第2話 それで誰がなんなんだの巻

 部室棟前の広場で、鳥居がピッチング練習をしている。もちろんキャッチャーは尾大。人数が八人になったが、鳥居は野球部を辞めていない。まず尾大がなかなかのキャッチャーで、自分達はいいバッテリー(恋人ではない)になりそうだということ。もう一つ、ユニフォームがすばらしいことである。空山が実家の資産を惜しげもなく使って作ったユニフォームは着心地がよく、動きやすく、汗をちゃんと吸って速乾性も十分。おまけに無料提供。鳥居はこんな上等なユニフォームを着たことがない。これを着てピッチングやるだけでもここにいる価値がある。

 二階堂が来た。童顔で小柄。バッティングでボールに負けた男。


「鳥居君、俺も、投げてみたいんだ。教えてくれるかな」


 鳥居は喜んだ。野球をやる気になった人が増えるのは素直に嬉しい。


「いいですよ! じゃあ、俺のフォームと同じように投げてみて下さい」


 鳥居はそう言って、分かりやすいフォームで、何球かゆっくり投げてみた。二階堂は顔をしかめている。


「うーん、難しいな……」

「え? そうですか?」

「ボールが重そうで」


 鳥居が何か言いかけた時、騒がしく二人の男が部室から出てきた。


「おぅ二階堂ちゃん! どこに行ったかと思ったらそこか!」

「おで、おでを置いていがないでくで!」


 もちろん紺野と板東だ。


「ピッチング練習か。よし、俺がキャッチャーをやってやる」

「おでが! おでがきゃっちゃ!」

「うるせえ早いもん勝ちじゃ! キャッチャーミットよこせ」


 そう言って紺野は、尾大からキャッチャーミットをかっさらった。


「よし二階堂ちゃん、カモンだ!」

「えっ? 俺、まだ投げないで見てるんですけど……」

「じゃイガグリ野郎、遠慮なく速球で来やがれ!」


 鳥居はイガグリ呼ばわりされて、あまり気分は良くない。望み通り速球を見せつけたいところだ。


「ええと、じゃあ、座ってミットを構えて下さい」

「よーし」


 紺野はおもむろにズボンを脱ぎ始め、下着まで下ろそうとする。鳥居は焦った。


「ちょ、ちょっと何してるんですか!」

「もちろんこのミットをだな」


 紺野の行為に、鳥居が赤くなって汗をかく。


「ああっ、な、何にハメてるんですか!」

「ナニにハメてるんじゃねーか。俺の股ぢからをナメるなよ」


 ミットを奪われ、ナニにハメられた尾大の顔からは血の気が引いてくる。終わったらあれを再び自分の手にハメるのだろうか。アルコール消毒でもした方がよさそうだ。


「紺野先輩、こないだそれでバット使って痛がったじゃないですか! やめた方がいいです」

「あれは金属棒。これはソフトな皮だ。ガードバッチリだ。大丈夫。さあ来いっ!」

「来いったって……」


 下半身丸出しで股間にミット。その状態で座っている。そこに部室からふらっと林が出てきた。相変わらず扇子を使って顔をあおいでいる。紺野を見て顔をしかめ、口元を扇子で覆った。


「おやおや……ミットがあるのにミットもないとはこれいかに、ですな。いやもう大変なんすから」


 渋い声でそう言うと部室に戻ってしまった。

 鳥居は投球の体制になる。


「行きますよ」


 そう言って、ストレートをミットめがけて投げ込んだ。ミットには命中。しかしつかむことはできないので、ボールはそのままポロッと地面に落ち、ついでに紺野はミットの上から股間を押さえてうずくまった。


「あううう……」

「こ、紺野先輩! ……だからやめた方がいいって……」

「き、効く……こ、これぞベースボール……珍プレー」

「いや、違うと思いますが……」


 ここで板東が紺野の股間に手を伸ばし、ミットを奪った。


「あっ、やめろこのヘンタイ!」

「おでの番だど! さあやるぞおりゃあ!」


 板東はあっさりミットを手にハメて、座って普通に構えた。鳥居はうなずくと、投球フォームに入ろうとした。そこで二階堂が止める。


「あ、ちょっと俺が投げていいかな」

「はい、どうぞ」


 鳥居は二階堂にボールを渡した。板東は大喜びである。


「やっだどー! 二階堂ちゃんのボールをうげられる!」


 ズボンをはき終わった紺野がふてくされる。


「なんで俺の時に投げる気にならねーんだよ!」

「おでの愛の差じゃあ!」

「いや違います。俺は今、自分のピッチングのことしか考えてないんだ」


 やる気があるな、と鳥居は思う。筋力が足りなそうだが、このやる気さえあれば、トレーニング次第で十分いい選手になりそうだ。

 二階堂は構えた。さっきから何度か見ていた鳥居のフォームをまねてボールを投げた。しかし、投げたものの、力のないボールは歩くよりも遅く空中を飛んで板東の方へゆっくり向かっていく。板東が目を見張る。


「ちょ、ちょっと待で。なんだぁあのボールはぁ!」


 二階堂は苦笑いした。


「いやぁ、力があれば鳥居君のような速球が投げられるけど、力がないもんでこんな遅いんだよね」


 ボールはまだ空中をゆっくり漂って板東に向かっている。板東が叫ぶ。


「いやいやいやそりゃおかしいって。下方向に重力加速度がはたらくがらな、どんなボール投げても、よご方向が同じな限り地面に落ちるまでの時間は速球でもスローボールでも同じはずだんだど。こりゃおかしいっで!」


 板東はパズルはできないが、数学科学は得意らしい。ごちゃごちゃ言う板東に、紺野がいらだつ。


「うるせえなおでん野郎。小難しいことはどうだっていいじゃねーか! 超スローボールのピッチャーになれるぞ二階堂!」

「へへへへ、そうかな」


 ボールがやっとキャッチャー板東のところに達して、ミットに収まった。


「いやいやいやなっどくいがねえよおでは!」



 その頃、部室内では空山が鉛筆を持って広げた紙を前に考え込んでいた。既にいろいろ書き込んである。隣には六角がいる。林が外から戻ってきた。


「いやー外は相当なもんで卒倒しそう……部長、何やってるんです? 紙を前に神頼み?」


 空山は紙をにらんだまま、目を離さない。


「いや、野球の守備にはいろいろポジションがあってな、誰をどこにするといいかなと」

「だって八人でしょ。野球できないじゃん」

「近々もう一人来そうなんだ……来たがっている人がいるらしい……あと、恵伝学園が野球部があるなら練習試合をやりたいと」

「恵伝学園? 隣町の共学校? あそこ野球部あるんですか?」

「ある……そんなに強くはないが、別に弱くもない。いい選手もいるらしいし、少なくとも、うちよりはちゃんとしてる」

「へえ。じゃあ、早くその一人とやらに来てもらわないといかんですな」

「それもあるし……ポジションがなあ。ピッチャーとキャッチャーは鳥居と尾大として、あとはどうするのがベストか……よし六角、戦力分析マシン! こいつを見て最大の戦力をはじき出せ」

「はい、部長」


 六角は自分を機械と暗示させることができる。情報が少ないので無駄かもしれないが、一応やってみることにした。六角は紙に注目。既に八人の名前が書いてある。各個人の戦力は、先日のバッティング練習で……あまり参考にならないかもしれないが何かは得ているだろう。六角は鋭い目で紙をにらんでいる。集中しているのだ。六角はおもむろに紙を手に取った。そして縦二つに折った。空山の手首をつかむと、紙の縁を当て、前腕に垂直に立てた。そして思い切り引く。シュッと音がした。


「いでーっ!」


 空山が叫ぶ。腕に細い切り傷ができた。六角は目を見張りつつ答える。


「おお最大戦力! これでやり方によっては首の頸動脈を斬ることができるかもしれません」

「紙の殺傷能力じゃないっ! ストップ!」


 六角は、はっと我に返る。


「いかがでしたか?」

「使えねえヤツだな」

「おっと紙の使い方でカミナリが落ちました」


 センスを手にした林の茶々に顔をしかめつつ、空山は救急箱からバンドエイドを出した。


「え? お、俺何か……」

「まあリアル、ペーパーナイフですな。まるでカッター。紙なのにかったーくなっちゃったりして、紙なのにあんな切れ味なんて神様だって分かるめえいやもう大変なんすから」


 空山がバンドエイドを貼って何か言いかけたところ、外から五人が戻ってきた。思い思いにソファーに座る。空山は二階堂に訊く。


「どうだった? 投球は」

「俺、魔球が使えるらしいです」

「え?」

「いやいやあれは物理法則がらしてむぐぐぐ……」


 よけいなことを言いかける板東の口を紺野がふさいでいた。


「あれができなきゃおもしろくないだろ」


 鳥居は何気なく壁を見る。貼ってあるポスターが一枚増えていた。水着の男性を使った清涼飲料の広告だった。鳥居は軽くため息をつく。


「やっぱ水着の女の子のほうがいいなあ……」


 その瞬間、部室内が静まりかえった。鳥居は異変に気づき、室内を見回すと、全員が自分を見ていた。


「えっ……な、なに?」


 しばらくして空山が口を開く。


「それを言っちゃ……ダメだ」

「えっ、で、でも」


 どこからか獣の唸り声のようなものが聞こえる。声の出どころは紺野だった。声だけではない。頭から紫色の煙を吹き出していた。室内が紫にかすみ始める。いきなり紺野は叫んだ。


「うおおおおお! この悪霊にとりつかれた愚か者があっ!」


 そして背中から忍者が刀を出すように、いきなり出したものは祓い串(神主が振る紙のついたやつ)だった。


「悪霊、退散!」


 そう叫ぶと紺野はいきなり鳥居に向かって突進し、鳥居の目の前で祓い串を振り回して絶叫を始めた。


「悪霊退散! 悪霊退散! 異化堂朱色断猛法蘇婆伽! 異化堂朱色断猛法蘇婆伽! BLこそ至高! 悪霊退散! 悪霊退散! 異化堂朱色断猛法蘇婆伽! 異化堂朱色断猛法蘇婆伽! BLこそ至高!」


 あまりにけたたましく恐ろしいので鳥居はしゃがみ込んで耳をふさいだ。絶叫がいったん止む。紺野は鳥居に顔を寄せた。


「悪霊は去ったか?」

「えっ?」


 見かねて空山が寄ってきた。鳥居の耳元で囁く。


「去ったと言え。何時間でもやられるぞ」

「さ、さ、去りました」

「よーし」


 紺野はにんまり笑うと、満足げに去っていった。鳥居は思わず空山を見る。


「な、な、な、なんですあれ?」

「見た通りお祓いだ。紺野の家は神社でな。あいつは神主の息子だ」

「えっ? じゃあ本物?」

「バカ息子だ。本物と思い込んでいるだけだ」

「だからって……」

「まあ気をつけてりゃ大丈夫だ」


 要するにここでは、女子という生き物の話題はできないようだ。他の部員が窓を開けて、部室内にこもった紫の煙を外に出して換気する。


「ところで」


 空山が全員にさっきの紙を見せた。


「守備のポジションを決めたい。希望があったら教えてくれ。鳥居ピッチャー、尾大キャッチャーは決まっている」


 煙が収まった紺野が早速口を開く。


「キャッチャーがよかったのう。座ってボール取るだけだし」

「い、いやそれだけじゃないっスよ。キャッチャーは大変っス」


 尾大が慌てて否定。


「ごのセンターってのは二階堂ちゃんがいいっ! おではその隣のレフトで」

「いや板東先輩、アイドルグループのセンターじゃないんです」


 鳥居が解説する。


「じゃ、センターってなんだのだ?」

「外野の真ん中です」

「ガイアの真ん中なら最高でねえか……ガイアってなんだっけ? 大地か? おお大地の真ん中に二階堂! レフトおで!」


 板東は二階堂に笑いかけるが、当の二階堂は涼しい顔をしている。


「俺はどこでもいいですよ。ピッチャーやりたいけど。まあ鳥居君のほうがいいでしょう」


 その体力ではピッチャーなんか一回ももたないではないか、と鳥居は思うが黙っている。


「じゃあセンター二階堂、レフト板東」


 空山が紙に書き込む。


「部長、一番目立つのはどこ?」


 紺野が訊く。空山はよく分からないので、鳥居を見る。


「おい、どこだ?」

「うーん、ファーストですかね。打たれた球は、まずはファーストに送られてアウトかどうか決まるんです」

「じゃ、俺ファースト」


 空山が紙に記入。それから林を見る。


「お前はどうする?」

「さーどうしよー……サードしよう。サード」

「いいのかそれで? 適当すぎないか?」

「どこも分からんもので。守備なんてシュビっと決めるね」


 空山は鼻で笑って記入。


「六角は?」

「ええ、俺はまあ、あればどこでもいいです……部長は?」

「え? 俺もやるの?」

「だがら部長も入れで、もう一人来てやっと九人でねえか!」

「そういやそうだな……え? あとどこ残っているの? セカンド、ライト、ショートか……鳥居」

「はい」

「一番楽なのはどこだ?」

「ええっ? そんな基準で……」

「そりゃダメだよ部長。部長こそ一番キツいところ行かないと!」


 紺野がそう言って空山をにらむ。空山はにらみ返す。


「俺は部長だ。権限は俺にある! じゃあ俺はショートをやる!」


 鳥居は感心する。ショートは守備の要であり華だ。ダテに部長ではないようだ。


「何しろほら、セカンドとサードとレフトに囲まれてるから楽そうじゃん」


 やっぱり分かってねえ……鳥居はあきれる。六角はセカンドになった。


「するとあと一人がライトで、これでメンバーが揃うってわけだ」

「それまでに誰か辞めなきゃいいがなあ……」


 紺野が笑いながら言う。すると、尾大が暗い顔をして部室を出ていった。鳥居はそれを見て何か気にかかる。さらに続けて六角が黙って出ていく。六角は表情がほとんどないので何を考えているのか分からないが、これも気になる。二人とも辞める気ではないだろうか。中学でもずっと野球部だった鳥居は、辞めそうな人は勘で分かるのだ。せっかく野球ができそうなのに二人も辞めたらひとたまりもない。特に尾大とはいいバッテリーになりそうなのに。鳥居は二人に続けて部室を出た。自分の勘が正しいのか、追いついて訊いてみよう。校舎の裏で二人を見つけたが、何やら二人だけで話し合っていた。自分がいきなり出ていっていいものか分からなくなった。つい物陰に隠れて様子をうかがってしまう。声は何とか聞こえる。


「野球部、辞めようと思ってるっス」


 やっぱり……守備の役割すら分からないチームでは、尾大には不満なのだ。確かに自分も不満だが、やる気があれば育てることはできるはずだ。もしかして……尾大は後輩などを育てたことはないのだろうか。


「今、みんながやる気になりつつある……君と鳥居君が来たおかげだ」


 六角が意外としゃべる。部室では無口なのに。


「でも、今までやる気なかったんでしょう?」

「俺は……知っての通り自己の機械的暗示でいろいろできるが、うまくいかないことも多い。そしてうまくいくかどうか、世の中ではそれが重要すぎる。俺の居場所はなかった。でも野球部は……野球こそしなかったけど、俺にはいい居場所だったんだ」


 いや、それじゃそもそも野球部じゃないだろ、と鳥居は思う。


「苦労してるっすね、六角先輩も」

「みんなは野球を見つけ始めた。そして俺も……」

「野球を見つけたっすか?」

「いや、俺が見つけたのは……」


 六角はいきなり尾大を指さした。


「君だ」

「えっ? ……どういうことっすか?」

「君が初めて部室に入って来た時から……俺にとって忘れられない人になった」

「そ、それって、つまり……」


 鳥居の背中に冷たい汗が流れ始める。


「君が好きになった」

「ええっ……で、でも、俺、男っすよ……こんな太ってるし」

「そんなことは関係ない。俺は痩せている。君が肉布団なら、俺は布団乾燥機になる」

「え、どういうことっす……」


 言い終わらないうちに、六角はいきなり尾大の唇を奪った。あまりのことに鳥居は失禁しかける。これが世に言うBL。いや、なぜいきなり尾大が、なぜいきなりこの二人が。

 六角はしばらくして唇を離した。


「尾大君……目覚めよと叫ぶ、神の声が聞こえないか?」


 尾大はしばらく六角を見つめていたが、やがて微笑して答えた。


「聞こえるような……気がするっす」


 おお尾大が! 他の部員は既にその毛があるようなので、自分と尾大だけがノーマルだと思っていたが、こうもあっけなく尾大があっちへ行ってしまうなんて。鳥居は震え始める。つまりもう自分だけではないか。こうなるとノーマルもアブノーマルもないというか、こっちがアブノーマルだ。


「辞めるなんて言わないでくれ」

「はい」


 そう言って二人は抱擁し合った。いたたまれなくなり、鳥居はその場を離れる。そのまま走り出した。ひたすらどこをどう走ったか分からないぐらい走った。気がついた時には息切れをしていて、自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。

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