追跡者


 一人を乗せた一頭は、森を駆けている。

「ところで、〝Ghost〟というのは不思議な響きの言葉ですね」リデュケはゴホーというむせそうな声を出した。ghの部分が発音しにくい。

「地質時代語で、〝幽霊〟という意味よ」

 ヒルダが言うには、地質時代語とは、転生者が使っていたとされる言語。人類の有史時代以前、地質時代に現れた場違いな言語なので、そう呼ばれる。

 当然、紙や口伝では残っておらず、古生代の地層に転生者が残した頑丈な石碑からしか知る方法はない。辞書のような大量の石碑には、ご親切にも発音方法を示す口腔内の図解が添えられていた。

〈チートスキル〉や〈レベルアップ〉等、転生者の発見以前にはなかった概念を表す単語は、そのまま地質時代語からの借用語として定着している。

 特に転生者兵器に関わる軍人は、作戦上、地質時代語を多用する傾向にある。オークの狼乗りを〈ウルフライダー〉と呼ぶなども、その一例だ。多国籍・多種族の同盟軍アライアンス共通語リンガ・フランカとしての利便性がある。あくまでも、単語レベルでの使用であって、よほどの地質時代言語学者以外、文法までは習得していないが。

「でも、軍事用語ではない単語まで覚えているなんて。ヒルダ様は本当に転生者がお好きなんですね」

「別に……」ヒルダはそっけない。

 好きでないのなら、なぜ詳しく調べるのだろう?


「ねえ、本当に追ってきてるの?」ヒルダが言った。「さっきは目が合ったかどうか、仮面のせいでわからなかったじゃない。狼乗りたちも、急に用事を思い出しただけかも。家の鍵を閉めたか気になったとか、殺し忘れたゴブリンの集落があったとか」

 リデュケはヒルダの甘い期待を否定した。「いいえ。思い出してください、彼らの狩りを。彼らはオグルにしたときと全く同じ布陣を、我々の周囲に展開しています。非可聴域の遠吠えが、ヒルダ様にもかろうじて聴こえるでしょう」

 子供や耳の長い種族にしか聴こえない、モスキート音。ダイアウルフの出すその音が二人を取り囲みながら、やり取りしている。

「では、水場に行ったほうがいいわね」

「懸命な判断です。それは迷彩魔法を使う暗殺者と戦う際の定石です」

「そうじゃないわ。〈チートスキル〉だった場合に有効よ」

「……?」

 リデュケは森林地帯を走り続けた。背後から、木の葉が擦れ、小枝が折れる音がした――ような気がした。あるいは、全くの幻聴かもしれない。


 森を抜け、二人の眼前には絵画的に上下対称な光景が広がった。

 平坦な浅い水源に出たのだった。冠雪した高山を鏡のように映す、滑らかな水面。しかし、緩やかに水の流れがある。この流れは細く収束して下流に向かい、突出した崖の上から伝い落ちる、小さな滝となる。地質学的には、滝は侵食によって地形を穿ち後退していくが、この滝はまだ若い。

 波紋によって鏡面を乱しながら、リデュケは迷った。止まるべきだろうか?なぜなら、背後から追跡されている場合、リデュケ自身の蹄が立てる水の波紋で、敵のそれが見にくい。

 リデュケは馬などの四足動物がするような〝歩法〟を、最大速度の襲歩ギャロップから、一段落とした駈歩キャンターに切り替えた。

 ふいに、全てが徒労である気がしてきた。オークは我々に気づいていないか、あるいはこちらの意図をとっくに見破っており、はるか後方で帰路についている。そういえば、遠吠えももう聴こえない。自分の行動はただのパラノイアに基づく茶番で、貴重な魔石を一つ、無駄にする可能性のほうがはるかに大きいような気がした。

 背後には、未だに敵の接近を示す水紋は見えなかった。


「このまま進むと、急流に入ってしまいます。そうなるともう、追手がいたとしても、それが立てる飛沫や水紋は見えません」

「いいの。きっと見えるわ」

 背中のヒルダがなぜか自信たっぷりに言うので、リデュケは信じることにした。


 流れは細く激しくなり、瀑布となって流れ落ちる滝の上端が見えてきた。

 再度襲歩ギャロップに切り替えているリデュケは、それに向かって最大速度で助走して、岬のような崖から大きく跳躍した。いるかどうかもわからない敵との位置関係を限定するという目的で。

 空中で、獣部分の後ろ足を左にスウィングして、上半身を反動で反時計回りに回転させてから、脚を畳んで慣性モーメントを小さくした。リデュケの身体は左側を崖側に向けた形になった。

 身体の右側で隠された槍を構えた。


 そこで、自分が踏み荒らしてきた川面に、異変を見た。水飛沫が、氷柱のように動きを止めている。最初は自分の集中力が高まりすぎて、時間が止まって見えるのかと思った。しかしそうではない。波立つ水面が、凍りついてその姿をガラス細工のように留めている。周囲の水面には、白い霜が広がっていく。迫りくる氷の侵食はついに岬の端まで達し、何かに蹴られたように割れた。


 リデュケはその不可視の〝何か〟が跳躍した少し先の空間に、全力で槍を投擲した。反作用で自分の身体は逆回転を始めた。

 だから、リデュケは着弾の瞬間を見なかった。

 雷鳴のような轟音が、空中で静止した槍から聞こえた。その音は、子犬のような甲高い鳴き声に変わり、空気のたわみから巨大な狼の姿が現れた。それはダイアウルフの断末魔だった。その脚には氷片がついていた。

 リデュケは回転しながら後ろ向きに、対岸に着地した。ダイアウルフは体内で散弾となった魔石と共に、断崖の狭間へ落ちていった。

 しかし、騎手がいない。

 リデュケは一息つく暇もなく、さらに進行方向に跳んだ。すると、一瞬前にいた地点にあった礫岩が粉々に砕け散った。黒い鎧のオークは、狼を踏み台にしてさらに跳躍していたのだ。着地の衝撃は、〈ゴースト〉自身にとってのダメージとなり、光学迷彩の効果を解除した。

 乗り物マウントを失った〈ゴースト〉は、それ以上追う素振りを見せずにゆっくり立ち上がって、ヒューマンを乗せたドライアドという獲物が遠ざかるのを口惜しそうに見つめた。無貌の仮面からは視線が伺いしれなかったが、リデュケはそう思った。


「……言った通りだったでしょう」

 しがみついて、重心がぶれないように協力していたヒルダはそう言った。しばらく走った後だった。

「あの氷は何だったんです?」

「転生者は、周囲の熱を奪って動力に変える。〈チートスキル〉を使っているときは、莫大な熱を使うわ。急流を瞬時に凍てつかせるほどに」

「熱を奪う……?」

 リデュケはだんだん転生者の能力に感じる異様さの正体がわかってきた。破壊の過程を巻き戻して無かったことにし、分子のランダムな振動である熱をかすめ取る。それらは、宇宙でもっとも支配的な原理に逆らっている。時間そのものを産み出す法則に。


「ところでヒルダ様、もうしがみついてなくても大丈夫ですよ」

 ヒルダは力を緩めずに言った。「オークなんて、操演盤の上の赤い駒としか思ってなかった」


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