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 結果として、香織はその日のうちに鰤谷の家に自分の家の玄関を使っていくことになった。

 

 失くしたと思った鍵が自分の家の玄関にあったからである。鍵を失くしたと思ったショックで開くかどうか確認していなかったのだ。初めからないものを香織は懸命に探していたのだ。しかし、香織の意識はそんな自分の間抜けさやズボラさより、バルコニーまで犠牲にして香織を帰らせてくれた鰤谷にどうやって謝るかということに向いていた。どれだけ考えても、うまい嘘が浮かばなかった上に、正直に言った方が今後仲良くできそうな気がしたので、決心して謝りに行ったところ、「ちゃんと確認してよね」ときつく怒られた。


 その夜は、鰤谷から晩酌に誘われた。酒を交わしながら(香織は警戒して飲まなかった)鰤谷が札幌での高校時代に師匠と呼ばれていたこと、香織の前のアパートが住めなくなったこと、鰤谷が一年休学した後また大学に通いだしたこと、香織は最近大学に行っていないこととそれを親に隠していること、鰤谷が今日までバイトしていたパチンコ屋でシフトリーダーに上り詰めたことなど交互に身の上話をした。提げていた大きな袋は景品など色々なプレゼントを詰めたものらしかった。


 出会ったそばから仲良くなることが香織は高校時代から得意だったが、それでも出会った初日から自分のことを話せるその包容力からだったのか、鰤谷のことを自然と師匠と呼ぶようになっていた。鰤谷は「なんだか『こころ』みたいだ」と言った。


*

 

「結局、来るか来ないかは分からない」

「え?美沙ちゃん?」佐久間は包丁を持ったままカウンターから身を乗り出して言った。


 佐久間の家に行く前に隣の鰤谷の部屋に寄ったが、留守のようだった。メールを打った後、ドアの新聞受けにも付箋で置手紙を残した。たまに鰤谷は携帯の電源を切ったままにしておくことがあったからだった。


「師匠だよう。美沙はちゃんと呼びました」皿の配置にこだわりながら香織は言った。

「ああ…。びっくりした。今日は結構手が込んでいるから」

「いるから?」

「いや、君たちにふるまうのは惜しいわけです」

「いいじゃん別に」精一杯可愛げのある不機嫌な顔で言った。

「お前らはよそで食えよー」まな板の上からすさまじい千切りの音を立て、佐久間が言った。

「まだ、そんなに仲良くないよ」

「いつ頃だよ。早くくっついてよそに行けよ」

「そんな邪魔なの?」

「適度に」

「賢治君はいい人だけど、それだけなの」

「越谷、お前はバカ。本当にバカ」

「なんで?」

「賢治はそれだけじゃないんだから」

「それはありがたいことだけれども、あのチャラチャラしたところが生理的に無理かも」

「出たよ『生理的に無理』それでどれだけの男性が傷ついてきたかわかってんの?」

「それは世の女性に言いなさい」

「かもってなんだよ。ちゃんと見てあげろよ」佐久間はゆで具合を見ながら香織と目を合わせずに言った。

「佐久間だってそうだったじゃない」香織は呟いた。

「ごめん。ゆであがったから、器出して」佐久間はまったく聞いていないようだった。

「師匠、道分かったかな…」香織も関係ない話題でごまかした。

 香織は食器棚の奥の方から佐久間がサラダ用にいつも使っている皿を取り出して、佐久間があごで指しているところに置いた。


 チャイムが鳴った。香織が出ると賢治がインターフォンの前で髪を直していた。仕方なく、香織はドアを開けに行った。ノブに手をかける瞬間、よそ行きの笑顔を作って、気合を入れた。


「ああ、香織さん!いたんスか。どうも」賢治は手を頭の横に持ってきたままあいさつした。

「待ってたよ。今日は?」

「ああ、バイト帰りなんで歩きっス。ちょっと酒を選んでたら遅くなっちゃいました」賢治が言った。

「結構買ったね!私、焼酎しか買ってなかったけど、それなら事足りるね!」

「香織さん焼酎飲むんスか。ワインとかビールは買ったんですけど、飲めました?」

「大丈夫だよ。なんでも飲むからね」

「マジっスか。香織さん尊敬します」

「玄関先じゃなく入って話せば」リビングから聞こえるように佐久間が言った。

「龍一さん、お邪魔します」

「はいよ」

「佐久間、賢治君どこに座らせる?」

「賢治、お前は下座に決まっているから。越谷もな。お前らは主賓じゃない」

「主賓は美沙さんスか。香織さん、申し訳ないスけど隣でいいスか」

「大丈夫だよう」香織は言った。

「申し訳ないです」賢治は何か含みのあるようなイントネーションで、香織にだけ聞こえるように呟いた。

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