第2話
「市川さん、新記録だよぉ!」
50m泳ぎ切った瞬間、白雪 まりんの鼻にかかった声が耳に入ってきた。
「はぁ…どうも。」
プールから上がりトントン、と耳から水を出した。出したいのは水だけではないが。
「すごぉ〜い!メキメキ記録伸ばしていくねぇ。オリンピックも夢じゃないよぉ!」
白雪まりんは私のあとをついてきてぴょこぴょこと跳ねる。ふわふわの巻き毛をふたつくくりにし私より頭一つ分低いその小さな体を見下ろした。大きな瞳にピンク色の小さな唇。全く体にあっていないぶかぶかのジャージから指が覗く。
「…ども。」
白雪 まりんは2年の水泳部マネージャーだ。私が伊月先輩の名前を覚えていたのはこの人がよく
「純先ぱぁ〜い」
と大きな声で言っていたのからだ。
「白雪姫だから、ね。」
それがこの水泳部の暗黙のルールらしい。
姫は敬う。
極端なえこひいきをするわけではないが、みんなそれなりに気を使い過ごしている。それは姫という存在に好かれたい、という思いからくるのだろう。
「ひめ!あたしのタイムはー?」
「あ、ごめんね〜。えっとー…。」
「あ、白雪さん。いいよ、俺測っといたから!」
「えぇ〜ありがとぉ〜!」
大袈裟なリアクションをしながら"姫"は内股で走っていった。
「彼女は苦手?」
前に向き直るといつものようにうすく笑っている伊月先輩がいた。
「…別に。マネージャーとしてちゃんと仕事をしてくれるなら文句はないです。」
タオルをくれたりこまめに水分補給をするよう呼びかけてくれたり、白雪まりんは人間性はともかくマネージャーとしての仕事はしっかり果たしてくれていると思う。
「そう。俺も嫌いじゃないよ。あそこまであからさまだと逆におもしろいからね。男女問わず人に好かれたいんだろうね。」
伊月先輩は細い目で白雪まりんを見つめた。
おもしろい。
前に彼は私にもおもしろい、と言った。
私より──?
自分のボサボサのショートカットをねじる。
そこまで考えてはっとした。何が。この人におもしろい、と言われて何も思うものか。
「じゃ、一生、姫を見つめてればいいんじゃないすか。」
「え〜、俺は魚ちゃんしか見てないよぉ〜。」
伊月先輩は誰かの真似をするように鼻にかかった声を出した。それが少し似ていて思わず吹き出した。伊月先輩もくくっと笑い、ひとしきり2人で笑い合ったあと、伊月先輩は真面目な声を出した。
「…また、タイム伸びたね。」
「…え、…あぁ、まぁ…。」
「タイムにも興味ないの?」
「……。」
この人は、何なんだろう。
ズカズカと人の心に入ってくる。でも、不快な思いはさせない。なんとなくすべてを見透かしているような目をして、この人には何も嘘が通じないような気がしてしまうのだ。
「私は──。」
伊月先輩が優しい瞳をこちらに向ける。
なぜ、この人はこんな瞳で私を見るのだろう。私は、それがずっと分からない。
「泳ぎたいんです。」
「…それだけ?」
「はい。」
そっか、と微笑んで伊月先輩は行ってしまった。あの人は聞きたいことだけ聞いて、言いたいことだけ言って、いつも行ってしまう。私も今度は何か聞いてやろう。そうだな、何でそんな目で見るのか、とか。
そこまで考えていた時、顧問の先生が終了の笛を鳴らした。いつも終了ぎりぎりまでプールに入ってたのに今日はなんだか悪くない、とぼんやり思った。
「さっかなちゃーん!」
校門を出てすぐ後ろから声がした。振り向かなくても声の主が分かるのがうんざりする。私を魚ちゃんと呼ぶのは1人しかいない。
「…伊月先輩って友達いないんですか。」
「え〜失礼な。いまくりだよ。わざわざ断わって会いにきたんだから。一緒に帰ろうよ。」
「私、家近いんで。」
「そうなんだ〜。俺は電車で30分くらい。」
「そうですか。さよなら。」
「ちょ、ちょっとちょっと!送ってくってば!」
「いいです。」
「よくないよ。暗いから。」
「別にいい…」
「よくない。」
いつものようにうすく笑い、でも目は笑わず真っ直ぐ私を見据えていた。有無を言わせないこの目が、私は──
「ほら、行こう。家どのへん?」
「…歩いて15分くらいのとこです。」
少し、苦手だ。
「─でね、夏の大会終わったらみんなでご飯行こうって。魚ちゃんも行こうよ。」
「いいです。」
「3年の奢りだよ〜?それに海の幸たくさん出てくるって。」
「………行きます。」
「そうこなくっちゃ!魚ちゃんとご飯、楽しみだな〜。」
「…別にふたりきりじゃないでしょ。」
「そうだよ。え!もしかして、ふたりきりがよかった〜?」
「死んでください。」
「はは。手厳しいねぇ、魚ちゃん。」
すっかり伊月先輩のペースになってしまっているがこの人が笑うと少し顔が緩んでしまう。つい、クスッと笑った時伊月先輩は私をじっと見つめた。
「…なんですか。訴えますよ。」
「…魚ちゃん、ふたりで行こうか。」
「行きません。」
「ご飯じゃなくてさ、何でもいいしどこでもいいから。そうだな、魚ちゃんがいつも行ってる夜中のプール、とか?」
その言葉に心臓が跳ね上がった。思わず眉をひそめて伊月先輩を見た。
「…知ってたんですか。」
「え、マジで?」
「……は?」
「行ってそうだなーとは思ってた。」
「…………え?」
「それ不法侵入じゃない?やるねぇ、魚ちゃん。」
「…だ、騙したんですね!!!」
伊月先輩は肩を震わせて笑い目にうっすら涙まで溜めて私に聞いた。
「今日の夜も行くの?」
「…0時過ぎくらいには。まぁ、毎晩行ってますから。」
「ふーん…。」
「来ないでくださいね。」
「分かった〜。絶対行くよ〜。」
「どんだけ天邪鬼なんですか。」
「だって危ないよ。夜中にプールなんて。23時くらいに家まで迎えに行くから。」
それだけ言うと伊月先輩はじゃあね、魚ちゃんと笑って背中を向けその背中はどんどん小さくなっていった。
危ない、と言うのならプールに行くのをやめさせればいいのに、それはしない。それが私のことを考えてくれているような気がしてしまう。
「…なんなんですか、あんた。」
その小声は届くわけもなく伊月先輩の背中に桜の花びらが散った。
春がもう終わるのだと思った。
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