人と魚と姫

@843Rd4M

第1話

蒼くきらきらと光る世界に手を伸ばして、どこまでも。

ひんやりと全身を潤す、あぁ、気持ちいい。やっぱり、私はここが大好きだ。


遠くから聞こえたチャイムの音に水面から顔を出す。このままサボって泳いでいようか、とも考えたが先週それをして1週間プール禁止令を出されたのだった。おかげで隣の区のプール施設にまで足を運ぶハメになった。仕方ない、とため息をついてプールから上がる。今年この高校に決めたのはプールの設備がいいからなのに、まさか教室に居る時間の方が長くなるとは。中三の冬は一体どんな生活が待っているのだろう、とあんなにワクワクしていたのに、想像していたより高校生はつまらない。

 あまりしっかりと拭かずに急いで制服に着替えて教室へ行きHRに滑り込む。

「あー…泳ぎたい…」

「今朝も泳いできたんでしょ。髪びっしょびしょじゃん。ほら、こっち来て。」

クラスメイトの三久が今日も私の頭をバスタオルでわしゃわしゃと拭いてくれる。

「あ、魚ちゃん!」

廊下から能天気な男の声が聴こえてきた。声のする方にしかめた顔を向けると、思った通り水泳部マネージャーの伊月先輩だった。

「えー、そんな目で見ないでよ。あれ、今日も自主練したの?ほんと熱心だねぇ。」

「…なんですか。」

「連絡事項だよ〜。今日の放課後ミーティングだから着替えずに部室集合ね。」

「え。」

放課後になったらいの一番にプールに飛び込もうと思っていたのに。

「あはは。そんな顔すると思った。ほら次の大会のメンバー発表だって。まぁ、魚ちゃんは絶対選ばれるだろうけど。」

「大会…。」

その聞き飽きた言葉にうんざりする。

「流石だね〜魚ちゃん?」

三久はからかうようにその名を呼んだ。

「三久!」

「あはは。じゃ、放課後にね、魚ちゃん。」

「伊月先輩も!それやめてください!」

アホそうに揺れながら去っていく背中に叫んだがひらひらと手を振られただけだった。

「ごめんって、あまは。」

三久はまだ少し笑いながら私の本名を呼んだ。

「でも、何で、魚?」

「…知らない。水泳バカって言いたいんじゃない。」

たしかに、私は水泳バカかもしれない。この私立高校にも水泳の推薦、つまりスポーツ推薦で入ったし大会ではだいたい優勝か準優勝。でも好きなのだからしょうがない。それに私は推薦とか優勝とか大会とか大人の評価なんてどうでもいい。ただもっといい環境で泳ぎたいだけなのだ。それをなんで泳ぎもしないマネージャーに──。

3年のマネージャー伊月先輩は初めて出会った時から目を細めてうっすらと笑い私を見つめてくる。私を魚ちゃんと呼び何かとちょっかいをかけてくる。

「……変な人。」

もう見えなくなった背中にぼそりと投げた。


「……この区大会を突破すると県大会に出場できる。そのためには日々の積み重ねだ。これが勝利に繋がる。みんな心して練習するように!」

「はい!」

部員達の気合いの入った声で広大な海の底をのびのび泳いでいた私は突然冷たいコンクリートの上へ叩き落とされた。うちの水泳部はやたら暑苦しい。最悪の目覚めだったが話は終わったようなのでさっそく更衣室へ向かうと

「さっかっなちゃ〜ん!」

と背後から不愉快な声がした。

「なんすか。」

「また選ばれたね。1年生で選ばれたの魚ちゃんだけだけだよ。おめでとう〜!」

伊月先輩は自分のことのように嬉しそうに私の手をとってぶんぶん振った。

「あ、私区大会のメンバーに入ったんですか。」

「そうだよ。団体と個人、どっちも。もしかして聞いてなかった?」

「海を泳ぐ夢を見てました。」

そうだったんだ。団体も、か。正直団体戦は苦手だ。誰かと力を合わしたり出来ないのに。

「……はは……あはははっ!」

「え…」

こらえきれなくなったように吹き出した伊月先輩をぽかんと見つめた。

「メンバー発表で寝てるって…しかも夢の中でも泳いでんの…ほんと、おもしろいね。魚ちゃん。」

この人は──

また、私を笑うのか。

「…メンバー発表聞いてたのなら私の名前、知ってますよね。」

尖った私の声にも伊月先輩は変わらず目を細めて見つめてくる。

「…うん、知ってるよ。市川 天羽ちゃん。でも、魚ちゃんだよ。」

「…どうして。」

「だって…」


「そっちの方が可愛いじゃん?」


「もういいです。」

「じゃあ、魚ちゃんは知ってる?俺の名前。」

「…え、知ってますよ。伊月先輩。」

「じゃなくて、名前。下の名前。」

「えっと…純?伊月、純だったような…。」

「そう!魚ちゃんもさ〜純くーんって呼んでくれるんなら俺もあまはちゃーんっ呼んであげても……ってちょっと!」

スタスタと胸を張って更衣室へ向かう。アホと喋ると泳ぐ時間が短くなってしまう。早くそのことに気がつくべきだった。水着に着替え軽く準備体操をしていると部員のひそひそ声が聴こえてきた。

「ねぇ、3年の先輩差し置いて大会出といてよくプール入れるよね。」

「なんなの、あいつ。先輩泣いてたよ。かわいそ〜。」

少し大袈裟にため息をついて場所を変える。まぁ、言いたい奴には言わせとけばいい。私は何より泳げればそれでいい。それにしても泣いてる暇があるなら泳げばいいのに。そしてもっと上手くなればいいのに。まぁ泣く時間も大切なのかな。私が何よりも泳ぐことを大切にしているように大会に出ること、部員と仲良くすること、そういうことを大切にしてる人もいるのだろう。それを理解することは出来ないが尊重することはできる。お互いを否定せずやっていくことが大事なんだと学んだ。


バシャンッ


手を伸ばして水をかく。

今日は得意なクロールでいくか。


そうだ、伊月先輩みたいに。否定せず肯定せず、ただ、ヘラヘラと笑って──。

いや、あれはただのアホか。

ぼーっとあれこれ考えながら水面を泳ぐ。

不意に、

「あまはちゃーん」

伊月先輩の声が頭に響いて、ドキリとした。

あの声が、

あの手が、

あの笑顔が、

なんだか落ち着かない。


熱い頬に冷たい水が弾けた。

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