第7章 夢の先を彷徨って

第7章 夢の先を彷徨って




 「チャルメラ1丁5ケース、利尻昆布5パック、寒天クイック1ケース!」手に取った伝票を読んで、2階に向かってそう叫ぶ。2階の作業員が人海戦術でそれらを集め滑り台へ落とし込む。(ザ、ザザー)滑り台から商品が滑り降りてくる。僕はそれらをステンレスの台車に乗せ、スーパー湘洋系列へ向かう高田さんのトラックの後ろへ行って「お願いします」と言う。「はいよ」無愛想な高田さんは、伝票を見て検品しながらトラックの奥へ効率よく積んでいく。こうして倉庫の中は20人くらいの作業員が動き回って大忙しだ。


 199×年春。僕は地元の乾物食品卸の会社で朝から午後までバイトをしている。

 午前中は全国からトラックで運ばれてくる商品を検品し、倉庫の所定の位置に運ぶ。「先だし」といって古いものから出荷するから、はこばれてきた商品が下になるよう、商品が積まれた山を一旦崩して、積み直しだ。積み方にも工夫が要って段ボールの山が崩れないようブロックのように縦、横の長さを利用して荷物を組ませていく。


 「ショウタロウ! あそこいらのマルヨンの醤油3パレットをここに動かしてくれや」

ずんぐり小さな白髪交じりのいがぐり頭、石川ジイの大きな声が響き渡る。

何度「僕は庄司涼(・・・)太朗(・・・)だよ」「リョウタロウ!」と訂正しても最初にショウタロウと覚えてしまった石川ジイには呼び名などもうどうでもよくなってあきらめた。

 「うーい」僕は、よいしょと腰を上げフォークリフトへ向かう。プラスチックでできた2m四方の台に醤油の入った段ボールがうず高く積まれている。これをフォークで掬って移動させるのだ。

 「ショウタロウ! 聞こえているんか! 返事が聞こえんぞ、注射だ、注射」石川ジイが檄を飛ばして叫んでいる。もうとっくに60歳を越えているのに体は元気が有り余っていて、定年を過ぎた今でもこうして倉庫の中を元気に駆け回っている。自分の耳が遠いからつい喋る声も大きくなることに本人は気づいていない。どこか憎めない爺さんなのだ。

「わーかったって! パレット3つだろ!」僕はフォークリフトに乗ってエンジンをかける。生意気にもマニュアル式ギアだからアクセル、クラッチを踏んで加減したり、商品の重さや大きさでフォークの角度や動作を変えなければいけないから結構コツがいるものなのだ。

(ったく、自分でやればいいのによ)僕はそう思いながらフォークを運転する。

「ショウタロウ!」「わーかった!」永遠とこんなやり取りが続くのだ。ちょっとでも石川ジイの注意を受けると「まったくもう、お前には注射だ、注射」といってボールペンで後ろからお尻を刺される。みんな「痛てぇ! コン畜生! 糞ジジイ」と言いながら笑ってこの注射を受けるのだ。石川ジイにはどこか憎めない愛嬌があってみんな嫌いではないのだ。


 僕は音楽業界から解放されて、見事フリーターになった。まあ音楽をやっていてもフリーターと同じではあったけれど。もう夢舞台でのお遊びは卒業だ。まっとうに働こう、そう思った。朝から昼までは倉庫で働き、夜には相変わらず塾で個人指導のアルバイトをして二足のわらじの生活が始まった。

 

 有希乃は最後のNサンプラザそしてベクトルでのファイナルステージに来てくれて、楽屋で泣いて泣いて、泣きまくった。

 「涼ちゃん、本当にお疲れさま。みんなに愛されて本当に幸せだったね」有希乃は言った。

 「ありがとう。もうクォータームーンの俺じゃないけど、こんな俺でもいいのかな?」

 「馬鹿! リョウちゃんの全てが好きだって言ったじゃない。馬鹿馬鹿!」そういって有希乃は僕に抱きついた。

 「有希乃が愛してくれるのなら、僕はいつだって有希乃を愛していくよ」僕は有希乃を強く抱きしめた。 

春に、姉の彩花が再びニューヨークから聖蹟桜ヶ丘の部屋に帰ってきた。僕は有希乃を連れて地元に自分名義で部屋を借りた。有希乃の親には内緒である。貧しいが愛がいっぱいの生活が始まった。


準はなんと春から外資系電話会社の日本支社に就職した。英語は普通に話せるからそれを生かしてのことだろう。映画監督になると言っていたのは何だったのだろう?

瑠一は、撮影機器の会社に入った。入社してすぐ関連会社に配属になって、現代では当たり前になった自動カード改札のようなカード読み取り機器の研究・製造メーカーにいる。

ハルだけが予想に反して音楽をやっていた。ヘルプで呼ばれてはプロと称してお金をもらっている。女の子バンドが好きで「これからは女子高生の時代だ」といってサポートしている。

ジェイは相変わらず行方不明だ。きっと執行猶予でおとなしくしているのだろう。業界に居るハルに聞いても、今のようにネットの時代ではないので、目撃情報がなかった。



解散して初めて僕らはジェイを除いて目黒にある居酒屋に集まった。

「あのさあ、なんでまた○×フォンなんて電話会社に入ったわけ? 映画監督はどうなったんだよ。海外に行くって話だってさー」僕はまず準にこの質問を投げかけないわけにはいかなかった。そして僕の心は準が外資系企業に入ったという嫉妬心と夢を諦めてしまったという失望が入り混じっていた。

みんな笑っている。

「映画監督? 嘘だよ嘘。もー勘弁してよ、また今度は映画で俺を踊らせるつもりか? 俺には才能も金もないよ。観るだけで充分」準はハイボールを美味そうに飲む。

「なんだよ、俺たち騙されていたのか?」僕は食い下がる。

「おいおい、むしろ感謝してくれよ。あのまま続けていたら俺たち今ごろ頭イカれちまってるぜ」マドラーでハイボールのレモンを沈めてこねくり回して準は言った。

瑠一はサングラスをして肩を揺らしクックックと笑っている。最近本当に無口になった。

「確かに。2年って言ったからな。じゃあ準の夢は何だったんだ?」ハルも喰い下がる。

「夢? そんなもんもうないさ。自分の思い描いている夢に辿り着いたって、自分の姿なんて見えないんだぜ」準は語った。

「まるで影踏みみたいだな」ハルが笑った。

「うん。俺さ、自分の存在なんて怪しいって前から考えていたんだ。鏡のない時代があったとしよう。自分の容姿や特徴、秀でているところ、醜いところ、みんな他者から言われないと自分という人間を認識できないだろ。自分のこともわからないまま何かを表現することは難しい・・・」準はそういってため息をついた。

「最低限1人という他者がいて、初めて自分を認識できる、そういうわけだな」僕は言った。

「うん。他人に喜んでもらったり、褒められたり、役に立ったりして初めて自分のスペックが見えてくる。これもわからずにトンチンカンなことをして『金くれ』なんて言えないもんな。確かに俺は音楽を作るっていう表現者をやった。自分の思い描いた理想の曲をね。でも『売れなくていい、2年間遊んでやろう』って思っていた。これは前にも言ったはずだ。だから『悪魔になれ』って言ったんだ。でも作った表現を発信したからには責任がある。恩義もある。みんなもいる。受信者であるお客からは金をもらう。だから売れる曲を考えなくちゃならなくなった。やっと自分は他者によって作り上げられていくことでしか自分は見えないんだって確信した。本当の悪魔には成り切れなかったかな」準はハイボールを飲み干した。

「そこまで自分を卑下するなよ。曲は作れるし、デビューした理由があったわけだし、ファンだってたくさんいて、喜んでもらってたわけだしさあ」ハルがフォローを入れた。

「そうだよ。それにロックの表現に新しいチャレンジができたじゃねえか」僕も賛同した。

「うん。満足だよ。感謝している。でもこれからはだれか他の表現者や野心家の要請に応えて『君がいて助かったよ』なんて言われた方がどんなにか罪を感じないことか、いや幸せなことかって思っている」準はそういって煙草に火をつけた。

「それじゃ、まるで自分が会社の歯車になって、満足したいってことか?」僕は訊いた。

「おい、歯車とか俗な想像するなって。おもしれーことやっているやつのサポートするぐらいの意識を高めろって。願わくはやりがいあることをして、役に立ったといわれるようにしたいねえ」準は言った。

「俺は好きなことを満足できるまでやるつもりだぜ」ハルは言った。

「べつに自分の信念を消し去ることは0か100でもないし」準は言った。

「なるほど百歩を譲るも一歩を譲らず、ってか」僕はなんかの格言を思い出して言った。

 それからは昔の話、女の話、音楽の話ときりがなかったが、

 「中学ンときなんて、涼太朗はさ、格好良くて、怖かったもん、近寄りがたくて」準は言った。

 「そりゃ、こっちのセリフだぞ、準。鼻もちならねえ奴だって殴ってやろうかと思ってた」みんなが笑う。

 「いつのまにか準に頼って、信じて、解散しちゃった」僕は続けた。

 「なんだよ、最初は3人で好き勝手にMTRで曲を作ってただけじゃん」準は言った。

 「お前の夢ってやつに惹かれて引っ張られて、今切り離されちまった」僕はお手上げのポーズをした。

 「涼太朗、お前いつからそんな他人に翻弄されたようなこと言うようになったんだ」瑠一がやっと口を開いたかと思いきや、苦々しい笑いできつい一言。

 「そうだよ、涼ちゃん、人のせいにしてる」ハルが追い打ちをかける。

 「準は機関車で、俺は客車だった。引っ張られないと動けない。俺なんてそんなもんさ」僕は言った。

 「そうやって自分を憐れんだふりしたって駄目だぜ。涼太朗は本当に格好良くてオーラがあって、俺にとっては機関車だった、これマジだぜ、ぎりぎりH高校だって合格したじゃん。太田先生は奇跡だっていってたんだぜ」準の言葉さえ慰めを感じてしまう。

 (受験、大学、バンドデビュー、いつだって俺はなんとなくその時に流されて決めてきてしまった。社会学なんて何も考えず決めて何も学ばなかった。準は英語を話してこうして就職している。瑠一はいつだって業界の先輩から何かを学び、盗み取ってエンジニアになろうとしている。僕はそれを見て嫉妬さえしていた。俺はこの2年間、いや高校の時からいったい何をやってきたのだろう?)

僕はそう思うと情けなくなって、つい愚痴ばかり吐くようになっていた。

(H高校か。玉砕覚悟の受験。あの頃は尖っていたな・・・)

 その時だった。僕の脳みその中で何かが降臨したように感じた。

 受験・・・。


 「ああなるほどね!先生、わかったわかった」

 「もっと面白い歴史のエピソード話して」

 「先生の授業ってわかりやすい!」

 普段何気なくスル―していた子供たちの知的好奇心。僕はついアルバイトの感覚で、音楽のことしか考えていなかった。

あてどもなく海外を彷徨って〈自分探し〉なんて言うヤツもいるが本当の自分はもしかして自分の足元にあるのではないか。

 もしベースと言う楽器をチョークに変えて、生徒に勉強の面白さを伝えるライブができたら・・・。

 賽は投げられた、と感じた。教師になる。初めて自分で決めた覚悟で自分は機関車になれる気がした。またとんでもないハードルを作ってしまった様な気がした。


 帰って教師になるにはどうしたらよいか、僕は調べてみた。教育学部の大学院に入って2年で教職課程と公務員になる教員試験に受かれば間に合いそうだ。問題は金と学力だ。金がない。今さら親になんか頼めない。働こう。まずはこれから1年働こう。焦っちゃだめだ。そして1年を勉強に充てる。大学院は僕の場合、英語と面接で決まることもわかった。計画はこうだ。

 今年は資金集め。24歳

 来年は浪人で勉強。25歳

 3年後大学院合格。26歳

 5年後教員になる。28歳

 

 「ってなわけなんだけど、付いてきてくれるかい?」僕は有希乃に語った。

 「いいじゃない。あたしは涼ちゃんに付いていく。愛してるから」有希乃は言った。

 「でもお金を貯めなきゃいけないんだ。有希乃に迷惑かけるよ」

 「あたし一人でも生活できるんだから大丈夫よ、任せて」

 「ゴメン。本当にゴメン。やっと自分で決めた夢ができたんだ」僕は有希乃を背中から抱きしめた。

 「涼ちゃんはいいねえ、いつだって夢を追いかけて頑張っているんだから、あたしは羨ましいよ」

 「ありがとう。絶対に有希乃を幸せにするから」

 「駄目!! プロポーズは駄目! もったいなくて聞けない」有希乃は僕の口をふさいだ。

 「1つだけ、お願い。大学院に入ったらあたしの実家に来て親に会ってほしいの」

 「うん。もちろん。今からだっていいさ。ああ、だめか。フリーターだしな」

 「フフフ、気持ちだけ嬉しい。あたしも涼ちゃんの両親に会いたいな」

 「ああ、そのうちにね。よし二人で頑張ろう!」

 有希乃に出会えたことに感謝だ。有希乃の笑顔を見るだけでなんだってできる気がした。


 春を過ぎて夏が過ぎてあっという間に秋になる。最近時間が早く過ぎるなあと僕は感じた。ぼくは計画通り、倉庫と塾講師で忙しかった。

 「ショウタロウ!」石川ジイの声は今日も倉庫の中に響き渡る。

 「ナーニ!」僕はぞんざいな声で叫び返す。

 「飯だ、飯。早くしないとシャッター閉めちまうぞ」

 「わかったよ、うるせいなあ、ジイが小麦粉2階に全部上げろって言うから時間かかってしょうがねえんだ」

 「ショウタロウ! 早くしねえか、注射だ、注射!」

 その日は珍しく他の社員さんもいなくて、ジイと2人で倉庫の並びにある居酒屋ランチに行った。

 「おめえも、そろそろYシャツ行きだぞ」カウンター席でジイがぼそっとつぶやいた。

 「なに? Yシャツがどうしたって?」僕は訊いた。

 「Yシャツ着る社員にならねえかって上が言ってる」ジイはちょっと寂しそうに言った。

 「あん? 俺は聞いてねえよ」

 「ああ。それとなくショウタロウの希望を探ってくれってな、営業から言われた」

「やややや。ジイ、俺はバイトだよ、バイト。ありがたいけど他にやりたいことあるもん」

「トラック配送と倉庫はどうだ? Yシャツ着なくても、頭下げなくてもいいぞ」

「いーやーだ。なりたい仕事までの修業だよ。春にはやめるよ」

「馬っ鹿だなあー彼女に振られちゃうぞ、何になりたいんだ? え?」ジイはしつこい。

「んー先生だよ、教師!」

「大学行ったのか?」「これからだよ」「頭ばっかり大きくなりやがって、ショウタロウ。体動かして、金稼いで、早く身を固めちまえよ」

「余計な御世話だ、ジイ。ジイこそ早く身を固めて老人ホーム行けよ」

「この野郎、モミモミ攻撃だ」ジイがはしゃいで僕の脇腹を揉む。「勉強なんてしなくてもよし! ここで働け」

「キャハハハハ、くすぐったいよ、ジイ!」

ジイは、こうやって何人もの若者に別れを告げられたのだろう。なんとなく可哀そう

だった。僕が去ればまた新しい若造を育てていかなくてはならない。それがかわいそうだった。


    *


 199×年春。

 僕は乾物食品卸の倉庫をやめて、勉強生活に入った。さすがに1日中勉強するわけにはいかないので夕方からの塾講師はやめなかった。朝は有希乃と一緒に起きて朝食を作ってあげて仕事に送り出す。掃除、洗濯をしながら午前中は単語や文法とTOEICとかの対策。午後は図書館へ行って全国の大学入試を片っ端から解いていく。夕食は有希乃のほうが時間はかかるが上手なので、有希乃が作る。僕が夜11時過ぎにバイトから帰っても有希乃はいつも起きていて、食事を温め直してくれる。

 「今日ね、患者さんのおじいちゃんに食事誘われたの、笑っちゃう」

 「いいねえ。有希乃はモテルから院長にだって誘われんじゃないの」

 「院長は、不倫しててね、結構大変みたい。昼休みはずっとビルの外で電話してんの、男ってわかりやすいよね。先輩が相模湖のラブホでばったり出くわして口止め料もらったって」

「あはは、ぜんぜん口止め料じゃないね。お金持ちはいいなあ」

「涼ちゃんはモテルけどお金がないから安心ね」

 「ひどーい。有希乃のヒモみたいじゃねえか」

 「涼ちゃんが、ちっちゃくなっていつもあたしのポケットの中に入ってくれたらいいのにな」

 「なんじゃそれ、マンガの見すぎじゃね」

 「いつも側にいてくれたらいいのにってこと!」有希乃はいつも純真に愛情を表す。


 そんな僕も、夜には不安に襲われる。気の遠くなるような目標への不安。約束もされていない未来への不安。立派に働いて自立している有希乃への劣等感。有希乃がどこかしっかりした公務員にでも出会ってしまってやっぱり早く結婚して子供を産みたいから涼君さよなら、なんて想像をする。先も見えない砂漠の真ん中を1人歩いているような気分になる。僕は眠れなくなって、毎日深夜は酒を飲んだ。酩酊していつの間にか寝てしまうまで飲むのだった。

 僕は不安を打ち消すために昼間はひたすら勉強に集中した。入試問題に飽きた時は、米国人作家の本を原書で読んだ。大学の図書館へ行っては学生の振りをして、本を借りることに成功した。ポール・オースターやソール・ベローなどの救いがたい現実を描写するアメリカ文学が好きになった。理系の本はからっきし駄目であったが、ドイツのカントやヘーゲルの英訳本に挑戦した。ドイツ人は凄いなあと思ったが、意味がわからないから、ニーチェにした。英語版を日本語にしたらますます訳が分からなくなった。もはや英語の勉強というよりは、言葉という記号を使って人間はどこまで宇宙を、そして人間の存在を認識できるのかという形而上学の勉強になってしまった。僕はそうしてインプットした理解をアウトプットできるよう1人でぶつぶつと喋る練習をした。英語での面接もあるから喋ることも重要なのだ。僕は簡単な弁証法であらゆる現代社会の問題を提起し、二律背反の矛盾から自分の考えで止揚できるよう訓練した。


    *


 週末の夜は、しばしの休憩。2人で車で買い物に出かけて、2人で夕食を作る。夜はささやかな夕食とともに2人でワインをたくさん飲んだ。

 「涼ちゃんは私がおばさんになったら愛してくれる?」有希乃はTVを見てそんなことを言いだした。

 「お互い様でしょ。オジサンになったらどうする?」

 「違うの。男の人はあまり変わらないとしたら」むちゃくちゃな質問だ。

 「今愛してるとしか言えないよ。それは現象の1つだから、今はリンゴが赤いって思っても赤という認識は現象でしかない。モノじゃないんだ。だからそのりんごが30年たっても赤いかはわからないだろ」

 「30年したりんごなんて腐って風化して粉々よ、ヤダ涼ちゃん」

 「だからそれはりんごに例えたからであって、金の延べ棒は30年しても金だろ。物質の話をしているわけじゃないんだ。赤い、金色なんていう現象には、物質の持つ経験則では判断できないんだ。現象には否定も肯定もできない。死ぬという現象は30年たっても死ぬと判断できますか?」

 「もう意味が分かんない。好きだよって答えればいいのに、涼ちゃんのバカ」

 「涼ちゃんはバカである。有希乃はバカではない。有希乃はバカではないのにバカが好き、これはどういうこと?」僕はすっかり人をいらだたせる修辞法ばかりにかぶれてしまった。「もういい。スパファミしよ」「借りてる映画見よ」結局はこうなるのだ。

 映画が終わると2人は性の営みを始める。

 有希乃とは平日にはSEXしないという約束をした。自分を律しないとどこまでも堕落してしまいSEXに飽きてしまうような気がしたからだ。その分週末は燃え上がる。

 有希乃はだんだんとSEXという快楽に貪欲になった。最近では1,2時間じゃ済まないのである。有希乃なりの充足感が得られないと寝かしてはくれないのだ。

有希乃の喘ぎはもともとギャーギャーと声が大きくって、隣の部屋のオバサンから壁を叩かれたり文句を言われたりしたが、もう気にしなくなってますます声を荒らげた。

Gスポットをひたすら指でトントン刺激していると何度も脚をビクビクさせてイクのだ。次は有希乃の言うとおりGスポットをゆっくり押して自慰行為を手伝うとそのうち愛液が潮吹きになって噴き出してイキっぱなしになる。そうやってやっと合体すると有希乃は自分の限界まで、いや死んでもいいと狂ってしまったように叫んで僕に奥まで激しく突くよう要求する。

 「涼ちゃんがあたしの凄い奥に入って暴れてる! もっと、もっといじめて!」

 「マジ、ヤバい、死んじゃう! リョウ!一緒に死んで、もうちょっとで天国だよ」

 そう。声も大きいが有希乃はよく喋るのだ。ついこちらも有希乃の狂喜した言葉に乗せられてもっと気持ちよくさせなくてはという性欲にかられてしまう。

 「ああ、駄目! 抜かないで! 一杯いっぱいあたしのお腹に出しちゃって」

 「ギャーイクっ! 涼ちゃん! 手を繋いで! 1,2,3で中で出してー!!」

 人間弱いものである。いや僕がだらしないんだ。ここまで燃え上がっては避妊具を付けるのが失礼な気がして僕は言われるがままに有希乃と究極な快楽へと昇天した。

 1度踏みこんだらもう次はお構いなしになる。どんどんと有希乃の性への追求はハードルが高くなり、有希乃が気絶する瞬間に精子を放出していった。

 イキ果てて動かなくなった有希乃の局部から流れ出る精子を拭(ぬぐ)ってはじめて、僕はオロオロと後悔して怯えるのだった。男の生理的本能ほど信用できないものはない。


    *


 やっぱりか、という僕と有希乃に運命の日がやってきた。199×年12月。

 有希乃がどうしても行きたいと言うので、週末に伊豆高原に一泊して白浜海岸を歩いた。

 様子がおかしいのはわかっていた。僕は自分から「妊娠したの?」という勇気がなかった。寒くて風が強い海岸は晴れているのに誰もいない。有希乃の手を引いてあてどもなく白い、白い砂の上を歩いた。ツーンと酸っぱいような潮の香り。不気味なほど大きな波音。

どんな言葉だって敵わないほど果てしないエメラルドグリーンの海原。

 「有希乃! 俺は君を幸せにするよ」僕は我慢が出来なくなって言った。

 「・・・赤ちゃんできたら涼ちゃんはどうするの?」

 「働くよ、先生なんて目指してる場合じゃない」

 「私は嫌よ。涼ちゃんの夢を壊したくない。後悔してほしくないの」

 「いや責任がある。有希乃と僕の赤ちゃん、抱いてみたい」

 「涼ちゃん!」有希乃は泣きながら背中に抱きついた。

 「ううん。俺は逃げない!」

 「ごめんなさい。あたし今の涼ちゃんが好きなの。夢を棄てたパパにはなってほしくないの、それに今の涼ちゃんは悪いけど、不安で仕方ないの」

 「じゃあ、どうしろって言うんだい? 子育てしながら学生にだってなれる。まさか堕ろすとでも言うのかい?」

 「・・・別れよう。あたしが悪かったの。あたしがいると涼ちゃんの邪魔になる」

 「冗談じゃない! 2人の愛の結晶じゃないか。俺が悪いんだ。夢なんかどうだっていい」

 「もう待てないの。あたしの夢なの。このままいると涼ちゃんの赤ちゃんばかり欲しくなって涼ちゃんの生き方を変えてしまう自分が嫌なの。涼ちゃんの将来もまだ不安なの。先生になれるかだって分かんないし。しっかり夢を掴んでからあたしも赤ちゃんが欲しいよ、お願い。今のまま頑張って!」有希乃は泣き崩れた。

「ずっといつまでも側にいるって言ったじゃないか」

 「愛は現象だって言ったのも、涼ちゃんだよ」

 僕はその場で腹をかっ捌きたくなった。もううんざりだ。自分の夢が人を不幸にする。

If you wanna dream on , you must be a demon, singing a demon’s song 

いつだってこれだ。僕はこのスペルからいつ解かれるのだろう。もうたくさんだ!


    *


2人で話し合った結果、有希乃と子を堕ろすことに決めた。有希乃が産婦人科に行って貰ってきた中絶の同意書に僕はサインをした。手術には、僕も病院に行くと言ったが、断られた。

有希乃は、手術の前の或る日出て行ったきり帰らなくなった。置手紙を残して。


    涼ちゃんへ



    今まで本当にありがとう。

あたしの憧れ、クォータームーンのリョウさんに

会えてこうして愛し合えたことは一生宝物にします。

どうかいつまでも夢を追い続けて、たくさんの人を幸せに

してあげてください。リョウさんはそういう人であって

ほしいのです。いつも応援してるから。


                ゆきの

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