経験値
リデュケはまた得意げに説明を始めた。
「オグルもまた、広義の人類です。しかし、ホモ・サピエンスとは少し遺伝的に遠く、ホモ属の名を冠していません。分類学上は、哺乳綱霊長目ヒト亜族。学名は、パラントロプス・アングリス(Paranthropus Angulis)。Anguliは角という意味で、その名の通り前頭部に一本の角が生えていますね。ほら」
「いや、生えてるけど……」とヒルダ。
二人はまた、樹々に隠れて崖の下を見下ろしている。
オグルと呼ばれたヒト型種族の小集団は、武装した八体ほどのオークの狼騎兵に四方から囲まれて劣勢だ。先程の二体の狼騎兵は、単に峡谷を散歩していたのではなく、そこを封鎖していたのだ。
オークは、ゴブリンで演じた悲劇を、この赤茶けた肌の別の種族で再演しようとしている。
リデュケは指差して言った。「オグルはお腹が大きく膨張していますね。あれは単なる肥満ではなく、そのスペースにある特殊な内臓に魔素代謝菌を飼っているのです。身体中に原始的な魔法陣が入れ墨してあって、それによって単純な火属性魔法を使います」
「それはわかったけど、このまま見ているの?」
「ええ。異種族に干渉するものではないので」そう言って、リデュケは続けた。「ここからが大事なところです。魔法を使うヒト型知的種族は、大抵このように体腔のどこかを拡張しています。
ドライアドは獣の胴に、海のナーガ族は蛇のような長い胴に、それぞれ魔素代謝菌を蓄えるための専用の臓器を持っています。もっとも、そうやって縦に伸長するのは稀で、大抵はサスカッチやパンディエン(パンダの獣人)のように、横にずんぐりすることで体腔を拡張する道を選んでいます。鳥類のような気嚢を魔素代謝器官として流用したハーピーなども面白いですね」
「……」ヒルダはムスッとしたまま言った。「エルフとかは、すらっとしてるけど?」
「あれは全身の細胞内に魔素代謝のための
「へえ……」
ヒルダはエルフについては歓心したようだが、また不機嫌そうに黙り込んだ。
「どうされました?」
「助けないの?あの亜人達を」
「実は、その能力がありません」リデュケは白状するように言った。「私の攻撃魔法は、対象の共生菌叢を知る必要があります。マナバクテリアを分析しなくてはならないのです。ここではそれが出来ません。あの八体を相手に肉弾戦などもってのほかです」
「でも、例えば大声を出すとか?こっちにもっと重要な獲物がいると思わせるとか」
それでは、ヒルダまで危険にさらしてしまう。リデュケはたしなめることにした。
「ヒルダ様、オークを転生者で倒すことを厭わないあなたが、それをオグルの死と区別する理由がありますか?」
「……あるわ」
ヒルダの口調が冷たく変わったので、リデュケはぎくりとした。「え?」
「この領地の獣は、我々
「経験値……?」リデュケの聞いたことがない単語だ。
「転生者化石は、生物を殺すことで〈経験値〉を獲得し、それによって〈レベルアップ〉するの。それが〈チートスキル〉を解放するための条件。これはまだ同盟軍が外部に漏らしていない情報だから、あなたは知らなかったでしょう」
「生物を殺すことで……?」
今度はリデュケが黙り込んでしまう番だった。
そんな風にして自身を強化する生物は存在しない。捕食することで相手の魔素を取り込む肉食の魔獣はいるが、それは魔素の移動という明白な因果関係を持っている。しかし、殺すという行為だけで強化される転生者とは何なのか。それは生態系の外にあり、かといってただの物質でもない。
しかし、リデュケは努力して、現状の分析に意識を戻した。
「……では、オークはその転生者の性質を知っていて、我々の資源を先に利用不可能にしておこうというわけですね?我々の兵器の性能がこれ以上強化されないように」
「そう。そうとしか考えられないわ」
崖下の戦場に、展開の変化が生じていることを、ヒルダが指摘した。
「あんなオークいた?」
黒い骨の仮面をかぶって鉤爪のような武器を装備したオーク狼騎兵が、突然現れてオグルにとどめを刺した。
「いませんでした。九体目のオークです」
オグルはとうとう、炎魔法を使った。入れ墨が赤熱して、掌の文様から火の玉が放たれる。思ったよりも本格的な魔法攻撃だ。
しかし黒い仮面の騎兵は忽然と消えてしまい、火球は当たらなかった。仮面のオークとその騎獣は、文字通り、どこにも見えなくなったのだ。そして次に現れたときには、さらにオグルの犠牲者を作っていた。
「あれは人間軍が〈ゴースト〉と呼んでいるオークの個体ね。短時間、姿を消せるらしい」ヒルダが言った。
「そんなやばいのがいたんですか?危ないじゃないですか」リデュケはぞっとして言った。
そういう敵がいるとおちおち鉱山探索もしていられない。相手をする際に爽快感がなく、ストレスフルな種類の敵だ。存在がハラスメント。もし種族間戦争にルールがあるなら、真っ先に
「しかも、迷彩魔法にしては過剰な完成度です。輪郭さえ見えませんでした。大量の魔石を消費せずに、あんな完璧な迷彩魔法を使う方法はこの世にありません」
「では、あれは〈チートスキル〉かもしれないわね」
ヒルダの発想は、ゴブリンに関する下品なジョークよりさらに突拍子もないものだったので、リデュケはあきれてしまった。
「オークは転生者ではありませんよ、ヒルダ様」
「狼に転生者を積んでいるのかもしれない」
確かに、どこかに隠し持っているという可能性は考えられる。
〈ゴースト〉と呼ばれるオーク騎兵は、敵に接触している時は姿を見せるようだが、それ以外は不可視のまま疾走し、オグルの集団全員にとどめを刺してしまった。
他の狼騎兵たちは、処刑の名誉をなぜかそのオークに譲っていたようだ。
狩りが終わって、オーク達はオグルの所持品を収奪するわけでもなく、静かに周囲を見回している。もちろん、肉を食べるわけでもない。経験値の取得阻止が目的なのだから、何も奪わないのは当然だ。
ふと、〈ゴースト〉の動きが止まった。仮面の奥の表情はわからないが、嫌な予感がする。
「今もしかして、目があった?」とヒルダ。
「いえ、わかりません」
〈ゴースト〉はオーク語(言語学的には、喉音や吸着音が多いグルグル言う言語)でなにやら号令を出して、狼騎兵達もそれに従った。
騎兵達は散開し、森の中に消えた。〈ゴースト〉とその黒い狼も、その場で空間に溶け込むように消えた。
「ええ、まずいかもしれません」リデュケは状況の危殆を肯定した。「逃げましょう」
「ごめんなさい。私の声が大きかった?」
「いいえ。彼らの索敵能力が優れていただけでしょう」
リデュケはカバンから、涙滴状に加工された緑色の魔石を取り出し、専用の金具と紐で棒状の枝に固定した。この
完成したのは、緑色に輝く穂先を持った原始的な槍だった。
ヒルダはこの石器時代的武器に対しても不安そうな表情だが、リデュケは言った。
「さあ、背中に乗ってくださいヒルダ様。ここからは人間に合わせた道は往きません。オークの狼でさえ踏破不可能な、ドライアドの視点から見た世界をご覧に入れます」
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