第4話
「魚ちゃん夏休みどっか行くの?」
終業式があった日の恒例の夜練。10分休憩の間私たちは思い思いの会話をし、プールに入ろうとした時、伊月先輩は私の背中へ問いかけた。
「特には…毎日プール通いしたいと思っています。」
「言うと思ったよ。」
伊月先輩は嬉しそうに笑った。
「なんでですか?」
「実はね、区大会メンバーで合宿したいって顧問が言ってるんだ。予定がないなら魚ちゃんも参加ね。」
「区大会、メンバーで…。」
そういえば区大会は夏休み終盤にあるんだっけ。合宿したいと思うのも無理はない。
ただ──。
「……苦手?団体行動は。」
認めたくなかったその言葉がいとも簡単に彼の口から零れた。
「……伊月先輩はデリカシーとかないんですか。」
「え、やだなぁ〜。ありまくりだよ。ただ魚ちゃん水泳部で浮いてるし。」
「な…!べ、別に私は…!」
「うん。別にいいんだよ。魚ちゃんの好きにすれば。できる人もいれば苦手な人もいる。それだけの話だし、みんながみんなできるわけじゃないからね。」
「……。」
「それに魚ちゃんにはそれをカバーするほどの才能がある。…いや、才能と努力の結晶である実力が。」
「………先輩。」
私の才能と努力を認めてくれて、そんな言葉それこそたくさんの人からもらってきたのに、どうして、この人の言葉だけがこんなにすっぽりと私の胸へ届くのだろう。
──この人と居ると、どうして、が増えていく。
プールに足だけを浸けて座った。指先を伸ばし暗い水を味わい、ためらいがちに口を開く。
「……先輩はみんなと仲良くした方がいいって思いますか。」
「うーん、そうだね〜。団体戦とかあるしチームワークは必要だけど…。でも魚ちゃん、ほんとは気にしてないでしょ。みんなと仲良くできないこと。」
「…え。」
「見てれば分かるよ。気にしなきゃいけないのかな、くらいでしょ。別にいいのに。俺は魚ちゃんの一匹狼なところも好きだよ。」
好き。
その言葉が全身を駆け巡る。
「…せ、先輩ってほんと…か、軽いですよね!口縫いつけますよ!」
「あはは。まぁ…泳ぎたい、それだけでしょ。それでいいじゃん。君はみんなと仲良くとか部活のチームワークとかそんな狭い世界で生きるような人じゃない。」
先輩は歩いてきて私の後ろに立った。
振り返ると先輩は私の視線の高さに合わせて瞳を覗きこむようにしゃがんだ。近くで見ると切れ長な瞳、さらさらの黒髪、たしかに綺麗な顔をしているのかもしれない。
そして、いつも見せない真面目な顔を月の光が照らした。心臓の鼓動が身体に響く。
こんな、顔するんだ──。
「君はもっと広い世界で泳ぐんだ。」
先輩はぽんと私の肩を叩いて立ち上がった。
「…さ、今日はこれで帰るね。」
「……え。」
「ごめんね。ちょっと用事ができたんだ。」
そう言うと先輩は暗闇の中に姿を消した。
がらんと静かになったプールをひとり見渡して、ふと、思う。
なんだか泳ぐ気に、なれない──。
肩に残った手の感触が熱く、溶けそうだった。
「あれ、市川さん少しタイム落ちたねぇ。」
「…はぁ。そうすか。」
姫の心配そうな声を背中で聴きながら空を見上げた。楽しみにしていた夏休み初日の練習だが少し調子が悪い。というとも肘が少し痛くて思うように泳げないのだ。
「…泳ぎすぎかなぁ。」
肘をさすって小声で呟く。タイムはどうだろうといいが自分の満足のいく泳ぎが出来ないと、なんだかすっきりしない。肘に痛みを感じたのは昨日の夜からだ。
昨日の夜──。
伊月先輩が去った後も練習をしようと思った。でもクロールをした瞬間ピリッと肘に痛みが走った。
その時のことを思い出して無意識に唇を噛んだ。悔しい。思い通りに泳げないことも。肘の痛み程度に負ける弱い自分にも。
「魚ちゃん。」
「…伊月先輩。」
「…今、ちょっといい?」
伊月先輩は私をロッカールームに呼び出した。湿った空気のロッカールームは静まりかえっていて先輩の呼吸する音がよく聴こえた。
「…魚ちゃん。」
振り返るいつか見た真面目な顔に息を飲んだ。
「…はい。」
「俺がさプール禁止って言ったらどうする?」
「……え?」
なぜか寂しげに笑ったその顔に胸が締めつけられる。伊月先輩が寂しそう、ただそれだけなのに。どうしてこんなに苦しくなるんだろう。それに何を言えば正解なのか、分からない。酷く混乱したが私の想いはひとつだけだ。
「……理由を聞いて納得出来なければ泳ぎ続けます。」
私の返答に伊月先輩は一瞬、目を丸くし、でもすぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「魚ちゃんらしいね。」
その笑顔に胸が高鳴る。
その瞬間、気がついた。
私、この人の笑った顔が好きだ。
私、この人に笑っていて欲しいんだ。
「わかったよ、その代わりこれ付けてね。」
伊月先輩は自分のロッカーから紙袋を出し私に差し出した。ガサガサと鳴る紙袋を開けると奥に黒いサポーターが入っていた。
「昨日の夜、泳ぎを見てて気づいたんだ。今日もタイム落ちてたし。……肘でしょ。」
その言葉にイタズラがばれた子供のようにぎくりと体が強張る。と、同時に見ててくれたんだ、という場違いな感情が溢れ出す。
「昨日の夜すぐに家に帰って色んな店調べて今日の朝に買いに行ってね。都内にあるスポーツ選手もよく行く店らしいから安心していいよ。」
この人は──。
いつだって、私のことを。
胸の奥からじんわりとあたたかくなる。伊月先輩の優しさが私にまで伝わってすごくすごく優しい気持ちでいっぱいだ。
「……お金、払います。」
それなのに恥ずかしくて下を向いたまま可愛くない声で精一杯そう言った。
「いいよ、そんなの。魚ちゃんに惚れてるから献金みたいなもん。」
「…先輩はまたそんなこと言って。」
冗談めかして笑いながら出口へ足を向けた時伊月先輩の低い声が耳を刺した。
「…本気だよ。」
思わず振り返ると伊月先輩と目が合ってしまった。逸らそうとしても視線をがっちり掴まれて逃げられない。首筋を汗が伝った。まずい。私はこの目が。
「…魚ちゃん。」
どんどん早くなる鼓動と熱くなる全身。
構わず一歩、一歩、距離を縮めてくる先輩。
逃げたい。怖い。無理だ。
震える身体を必死に押さえる私の手に先輩が手を重ねる。思わずびくっと身体が揺れた。
「…そんなに怖い?人からの想いは。」
先輩はいつもの優しい瞳で私を見つめた。
その目にその言葉に涙が零れた。
私はこの目が苦手だ。嘘がつけないから。
「………はい…。」
それは自分史上最高に情けなく震えた小さな小さな声だった。
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