第8章 新たな道
第8章 新たな道
『教師になる』そんな僕のわがままな希望も有希乃がいたからだ。僕は引っ張る客車を失って、機関車たった1台で途方に暮れるしかなかった。もはや役目のない機関車は動き出す目的さえ失ってしまった。
部屋に飾った白いクリスマスツリーを見るたびに、心にガラスが刺さったようにチクチクと胸が痛んで正気じゃいられなくなった。僕は酒を呷っては布団にくるまって動けなくなってしまった。起きてはまた酒を飲んで最後には死んだように昏睡して、毎日が過ぎていった。金も食欲もなく味噌や塩を舐めては酒を呷った。もはや嘔吐するものも無くなってトイレでは血反吐しか出なかった。
もう夢を追うことなんてたくさんだ。いっそのことこのまま死んでしまいたい。自分と言う人間が大嫌いになった。ふと壁に眼をやるとA1サイズの僕がステージでプレイしているポスターが額縁に入って壁に飾ってある。床すれすれに降ろしたベースを弾きながら、僕は照れを消した表情で俺様はどうだ、というばかりに客席に向かって照明を浴びている。「悪魔だな・・・」僕は自分の姿さえ見ては吐き気を催した。
じゃあ、いったい僕は何をすればいいんだろう。今すぐにでも働いて社会の中に身を委ねて生きていく、それは有希乃の期待を裏切るようで心が痛んだ。
有希乃が痛みに耐えて手術をするのだから、僕も痛みにこらえて強く生きていかなくてはならないのではないか。先も見えない暗闇を、果てしない砂漠を、ゴールの保証もなく
突き進め。有希乃に言われた通り、僕は夢を追い求めなくてはならない。それがせめてもの罪滅ぼしだろう。
199×年2月。僕はW大学大学院の受験に臨んだ。
筆記はメディアと表現の自由についての論文からの出題だった。学科試験は自分なりには精いっぱいに力を発揮できたと思う。
面接の日。僕は忘れもしない。神様の仕打ち。
「好きな作家や作品についてお話し下さい」と言われ僕は緊張しつつもレイモンド・カーヴァーの人間的弱さ、悲観的に見る世の中を描く魅力に付いて語った。
「ではMr.Shoji 英語でお話し下さい。 What do you think of low birthrate and longevity in Japan and tell us your idea to prevent this problem ?」
(少子高齢化・・・か。女性の社会進出、晩婚化、貧困から結婚できない、出産をあきらめる・・・)僕は英語で喋りながらいつしか自分のことを重ね合わせるように考えてしまい、突然有希乃を思い出し頭がパニックになった。自分はこの世に誕生するはずの子供を殺めてしまった。今日ここに居るのは、少子化を妨げる罪深き殺人者である。話し終えた時には目からいく筋もの涙が流れ出ていた。失敗だ。僕は逃げるように校舎を去った。
もういい。やることはやった。この質問は神の思し召しだ。当然の不合格。
部屋に戻って酒に溺れて鬱になってしまった。
死ぬ勇気がない。でも自分で決めた決断は失敗だったと認めざるを得ない。
働こう。荒療治しかない。僕はボロボロの精神状態の中、求人誌をめくっていた。
パラパラとページを繰っていると、
《授業が命。生徒とともに成長してみませんか》学習塾ステアーズ
という大手の予備校・学習塾に目がとまった。
僕は会社に資料を請求した。
資料を読むと、今までにない理想がつまった塾に見えた。
「教師は授業力」をモットーとして、ほぼ1日を授業の準備に充てる。
「生徒こそが主人公」と謳(うた)い、生徒の学力を勉強の面白さで気づかせて引きあげていく。
他の学習塾のように、利益重視を追求したり、宣伝に多くのカネをかけたりしない。
授業力を最大の武器にして、口コミはひろまり、入試実績が上がっていくことで生徒数は都内でNo1の規模となっている。
教師は営業に携わることは無いのも特徴的だ。他の大手塾がやっているような、電話勧誘や友人勧誘で子供にクオカードを渡したり、成績優秀者に景品を渡したり、月謝を優遇したり、といったカネやモノでやる気を煽るようなことは、子供の道徳上、好ましくないと考えるからだ。宣伝は、年に数回の季節講習のチラシを、本社が一括して行うだけである。よって会社の宣伝広告費は極力抑えられている。教師のするべきことは、営業に力を削がれることなく、いかに良い授業を提供して地域の評判を確立し実績をあげていくかに収斂される。
教師の授業力ためには教師の力量が最も問われることになる。よって教師には厳しい試練が待っている。入社から徹底的に基礎を教え込まれる。授業開始の挨拶、話のつかみ、話術、黒板の使い方、例文、生徒とのやり取りの仕方・・・これを週2回『新人研修』と称して最低2年は鍛え上げられる。生半可な準備だと研修担当者にコテンパンにされる。よって新入社員は『新人研修』にむけて毎回、渾身の準備で臨む。
どんなに年数が経っても、教師は研鑽を怠ることができない。週に1度の研修、ビデオによる監査、生徒アンケート、生徒成績向上データ・・・常にいい授業ができるよう日々自分を磨いていかなくてはならない。当然結果は形となって表れる。教師はそれを自分で分析し、反省してよりよく授業に反映できるよう報告書を提出し実際の授業に生かす。
こんな教師が正社員で700名を超える。都内各校舎はいまや100をゆうに越えて各校舎がまるで寺子屋のように独自性を持ってドミナント展開をしている。この寺子屋システムを高度にネットワークとして結びつけ、校舎同士で競争させたり、情報、教材、模試、入試データをうまく活用したり共有したりするのである
これを理想とした社長の壮大なる構想は見事に成功した。生徒数は3万人を超え、都内の学力トップ校合格者の多くはステアーズの塾生が占めるようになった。、いまやステアーズに通うことはブランドと化し、都内でハイレベル高校受験といえばステアーズというほどになっている。
なかなかおもしろそうだ。僕はこの会社にエントリーし、いつの間にか笑顔でそれでいて偉そうなオジサンの前で面接を受けた。
「んーなかなか面白い経歴だね。子供は好きかい?」「はい」
「んじゃーそうだな、そこのボードで関係代名詞の導入でもやってみてよ」
僕は英語の2文連結で、基本通りやった。今考えるとひどいものだったと思う。案の定、
「うん。もういいよ。君、大学受験希望ってあるんだけど君の学歴では無理なんだ。僕も無理。落ちこぼれでも東大・京大じゃないとね。高校受験でもよかったら、やってみるか? 中学生を教えるのも大変だぞ」
「やらせて下さい。頑張ります」
「うん。じゃ、早速3月の新人合宿においで。もうどこにも行く所ないんだろ。新人に混じって1から鍛えてもらっておいで。僕と一緒に頑張ろう」
そういってオジサンは去っていった。このオジサンが社長だなんて夢にも思わなかった。
199×年3月僕は塾教師という形で、第2の人生を歩み始めるのである。
*
合宿は研修所で1週間の缶づめだった。厳しい採用試験を勝ち抜いてきた新卒の新人たちはすでにインターンシップで修業していたらしく、若いし、元気があってもう1人前の授業ができているように見えた。僕とほか数名の中途採用者は呆気に取られ、スタートから大きなハンディを背負うことになった。特に僕は黒板とチョークを使ったことがない。いつもバイトではホワイトボードだった。
僕はまず黒板に字を書く練習から教わった。ミミズが這うような汚い字。書く時間も遅い。横にまっすぐ英文を書く。そこからだった。新人たちとは別メニューで、立ち位置、声の出し方、姿勢(前を向きつつ黒板を書く)発問、表情までを徹底的に仕込まれた。研修は朝9時から夜9時までだが、新人君たちはここぞ根性でアピールだと言わんばかりみんな深夜まで黒板の前に立ってまるで演劇部のようにセリフを唱えている。僕ら中途新人も徹夜しないわけにはいかなかった。
お題を与えられると、まずは黒板に何を書くかの板書計画用紙を提出する。英語ならまず興味をひくネタを考える。それをもとに例文を作る。例文を4つ5つと重ねハードルをあげていく。
黒板下30㎝は生徒が見えないのでデッドスペースにしなくてはならない。
黒板左半分で基本文を、右半分は応用にして、生徒とともに一緒に考える。
僕は板書計画用紙提出するたびに没を食らった。何度かの訂正でOKが出ると、俳優や役者が台本を見ないように、用紙を見ないで喋りながら書く練習だ。大事なところは画用紙をカードに切ってその裏に板状の磁石を貼り板書をチョークで書く無駄な時間を削る。
自分の今までのプライドはズタズタにされた。先輩教師たちは神様のような授業をする。
僕は先輩たちのその喋り方、例文、板書、ギャグ、口癖までをことごとくメモして盗むようにした。落語のお師匠さんが数え切れないくらいに存在するのだ。カルチャーショックを受けながらあれよあれよと一週間が過ぎていった。自分もあんなふうになってみたい。
そう思って僕は覚悟を決めた。学校の先生よりずっとわかりやすい授業。そうでないとお金はもらえない。大学生のアルバイトとは全く違うプロの技量がそこにはあった。
研修が終わると僕は基本を教わっただけで、実践する間もなく現場へ投入されることになった。
都内のCという300人くらいのスクールに配属になった。1クラスは15人くらい。デビュー戦は散々だった。生徒の名前を覚えないと指名できないのである。黒板やセリフで頭がいっぱいの僕は、生徒の方さえまともに見ることができなかった。生徒の発言がくれば今度はそれに引っ張られ、畢竟(ひっきょう)覚えた黒板やセリフがぶっ飛んだ。
今思うと1,2年目はメタ糞だった。自分の不甲斐なさを生徒のせいにしてよく怒った。
こっちはいい授業をしようと研鑽しているのに、生徒はどこ吹く風で聞いてくれない。毎日胃が痛い日々だった。会社の理想通り、上手くいく授業なんてすぐにはできないのだ。2年間はみっちり研修を受けて修業の日々が続いた。週2回でやってくる授業研修は、「小ネタ」「導入」「板書」「教材プリント」すべて自前で準備をする。落語と一緒で最初のオーラや小噺で生徒を巻き込む剛腕な力が無いといけない。僕は英語・社会・国語を担当していたから、その準備たるや、就業時間内で済むわけがない。最初の4年間は徹夜ばかりしていた。終電が過ぎれば、夜なべ確定だ。一応仕事にメリハリをつけたいから、終電が無くなると缶ビールや缶チューハイを飲んでアッパーな気分にさせる。そうするとふといいアイデアや面白いネタが湧いてくることも多いのだ。酔うとなんだか万能になったような気分だ。一連の授業計画を作成したら、僕は誰もいない教室でひとり授業のリハーサルをする。
「いまの○○君の発言最高だね」「よくわかったじゃん、どうしてそうなったかもう1回説明して」「お!すごい!なんでそう思ったの?」なんてひとり、生徒とのやり取りを想定しながら、セリフを暗唱する。そうして朝を迎える。紫色の朝の空を見上げるたびに「やっちゃったな―、ゆっくり寝たい」と言いながら会社に泊まった。
生きている心地がしなかった最初の4年間だった。せっかく気合を入れて準備したのに研修では「言葉が多いんだよ、10調べたら10伝えようとしてる、3でいい」「『血を流して獲得した人権』っていうけど君はその血はなんの事件のことを言っているの?」「もっと生徒を褒めて」先輩教師には糞味噌言われ、しょげたまま校舎で授業、そして明日の準備・・・。辛かったが悔しかった。まだ努力が足りないと思った。
この当時は、今風にいう「ブラック企業」という人権観念がなかった。本人がたのしく進んで仕事準備に没頭する、それは自己責任だった。
「N●Kの番組「プロ●ェッショナル」で発明や研鑽を重ねる研究者たちいるでしょう?あの徹夜の努力を誰が止めようっていうんだい? なのに労働基準法ではアウトだからね」社長はお気に入りの番組を口癖のように言うもんだからそのまま訓戒のような不文律となってしまった。
実際そうしないと社員は追いつめられ、才能がないと思われて振り落とされていく。あれだけ元気だった新人同期もほとんどが消えた。女性は会社の採用実績をよく見せようとするため門戸が開かれているのは入社式でわかる。でも続かないのだ。所詮生徒からの人気商売。いい授業ができないヤツは、生徒アンケート、学力データ結果、本社監査、クレームなどでジワリジワリと追いつめられて現場から遁走していった。
青春時代の贖罪をしたい。そう思って僕はがむしゃらになって仕事に邁進した。(何とかして生き残って見せる!)休みは補習や模試監督、採点、テスト対策、自分の授業準備。月1,2度休みがあればいいかなという忙しさだった。時間を重ねるうちに、いつしか自分は昔の悲しい思い出を忘れ去ろうとしていた。自分は何者だ、なんて考える時間も余裕もなかったし、今のような境遇に流されている毎日の方が心地よく、仕事をしているほうがずっと精神的には楽になっていった。
*
入社して12年がたった。気がつけば201×年になっていた。
キーンコーンカーンコーン…かまびすしいY校の休み時間。僕は笑顔で教室に入っていく。そう、どんな時も笑顔で。
僕は笑顔のまま黒板の前で毅然と姿勢を正し、教室全体を右から左へと見まわす。にんまりと無言のまま生徒1人1人と目が合うまで視線を逸らさない。もう1人1人の今日の気分がわかる。妙な沈黙に生徒たちは、はたと我に返ったようにこちらを向き姿勢を正す。
僕の醸し出すオーラで、生徒たちは自然に顔を上げる。
「挨拶しよう、・・・・・・・こんにちは!」僕は45度に頭を下げ腹から声を出す。
「こんにちは」生徒はしっかり声を出し頭を下げる。1人でもお辞儀しなければ連座制で皆やり直しになるのだ。しっかり挨拶ができるまで何度だってやる。
挨拶はステアーズの慣習だ。「気をつけ、礼!」とも言わない。「お願いします」も言わない。社長は軍隊教育のような物言いが大嫌いなのだ。あくまでも生徒と水平目線であいさつをする。
「これ、先生の乗っている車、みんな知ってる?」と僕は黒板に愛車のカラー写真を貼る。
「見たことある!」「ぼろい」「ワーゲンだ!」と生徒。
「そう、先生のフォルクスワーゲンビートル」僕はちょっとこの車のボロさぶりで生徒を盛り上げる。(子供たちの素直な感情。可愛い。邪念がない)
「じゃ、みんなに質問。この車は今、きれいでしょうか、汚いでしょうか?」と僕。
「ぼろいから汚い!」「写真ではきれい」「わかんねいし」と生徒。
「お! わかんねえ! そうだよね。じゃ、I washed my car. さあ、これで車は?」
「きれい」と生徒みんな。
「本当に? 島田君」僕は訊く。
「だって『洗った(・・・・・)んでしょ』、この車」と生徒。
「あ! ゴーメン、ゴメン。いや、じつはね、この文の後ろに、先生この言葉をつけ忘れちゃった」と僕は語句を付け足す。
I washed my car ten years ago .
「何だよ、先生、ずるい! 」と島田君。
「じゃ、この車はいまは? 斎藤君」
「汚い!」
「そうだね、つまり I washed my car .だけでは、この車がきれいか、汚いかは、わから・・・?」
「ない!」と生徒。
「じゃ、今日はね、その逆。ちょうど今洗ったところ、ピカピカだっていう表現を作ってみよう」
こうして現在完了形の完了用法に入る。
*
中2社会の時間。
「はい。では今日も始めましょう。この前は徳川綱・・・」
「マザコン!」「犬(ちん)ころ屋敷!」「蚊を殺してクビにされた!」次々に生徒が声を上げる。
5代将軍徳川綱吉。悪法で名高い生類憐れみの令を出した将軍として有名だ。
(フフフ、よく覚えてる、それにしても元気だ。知的欲求になんの億劫さも感じさせない生徒たち。頼もしくもあり可愛らしい)僕はうんうん頷いて褒めてあげる。
「あれー? でも最近の綱吉はそんなイメージだけだっけ? 牧田さん」僕は訊いた。
「実は勉強家」「治安を良くした」「忠臣蔵!切腹は名誉」「殺人が無くなった」他の生徒も答える。
「そうだね、道徳を重んじて、武士は勉強に励むよう務めた。これを何政治?栗田さん」
「・・・忘れました」「そうか、じゃあ牧田君」「・・・文知政治?」
「凄いねえ、よく覚えてる。はい、綱吉は江戸の街を平和にしたね。ではこの後の江戸について40分ほど授業をしたいと思います。そのあと3つは質問を考えてもらいますから、よく頭を使って考えてください。残り20分は確認テストです。居残りになるとピンチパンチペンチポンチプー、週末に会いましょう、ね斎藤君」
「ひゃーガンバろ」
「では、この数字のランキングを見て。ヒントは江戸のなんかのワースト記録」僕は数字の書いたランキング表を大きな紙で黒板に張る。
「犯罪件数!」「切腹した人」「haヘクタールがついてるから火事の面積!」
「正解―! 牧田君凄いねえー。1位は1923年の・・・? 杉田さん」
「関東大震災の火事!」「凄―い、吉田君正解」
「では2位は? 駒田君」
一同沈黙。「ほい、牧田くん」沈黙したら、歴史好きな牧田君に当てる。
「江戸の・・・火事・・?」
「さすが! そう。この火事。明暦の大火またの名を振袖火事っていうよ、振袖わかる?」
「着物!」
「そう。綱吉の1657年。江戸に住む君たちと同じ年くらいかな、仮名としよう、お梅ちゃんが病気でなくなったんだ。両親はお梅ちゃんの着物を上野の本妙寺に供養したんだが、これを譲り受けた、おきのちゃんも・・・矢田部さん?」
「死んだ!」「そしてまた譲り受けたおいくちゃんも・・・矢田部さん?」
「死んだ!」「そう、みんなこの振袖をもらってね。そんな着物みんなだったらどうする?」
「呪われてる」「お祓いする!」
「そうだね、本妙寺で焼いて供養したら・・・? はい牧田くん」
「江戸中、火事!」「怖えー」「ウケル」
(本当に、子供相手の、熱いライブだな。一緒になって盛り上がるのはやっぱり気持ちいい・・・生徒の目が輝く。嬉しいことだ・・・)
「はーい、正解。まあこの女の子の話は都市伝説ね。放火説もある。とにかくこの火事で江戸中の大半は焼けて、なんとあの江戸城も西の丸を残して全部焼けちゃった。幕府は江戸の町の復興それから島原・・・? はい森さん」
「・・・・あまくさしろう?」
「おー凄い。そう。江戸の街再建や島原一揆の鎮圧で江戸の財政は大ピンチになった。今日からこのピンチを何とかしようと頑張った人たちを数人紹介するよ。江戸の改革、知ってる? 熊谷さん」
「享保!」
「そうだ、小学生の時にやったねえ、これをもっと詳しくやっていこう」
僕はこうした小ネタやクイズから授業へ入る。なるべく歴史に興味が持てるよう生徒を誘導していく。常に生徒に発問し、受け身にさせない。考えさせる。答えさせる。褒める。もちろん1人1人の性格や得意苦手を知っているから、一瞬で配慮して発問にも気を遣う。
こうして僕は生徒をまきこみながら黒板に板書していく。生徒も黒板を見ながらプリントを埋めていくのに必死だ。時に話は脱線し、それでいて急ぐところはとんとん進むスピード勝負。要はメリハリをつける。話の脱線だって、生徒の意見だってトークの40分には僕には織り込み済みだ。プリントは僕が黒板に書いた通りに埋めていけるように作られていて、大事なところには、思ったこと、主観的感想を書けるスペースも取ってある。その語句が何が重要かを考えて書かせるようにしている。
僕は歴史の流れを固めるのだ。僕は歴史は点と点の出来事を線で結び肉付けしてあげることが社会の教師の役割だと思っている。
40分ぴったり。絶対にオーバーしない。生徒の聞く集中力は40分が限界だ。日頃のセリフ稽古で僕は時間通りに終わらせて40分を期待する生徒を裏切らない。
なーんて偉そうに言っている僕だが、内心はドッと胸をなでおろしている。いつだって授業前は緊張するし、授業中ハッとする質問が出て動揺することだって何度もある。
わからない時は「うーん、次回までに調べて答えるよ」と誠実に対応しているだけだ。
無事が授業が終われば、それなりに快感だが、助かったと胸をなでおろすような気持ちのほうが強い。オーラだけで演じることができる。役者になったなあ、そう感じる。
僕は入社して地獄のような特訓の結果、ずいぶんと成長させてもらった。会社にも生徒にも感謝である。すっかり先生になってしまって、見た目もオッサンになってしまった。
(拝啓、有希乃。僕はすっかり君を忘れようとしている。本当にごめんなさい。命を消すという悲しいことをしてしまったから覚えていると前に進めないんだ。ただ塾の先生になれたことは報告するよ。それに妻も子供も家もあって、ずいぶんと立派になっちゃった)
*
「パパー、ママがご飯って」二女の聖(せい)花(か)が、地上階のガレージで車をいじる僕を呼びに来た。今年で4歳になる。むちむちした足に大きなサンダル。今が一番可愛い時だ。
「はーい、今行く―」僕は洗車している真っ赤なビートルのワックス掛けに夢中だった。
「お昼はなあに?」「おそうめん」「そっか」
手を洗ってリビングにいくと、長女の陽(ひ)香(か)理(り)がダイニングテーブルで公文(くもん)に夢中だ。
陽香理は8歳。もう口数も少なくなって勉強ばかりすることが正義のように思っている、扱いにくい年頃になってきた。
「陽香理、もうやめて、食器運ぶの手伝いなさい」妻の舞がカウンターキッチンの向こうから声をかける。無視。
「陽香理、いつも頑張ってるなあ、パパ尊敬するよ」僕は本心から言った。
「ふん、フツー」
「そっか」
「陽香理!」舞の怒った声。
201×年夏。僕はもう結婚して10年を超えていた。
入社3年目の僕は、他の校舎に新人で入った五十川(いそかわ)舞(まい)に出会った。彼女はその年の夏には「会社辞めたい」病にかかっていた。社会人になって彼氏には冷たくされ、塾では授業で炎上し、どん底のような顔をしていた。新人の中では女子アナのようにきれいな顔立ちで、入社式にも話題になったのにこれでは台無しだ。研修のアドバイスをするうちに、夜に食事をしたり、電話で悩みの相談を受けるうちに、互いに惹かれあっていった。
「先輩はどうしてそんなに優しいの?」
「庄司先生はなんでも知ってるような気がして一緒にいると安心するの」舞はそういって時には涙を流した。元気に見えて実際は、か弱い女の子タイプで、到底塾ではやっていけないように思われた。
「ちょっとー! みんな聞いて―!」「注目ったら注目!」なんて叫んでいるから生徒だって聞きやしない。常に教室はおしゃべりのるつぼと化し、結局は生徒の不評を買う。本気で怒らないと「怒らない先生」としてサボりたい生徒にはナメられ真面目な生徒には、嫌われる。フェミニンが強いタイプはみなことごとくこの壁にぶち当たっていく。
「舞は、頑張ってるんだよ。でも時には剛腕な力が必要だからさ、思い切って殻をぶち破らないと変わらないんじゃないかな?」僕は引導を渡したつもりだった。
「だってこの会社にいる限り、うるさくなるのは教師の力量不足だって思うから生徒になんて怒れないよ」舞はそういってまた泣く。人事はどういう目をして採用するのだろう。
こうなるのは目に見えてわかるはずだ。
「こんなに頑張ってるんだって思えば生徒にも怒っていいはずさ」
「できない。あたしにはできない。全部私が悪いの」舞は涙をぬぐった。
「そんな暗い気持じゃ生徒だって嫌んなっちゃうぜ、楽しいって思わないと」
「庄司先生、今晩はあたしとずっと居てください、寂しくて死んじゃいそう」
そんなこんなで、彼女は半年で会社を辞めて、会社の寮を引き払って僕の部屋で暮らすようになった。舞は彼氏に別れを告げて、僕らは結婚を意識して付き合い始めた。舞の責任感の強さや、家庭的な雰囲気に僕は惚れこんでしまった。
プロポーズは波照間島の夕日のビーチで僕が「結婚してください」と言った。舞は泣きながら「よろしくお願いします」と言って指輪を受け取ってくれた。
200×年にカトリックの教会に何回も足を運び、神父さんの講話を聞いてやっと結婚式ができた。身内だけのささやかな式だがとてもほのぼのとして心温まる式だった。
結婚を機に家賃の安い公団の団地に引っ越した。目の前がスポーツ広場になった緑の多い場所で、春には桜が、秋には銀杏が、季節の移ろいを感じさせてくれた。
そして翌年には陽香理が産まれた。赤ちゃんがこんなに可愛いとは思ってもみなかった。
自分の分身。ちっちゃすぎる手、足。か細い泣き声。この可愛さにはもう無条件に降参だ。入社した時は自分が結婚できることも、パパになるなんてことも考えてもいなかった。なんたって僕はバンドマンだったのだから。舞はそのことはどうでもいいと思っている。堅実で健康で優しいパパが一番なのだ。
*
数年後、僕はいつのまにかY校の校舎長になっていた。ずいぶんと出世してしまった。とはいえ業界的には珍しいこと、喜ばしいことでもなんでもない。管理職に労働基準法は当てはまらないからである。校舎長は基本的に全てをこなすことができなければならない。通常授業はもちろん今まで通り。他に事務さんの仕事、役員会議、研修担当、保護者説明会、入会案内、時間割シフトの提出、授業DVDの監査レポート、校舎長レポート、ブロック会議レポート、アンケートレポート・・・数え上げればきりがない。
僕は1日1日をこうした仕事に追われクリアしていくことで精いっぱいだった。幸いにも塾の評判が地域でよく広まり、生徒数も今や250人を超えるようになった。しかしどんなに忙しくても授業には手を抜かなかった。それがよかったのだと思う。入試実績も地域の中では他塾を圧倒するようになった。
塾にとって最大の名誉は、『全員志望校合格』である。
もちろん全員合格は難しいことではない。生徒に受かるところを受けさせればいいのだ。しかしステアーズはそういう誘導は一切しない。むしろ学校で無理と言われた高校に得点力だけでねじ込むノウハウとデータがあった。校舎長は現状の事実と可能性をしっかりとご家庭に伝える。そのうえで志望校は生徒本人とご家庭の判断に任せる。あとは得点が取れるようこちらで鍛え上げるしかない。もちろんやるだけやって不合格だったら謝罪するしかないが、そこでトラブルになることはあまりなかった。
僕は、これまでに3回も、スタッフの尽力と生徒の頑張りで念願の『全員志望校合格』というミラクルを達成してしまった。これはY校舎のある街でもちょっとしたニュースになった。
この噂もあってか、生徒は右肩上がりになりついには300人を超えた。当然人数が多いと成績が優秀な生徒も集まりだす。いい連鎖が始まったのだ。優秀授業賞も頂き、ボーナスの査定もA。年に2回も200万近くのボーナスが手に入った。
いろんなトラブル(同僚の突然死(過労死?)、新人の失踪、生徒が起こす事件・・・)などもあったが、それもまた逆境になって精神的にも体力的にも僕を強くした。特に定期テスト前は受け持ちの4中学3学年5科目の中学別対策授業。3年生には9科目教えたりする。パズルのような時間割。週末返上で一日中準備と授業だ。休憩も労働基準法もあったものではない。ストレスフルな仕事だが「先生、点が上がった!」「予想、バッチシ命中」なんて言われて生徒が喜んでいるとひどい疲れもすぐに吹き飛んでしまう。
舞は出産してからすっかり母親になってしまった。愛情は全て陽香理に注いだ。育児で疲れているからと思って僕は夜に帰るといつも起こさないように気を遣い、寝室も別にした。僕もSNSで娘を溺愛するような写真をアップするパパになりたかったけれど、そんな時間もなく、僕はどこか寂しくて、愛情に飢えていた。
3年もすると同じ家に住んでいても舞と会話をするような時間は取れなかった。娘のことでいつも手がいっぱいなのだ。睡眠時間も違うし、僕にはほとんど休みがない。お互いこれといった発見もなければ、同じ趣味もなかった。愛情というよりは情しか残っていないような境地に達している。夫婦生活では、体も交えることは無くなっていった。
舞は、Jポップの男性シンガーCに夢中になり始めた。家事が終わっては、ネットでファンクラブだの、ブログだのに夢中になって撮りためたCのビデオを見ている。
「あたし、Cに出会って生き方が変わったみたい、苦しい時も頑張れる気になれる」舞は悟ったように、そう言う。
「ふーん、何もないより好きなことに没頭できるってことは幸せだよ」僕はまあ、芸能人だからいいか、と気にも留めなかった。別にシンガーCに嫉妬したってしょうもない。
しかし・・・。
或る日、僕からSEXを誘引した。それはなにか凄く勇気のいることだった。
「ゴメン、そういう気になれないの」にべもなく断られた。夫婦間に決定的な亀裂が走った。僕は珍しく本気で怒った。
「じゃあ、もういいよ。一緒にいる意味なんてないじゃないか」僕は言った。
「じゃあ、何? 私はあなたとSEXするために一緒になったの? 性の捌け口?」
「そりゃあ・・・違うけど。愛したいっていう衝動だってあるじゃん」
「男の人のそういう感覚がわからないの。愛するってSEXという形だけじゃないはずでしょ」
「もういい」僕は不貞腐れた。恋人に性を拒まれるショックほど男女ともに大きな屈辱を受けることは無い。そう。もう恋人ではないのだ。ママとパパなのだ。
200×年、二女を授かった。聖(せい)花(か)。子作りにSEXしている最中がきつかった。舞はどんな想像で性器を迎えているのだろう? 僕は舞もそう考えているのかなあ、と想像してそら恐ろしくなった。
女系家族に恐れを抱いたが、天からの授かりもの。きっとにぎやかになってそれはそれでいいのかもしれない。みんな五体満足でよかった。感謝感謝と僕は神に手を合わせた。
「ねえ、そろそろ住むところ考えない? 団地の5階は階段がきつくて。4人にはやっぱり狭いとも思うし」舞は言った。僕も賛同した。
同じ家賃なら掛け捨てより持ち家だろう、という当時の潮流から、マンションを探した。中古も新築も意外と高い。管理費も馬鹿にならないのだ。
それに比べると、新築戸建ては値段は少し高いがマンションと家賃は大して変わらないし、庭やガレージが魅力的だった。
不動産屋は見せ方が上手い。まずは安普請と言っては失礼だが安っぽい建売りの区画の1つを見せた。当然がっかりする。次に見せたのは中古だが丘の上の一等地。ただ狭かった。そうして三軒目にして、1棟売りのデザイナーズっぽい洒落た青い外装の家に辿り着いた。70坪にして庭は広く、1階は坂の傾斜でコンクリートの地下ガレージ。2,3階は家で、4階は屋根裏収納室だ。4LDKで4200万、即決4000万でいいという。
僕の年収は、1000万以上はあったし、貯金もできていた。舞も働きだしたら何とかなるだろう。
値段も無理をすれば届くものだった。陽香理と妻が庭で鬼ごっこを始めた。幸せそうに見えた。ここかな、と思った。不動産屋のイチ押しでもあった。
「あのね、パパ、もし可能ならお父さんも呼び寄せて一緒に暮らせないかな?」
と舞は言った。義父は埼玉で自動車部品の会社にいたが来年の3月で定年退職だった。義母と離婚しても再婚せずにずっと1人だった。
「お父さんも資金はあるの。それと合わせれば少し余裕が出るじゃない?」と舞は提案をした。額を聞いてそれなら20年ローンで済みそうだと思った。
「お父さん、仕事はどうするの?これから」と僕は訊いた。
「なんか、大型バスの免許取ってるみたい、そっち系の仕事を探してる」と舞は言った。舞の両親も離婚をしたが義母は再婚している。義父だけが1人。寂しいに決まってい
る。新居に誘わない理由はなかった。
「決めようか、この家で」と僕の決意表明。
「決めちゃいますか」舞も腹を決めたようだった。
*
200×年、こうして義父と僕たち5人の生活が新居で始まった。引っ越して1カ月は毎週、家具選びに奔走した。カーテンはオーダーにしたり、ソファー、ベッド、テーブルそして照明器具を買ったりと、本当に目が回るくらい忙しく買い物をした。
庭は大手庭園業者を呼んで3畳ほどの家庭菜園スペースを残してあとはすべて芝生を張ってもらった。我が家のランドマークツリーとしてアオダモとオリーブの木を植えた。こうして1カ月の間に信じられないくらいの出費をした。
菜園は土を深く耕してからいろんな種類の肥料を入れて、ナス、トマト、キュウリ、ピーマンなどを植えた。庭のラティスにはツルばらを這わせた。サフィニアのポットもおしゃれな陶器にして立て掛けた。
夏には芝生が生い茂り、夏野菜もたわわに実った。僕は夜に帰宅しては、ウッドデッキに出た。屋内禁煙なのだ。ディレクターチェアに腰掛けて、ビールを飲んだ。暗闇の中の月明かり。生い茂る草木の青臭いにおい、虫たちの合唱、遠くではカエルの鳴き声、空では夜のホトトギスが鳴いている。「幸せだな」そう感じた。煙草の味が美味かった。
このころかもしれない。僕は夢の頂きを登りつめた気がしていた。きりのないリクガメとの競争に終止符を打たねば、くたばっちまう。せいぜい頂上の景色を堪能しておにぎりぐらい飯を食べさせてくれ、と思った。甘ったれているだろうか?
このままでは二人で登ってきた山の頂きをかみしめることなく過ぎていく。頂上から先、いったい夫婦二人はどこへ向かって歩いていけばいいんだろう?
僕は何かを求めていた。舞にほんの一言、「お疲れ様」とか「凄い稼いでるね、パパ御苦労さま」なんて労(ねぎら)いの言葉を言われてみたかった。昔は塩と味噌を舐めていたんだから。
「労う」って言葉、素敵だな、と僕は「労い」に恋い焦がれた。
もちろん「感謝」はしている。バンドだって塾講師だっていつだって周りに支えられてここまで来られたんだ。お題目のように感謝。
(感謝、感謝の成熟した日本人よ、欲望をかき消して、ペットにでも癒されて民族滅亡へ向かってくれ)僕は最近なぜか心がすさんでいくのがわかった。
*
「パパ、美佐枝ちゃんのパパのうちに行ってくる」舞は言った。陽香理のママ友だ。
「平日だし子供もいないのに? 」
「そうよ、ママ友パパ友でランチ。美佐枝パパって本当に料理が上手で、話も楽しいの」
「ふーん、すいませんね。料理しないで。美佐枝パパと結婚すればよかったじゃん」
「ばっかじゃないの。子供みたい。僻(ひが)んでいるならあなたも来なさいよ」
「仕事だよ、仕事。美佐枝パパみたいに自営の事務所なんてないんだから」
「ホント、仕事だけ。いやねー」舞はそういいて化粧に余念がない。人んちのパパと比べられるほど最悪なことはない。マッチョで色黒な美佐枝パパには1,2度会ったことがある。青年会やら商工会にも幅を利かせ、運動しながら、感謝、幸せとツイートしてSNSに写真をアップしている。(死んじまえばいいのに、とばかりに僕は「いいね」を押す)
僕の唯一の趣味は車だった。昔乗っていたワーゲン・カルマンギアはもうとっくに壊れてしばらくは国産に乗っていた。しかし昔の車が好きでビートルは陽香理が生まれた頃に一目惚れして買った。1965年式の真っ赤なUSビンテージ。キャルルックという改造をしていない上品なオリジナル仕様。鉄板むき出しの運転パネルとすこしカビ臭いような独特の車内の匂いが大好きであった。休みの日は洗車しては、ワックスをかけ、メーターの横には花を活けた。
ビートルは僕にとって癒しの象徴のようなものであった。現代人に流行りのメンタルを支えるニャンコやワンコと一緒だ。
しかしビートルは家族にとって憎悪の対象になった。オイルが漏れる。ギアミッションがへたる。ワイパーがすっ飛ぶ。床に穴があいている。
エアコンはない。窓は手動。雨洩りは当たり前。
子供たちはママの愚痴を受け売りにして乗りたがらない。義父はもともとが自動車部品の仕事だったから、「車は壊れない国産に限る、それみたことか」と笑い飛ばした。妻は修理のたびに金が消えていくことにうんざりしていた。
なにしろ我が家は3台も車があるのだ。ワーゲンは僕の通勤用、ホンダのオデッセイが妻の買い物用、軽自動車が義父の使う通勤用だった。維持費だって馬鹿にならない。
それでも僕はワーゲンを愛した。エアコンが無くてもパワーウィンドウがなくても、車という機械を自分で動かしている、という実感が好きだった。エンジンの音を五感で感じ取って乗る必要があるのは贅沢なことでもあった。ワーゲンで聴くビートルズやドナルドフェイゲン、デヴィッドサンボーンは最高だった。しかし、修理に出す必要があると妻はほとんど口をきいてくれなかった。だから休みの日にはガレージで車を相手に遊ぶのだ。こづかいは4万円に減額された。僕自身、「小遣い」という言葉に違和感を覚える。
「僕の給料なんですけど、なんで小遣いなの?」いつしか僕は妻に訊いた。
「あなたのモノと思っていること自体がおかしくない? 家族のお金でしょ」舞は今さらそんなことを言わせるのという表情で、うんざりした声で答える。
「でもさ、結構な給料だと思うぜ、なんかさ、凄いとか思わない?」
「だからワーゲンがあるでしょ。それにあなたが家族を食わしていくのは当たり前なの、そんなあなたが稼げるのは家族の協力があってこそよ。」
「当たり前に感謝や労いはないわけ?」
「子供みたいなこと言わないで、なんで自分から幸せって感謝できないの」舞は言った。
車の出費があるから、これ以上はぐうの音も出なかった。
ついに決断の日が来た。エンジンがイカレテしまった。忌野清志郎もびっくりだ。
所謂(いわゆる)「オーバーホール」というヤツが必要でエンジンの乗せ換えが必要になった。50万。
「頼むよーこれがないと生き甲斐がなくなっちゃうー」僕は懇願した。
「車と子供たち、どっち取るの?」なんて舞に訊かれたが、そんなの別次元の話だ。
「麻婆豆腐の素とインフルエンザの注射代、どっち取るの」とおなじようなトンチンカンな質問に聞こえた。
「はい。子どもたちです」そう答えるしかないだろう。
「もうお金のかかることはやめて。またいつか余裕ができたら老後にでも買えばいいじゃん」舞は言った。
(老後なんかに金なんて残ってねーよ!)と思ったが、
「わかった・・・」としか返事できなかった。専門店に売ったら10万しか値打ちがなかった。しかし僕の心に開いた穴は100万より大きかった。ペットロスのような心境だった。こうして僕の趣味は奪われた。
*
201×年夏のことだった。
僕は授業を終えて、いくつかの質問を受けると、校舎の外へ生徒の見送りに出る。塾では授業終了が10時近くなるので、付近の車道は送迎の車でにわかに混み合い始める。歩いて帰る生徒を誘導したり、入口付近でおしゃべりをしている生徒が早く家路につくよう僕は声をかけるのだ。
不良少年たちがやってくるようになったのは、中3生の部活が引退の時期を迎える7月下旬のことだった。塾生の女の子・Kに興味を持ったヤンキー達が、自転車やらバイクで4,5人でやってきては塾の前でたむろするようになった。スナック菓子やらジュースを地べたに置き、煙草は吸う、大声で叫ぶの、やりたい放題だった。
「塾生も怖がるし、近所にも迷惑だから、ここに集まらないでくれるかな」僕は言った。
「はあ?おじさん、だあれ? 関係ないっしょ」茶髪の少年が言う。
「庄司だ。この塾の責任者だ。ここにいる限り関係ありだ、帰ってくれ」
「へー庄司っつーんだあ、ウケる」少年たちがケラケラ笑う。
「いいから帰れって言ってるんだ」僕は繰り返す。
「うるさいなあ、あんまり怒るとボクちゃん、先生を轢いちゃうぞ」自転車の少年がこっちに自転車を向けてくる。
「帰れ、と言っているんだ」
手を出したら負けだ。たとえ相手に非があっても、手を出せば傷害罪となる。向こうはそれを狙って挑発してくるのだ。
「おじさん、Kって生徒とSEXしたい?」茶髪少年の自転車の籠が僕の背中に当たった。
負けた。我慢できなかった。心の中の糸がプチンと切れた。
「いい加減にしろ!」僕は当たった籠とハンドルを両手でつかみ、自転車をぶん投げた。
上空3メートルまでに自転車は飛んでいった。それからスナック菓子やら缶ジュースも蹴散らかし、ついでにガシャンと音を立てて落ちた自転車の籠やスポークをボコボコに踏みつぶした。喧嘩は昔やった。キレた以上、殺す覚悟でないと勝てない。
「こっちも命張って商売してんだ!かかってこい、ぶっ殺してやる!」僕は声を荒げて次々と自転車とバイクを蹴り倒した。本気を出さなきゃ相手にもナメられる。
「あー傷害だ、傷害だー」連中は自転車を引きづって去っていた。
*
そのあと掃除をし、スタッフとミーティングを開いている最中だった。
自転車を蹴っ飛ばして1時間もしないうちに、警察数人が来た。
「あのー、責任者の庄司さんはどちらで?」巡査らしき青年が言った。
「はい,わたくしです」
「すでに、ご承知かと思いますが、中高生のやんちゃな連中から、こちらで自転車を壊された、と交番にやってきまして。先生もご苦労なされているようですが、一応、署までご同行願いたいのですが」青年巡査は申し訳なさそうに言った。
取調室は、本当にドラマに出てくるように古臭く、机といすが置かれていた。僕は刑事さんの質問に淡々と答えた。
「まあ、先生も正義感あってのこと、ご苦労も多いかと思います。しかしこういうご時世、なかなか子供たちも、したたかでして、向こうからはなかなか手を出してきません。捕まるのを知ってますから」と事情聴取をした刑事は僕に同情してくれた。
「ところで先生、ここから帰られる時は身内の方に迎えに来てもらうのが事情聴取の原則となっておりまして・・・」刑事はすまなそうな顔で言った。
「ご家族がいらしたようなのでご連絡を差し上げて・・・」
「ちょっと待った、もう夜中の1時ですよ、何で妻なんかに迎えに来てもらわなくてはならないんですか」僕はびっくりして言った。
「奥様はもう下でお待ちになっております」刑事は言った。
*
このあとの妻・舞との対面が僕の人生の運命を決定づけたと思う。
1階の待合ベンチにパーカーのフードをかぶってイヤホンを聞きながら寝た振りでもしているような舞がいた。
「ごめんね、こんな時間。警察が勝手に・・・」僕は弁解しようとした。
「勘弁してよ、何したか、知らないけどあたしも明日パートの仕事なのはわかってるでしょう?」
面倒くさそうに言った舞の一言。イヤホンも外さず視線も合わせようとしない。
僕の中で徹底的な何かが壊れた。
「あのさ、夫は正義感を持って体張って仕事してるわけ。確かに警察には世話になったけど、夫の体は大丈夫か、とか、どうしてこんなことになったの?とか聞く気もないわけ?」
僕は、あきれ返って、苦笑するしかなかった。
「あのさー何したか知らないけど、アナタもいい大人でしょ、中高生相手に何やってるのよ情けない。勘弁してほしいわ」舞はけだるく眠たそうな声でオデッセイのハンドルを切りながら言った。
「悪い、ここで降ろしてくれ。歩いて帰る」僕は言った。
「あっそう、どうぞご勝手に」舞が答えた。
僕は、あてどもなく歩き続けコンビニに入って酒を買った。
歩きながら買った花火に火をつける。蒸し暑い真夏の空気に花火の煙が混じって、鼻をツーンと刺激した。マグネシウムの閃光が沿道のヒメジオンの白い花を照らす。ちょっと気分がすっきりした。
歩きながらアル・グリーンの「Love & Happiness」を口ずさみ、僕は結婚を後悔した。約束と責任。あるのはそれだけだ。愛と幸せ。摘んだ瞬間、しな垂れていくヒメジオンの花のようだ。自分の手の中に収まったとたんに、がっかりしては次のヒメジオンこそ萎(しお)れないぞと諦めずにまた探し求める。
「Love….Something that can make you do wrong , make you do right・・・」歌いながら僕はどうやら悪い方向に向かっている気がした。でもそうしなきゃいけないような気がした。
次のコンビニでは、ロケット花火や打ち上げ花火を買った。
コルクじゃない赤ワインを1瓶、キリリと蓋を開け、ラッパ飲みで飲み干した。家に向かう途中、国道の隧(ずい)道(どう)トンネルのなかで、飲み干したワインの瓶をスプレーの赤青の落書きでいっぱいなコンクリートの壁にぶん投げた。(パガシャリリン!)とグリーンのガラスが飛び散った。そして次々と花火に火をつけた。オレンジの火柱、打ち上げ花火がバーンと爆ぜる。
「準! 瑠一! 俺たちゃ昔は、格好よかったよな? どうやら俺はまだシケちゃいないようだ!」僕はそう叫んで地面に崩れ、トンネルの壁にもたれてセブンスターに火を付けた。
(甘いのか? 未熟なのか? それでも父親かって? 滅私奉公ってか? 何か大事な物を忘れたまま生きていないかい? そうだろう?)
『自分の思い描いている夢に辿り着いたって、自分の姿なんて見えないんだぜ』ふと解散後に語った準の言葉が脳裏をよぎる。
(準よ、教えてくれ。いつまで自分の姿なんて見えない虚しいゲームは続くんだ?)
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