スピンオフ 醤油
増田朋美
スピンオフ 醤油
杉三スピンオフ 醤油
楡野涼香は、ある一般的な普通高校に通っているが、自分の人生はもはや終わりだと思っていた。もともと、学校というものはあまり好きではなく、外で楽しくスポーツでもしたほうがはるかに楽しかった。小学生では、それでも許されたし、授業で発言でもしていれば、それなりの高評価を得ることはできた。彼女はそれを信じ切っていて、他の家族もそう言っていた。先生も、楡野さんは、活発な女の子だから、中学校では運動部でも入ったら、活躍できるよなんて予言をしてくれて、涼香自身も、そうなることを楽しみにしていた。
しかし、中学校に入ってみると、そういうことはまるで嘘だとわかった。確かに運動神経がよろしければ運動部には入れるのであるが、そのためにはある条件を満たすことが必要なのである。
それは文字通り「試験でよい点数をとること」である。
これが中学校では、運転免許と同じくらい必要なもので、逆を言うとこれがなかったら何をするのも許されないのである。で、何かやりたいと思っても、「試験で百点をとったら」というものが必ずくっついてきて、逆をいうとそれができないと、何もすることは許されず、
机の前で一日中座って勉強することを強いられる。運動部に入ろうなんて、とても許されない。親に勉強がつらいと言えばそれで当たり前だという。そんなんじゃ高校いけないと怒鳴られる。それでは約束が違う!と主張すれば、中学生なのにそれくらいわからないとは何事だと言われる。だって、そんな条件を付けられるなんてきいてなかった、と言い返せば、中学生なんだから当たり前の一点張り。
そのまま中学校の三年間を過ごしたが、試験でよい点数をとることができなかったので、大した高校にも進学できなかった。高校という場所は、ある意味社会的身分に近いものがあって、涼香の行った高校は、どこの誰にも知られている荒れ放題の高校。そんなところに行って、賞賛してくれる人はまるでない。皆、白い目をしてにらみつけるか、あああそこかと言って、馬鹿笑いをするだけ。これではまるで、どっかの先住民と同じような扱いである。
つまるところ、私は愛されなかったんだ。お父さんもお母さんも、小学生の間は猫かぶって、私のことを大事にしてくれていたのは演技で、本当は私なんか必要ないんだ。私はいらない子なんだ。そうでなければ、こんなに冷たくするはずはない。涼香はそればかり思うようになる。
彼女は荒れた。一度必要ない人間だと確信してしまうと、そこから信頼を取り戻すのは非常に難しくなる。両親が止めようと思っても、簡単に彼らの言葉を信じることなんてできるものか。お母さんが、もう暴れるのはやめてと言っても、お父さんがもう一回やり直そうといっても、信用できるものではなく、ちょっとのことで激怒して、家財道具を破壊した。
ある時、お母さんが、自身の靴下を間違って履いてしまった。まあ、すぐに返してくれたから、大したことではないのだが、涼香の怒りは爆発。これを口実にお母さんに殴り掛かり、馬乗りになってその体を叩き続ける。悲鳴を上げるお母さんの声を聞きつけて、お父さんが部屋に飛び込んできて、彼女を無理やり引き離すことに成功した。しかし、お母さんは、腕の骨が折れてしまった。
このままでは身の危険を感じたお父さんは、自分のお父さん、涼香にとってはおじいちゃんに家の危機を打ち明ける。もはや、平成生まれの涼香を戒めるのは、昭和世代には難しいのかもしれない。大正昭和のぎりぎりに生まれたおじいちゃんは、お父さんの困っていることを丁寧に聞きとり答えを出していく。その間にお母さんは、骨折した腕についておじいちゃんの奥さん、つまりおばあちゃんに話をして、自身が涼香を化け物にしてしまったと涙を流す。
「そうかそうか。どうせ、学校にもどこにも行かせてないんだったら、うちのすし屋でも手伝ったらどうだ。」
一生懸命話しているお父さんに、おじいちゃんがそう提案した。
「しかし、親父達にまで手を出したらどうするんだ。親父なんて、もう80どころか90を超えちゃったんだよ。」
「いやいや、まだまだ現役ですし屋をしているから大丈夫だよ。涼香だって、女の子なんだから、それほどひどいことはしないのではないのかな。」
「そうはいっても、昔と今では違うよ。今の子は親父が考えてる不良以上に過激になっている。」
「いや、それはどうかな?わしは違うと思う。確かに過激かもしれないが、いつの時代も不良が求めていることは、全く同じではないのかな。」
「そうじゃなくて、安全性だよ。」
「いやいや、それこそ、涼香を余計に更生から遠ざける一因だ。こういうときは、誰かがしっかりぶつかってあげなくちゃ。親ができなかったら、年寄りの出番だよ。明日にでも、涼香をうちの店に連れて来い。」
少し暢気すぎるかもしれないが、おじいちゃんのいうことに従ってみることにした。
そういうわけで、涼香はおじいちゃんとおばあちゃんが経営している「楡野すし店」で働くことになったのだ。
店はおじいちゃんが板長として寿司を握って、おばあちゃんがお給仕をするという、ごく単純素朴な小さな店だった。涼香はおばあちゃんと一緒に、寿司が乗った皿をお客さんに運ぶという業務をこなした。まあ、個人のお寿司屋さんなので、お客さんはそれなりの歳で、それなりの金持ちの人が多く、若いお客さんは非常に少なかった。若いお客さんは、大体が安い回転ずしに行ってしまう。
ある雨の日。
丁度晩御ご飯を食べに来る客で、そろそろ混んでくるかな?と思われたころ。
「あ、丁度よかった。ここで雨宿りさせてもらおう。」
ガラッと入り口の戸が開いて、二人連れの男性が入ってくる。二人とも着用しているのは洋服ではなく着物である。それだけでもおかしいのに、更に驚くのはその容姿の落差。
「杉ちゃん、ここは茶店じゃなくて、すし屋だよ。楡野すし店と書いてある。」
「あそう。まあいいや。僕、看板読めないから。それなら、丁度晩飯時だし、寿司を食べて帰ろうぜ。蘭も、東京まで道具を買いに行って、遅くならないと帰ってこないし。」
「度胸あるねえ、杉ちゃんは。」
そんなこと言いながらも、杉三と水穂は店の中に入ってきて、当然のごとくテーブルに座った。
「まあ、座敷席しかないすし屋ではなくてよかった。」
車いすに乗っている杉三はそんな事を言っている。
「なんだか高級そうなところだなあ。」
一方で水穂は、あたりをぐるっと見渡していた。
「いらっしゃいませ。」
おばあちゃんが、二人の前にお茶の入った湯呑を置く。
「ご注文決まりましたら、お知らせください。」
「うん、僕は鉄火丼。水穂さんに、かっぱ巻き十個。」
即答する杉三。
「あ、鉄火丼ではなく、今日は土曜日なので、鉄火ねぎとろ丼になりますが?」
なんだかおかしいな。壁に貼られているメニューに、土曜日は鉄火丼ではなく鉄火ねぎとろ丼に変更すると書かれているのだが、気が付かないのか?だって、その位置であれば、メニューが見えないはずはないのに?
「そうなの?」
「はい、そこに貼ってあるんですが。」
「あ、僕は読めないので、そうなっているんだったら読んでくれませんかね。」
はあ、なんという馬鹿な人だろう。学校に行ってないんだろうか。しかも、読んでと堂々と言える?何とも図々しい。
「すみません、杉ちゃん、というかこの人、文字の読み書きできないので、申し訳ないですが、読んであげてください。」
水穂もそう付け加える。
「面白い人たちね。まあ、私が若い時はそういう人もいたけれど、今であればかなり珍しいのでは?」
おばあちゃんが、ちょっとびっくりしてそう受け取る。確かにおばあちゃんが子供のころであれば、まだ日本の識字率はさほど高くなかった。東北の方とか、辺鄙な地域へ行けば読み書きのできないひとはたくさんいた。しかし、平成の現在であれば、どこの誰でも教育を受けられるのではないか。それなのに、読み書きができないとは?
「すみません、先天性の障害なんです。」
申し訳なさそうに答える水穂。なんだそれ。先天的に読み書きができないということ?普通、養護学校のような場所へ行って、訓練してもらうでしょ。それさえもしなかったの?それとも、障害が重たいため、いくら教えても身につかないということ?
「あ、そうなのね。そうか、そういう事もあるわね。テレビで特集されていたの、見たことあるわよ。じゃあ、説明するけど、どんぶり物はね、平日は鉄火丼とねぎとろ丼は別で出しているんだけど、土曜日は仕入れの関係で、鉄火ねぎとろ丼に変更しているんですよ。」
やさしいおばあちゃん。親切に説明しているけれど、こういうのは、障害のある人が、なるべく社会に迷惑をかけないように、訓練してもらうべきじゃないのか。こんな風に説明してくれる人ばかりではない。
「そういうことね。よし、それならそれでいいや。鉄火ねぎとろ丼でいいよ。」
「無料でシャリ大盛にすることもできるけど、どうする?」
「じゃあ、そうして頂戴よ。水穂さんにはかっぱ巻き十個頼む。」
「杉ちゃん、かっぱ巻きは一個とは言わないで一貫というんだよ。」
「あ、ごめんね。じゃあ、かっぱ巻き十貫お願いね。」
「十貫も食べれないよ。半分でいい。」
ずいぶん小食な人だ。障害のある相方が、鉄火丼の大盛を食べるほどの大食いでありながら、介護者は、粗末なかっぱ巻き。しかも、五貫だけで満足する?女性であっても足りないのでは?
「じゃあ、残りは僕が食べる。とりあえず十貫。あ、あとこれは大事なお願いだが、水穂さんには、絶対に醤油を出さないでくれ。」
厨房で二人の話の一部始終を聞いていた涼香だったが、どうもこの二人はおかしいのではないかと思った。車いすに乗って、こうして外出するだけでもちょっと変なのに、文字が読めないことを大っぴらに表現し、従業員であるおばあちゃんに無理やり説明させ、相方の食べるものも勝手に決めてしまい、しかもそれにまで手を付ける。極めつけは醤油を出すな。かっぱ巻きであったとしても、醤油をかけないで寿司を食べる人などいるだろうか。そんなわけないでしょう。相方の醤油まで取りあげて、権力でもふるいたいの?それとも、知能が低すぎて、自分のやっていることを理解できずに発言しているの?
「あと、寿司ネタを頼んだ方には必ずお吸い物が付くことになっていますが?」
「あそう。わかったよ。じゃあそれにも絶対に醤油は入れないでくれ。これは大事なお願いだ。じゃないと、大変なことになるからな。絶対だからね!」
念には念を入れるように、何回も醤油を入れるなと杉三は主張する。そうなるとますますおかしい。しかも、それをただ申し訳ないように見ている相方。知能が低くて意味不明な発言をしているわけではなさそう。それだったら、訂正するよね。でもしない。じゃあなんだ。醤油をかけないで寿司を食べる理由などない。そうなると、相方も、テレビにでてくるアイドルと変わらないくらい綺麗な人だと思ったが、知能はさほど高くない?高級店として売り出していたと聞いていたが、こういう知的障害のコンビが来店するほど、すし屋の価値も落ちたんだとがっくりとする涼香だった。
「くれぐれも頼むぜ!」
また念を押す。
「わかりました。じゃあ、そういうことにしておきます。しばらくお待ちくださいね。」
ご注文ですと言いながらおばあちゃんが、厨房に戻ってくる。おじいちゃんがかっぱ巻きを握り始めた。ベテラン職人だから、かっぱ巻きはすぐできた。そのあとおじいちゃんはほかの寿司ネタ作りに取り掛かる。おばあちゃんは、他のお客さんにビールを届けに行ってしまった。
「涼香、これ、あのお客さんに持って行ってやってくれ。」
お盆に、十貫のかっぱ巻きの乗った皿と、お吸い物が入った茶碗が置かれる。あのお客さんというと、まさしく杉三たちのことなのだが、なんだか、素直に持って行ってやろうという気にはなれなかった。変な人たちだから、ちょっといたずらしてみたい。あの、文字の読めないという人が、絶対に醤油を出すなと言った。でも、文字を読めないというのなら、いくらでもごまかしは効くのではないか?醤油に似た色のものはたくさんあるし、読めないのであれば、別のものだと、しらを切りとおすこともできるだろう。それに、もう自分なんて、誰にも必要とされてないのだし、せめて悪事をして注目されたいという気持ちもないわけではなかった。それに、この店にああいう障害のあるコンビは、二度と来てもらいたくないから、そのための作戦でもあった。ああして条件もなしに周りの世話をしてもらって、なんの礼もなければ報酬さえ支払わない障碍者というのは、涼香には憎むべき種族だ。自分は、いい点数をとらないと何一つさせてもらえないで、学校と言う称号のせいでたとえ一生懸命勉強したとしても、悪人とされてしまうつらい生活を強いられている。しかし、ああいう人は生きているだけで偉いと言われるし、少し何かしただけでも、大喜びして褒められる。なんだ、この不平等。ああいう人を大事にしろなんて、そんな余裕あるもんか。税金で食べているくせに、醤油を出すななんて、命令するな。そんなことしたら、どうなるか、教えてやれ!涼香は、こっそり、茶碗の中に醤油を大量に入れ、何事もない顔で、客席に持っていき、水穂の前に置いた。杉三が愛想の悪い子だなと笑っていたので、より腹が立った。厨房に戻ってくると、鉄火ねぎとろ丼も完成したので、それと一緒に出された茶碗の中に、また醤油を大量に入れて、杉三の前に置いた。
二人が、いただきまあすと言って、箸をとって食べ始めるのを見届けて、さあこれから面白いことが始まるぞと思ったのだが、、、。ほくそ笑んだのはここまでである。
「はれ、なんかこのお吸い物、すごい味か濃いぜ。」
と、杉三が言いだしたころには時すでに遅し。水穂もお吸い物を飲んでしまっていた。
でも、文字の読み書きをできないんだから、きっと醤油を入れたなんてばれることはないだろうなと考え直す。平気な顔をして厨房を手伝っていた涼香だったが、
「これ、醤油の味がしない?」
でかい声で杉三が言った。なんで、読み書きできないのに、味だけはわかるんだ!でも、醤油じゃなくて、ポン酢を入れたとか、そういうごまかしはできるなんて油断していたら、
「飲んじゃったの?」
「馬鹿にしょっぱいとは思ったが、、、。」
「飲んじゃいけないだろ。飲んだらどうなるかくらいわかるだろ。」
「見かけではわからなかった。」
という会話を交わしている。
「醤油じゃありませんよ。塩が強いだけなんじゃないですか。」
急いでごまかしの第一弾を放った涼香であったが、
「いや、塩と醤油はまた違うよ。というか、全然味が違うよ。変な姉ちゃんだね。そんなことも知らないのかよ。」
見事に的外れだ。しかもそんなことで馬鹿にされたのが悔しい。
「だから、言ったでしょ。醤油は入れないでって。もう、こうなったら、約束破ったんだから、板長を呼んできてくれ。板長に話して、話をつけようぜ。」
板長を呼んできてくれ?醤油ごときで?どういうこと?これから何が起きるの?まさかこの人たち、無銭飲食でもするつもりなのだろうか?それとも着物着ているから、二人とも暴力団?暴力団が知的障害のある人を利用するか?
「ちょっと、何を言っているの?警察でもよびましょうか!」
「警察?呼ぶのはそれじゃなくて、板長だよ、板長。料理作った板長に責任とってもらう。」
「いったい何をするつもり?恐喝でもしたいの?いくら障害があるからといって、わがままが通るもんじゃないわよ。」
「あのね、自分のことを英雄視するもんじゃないぜ、勘違いするな。醤油を入れるなと言ったのに、約束破ったんだから、ちゃんと謝罪をしてもらわないと。そうするのは、店の責任者である板長でしょ。」
何が何だかわからない。ただどうしたらいいか、一向に回転してくれない頭で考える。ただのいたずらだったつもりなのに、なんで恐喝めいたことを言われてしまうのか。知的障害があるからって、何でも通ると思うなよ。その程度のことで、板長であるおじいちゃんを出す必要もあるのか。本当に人を馬鹿にして!ゆすりに来たなら警察を!と言おうと思ったその瞬間。
い、いきなりどこかから超強力なミサイルでも飛んできたのと同じくらいの大音量で、激しい咳の音が鳴り響いてきて、
「もう、こんなところでやらないでよ!ほんとに君という人は!」
杉三が水穂の背を叩いてやるが効果なし。水穂が椅子から落ちたのと同時に、口の中から赤いものがどーっと流れ出てきて、御影石の床の上に溶岩でも流れるように広がっていく。すぐにおじいちゃんとおばあちゃんが厨房から飛び出してきて、介抱をはじめるが、このような場面なんて全く見たことのなかった、映画でさえも目撃したことのない涼香は、きゃーっと叫び声をあげて店の外から出てしまう。
そのあとどうなったかは知らない。自分がどこへ行って何をしたかもわからない。気が付くと、自分はおじいちゃんとおばあちゃんの家に飛び込んで、部屋の電気をつけることもせず、ただひたすらぶるぶる震えて泣いているだけであった。あの、杉ちゃんという人はどうなったかなんて、考えたくもないが、水穂さんと呼ばれた人はどうなっただろうか。もしかしたら、吐いた血液を詰まらせて死んでしまっただろうか。そして、原因は本当に自分が出した醤油だっただろうか。刑事事件にでもなって、遺体が司法解剖でも出されたら、自分も警察へ送られるのかなとか、そういう想像ばかりが頭をよぎった。何度か様子を見に行こうと思ったけれど、その都度警察がどうのが頭に出てきて、それはできなかった。
時間なんて、何時になったのかは知らないが、周りの家の明かりが少しずつ減ってきた。やがて、聞こえてくるのは、ちくたくちくたく、時計の音のみになった。さらに、駅を走っている電車の音も、消え去ってしまったことに気が付く。と同時に、がちゃんとドアが開く音がして、おじいちゃんとおばあちゃんが戻ってきたのがわかった。
「いやあ、ひどい目に会ったねえ、今日は。彼が、薬持っててくれたから、よかったようなもので。」
おじいちゃんが言っている。ということは、助かったのか。とりあえず、それだけでも安心した。
「ああして当たることがあるから、肉魚一切抜きで、毎日かっぱ巻きばかりの生活なんだってね。男としてはずいぶん小さい人だと思ったが、そういうことだったのか。」
まあ、確かにそうだ。昔の男であるおじいちゃんが小さいというのだから、相当に小さい人だった。事実、水穂は女性用の着物でも容易に着用することができた。洋服であっても、LLサイズくらいのものであれば、多分着用できるのではないかな。
「あたしは、それより、彼が病院で診てもらえなかったことのほうがかわいそうでしたよ。全く、今でもああいう人はいるのねえ。お医者さんも冷たい人だわ。あんな風に雑に扱って。あたしたちには、優しそうに診察してくれるのに、あの人を連れて行ったら、あそこの地区に住んでいる人は診察しないなんて。」
不服そうに言うおばあちゃん。どういう事だと注意深く聞いてみる。お医者さんと言えば、どんな患者でも、にこにこして診察してくれる存在。まあ確かに、専門性の高い病院にいくと、ちょっと偏屈で怖い印象を与えるお医者さんもいるけど。
「いまでこそ、解放同盟というものが活動しているようだけど、解決にはまだまだ先ということね。もう、戦争も終わったから、ああいう人は少し過ごしやすくなったのかなと勝手に思っていたのに。まあ、指は詰めていなかったから、それだけは取りやめにしてくれたのかしら?」
おばあちゃんがしているのは現在の話であるが、過去にもああいう人がいたのだろうか。あそこの地区というと、なんのことだ。ホロコーストの時代にゲットーとかいうものはあったけど?
「ああ、わしが子供のころは、立ち入り禁止と看板が設置されている地区は結構あったよ。しかし、そこから出てきて学校に通っている子供は少なからずいた。彼等は、えったぼしとか、かわたとか、そういう呼ばれ方をしていたかな。お前が言う通り、中には親指を詰めていた者もよくいた。指が四本しかないことをなぞらえて、よつの人という呼ばれかたをしていたこともあったよ。」
指を詰めるということは、近くにやくざの組織でもあったのかと思ったが、どうもそういう事ではないらしい。よくわからないまま、更に二人の話を聞いてみる。
「まあねえ、一応解放令で、あたしたちと同じ立場になったようだけど、あの医者の態度からしてみると、そういう事はなさそうね。そうなると、彼が、よくある幸せな人生を持てる確率も高くないでしょうね。もし、それさえなければ、外国の俳優さんに引けをとらないほど、綺麗な人なのに。」
「うん、それはそうだ。うまく行けば本当に役者にでもなれそうな顔だったな。」
それだけは、涼香も認めた。そういう感じだった。だからこそ、ちょっかいを出してみたいと思ったのかもしれない。それくらい、綺麗な人であることは疑いない。
「そうね。そうなると、まだまだ日本には、いい顔でもああいう扱いしか受けられない、かわいそうな人がいるってことね。あれだけ綺麗な人が、歴史的な事情のせいで、粗大ごみと同じような扱いしかされないなんて、本人もつらいでしょう。学校でも職場でも、冷たい扱いされて、自分の力では、解決できないのよ。」
よくわからないけど、ヨーロッパでのホロコーストに近いものが、大昔の日本に存在していたのだということは理解できた。日本は単一民族の国家であり、早くから法の下に平等とか言って、国民の平等性を訴えたと言われるが、意外にそうでもないということか。そして、あの綺麗な人は、その被害者だったんだ。理由は知らないけれど、病院のお医者さんは、それを知っていて、診察を拒否したんだ。確かに、病院で診てもらえないのは、いくら馬鹿でもかわいそうだと思う。
「でも、一緒にいた杉ちゃんという人は、偉かったなあ。冷たいお医者さんに、水穂さんは大事な友達だ、えた出身なんておかしな称号をつけるなと怒鳴りつけるほどの勇気があるんだから。お前が、接客した時に、先天的な障害で文字を読み書きできないと言っていたそうだけど。」
おじいちゃんは、急に変なところに感動している。涼香はあの人が偉いというのはおかしいと、むっとしたが、おばあちゃんもこう続けた。
「ええ、そう言ってたわね。もしかしたら、流行りの発達障害みたいなものかもしれないわね。」
涼香にしてみれば、そういう人こそ馬鹿にしてしまいたい、まさしく粗大ごみと言っていい人たちである。自身はその被害にあったことはないが、そういう人のせいで学校の授業が邪魔されて、学力が遅れるとか、進学の邪魔になるとか、そういう苦情は今絶えないようだから。
「多分、杉ちゃんもそうなんだろうね。でもな、わしはそういう人じゃないと、もはやああいう台詞は出てこないんじゃないかと思うよ。きっと、彼の先祖が死牛馬処理権をもっているような人だとしったら、誰でも嫌がって逃げていくし、ああして付き合おうなんて思わないんじゃないかな。」
「そうね。健康なひとは、あの時のお医者さんと同じ態度をとるだろうし、偉い人は当然のように馬鹿にするでしょうね。」
おじいちゃんとおばあちゃんがそれぞれ話した言葉を聞いてはっとした。
「できれば、健康な人に、ああいう台詞を言ってもらいたいね。でも、これからの日本では、無理だろうね。」
おじいちゃんは、残念そうに言った。
「そうね。あたしたちが望んだ世界とは、違ってきているみたいだからね。なんか、余計なほうに行っちゃったなと感じることは結構あるし。」
おばあちゃんもそれに同調する。
「でも、彼も幸せだったんじゃないのか。少なくとも、ああして怒鳴ってくれる友達がいるんだから。もしかしたら、今までの時代だったら、あんな友達を持てるなんて、ありえない話だったと思うよ。結婚とか就職ができなくて、裁判になったことだってあっただろ。杉ちゃんという人も、彼の事をすごく大事にしているようだし。二人は気が付いていないようだが、ある意味究極のパートナーだ。わしらも、それを求めて生きているような節がある。」
「あら、そんなこと言って、あたしは何ですか?」
「あ、すまん。失礼した。」
少し笑い声も聞こえてきた。
日本って平和すぎるほど平和で、日々安泰を約束されていたのではないのかと思っていたが、その下では、ああいうかわいそうな人がいることもはじめて知った。歴史的な事情というけれど、どういう事情なんだろう。死牛馬処理権とは?それを持っている人は、他の人と付き合ってはいけないの?何よりも、あそこまでひどい症状を出しながら、病院で断られてしまうというのがおかしい。
理由なんて、誰かが教えてくれるわけでもない。自分で調べに行かないといけない。そうなると、涼香は突然勉強してみたいと思った。試験の点数で差別的に扱われるよりも、綺麗な人なのに活躍できないほうがもっとつらいような気がする。自分からして見れば、テレビにでも出てくれたら、ファンとして応援したくもなる。それすらできないんだ。
なんとなくだけど、そういう理由を探しに行くために自分は勉強しようかと思う涼香だった。
「しかし、わしは、お吸い物に醤油を入れた覚えはないのに、なぜ、ああなってしまったのだろう。」
不意におじいちゃんがそう言っているのが聞こえてきた。
「あたしだって、いれてませんよ。」
「だよなあ。そうするとなんなんだろうね。故意に入れたとしか思えないのだが。」
我慢できなくなった涼香は、顔中に涙を浮かべて罪の告白をするために部屋を飛び出していった。
「私が醤油を入れたのよ!」
スピンオフ 醤油 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます