第3話

暗い水の中を泳ぐのはまた別格に気持ちがいい。暗闇がひんやりと身体を包み込んでいく。今日のプールはなかなかご機嫌のようだ。

ただ──。

「魚ちゃんってほんと気持ち良さそうに泳ぐよね〜。」

──この人さえ、居なければ。

「…まさか本当に来るとは。」

ぼそっと呟くと伊月先輩はプールサイドから歩いてきてしゃがんだ。

「ん?」

「…なんでもないです。」

聞こえてたくせに、思いながらターンして泳ぎだす。

23時きっかり、いつものようにこっそり裏の方から出ると分かりきっていたようににっこりと立っていた。ここまでくるとただのストーカーなんじゃないか、とすら思ったが伊月先輩は変わらず

「こんばんは。じゃ、行こうか。」

と笑った。


「そろそろ休憩にしようか。」

1時を少しまわった頃、伊月先輩が手を叩いて言った。

「え、いいです。休憩なんか。」

「だーめ。10分休憩して。」

しぶしぶプールサイドにあがると伊月先輩は私にペットボトルを投げた。

「水分補給はこまめにね。」

既に軽く空けていてくれていたようでキャップをひねるとパキッといわずに簡単に空いた。その気遣いがなんだかおもしろくなくてお礼を言えないまま喉に水を流した。

ちらりと隣を見るとジャージ姿の伊月先輩が憂いを帯びた目でプールを見つめている。その横顔に心臓が跳ねた。

どうして。

どうして、そんな目でプールを見つめるのだろう。

「…せ、先輩。」

「ん?」

伊月先輩はいつもの笑顔になってこちらを見た。その顔に喉まで出かかった言葉を消された気がした。

「…あ……。せ、先輩は泳がないんですか。」

「え?…あぁ、俺は…魚ちゃんを見に来たから。」

いつものように笑いながら言ったが目を逸らし誤魔化すように鼻を触った先輩にひどく距離を感じた。

「…そう、ですか…。」

結局、それしか言えない自分に

結局、それしか言ってくれない先輩に

少し、怒りを感じた。

プールが、ちゃぽんと鳴った。



「え、まさかオール?」

3時過ぎに眠そうな目を擦りながら伊月先輩は聞いた。

「そうですけど。」

0時から泳ぎ9時に始業のチャイムが鳴れば着替えて教室へ行く。泳げるのはたったの9時間しかない。

「いや、いやいや…マジか……。強いわけだ。」

「なんですか。先生に言わないでくださいよ。」

「ううん、感心してるんだよ。ほんとに、なんか、すごいというか面白いね。」

「…はぁ。」

「ちゃんと寝てるの?」

「ちゃんと寝てから来てますし授業中は基本寝てます。この前はプールに浮かんで寝てました。」

「ごめん、ツッコミ丸投げでもいいかな?」

「はい?」

「……ねぇ、魚ちゃんにとって泳ぐって何なの?」

「……え。」

予想外の質問に息を飲んだ。

そんなこと、考えたこともなかった。

「…別に泳ぎたいから泳いでるだけです。」

「選手は目指さないの?魚ちゃんならいけると思うけど。」

「…そりゃ、好きなことで生きていけたらいいですけど…評価や結果を気にしなきゃいけなくなるのは嫌です。」

「ふーん…やっぱり、魚ちゃん、だね。」

いつものように目を細めて笑う伊月先輩に月光が差す。

「選手は目指さないの?」

今まで何度聞かれただろう。

当然のように目指してる前提で話しかけてきた人もいた。はぁ、そうですね、と適当に返してきたのに。

どうして。

「俺も今日からオールになっちゃうのかー。」

伊月先輩はベンチに座って上を向いた。

「…別に、来なくてもいいです。」

「じゃ、来てもいいってことだよね。」

首を傾げて真っ直ぐ私を見つめた。

「…勝手にしてください。」

どうして。

この人には言ってしまうのだろう。

この人には嘘がつけない。

この人には敵わない。

どこかでそれを分かっているようだった。


伊月先輩の背中の窓から差し込む月の光。

月が綺麗ですね、と言って欲しげにプールの水面が煌めいた。



背泳ぎ、バタフライ、クロール、あと平泳ぎをしようとした時チャイムの音が室内に響いた。

「あと5分やっていく?」

「いえ、見回りが来ちゃうんで。」

「へぇ、さすが詳しいね。」

「1回捕まったことあるんですよ。」

「魚ちゃんほんと強いよね…。」

「先輩も今日から共犯ですからね。」

軽口を叩き合いながら更衣室へ向かう。

…ん?更衣室?

「…いや、どこまでついてきてるんですか!」

「え?一緒に着替えようと思って。」

「やめてください。炙りますよ。」

「えー残念。じゃ、出たとこで待ってるから。」

満更冗談でもなさそうに先輩は手をひらひら振った。

いつも1人でプールへ行き泳ぎ1人で教室へ行っていた。それを寂しいと感じたことはなかったが、出口で待ってる人がいる。それがなんだか不思議な気持ちにさせる。その日はいつもより少し早く着替えが終わった。


「あまは〜!!!あんた彼氏出来たの!?」

HRが終わってすぐ三久が飛びついてきた。

「なに、また…」

「イケメンがあんたを教室の前まで送ってたってみんなが噂してんのよ!」

「あぁ…伊月先輩だよ。断っても送ってくって聞かなかったから。」

「伊月……あぁ、この間来てたマネージャーかぁ…。たしかにイケメンだったね。」

半ばガッカリしたように三久は納得した。

「そう?」

「あれはイケメンでしょ!ほんとに付き合ってないの?」

「ないない。夜練に勝手についてきただけだし。」

「あぁ、あんたまたオールで泳いでんの。身体ふやけるよって言ってんじゃん。」

呆れたように言う三久を見て、これが普通の反応だよなぁとしみじみ感じた。あの時、おもしろいね、と目を細めた"イケメン"を思い出す。

「いいの。私、魚だから。」

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