第5話

 一難去ってまた一難。裕翔の一番嫌いな言葉である。

 今がまさにそれだった。


 ◇◆■


「まあまあ、私のキャラなんて有って無いようなものだから」

 嘘つけ、と思い切り叫びそうになった。お前ほど、ニャルラトホテプほどキャラの濃い奴がいるか、と。そんなことしたら間違いなく変人だと思われるので、心の中で叫ぶに留めた。

「で、その腕どうした。それに髪も」

 彼女が一時間半ばかり前に装着したはずの義腕が外され、中身のない袖だけが存在している。解けば恐らく背中に届くだろうと思われるほど長かったはずのツインテールは無くなり、肩の辺りでバッサリと切りそろえられている。

 何かあったとしか思えない。

「別になんとも。腕は外しただけだから、またすぐ付けられるし」

「へぇ、俺には分かったぜ」

 敦が口を挟んだ。瑠羅は顔の向きは変えず、その大きな目だけをギョロリとそちらへ向けた。

「今までずっと長髪だった奴が急にバッサリ短髪にした。となればその理由は勿論、失恋以外にねえだろ」

 何を言ってるんだこの阿呆は。いいから見張ってろ。裕翔は純粋にそう思った。

 思ったのだが。

「…………」

 瑠羅が沈黙している。どうしようもないほど沈黙している。

「まさか──」

「……勝手に決めつけないでくれる?」

 大きな目がこちらを向く。だいぶご立腹のようだった。目に殺気が宿っている。

 どう対応しようか迷ってしどろもどろになっていると、後ろから声がかかった。

「ちょっと、誰か来るよ。ビルの上を、こっちへまっすぐ!」

 一真が悲鳴のような声を上げていた。

 そちらを見やると、確かに明らかに裕翔達目掛けてかなりの速度で駆けてくる者が見えた。

「チッ、今度は何だよ」

 無駄話もさせて貰えないとは。しかも、アレは『ウーヌス』ではない。何故なら──

「七人いる……」

 直哉の言う通り、その影は七つあった。もう顔がハッキリ見えるほどの距離になっているが、いずれも裕翔には見覚えのない顔だった。

「偶々会っちゃったのか、彼らのテリトリーに君達が逃げ込んじゃったのか……。いずれにしても今からこれ以上逃げるのは無理だ」

 瑠羅が転がしたままだった多面体を仕舞いながら零した言葉が全てを語っていた。

 ついに敵は裕翔達のいる屋上へ到達した。そのまま無視して立ち去る、などということは矢張りなく、『セプテム』の面々の前で立ち止まった。

「……諸君らは、我らの地を侵犯している。従って速やかに排除する。問答は、無用」

 相手方もしっかりとこちらを敵と認識しているようだった。

 先頭に居た、一番身体の小さな少年が宣告した通り、この場所は彼らの拠点だったのだが、運悪くそこへ逃げ延びてしまった上に、偶々彼らのいないタイミングに来たものだから『セプテム』が留守を狙って来たのだ、と勘違いして慌てて引き返して来たという不幸な経緯があるのだが、裕翔達にはそんなことを知る由はなかった。

 ただ、敵対者を倒すのみである。

「我らは『トレース』。エジプトの神々の力を受けし、選ばれた者の集いである」

 先程の少年が再び口を開いた。

「我がスキルは『ゲブ』、即ち大地の神である。さあ、相手は誰だ」

 皆が呆気にとられる中、一真が一歩踏み出した。

「僕が相手になろう」

 二人はそのまま睨み合ったが、それも長くは続かなかった。

「スキル発動──『埃及の大地ゲブ』」

「スキル発動──『重力子グラビトン』」

 スキルを発動させたことから、二人とも裕翔のような常時発動型能力ではないことが判明した。能力の一部であれば、敢えて口に出して発動させることなく使えるものもあるが、戦闘時のように持つ能力の全てを使う場合にはこうしてスキルを発動させる必要がある。

 ゲブはエジプト神話における創世神の一柱である。大地を司り、ゲブ神の笑いが地震であると考えられていた。

 一方重力子というのは、仮想の粒子である。ただ、一真の能力はあくまで「その名前を持っている」というだけで、グラビトンそのものとはさほど関係ないものだということを、既に裕翔は知っていた。

 一真に限らず、そういった例は多く存在する。目の前のゲブとて、本当にゲブ神の権能をスキルとして使うのかは分からないのだ。

「……!?」

 突然『トレース』に動揺が走った。何事か、と一瞬身構えたが、すぐ原因に思い至った。特に裕翔にとっては見覚えのある反応だった。

「さてはお前、今何かしたな? それも、場に働く何かを」

 そう言ってやると、ゲブは露骨に狼狽えた。図星だったのだろう。

 恐らくだが、途中参加組の能力については漏洩していないのだ。もしくは、裕翔だけか。裕翔の場合、他のメンバーと違い戦闘補助がメインの常時発動型能力スキルなので、なかなか漏れにくい。

 仮に盗み見られていたとしても、だ。

「残念だったね」

 目にも止まらぬ速度でゲブの目前にまで迫った一真は、そのまま握り締めた拳を相手の顔に叩き込んだ。完全に不意をつかれたゲブはまともにくらって吹っ飛ぶ。

「何!?」

 驚きの声を上げるのは、ゲブではない『トレース』の者だ。仮にゲブが声を上げたとしても、余程大きな声でない限り聞こえないだろう。

 ゲブは殴られた勢いのまま、否、飛んで行ったのだから。

「僕のスキルは、『重力を操る』能力だ。正確には、『任意の場所に、任意の向き及び大きさの加速度を発生させる』能力。詳しくは高校の物理でやるらしいけど、地球上では基本的にどこでも1Gの重力加速度が上から下にかかっている。だから逆に下から上に1Gの加速度をかければこういうことも出来る」

 そう言うと、一真の体が宙に浮いた。先程ゲブの前まで行った時も、こうして自らの体にかかる重力を小さくし、移動したい方向に加速度をかけることで高速で移動したという訳だった。

「だから今殴った時、アイツの体に7Gの加速度をかけた。下向きの重力を打ち消してないから、そのうちどこかで墜ちるよ」

 それまで内臓がもてばだけどね、と一真は笑った。

「……一真、無闇矢鱈に殺すなっていつも言ってるだろ」

「殺しちゃいないよ。だいたい、アイツが本当にゲブなら、この程度いくらでも乗り越えられるよ」

 裕翔が苦言を呈しても、一真は気にしていない。どころか、楽しんでいる様子さえ見えるので、裕翔は顔を顰めた。

「で、次は誰かな?」

「……一人ずつり合う必要が?」

 言われてみれば、その必要はない。必要はないが、その方が裕翔的にはありがたかったりする。

 万が一の時、誰かの盾になることが出来るのは彼しかいないのだから。

「まあよかろう。私、アヌビスが相手だ」

 前へ出た男がそう言うと、一真の周りに風が起こった。

 おかしい。アヌビスは大気の神でも天空神でもない。にも関わらず風が起こったということは──

「一真、下がれ!」

 敦が叫んだ。反射的に一真が飛び下がると、一瞬前まで彼がいた所を超局所的な突風が通過した。

「どういうつもりだ。邪魔しようと言うのか?」

「アンタが言ったんだぜ。一人ずつ殺り合う必要があるのかってな」

 敦がその能力を応用して大気を動かし、風を打ち消したのだった。凄まじい力と、想像を絶する速度で拳を打ち込むことでなせる技である。

「全くだ。ではこちらも総員でかかるがよろしいな?」

「構わねえよ。なぁ?」

 敦は振り返り、仲間に訊いた。誰も声に出しては答えなかったが、聖司は確かに頷きを返した。

「アヌビス、ホルス、メジェド、オシリス、ラー、バステト。以上六名、参る!」

「ご丁寧にどうも。こりゃアレか?オレ達も名乗らなきゃいけないヤツか?」

 敦が訊いた直後、相手方は全員スキルを発動させた。地に風が起こり、天に太陽が昇る。姿を消す者もいれば、宙を舞う者もいる。悍ましい姿に変身する少女さえいた。

「チッ、質問にくらい答えりゃいいじゃねえか」

「ボヤいてる暇はない!来るぞ!」

 聖司の声を皮切りに、この『実験』における初めての「グループ戦」の火蓋が切って落とされた。


 ◆▲◆


 両グループ合わせて十三人。その全てが一度に戦うには、その屋上は狭すぎる。結果として、誰からともなく散り散りになっていた。

「そら、てめぇの相手はこのオレだぜ。アヌビスだっけか」

「ふっ、愚かな。同じ手がそう何度も通じると思わないことだ」

 そう言われた敦は口の端をニヤリと吊り上げ、挑発的な笑みを浮かべた。

 だが、敦が何か行動を起こすよりも早く、彼の周りに風が円を描くように吹き回っていた。

 風の勢いが強くなる。決して大きくはない、つむじ風のようなものでしかないが、それでも普通には考えられない程の勢いだった。

 敦は高く跳び上がった。留まっていては危険だと、本能が告げていた。

 マズい。何だか分からないが、アレはマズい。

 コートを落としたのは偶然だった。袖に腕を通していないので、跳ぶ際に滑り落ちたのだが、それを気にするだけの余裕はなかった。

(アレだけ余裕そうな態度見せといて、勝てませんじゃシャレにならねえが……このままじゃそうなりかねねぇなぁ)

 怪力こそ彼の誇る能力スキルである。軽く撫でれば、それだけで相手の骨を折ることすら容易い。

 だが、その彼にも敵はある。例えばそう、このアヌビスのように「能力が分かりにくい」相手が苦手だった。

(オレは頭悪いからなぁ……アヌビスが何の神だかわかんねえし、あの風が何の意味を持つのか、そもそも攻撃手段なのか違うのかすら分かんねえ)

 頭の悪い自覚はあるので、無闇矢鱈に敵に突っ込むような愚は犯さなかったが、それでも攻撃に移ることが出来ないでいた。

 そんな矢先である。そのまま飛び降りて何とか自分の射程レンジ内に入れた方がいいだろう、自分に近ければあの風で攻撃することも出来まい、と考えて見下ろした時、それは目に入った。

 自分の落としたコートが、

(な、何だありゃあ。オレのコートが、風化したのか……?コートで済んでよかったが……)

 そこまで考えて、敦は地に拳を叩きつけた。しかし、高く跳びすぎて落ちるまでに時間があったせいか、アヌビスはそれを容易く躱した。

「チッ」

 すかさず駆け出す。今度こそ躱す暇を与えずに拳を叩き込んだ。

「ぬ……」

 だが、弱い。敦の能力であれば、アヌビスは遥か彼方へ飛んで行ってもおかしくないのだが、そうならない。

 否、そうしなかったのだ。

 ガッ、とばかりにアヌビスの首を掴む。

「捕まえたぜ。スキル発動──『打ち砕くものミョルニル』」

「うあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 アヌビスの体が跳ねる。とても人体では耐えられない程の電流を流されたのだ。

「そら、終いだ」

 ゆっくり手を離す。あまりに大きな電気を流した為に、アヌビスの体のあちこちが焼け焦げていた。

「殺さねえようにするのは……無理だな、このスキル。ま、オレがミイラにされるよりは、裕翔に怒られる方がマシか」

 コートが風化したのを見て、唐突に閃いたことがあった。

 古代エジプトでは王を死後ミイラにするという。それくらいは敦も知っていた。ついでに、犬の頭をした神がミイラを作ることも知っていた。漫画か何かで見た覚えがある。

 では、アヌビスというのはその犬頭神のことで、あの風に当たり続けるとミイラにされるのではないか。そういう能力だとすれば、コートが塵になったのも理解出来る。

 敦は知識不足なだけであって、決してものを考えられぬ馬鹿ではない。ヒントさえあれば、それだけの分析が出来る位の思考力は持っていた。

 だからこそ、能力の一部である「怪力」で勝負するのを止めて電撃で確実に、短期決戦で仕留めにいったのである。

「ったく、あのコートそれなりに高かったんだがなぁ……」

 何も乗っていない肩に違和感を覚えてさすりながら、元いた屋上へ向けて歩き出した。


 ▲◆▲


 玲は、苦戦していた。

 敵はホルス。古代エジプトにおいて王はこの神と同一視されたという。

 天空神ホルスの能力者は、その名に恥じぬ行動を見せている。具体的には飛んでいる。

(わたしのスキルじゃ、飛行する敵に攻撃するのは難しいんだけどな)

 そんなことを気遣う敵ではない。結果として上からの飛び道具によって、ほぼ一方的に攻撃され続けていた。

(敵もいずれは武器が尽きるはず。それまで逃げ切ればなんとか……)

「そう簡単に逃がすと思ったかね?」

「!」

 数多の短剣が投げつけられる。十本、二十本……数える方が馬鹿らしい。

 避ける為に動けば当たる。躱さなくても当たる。八方塞がりである。玲でなければ。

 これしかない、と玲は両手を振り上げた。手の中にナイフを作り出しながら。そしてその異常としか言いようのない身体能力で以て、自分に当たるものだけを的確に弾き落としていく。

「ほう、それがあなたの能力か。ではこういうのはどうだ?」

 ホルスは巨大な爪のようなナイフを取り出し右手に構えた。

(そんなものどこに……いや、それどころじゃない。

 ホルスが急降下してくる。落ちるのではなく、降りてきている。つまり、避けようと思って避けられるものでは無い。動くのが早いと、相手に目標位置を修正されてしまう。かと言ってギリギリに動くと、敵のナイフが届いてしまう。

 玲は覚悟を決めた。斬られる覚悟ではない。スキルを使う覚悟だ。本来なら、裕翔がいる時以外には使うなと聖司に厳命されている能力スキルの解放を、一人でする覚悟だった。

「……スキル発動──『切り裂き魔ザ・リッパー』」

 ホルスが降りてくる。重力に乗って、更に自身で下向きに加速しているのだろう。その姿は武器も相まって見るものを恐怖させ、身を竦ませるに十分だった。

 だが、玲は既に敵を見ていない。だ。

 敵が近づく。テキが近づく。的が近づく。

「……いいよね、解体しても?」

 もう玲には相手など見えていない。彼女が見ているのは、ただの肉だ。

 いつもの様に、予備のナイフなど用意しない。する必要がない。いつもならともかく、スキルを完全解放した玲は、ナイフを瞬時に作り出すことが出来た。

 その時間差、一秒。だが、その一秒が時として勝負を決するのだ。

 敵の手が届く瞬間、玲の腕が動いた。神速、とでも形容する他ない程の速度だったために、ホルスは避けられなかった。

「ぬわああああああ!腕、腕がぁ!」

 絶叫。

 両方の手首から先を切り落とされてなお静穏を保つことなど、ホルスに出来るはずがなかった。怪我をすることさえ珍しいのだから。

 再び玲が迫る。

 もう抵抗する気力すらないらしい。どのみち放っておけばホルスは死ぬだろう。

 玲は返り血を浴びて袖口が染まっている。黒い服でも分かってしまう程の量だった。やはり紅く染まったナイフを両手に携え、ゆっくりと歩く。

「ズッタズタ、バーラバラ」

 軽快にオノマトペを口ずさみながら、死神じみた女が近づく。ホルスは恐怖のためか、体を震わせていた。

「待て、降参する!これ以上戦うことは無理だ!ほっといても私は死ぬ。だからもう来ないでくれ!」

「ダメでぇす♡」

 玲は端的にそれだけ言って、ホルスをズタズタに切り裂いた。


 ◆▲◇


 裕翔は苦戦していた。

 敵が見えないのである。

 敵はメジェド。「打ち倒すもの」という意味の名を持つその神は、姿は見えず目から撃つという。

 何しろ見えないので本当に目から撃っているのかは分からないが、確かに何かを撃ってきている。レーザーのようなビームのような何か光線を。

 裕翔はそれに当たったところで平気だ。問題は、一緒にいる直哉だ。少しでも当たろうものならドロドロに溶けてしまうだろう。実際、上着の一部を掠めて、溶かしていた。

 だが、見えないのでは反撃も出来ない。

「裕翔、少しの間盾になれるか?」

 そう直哉に訊かれたのが五分ほど前。

 それから雨のように降り注ぐ光線全てに触れて消し続けていた。

「直哉、まだか?」

「いや、もう撃てる。あと少しだけ頼む」

 そう言うと、直哉は手を銃に見立てて構えた。敵が見えている必要はない。むしろ。そういうスキルなのだ。

「スキル発動──『宿木の矢ミストルテイン』。対象をバルドルと認定。ロキの導きに従い、この矢を必ずや当てたまえ」

 目を瞑り、指先から矢を撃ち出した。矢は直進せず、思い切り歪曲して飛んで行った。

「ぐっ……」

 直哉の放った矢は、外れることなくメジェドを貫いたらしい。結局見えないが。

「僕のスキル『宿木の矢』は、目に見えない敵に必ず当たる。正確には、僕に敵が見えない状態の時、必ず当たる。つまり、お前が姿を消した時点で僕らに勝機があった」

 だいぶ危なかったけどな、という言葉を裕翔は飲み込んだ。何も無駄に喧嘩する必要はない。直哉は味方だ。

「死んだな、間違いなく」

「……あのなぁ」

「仕方ないだろう。僕のスキルはそういうものだし、そうしなければ僕らが死んでいた」

 君は倫理観に縛られ過ぎだ、とまで言う。

 裕翔とて理解はしている。この三年間で『セプテム』が手にかけた魔術師の数は決して少なくない。

 戦闘になればほぼ間違いなく相手を殺すスキルを持つ能力者は多くいるらしい。直哉もそうだし、敦や玲もそうだろう。逆にスキル単体では全く殺すことが出来ない奴もいる。聖司がそうだ。瑠羅は、イレギュラーが過ぎるのでノーコメント。

 仕方ないことだとは分かっている。それでも何かモヤモヤしたものが胸に残るのだ。自分で殺したわけでなくとも。実際、裕翔本人が殺したことは一度もなかった。

「分かってるさ。分かってる」

 裕翔は呟いた。

 その時、一真がこちらへ向かって来るのを直哉が見つけた。

「どうした? こっちはもう終わったが」

「どうしたもこうしたもないよ!玲を止めてあげなきゃ!!」

 言われて初めて気が付いた。この状況である、玲がスキルを使用していないとは考えにくい。裕翔がいないのにも関わらず、だ。

 裕翔は慌てた。急がなければ、安全に彼女を止められるのは自分しかいないのだから。

「すぐ行こう。玲はどこだ」

「ついてきて!」

 一真に連れられ、己の役割を果たす為に駆け出した。


 ▲◆▲


 聖司の相手は「オシリス」と名乗った。

 聖司は決してエジプト神話に詳しい訳では無いが、オシリスが冥界神だというのは聞いたことがあった。

 だが、オシリスの肉体が分裂した上で襲い掛かって来ることは予想出来なかった。これが直哉だったなら、オシリスとセトの戦いを思い出して納得したことだろうが、聖司にその知識はなかった。

 そもそも世界各地の神話に詳しい直哉の方がおかしいのであって、聖司の知識不足を責めることは出来まい。

(何でこういう時に限ってナイフ一本しか持ってねえかな……。迂闊に投げられねえじゃねえかよ)

 聖司の能力は、投げたものを操る力である。効果範囲は、手を離れた瞬間から何かに当たって止まるまで。掴まれたらそこでおしまい。ただし、完全解放した場合はその限りではないが、その分体力を使う。

「やむを得ない、ってか。スキル発動──『揺れ動くものグングニル』」

 そう言うと同時に、聖司はナイフを投擲した。直ぐにオシリスから分離した手がナイフを掴み取る。

「甘い甘い」

 聖司が不敵に笑った瞬間、ナイフはオシリスの手を離れ、真っ直ぐオシリスの顔目掛けて飛んで行った。オシリスは慌てた様子でナイフを叩き落とした。

 地面に刺さって動きを止める。否、止まることなどない。

 刺さったはずのナイフがひとりでに抜かれ、再度オシリスに向かったのだ。

 オシリスは体をバラバラに分解して躱そうと試みた。しかし、それを許す聖司ではない。敵と見れば必ず仕留める。それが彼の信条だった。

「ぬぅう……」

 見事にナイフが胸に突き刺さった。体が分裂すると分かっていれば、それに合わせてナイフを操作し攻撃するのは容易かった。

「悪いな、俺のスキルの効果範囲は、『俺の手を離れた瞬間から、再度俺の手の中に戻るまで』なんだよ。お前さんがいくら掴もうが落とそうが関係なしさ」

 そう言って聖司はナイフを手元に戻した。丁寧にホルスターにしまい込む。

「こいつには麻痺毒が塗ってある。だからお前さんはもうじき死ぬが、まあ苦しみはしないだろうよ。俺なりの優しさのつもりだ。お疲れさん」

 言いながら聖司はきびすを返し、元いたビルへ歩を進めた。


 ▲■◇


 少し前。

「皆終わったかな? じゃあ一真、裕翔と一緒に、玲を止めてあげて。じゃないとあの子、そろそろ自分を解体し始めるから」

 瑠羅が言った。一真が玲のことを気にしているのに気がついていたからだ。

「瑠羅は一人で平気なの? 怪我してるのに」

「いいから行きなって。私は全然問題ないから」

 再度促すと、一真は裕翔が直哉と一緒に駆けて行った方へ高速移動した。

 一般的に、片腕が無くなるような怪我をしている状態で、二人の敵と戦うことを問題ないとは言わないのだが、瑠羅は本心からそう言っていた。

「はぁ、ラーにバステトねえ……。ラーはともかくとして、どう見てもただの化け猫なんだけど。ウルタールの猫だってもっと真っ当だよ」

 ぼやきながら、今まで腰を降ろしていた自らの鎌から立ち上がった。この鎌は、本来ならナイアルラトホテップたる彼女の持ち物ではないのだが、誰かが化身『赤の女王』について鎌を持つと設定したことにより使えるようになったものだった。

「ホント、面倒だなあ。手っ取り早く済ませるか。スキル発動──『札占いタロット・カード』」

 瑠羅は袖の内側から一枚のカードを取り出した。白馬に乗った騎士の骸骨が印象的なそれは、ウェイト版タロットの『DEATH』だった。そして一度妖しい輝きを放つと、一瞬にして消滅した。

「死、か。そんなものを死の女神セクメトと同一視されるバステトに与えられるかな?」

 ラーがそう言っていたが、瑠羅は無視した。人間如きの話など聞くに値しない。

 目下のところ、目の前の化け物が問題なのだ。虚弱貧弱無知無能な人間如きの言葉に耳を貸してやる必要はなかった。

 瑠羅自身は全く気が付いていないが、彼女はナイアルラトホテップと同化した四年前から「邪神らしい思考回路」というものが出来上がっていた。『ウーヌス』のアーサーの事を意識している時を除いて、この考え方が強く現れていたため、彼女にとって人間は『虚弱貧弱無知無能』なものでしかない。

 彼女がただのヒトであった時は、『同じ人として』残虐性を発揮していたので、それと比べると別人のようなものだ。

 有り体に言えば、気にかける必要もない程雑魚の約立たず、くらいのものだった。

「そうは言っても、これは勘弁して欲しいな。こんな巨大化け猫なんて──」

 バステトが飛びかかった。恐ろしく長い爪で瑠羅を引っ掻こうと、悍ましく鋭い牙で瑠羅を噛み千切ろうという意志が見て取れた。それを見たものは一瞬の後には、肉塊になっていると言われても過言ではないだろう。

 ズシャ、と肉を切り裂く音が響いた。バシャバシャと溢れた血が地に落ちた。最後に、体がベシャと音を立てて崩れた。

 一瞬のことだった。

「──的が大き過ぎて、手加減しても殺しちゃうよ」

 斃れたのはバステトだった。

 返り血を頭からべっとりと被った瑠羅には、直前までなかったはずの右腕が存在していた。身の丈程の大きさの、血に染った真紅の大鎌を、どう見ても両手で持っている。

「私のスキル『札占い』はね、タロットの暗示するもの、もしくは大アルカナの札名そのものを現実化させるんだよ。『死』のカードなら『死そのもの』か『絶対的な停止』を、といった感じだね。『太陽THE SUN』のカードを逆さに使えば、こういうことも出来る」

 そう言って瑠羅は、黄色く太陽が描かれたカードを『文字が上になるように』指に挟み込んだ。やはり妖しく光り、そしてカードそのものが消えた。

 途端、太陽が消滅した。

「んふふ。逆位置の『太陽』即ち太陽の否定を現実化すると、こういうことになるんだよ」

「それがどうしたと言うのだ。そんなもので我らが倒せると? 確かに今バステトめを斬り伏せた手腕は見事だった。そこな肉塊では、マトモに受ける他なかっただろうよ。だが、それがそう何度も通じるものか」

 ラーは嘲笑した。

 肉塊、と呼ばれたバステトの肉体は、今や元の姿に戻っていた。手足が切り落とされ、頭から臀部までを縦に真っ二つにされた上に血の池に浸っているので、見る影もない。

 瑠羅はラーがバステトを「肉塊」と表現したのが気に入らなかった。どのような状態であれ、アレは人の肢体であり死体である。それを肉の塊とは。その表現を人間でしかないはずの男がしたのが気に入らなかった。

「まあ先刻の動きを見て貴様をただの女と見るのは無理だな。こちらも本気で──」

「待ちたまえ。ゲブがまだ来ていない」

 瑠羅が遮った。ラーは怪訝そうな顔をしている。まさかゲブを待てと瑠羅の方から言うとは思わなかったらしい。そもそも、ラーの認識ではゲブはもうリタイアしたものだったのかも知れない。

「ゲブだと? 貴様が彼奴を待つというのか」

「その通り。そしてゲブを殺して君を殺す。それが私に求められた仕事だからね」

「面白い」

 ラーが応えた瞬間、地面が変形した。みるみるうちに巨大な手を形成し、バステトの体だったものを包み込む。

 再び手が地に潜ったのち、今度は大きく円状に波打ち、その中心にゲブが現れた。

 瑠羅はこれを待っていたのだ。だから皆が分散して戦うなか、彼女は初めのビルから動かなかった。

「なるほど。アヌビス、ホルス、メジェド、オシリス、バステトは死んだらしい」

 惜しいな、とゲブは呟いた。

 瑠羅は華麗に無視して鎌から手を離した。例の如く霧散する。手袋に覆われた両手を広げ、ゲブへ向けてニヤリと笑ってみせた。誘っているのだ。

 ゲブはムッとした表情で右手を握り締めた。それと連動するかのように、瑠羅の周囲の地面が手の型を成し、瑠羅を握り潰そうとした。

 グシャ、と音を立てて潰れる。骨は砕け、肉も全てが潰れ、先程のバステトよりもより『肉塊』に相応しい姿になった。

 ゲブが。

「なんだ、こんなものか」

 呆れたように瑠羅が言う。

 ゲブが瑠羅を潰す直前、瑠羅が地面を操って、同じように潰したのだ。

「私はナイアルラトホテップ、即ちエジプト最古の神にして、神話から抹消された地の神だぞ。後発のゲブ如きに殺られる訳ないでしょ」

 実際にエジプトにおいてナイアルラトホテップが信仰されていた時期があった訳では無いかも知れない。だが、外なる神にして旧支配者ナイアルラトホテップにとってそんなことは些細な問題でしかない。『エジプトで信仰された』と定義された時点で、そうだったことになるのだ。そうなったのだ。

 神話から抹消され、権能は分散した。その内の地の神としての権能しか持っていないゲブに、彼女が負ける道理がなかった。

「『ナイアルラトホテップ』か。ふ、ふふはははははははははははははははははは!!勝った!勝ったぞ!!」

 唐突にラーが哄笑した。

 今度は瑠羅が怪訝な顔をする番だった。この自分に向かって「勝った」だと。そんなことは有り得ない。それこそ、玉鬘綾女のような化け物でもない限り。

 しかし、ラーは少しも気にした素振りを見せず、どころか謎めいた言葉を口にした。多くの人にとっては、だが。

「ふんぐるい・むぐるうなむ・くとぅぐあ・ふぉまるはうと・んぐあ・ぐはあ・なふるたぐん!いあ!くとぅぐあ!」

 それを聞いただけで、瑠羅の顔は真っ青になっていた。

 それこそは、クトゥルー神話におけるナイアルラトホテップの天敵、クトゥグアの召喚呪文だった。

 ラーだった男の姿が変貌する。身体が大きく膨れ上がり、燃え盛る焔に包まれていた。生ける炎、クトゥグアの顕現した瞬間だった。

 瑠羅は一つ納得した。バステトの死体を肉塊と呼んだことについてだ。クトゥグア程の邪神であれば、人の死体などそれこそ肉塊だ。自分にとってそうであるのと同じように。

 瑠羅は今や、鎌で支えなければ立つことさえ困難な程恐怖していた。四年前にクトゥグアの前に立って以来、一度も感じたことのない恐怖だった。

「……三年前、この実験が始まって直ぐに私は『ウーヌス』を抜け出した。その後一ヶ月間で、あらゆるクトゥルー神話系邪神を滅ぼした。そしてそのまま取り込んだ。大いなる旧支配者の祭祀クトゥルーも、忌々しい銀腕の旧神ノーデンスも、ヒアデスの名状しがたきものハスターも、主人の盲目にして白痴の王アザトースも、外なる神の副王たる一にして全なるものヨグ=ソトースも、フォーマルハウトの生ける炎クトゥグアに至るまで!なのに何故、何故お前がここにいる!Cthughaクトゥグア!!」

 やや支離滅裂な叫び声をあげる程に、瑠羅は混乱し、また恐怖していた。彼女がナイアルラトホテップである限り、避けることの出来ない恐怖だった。

「何を驚くことがある。貴様はナイアルラトホテップである。既にナイアルラトホテップでありながら、他の神性を己に取り込むことなど出来ない。取り込み、同化出来る神は一人一柱だ。同一視されて信仰されぬ限りはな。貴様は、その『無貌の神』としての特性を以て、我等の能力や権能を模倣したに過ぎない。だが、模倣といっても本物と何ら変わらぬ程の正確さ故、勘違いしたのも無理はなかろう」

 瑠羅は唐突に全てを理解した。

 もし本当に自分があらゆる神性、怪物と同化していたなら、自分をナイアルラトホテップだとは思うまい。そもそも、アザトースと同化しては白痴になるではないか。しかし自分は違う。ならば自分はあくまでもナイアルラトホテップ。他の能力をコピーした、それは確かに恐るべきことだが、同化したのはナイアルラトホテップだけだ。

 だとすれば、自分が殺したことで実体を失い、概念と化した邪神群のうち誰かを、他の誰かが自らと同化させても何ら不自然はない。

 逆に、玉鬘綾女はその長い人(?)生において、様々な神として崇められたのだろう。故に、彼女は数多の神なのである。

 納得はしたが、納得したからといって窮地を脱した訳では無い。右腕をつけ直し、絶好調だったさっきまでの勢いはどこへやら、恐怖のあまり大いに膝が笑っている。

(鎌で一切りすればいい……。いつもと同じことだ……。けどなぁ……今の私はナイアルラトホテップなんだよなぁ)

 邪神に馴染んでしまった為に、天敵を必要以上に怖がるようになってしまったのだと瑠羅は知っていた。

「……なんでお前がクトゥグアなんだ?」

 瑠羅は尋ねた。時間稼ぎという目的もあったが、純粋に訊きたいことでもあった。

「我等は三番目の組。十分にトップを狙える場所にいながら、まだ一押し足りぬ半端者。故にその一押しを、外宇宙からの邪神に求めたまでのこと。今のところ、成功したのは俺のクトゥグアとバステトのブバスティスだけだがな」

「いや、ブバスティスはバステトそのものなんだけど……まあいいか」

 既にどうしようもない程混乱しているので、瑠羅はこれ以上話を続けることが出来なかった。

 クトゥグア──即ちラーを名乗る男だったもの──の手が伸びてくる。瑠羅を掴み焼き殺そうと。瑠羅は動けない。動かねば死ぬと分かっているが、恐怖で身が竦んでいる。軽口を叩ける程度にまでは持ち直したものの、未だに動けない。

 腕時計型端末装置は斬られた時に腕ごと失ったし、『輝くシャイニング・偏方二十四面体トラペゾヘドロン』は自分が持っている。助けを求めることも、逃げることも出来ない。

 最早絶対絶命──

「とでも思った?」

 瑠羅が笑った。

「残念だったな。スキル発動──『神秘殺しアンチミステリ』」

 クトゥグアの腹から手が生えた。本体の炎の腕ではなく、真っ当な人間の腕だ。

「な、何、何だと!?」

「俺のスキルは神秘の否定。お前の身体からだは神秘で出来ているな。ならばお前は俺の敵だ」

 腕の主──言うまでもなく舘田裕翔──がそう言いながら手を握って開くと、クトゥグアの体が爆散した。

「助けに来たぞ、瑠羅」

「……♡、じゃなくて。君、そのスキルどうした? 君のスキルは常時発動型、体質みたいなものだって話じゃなかった?」

 それに、触れば瞬時に打ち消すほど強力だったはずだ。

 裕翔はようやくそこで自分がどのようにスキルを使ったか思い出したようだった。

「なんだろうな。なんか制御出来るようになったみたいだ。助けなきゃって思って必死だったからよくわからないけど」

「そっか。それはよかった。うん、いい事だ」

 裕翔の答えに瑠羅は邪気のない笑みを返した。裕翔はその顔に不覚にもドキりとしたようだったが、顔にはほとんど表れなかった。もっとも、瑠羅に普通の人らしい笑みを向けられて胸が高鳴らない男性はいない。女性には効かない。いずれも同性愛者は例外である。そういう能力だから。

 つくづくチートな女である。

「よく私がピンチだって気が付いたね」

「嗚呼、それは直哉の手柄だ。アイツがクトゥルー神話まで読んでてよかったな」

「まさかAオーガスト・ダーレスまで読んでるとはね」

 二人とも笑った。クスクスと、押し隠すように、直哉に聞こえないように。決して馬鹿にしているのではないが、直哉は笑われることを極端に嫌うので、功労者に対する配慮のつもりではあった。

「さて、そろそろ行こう。アレがあんまりヤバそうなものだったから、皆離れて待ってるぞ」

「待って」

 踵を返そうとした裕翔を、瑠羅が呼び止めた。彼女はさっきからずっと座り込んでおり、紅い鎌は既に消されていた。

「どうかしたか?」

「……安心したら、腰抜けちゃった。立たせて。能力を制御出来るなら、私にだって触れるでしょ?」

「……」

 信じられない、という顔を向けられているが、肉体的には九歳時から変わっていない──正確には変えていない──のだ。実年齢とてまだ十三。別におかしいことではあるまい。

「はぁ、仕方ないな」

 ややあって、裕翔が手を差し出す。瑠羅は座り込むとかなり小さいので、だいぶ屈み込む必要があった。

 屈み込めば手は届くが、その分顔が近くなる。

「ん、ありがと」

 瑠羅は裕翔の手を引っ張り、なお顔を近付けた上で、深くキスした。

「!?!?!?」

「んむ……んっ……」

「!!!」

 裕翔が手足をばたつかせるが、瑠羅があらん限りの力で押さえているので、頭は全く動かせなかった。

「ごちそうさま。さあ、行こうか」

「……お、お前なぁ!」

 裕翔が叫ぶが、瑠羅は全く気に留めない。

(何時間か前に玉鬘を揶揄したけど、惚れるっていい事だよね、ホント。まあでも、ヒロインとしては私は玲に勝てないだろうけど)

 そんなことすら考えながら、裕翔に向かって笑いかける。

「ほらほら、落ち着かないと玲に切り刻まれるよ。主に君が」

「覚えてろよお前……」

 瑠羅にとっても、裕翔にとっても、忘れようのない夜になりそうだった。

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