかかってるなら変えた方がいいよ。あと呼吸法も見直し。呼吸してない側も大きくローリングしてみて。それでも痛いならしばらく安静かやっぱり病院ね。」
テキパキと指示をする白雪まりんに返事も出来ず呆気にとられていると彼女はぱっと肘から手を離しノートに何やら書き出した。クロールの泳ぎ方について何やらブツブツ考えながらシャーペン動かしている彼女を唖然と見つめた。
これが、あの白雪まりん?
みんなの可愛い姫?
そこまで考えて吹き出してしまった。普段の白雪まりんよりよっぽどいいじゃないか。
「どうしたのぉ市川さん?」
またいつもの高い声に戻った白雪まりんが驚いた顔で私の顔をを覗いた。驚いたのは私の方だ、心の中でつっこんで白雪まりんに笑顔を向けた。そうだよね。マネージャーは選手をよく見て選手を助けてくれるんだ。
「…白雪先輩はどうしてマネージャーになったんですか。」
「えっ、なにぃ〜?急にぃ。別に大した理由じゃないよぉ?…一生懸命頑張る人を応援したいなって思ってねぇ。昔からスポーツ好きだったけどあたし自身はてんでうんちだからぁ。…あ、もしかして驚いたぁ?あたし普段と違ったでしょ〜。」
「…え、あ、まぁ……。」
「あはは。やっぱりぃ?よく言われるんだよねぇ、自覚はないんだけどぉ。…でもまぁみんなに好かれるマネージャーと厳しい意見を言うマネージャーは私の中で区別してあるのかもね。驚かせちゃったならごめんねぇ。」
白雪まりんは申し訳なさそうに目を伏せた。自分でみんなに好かれるって言うのかというツッコミは置いておいて初めて見るその顔に妙に親近感が湧いた。自分自身ではどうしようもないことなのかもしれない。私だってそうだ。みんなみんな自分自身と悩みながら生き方を探しながら生きているのか。
"高い声のぶりっ子姫"としか思っていなかった白雪まりんがとても愛らしい人間に見えた。
「…そんなことないですよ。そりゃ、ちょっとは驚きましたけど…頼りになるマネージャーだなって嬉しくなりました。」
気がつくと勝手に口から零れていたがそれは心からの言葉だった。
普段とのあまりにもなギャップに動揺はしたもののとても心強いと感じたのも事実だ。
「…えぇ〜……やめてよぉ…。」
白雪まりんは恥ずかしそうに頬を赤くしてパタパタと手を振った。なんだ、こんな顔もするのか。
「むしろ私は厳しいマネージャーの白雪先輩の方が好きです。」
「えぇ〜なにそれぇ!」
ふわふわの巻き毛を揺らしながら白雪まりんは満更でもなさそうに笑った。そして丸い瞳をいっそうキュッと丸く光らせて
「…まりん、でいいよ。あまはちゃん。」
と、囁くように言った。
その瞳を見て思った。
伝えなければならない、と。
受け取るものが大きすぎて何を返したら釣り合うのか分からなくて混乱してしまった。
自分にはあげられるものが何も無い。
自分には受け取るほどの価値がない。
それなのに、どうして、私なんかに。
そうか。これが人と関わるということなのか。これが人と生きていくということなのか。
ありがとう、ごめんね、を繰り返し申し訳ないなぁと思いながらありがたいなぁと思いながら。
人間は、言葉を使うのだろう。
それは相手への想いと少しの勇気だ。
「…ありがとうございます。まりん先輩。クロールもう一度研究し直します。」
まりん先輩は眩しい笑顔で私にうなづいてみせた。
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