ドライアドの森②
「あ!」
マナが豊富な果物を食べながら、リデュケは思い出した。ドワーフとの約束を。
「なんじゃ」と枝の上で寝そべっていたマーギュリエス。
「調べたいことがあるのです。〈
「よいぞ。皆も興味を持っておる」
木陰からぴょこぴょこと、仲間達の耳と尻尾が立つのだけが見えた。
ドライアドの森には、樹齢何千年はあろうかという巨木があった。エルフが管理する世界樹よりは小さいが、ドライアド20体くらいで囲まないと足りないほどの円周を持つ幹。その側面の樹皮にぽっかりと空いた
リデュケとマーギュリエスが近づくと、暗い空洞の中に、蜘蛛の巣のように張った金色の糸が光を孕んだ。
粘菌位相計算機、その本体。
リデュケがたまに綾取りのように手にしているのはその端末だ。マーギュリエスの金色の角も、ここと通信して姉妹達の意見を探っている。彼女はリーダーではなく、司会に過ぎない。
空洞の下の部分には澄んだ水が溜まっている。リデュケはそこに、ヒルダと化石探ししていたときに採取した有孔虫の化石や、放散虫の化石が堆積した層のサンプル、二畳紀の終わりと三畳紀の始まりの地層から取れた土壌そのものの化石など、様々な標本を投入した。地球という古書の、古く破れたページの破片を読み込ませるのだ。
リデュケは木に話しかけた。
「分析して。化石に含まれる、酸素と魔素の存在比を」
巨樹全体がざわめいて、光の網は何度も織り直された。そして、ドライアドにしか読めない形状を表義文字として、答えを出した。
天球儀を内側からみたように金色の光として頭上に象られた分析結果を見て、マーギュリエスが言った。
「二畳紀末から三畳紀初期にかけて、海中の魔素存在比がかなり低下しておる。これが何を意味しておるかわかるかの?」
「もちろんです。魔素は酸素より、中性子二個分重い。よって、海水が蒸発する水蒸気には軽い酸素のほうが多く含まれる。雨水によって出来た極地の氷床にはその軽い酸素が閉じ込められ、逆に海水中には重い魔素が多く残される。寒冷期には氷床の質量が増えるので、海水中の魔素の存在比は多くなっていく。北方に強力な魔術師が多いのはこのことが理由です。
対してこの分析結果では、魔素の存在比がとても低い。つまり、当時がきわめて温暖――海水温が平均で40℃に及ぶ高温――であったことを意味します」
このように、化石に残された魔素存在比を測定することによって、何億年も前の太古の惑星気候がわかるのだ。
「そのとおりじゃ」マーギュリエスは満足そうに首肯した。「敵の尻を燃やすだけが魔素の使い道ではないことを、忘れておらんかったようじゃの。さて、なぜ当時が左様に温暖だったかといえば……ふむ、決まっておるな」
「ええ。ドワーフの言っていた転生龍の起こした天変地異によって、温室効果ガスが充満したせいでしょう。二酸化炭素だけでなく、硫化水素やメタンの痕跡も化石に残っている。ほとんどの生命にとって過酷な環境です。その影響は尾を引き、大量絶滅の後の500万年以上の永い間、生態系は回復しなかった」
「酸素濃度も極めて低かったようじゃ。海中では無酸素と言ってよい。もし当時に魔術師がおっても、大気中での魔法は発動できなかったであろう」
では、この惑星が魔法で満たされたのは何故なのだろう?
低酸素で灼熱の気候。そんな死の惑星であることを示す化石の層を見つめるリデュケ。ふいに、その端に青くマーキングされた線を見つけた。
「魔力の痕跡が……」
それは海洋での緑色硫黄細菌の大量発生を示す層の次にあった。魔素代謝菌が生合成する色素特有の有機分子が、その層でいきなり増加している。
「硫黄細菌が競合する微生物を殺した後のニッチへ、光合成型の魔素代謝菌が進出したのであろう。まるで、魔族が古龍を滅ぼした後にエルフが登場したと伝わる歴史を思い起こさせるではないか」
低酸素で高温。通常生物にとっては地獄のような環境で、ようやく魔素代謝菌が増え始めた。そしてコロニーをなすことで、微弱な非知性魔法を使うように。三畳紀には海洋で静かに個体数を増やし、次の侏羅紀になると地上の表舞台に躍り出た。侏羅紀の大型動物達が、その精霊達を寄生させるようになったのだ。それが、古龍――ドラゴンの誕生。巨大な龍たちは、白亜紀でさらに大型化し、6500万年前にほぼ絶滅するまで惑星を支配した。
低酸素環境におかれた生物が編み出した苦肉の策が、魔素による呼吸。それが偶然にも、魔法を行使させ、魔法生物を進化させたのだった。
「こんな無数の苦痛と死の圧力をかけなければ、魔法が生まれなかったなんて……」
「だからこそ我々は、淘汰という戦略を放棄したのだったであろう?」
リデュケは人間領に戻ることにした。
森は援軍を出すことに同意しなかったが、魔石は充分にくれた。
「もう行くのかえ?」マーギュリエスが見送りにきた。
「はい。これで疑問の一つに答えが出ました。でも、これを〈骸の王〉を倒すことに結びつけるには、ピースが足りません」
「そうじゃ。援軍の代わりに、ヒントをやろう」
「ヒント?」
「生命の在り処は、外部から観測不可能だという教えを思い出すのじゃ。観測できないということが、定義に含まれておる」
人間の学者は普通、生命を定義するとき、自己複製するとか、代謝するとか、外部と膜で区切られているとかいう特徴を挙げる。それに比べると、ドライアドの定義は異様だ。
「だから、もし何者かが、〝自分は生命を観測している〟と主張したとしても、嘘ということじゃ。そいつは詐欺師じゃ」
「チートシステムが経験値の根拠にしているのは、命ではない?」
「何かそれに近い別の物じゃろうの」
*
いくつかの魔導武器と防寒着をもらったものの、結局リデュケは一人でドライアドの森を後にした。おそらく収穫は装備よりも、〈樹洞〉での情報、そしてマーギュリエスのくれた謎めいたヒントだろう。しかし、これらをどうやって結びつければいいのかわからない。
故郷を再び離れるにつれ、青い光の数は減っていって、ついに快適というよりも低い密度の、暗闇に近くなってきた。日が陰り、雨さえ降ってきた。
仲間に会えて嬉しかったリデュケの気分も、少し沈んできた。まだ何も解決していないのだから。
リデュケの脳は、神経伝達物質によほど異常な不均衡が発生しなければ、鬱状態になることができない。だから、この状況にも、過剰に悲観的にはならないはずだった。
友軍から追放され、故郷からの支援を断られ、大切な人が敗色の濃い戦線にいるという状況でも。
しかし、リデュケはぬかるんだ地面の不自然な起伏に足を取られて、盛大に転んでしまった。
慣れた森で、普段の精神状態ならばありえないことだった。
そこは開けた平地で、草が刈り取られて粘土質の地面が露出しており、そこに水が溜まっていたのだった。
よく見ると、人為的に何重にも溝が掘ってある。
魔法陣。それも、大規模転移用の、少し前に使い終わった後のものだった。
そういえば、防衛戦が終わった日に見た転送の光柱はこっちの方向だった。このあたりの大地は汚染されているはずだったが、なぜか浄化されている。精霊魔法だろうか?
顔をあげたリデュケは、目の前で雨粒が亡霊の形を避けて降っているのを見た。
透明な幽霊の向こうには、隠者のようなフードの奥で金色の瞳を光らせている、ヒト型の種族の集団がいた。皆、巨大な狼に乗っていた。
リデュケは、自分がこのルートを選んで移動したのは、この傭兵達を見つけるための無意識の選択だったのではないかと思った。
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