3
新しいアパートは三階建ての二階角部屋で、丘の上にあるので、見晴らしがよかった。一人暮らしの女性の悩みとして「二階の部屋がいいな」と母親に提案した結果、すんなりと聞きいれられた。契約の違約金も払うことなく、家賃は大学合格時に急いで決めた前の部屋より安く、こんなに気持ちがいいところに住めるなんて、ラッキーだと思った。
近所へのあいさつ回りも不在宅以外済ませて帰ろうと思った時、新居の鍵がないことに気がついた。ポケットの中を確認しながらあたりを見回したが、発見できなかった。あいさつに回ったすべての部屋の前を探した。どの家も玄関先でしか話していなかったので、置き忘れということは考えられなかった。
そうやって右往左往しているときに、えらく大きな買い物袋を提げた女性が廊下を歩いてきた。身長は香織より頭一つ分高い。その表情は険しく、一歩一歩が大きかった。夕陽を背に颯爽と歩く女性の迫力に、香織は思わず女性を凝視してしまった。
女性が香織の隣の部屋の前で立ち止まった。よく見ると、同年代のようだ。不健康そうな紫の唇だったが、色白の美人だった。猫のような目が光ったような気がした。
「何?何か用?」女性のしゃがれた声が廊下に反響してエコーのようだった。
「あ、なんでもないんです」
「そんなところで何してるの?」
「わ、私、今日からこちらに越してきたものなのですけど、その…自分の家の鍵が見つからなくて…」香織は隣が不在だったことを思い出した。今の位置関係からして、女性が隣人であるらしい。
「あそう…。窓の鍵開けてきた?」
「え?多分、開いたままです」二階だからと油断したなと香織は思った。
「じゃあ、うちに来なよ」
「え?」香織は思案した。提案を断われるような雰囲気の人ではない。これからしばらくはお隣さんなのだから、従わざるを得ないと香織は思った。
「隣なんだろ?」
猫のような目がこちらを見つめるたびに、緊張してしまう。
「はい」
「うちのバルコニーから入ればいいよ。非常用に仕切りが破れるようになっているんだから」
「でも、それってあとで修繕費かかるんじゃないですか?」香織は自分でも驚くところに、また呆れるところに気が回った。
「前回の地震の時に使ったってことにしとくからさ。非常時に使った場合は費用も管理会社持ちってわけ。過失なければ大丈夫なようになってんの」
「ああ、私、角部屋ですもんね。非常階段を使ったってことにすればいいんですよね?」
「そこまで考えてなかったけどそうだね。ほら、おいで」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えてお邪魔します」
玄関から煙草の匂いがした。香織は煙草を吸わないが、父親がヘビースモーカーだったこともあり、その匂いには懐かしさを覚えた。
「名前は?」
「
「そう。なんか顔見たことあるような気がするんだけど」
「え?」香織は再び思案した。自分の知る人間にこんな美人がいれば思い出せそうなものであるからだ。下手に話を合わせてしまうと軽薄な感じに受け取られかねない上、「知りません」といって、もし馴染みのある人だった時には今度こそ怖い目を見そうだと思った。
「F大学?」
「そうです」
「教養学部?」
「はい。あの、お名前は?」
「ああ、
名前を聞いて名前を答えられるとは。
「その…寧々さんも教養ですか?」
「そう、私、一年」
「私も一年です。ということはタメですか?」
「いや、違うと思う。私、二十歳だもん」
「そうなんですか。はは、どうも、隣に越してきた越谷です」相手の素性を知ったところで、緊張が解けるわけではないが、どうやら悪い人ではないようだ。
「越してきた越谷っていうのは語感が面白いね。お隣の
「ブリトニー・寧々さん?」
「そう言えば、鰤谷がブリトニーに間違われるドラマがあったな。たまに間違われるけど、日本人だから。『魚』編に師匠の『師』でブリ」鰤谷は宙に文字を書きながら言った。
「珍しい苗字ですね」
「そうかも。ほら、バルコニー使っていいから」鰤谷は窓の方を指差していた。
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「はいはい、お世話様でした。あっ!」
鰤谷の声で香織は振り返った。驚きすぎて涙目になっていたかもしれない。
「越してきたばかりだったら合い鍵作ってないっしょ?明日は出入り口にしていいから」
「ええ?でも、鰤谷さんの都合もあるでしょうし、ご迷惑かけられません」
「大丈夫、明日は非番だからいつでもおいで。あけてあげるから」
「いつか恩返しをさせてください。本当にありがとうございます」香織は深々と頭を下げることで感謝の気持ちを出来る限り表した。
玄関で脱いだ靴をバルコニーまで運んだあと、香織は指で非常用の仕切りを二、三度つついてから強度を確認して、体当たりして突き破った。見事に開いていた窓から家に入ることに成功した。後ろから笑い声が聞こえて、急に恥ずかしくなった。
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