第13話 出逢いと別れ(郡山城と金魚)

 真上からの太陽と一緒に参道を歩きながら駐車場に向かった。駐車場には、岡山、徳島、鳥取、名古屋、神戸、京都、福井、三重、大阪などのナンバープレートの車やバスが多く出入りしていた。

「いろいろな所から来られているんだね!」

「不思議ね! 知っている人は誰も居ないわ!」

「本当だわ! 誰も知らない人ばかりね!」

これだけの人が居られても誰も知らない人ばかりで、人とのめぐり会いがいかに大切なのかが良く分かった二人だ。

「わたしの、知っているのは和世だけねぇ」

「わたしは、由美だけよ。仲良くしてね」

「はいはい、死んでも一緒よ和世とは。日光、月光菩薩のように」

と由美は、つながりの深さを確信していた。

 和世は、身近な人、めぐり逢った人々、みんなに好かれる良い介護福祉士になろうと夢を大きく広げていた。

 奈良に来て三日目の二人は、人との出逢いの美しさと、人の心の優しさを知って、ひとつもふたつも大人になっていた。

「西大寺まで送りますから、さあどうぞ」と言った社長は別れを惜しんでいる感じだ。車は秋篠川を渡って西を向いて走った。

「奈良には大きな川がないのですね?」

と由美がこれで水不足にならないのだろうか? 水害が起こらないのだろうか? と思って尋ねた。

「本当にそうですね、大きくて太い川はありません」

と答えた社長は、ふと秋篠川と近隣の川の歴史を思い浮かべた。

 昔は、この秋篠川も西大寺の北、押熊に発し、郡山の北端の奈良口で直角に曲り、東へ流れて佐保川と合流、さらに南に流れ、稗田の村へと丘陵にそった流れだった。

 この川に面した丘の上には、秋篠寺・西大寺・菅原寺・唐招堤寺・薬師寺・殖槻うえつき寺・額安寺の各諸大寺が建てられ、さらに中世末に及んで、大和平野に向かって突き出た小高い丘に郡山城が生まれた。

 西の京周辺がいくたの文化を育んだ背景には、あまり太くはないが佐保川・秋篠川が充分に役立っていたことを忘れてはならないが、現代ではこの川では細すぎて、水害、水不足が起きて当然だと思っていた。

 もうひとつの川、薬師寺の西側を南北に流れる富雄川も千年の命脈を伝えてる。昔は富の小川と呼ばれていて、その側に卑弥呼の里、邪馬台国があったとされる矢田丘陵が広がっている。その南には、借景の名園とうたわれる慈光院と、興福寺大乗院の衆徒であった小泉氏の小泉城跡がある。小泉城は1561年(永禄4年)5月に、城主小泉四郎左衛門重順が弱冠18歳の時に落城した。その後、小泉藩は1623年(元和9年)に片桐且元の弟・貞隆が構え1627年(寛永4年)に死去。二代目貞昌が家督を相続し、27歳の時に桑山宗仙の元で茶の湯を学んだ。1663年(寛文3年)大徳寺185世玉舟宗幡和尚を開山として、慈光院を建立した。

 1665年(寛文5年)11月8日、将軍家綱の所望により将軍家の茶道師範となり、三百ヵ条の湯覚書を記し、上進して石州流の基礎を固め慈光院から石州流を広めていった。慈光院は、真下に富雄川を見て入母屋造りの茶室(高林庵)および上の間(大名)・中の間(家老・住職)・下の間(家臣)からなる書院があり庭園は、多種多様の混植で、四季を通じて、つねに美しい緑を見せ、温雅な感じを与えている。大刈込の庭を越えて三笠の新月・松間の双塔・三輪の滴翠・葛城の白雪など慈光院八景を叙してあるような、遠山の四季の大和平野が眺められたそうで、富の小川と呼ばれた富雄川も美しくて良かったんだろうが、現代では、豪雨の時には川の機能をなくし、周辺地域に水害をもたらしているんだと考えると、行政に水害のない町づくりを願う社長であった。

「博多には、ものすごく太い「那珂なか川」があり、それを見て育ったから奈良の川がすごく細く見えました。「那珂川」は海と直結していて、大きな「福博・であい橋」が架かっています。その橋が市民の憩いの場になって川が町を活気付けております。社長さんもぜひ来て下さいね」

と由美はふるさとへ社長を誘った。

「母もきっと喜びます。ぜひ来て下さい」

和世も誘った。

「ありがとうございます。その時は、よろしくお願いいたします」

と社長は喜ぶように答えて、一度博多へ行って見たいと思っていた。

「そうだ… 可愛い金魚でも見ませんか?」

と社長が誘った。

「金魚ですか?…… 見たいです」

 三人は沿道の金魚店へ入った。そこには、いろいろな金魚が気持ちよさそうに泳いでいた。

「可愛い……」

「綺麗な色だわ……」

二人は童心に戻っていた。

「子供の頃、よく金魚すくいをしたよね和世」

「楽しかったわね。でもこんなにいろいろな金魚を見るのは初めてでしょ由美」

「いらっしゃい」

と店主のような方が側に寄ってきて

「可愛いでしょう」

と笑顔でいった。

「日本一の金魚の町でっさかい、いい金魚がおりまっしゃろ」

「え… 奈良は日本一の金魚の町なの?」

「奈良はうちの店の隣(北側)からで、この店から南は、金魚とお城の町、大和郡山市ですわ」

と店の方が力強く言った。

 社長が

「博多に帰られる途中です。ちょっと金魚を見せてやって下さい」

と二人を紹介した。

「博多の方ですか… 遠い所、わざわざ寄っていただいてありがとう、ゆっくり見てちょうだい」

そう言ってお店の方は自信たっぷりに金魚の話を聞かせてた。

「金魚が日本に初めて渡来したのは1502年(文亀2年)で、最初は堺だったそうです。郡山で飼育が始まったのは、本多忠平の二代目忠常の藩士佐藤三右衛門という人が、金魚の飼育の術に長じたのが発端といわれています。

 大和で最大であった郡山城の歴代城主は


 初代 筒井順慶(天正12年死去。18万石)

 二代 羽柴秀長(天正19年没。100万石)

     秀吉の異父弟。

     今日の郡山城を築いた恩人が大和大納言豊臣秀長である。

 三代 増田長盛(慶長5年除封。20万石)

     秀吉の五奉行の一人、関ケ原の戦いで西軍に加担のため除封される。

 四代 水野勝成(元和元年に入城、元和5年に備後国福山の転封。6万石)

 五代 松平忠明(寛永16年姫路に転封。15万石)

 六代 本多政勝(後、政長、政利の「九十六騒動」があり二人城主となる。

         15万石)

 七代 松平信之(貞享2年、下総国古河に転封。8万石)

 八代 本田忠平(五代目忠烈まで続くが断絶。15万石のち6万石)

     二代目忠常の時、藩上佐勝三右衛門が金魚の飼育に長じたのが発端。

 九代 柳沢吉里(享保9年、甲府より移封。15万1千2百石)

     六代目保申まで続いたが廃藩となる。


 九代柳沢様まで連綿と続き、九代目の城主柳沢様が甲府より移られた時、金魚を持ち込んだと言う説も有力だと思ってます。

 主君の命により藩士の副業として発達していったんですが、明治維新になり、家禄を離れた士族の中に金魚の飼育を業とする者が出て、明治・大正ごろの城下周辺の武家屋敷には、金魚池が一つや二つはあったんです。

 明治の中ごろまでは、鉄道の発展が進まず、一荷の担い桶をかついで売り歩いたそうです。明治36年のセントルイス博覧会に出展の為に金魚が初めてアメリカに渡りました。かつては木の桶にいれて船や汽車で国内、国外に出荷していたのが、今では酸素入りのビニール袋で、飛行機や車で簡単に全国各地や世界に出荷されてます」

「長い歴史があるんですね…… だから綺麗な金魚が一杯……」

と由美。

「お城は大きいのですか?」

と和世も尋ねた。

「お城はないのですが石垣が残っています。郡山城の石垣は、奈良時代の石仏や平城京羅城門の礎石、双石仏、五輪石塔など数多く転用されていて石垣を覗けば、石仏の顔が見えて「さかさ地蔵」と呼ばれているんです」

と店の方の珍しい話だ。

「石垣にお地蔵さんまで積まれたんですか……?」

二人は社長と聞き入った。

「たぶん石がなかったんですな。石仏の混じった石垣ですから、崩れずに残っていますわ。そのお陰で郡山はお城と金魚の町で有名ですわ」

と嬉しそうに店の方。

「日本一の金魚の町郡山では、第一回全国金魚すくい選手権大会が1995年(平成7年)8月27日開催されました。今年は8月22日に5周年記念大会が行われまして、全国から4,200人の申し込みがあり、年々すごい人気になって来てますわ」

「金魚すくい… やってみたいわ。どんなルールなんですか」

「三分間で何匹すくうかの競技ですわ」

「どのくらいの数をすくえたら優勝出来るんですか? 優勝したら何かいただけるのですか?」

「賞品はグアム四日間の旅行ですわ」

「すごい…… 由美も行きたい」

「わたしも……」

「今年の優勝者は、一般の部は石沢さん(奈良市)47匹・少年の部は吉永さん(大阪)38匹・団体の部(三人一組)ゴールドチーム(奈良市)で124匹でした」

「すごいですね… また機会がありましたら参加させて頂きます。今日は、金魚やお城のお話をいろいろお聞かせ頂き、ありがとうございました」

とお店の方にお礼を言って金魚の水槽にサヨウナラと手を振り、二人は社長を追いかけるように店を出た。

 三人の車は、ぐるりとカーブをまがり池にさしかかり停車した。

「どうぞ、奈良での最後の景色を思いきり眺めて下さい」

と自信を持って話された。

 車から降りた二人は、目の前の池からの美しい眺めに瞬きもせずに見入った。

「わ~、薬師寺だわ。向こうに若草山が浮かんでる」

と和世は感激した。

 薬師寺の金堂と西塔とが金色に、そして東塔が影のように黒く見えている。

 西塔は子供で、東塔は父ならその間に、優しい母の心に似たまろやかな若草山が浮かんでいて、なぜか父が生きていた時の親子三人の姿と重なった。

「すごい、何ともいえない眺めだわ」

と由美もうっとりとしていた。

「この景色が奈良を代表する景色のひとつです」

と社長が自慢そうに言った。

「この景色は一生忘れないでしょう。この景色の中で、父は一生懸命に頑張って生きていたのですね」

と和世は感無量になっていた。

「そうです、勇一さんは奈良で生まれ変わられたのですから」

と社長も勇一さんを偲んでいた。

 勝間田池(大池)の回りには、この景色を写真に収めるためにカメラマンが、思い思いの位置からシャッターチャンスを狙っている。

 また、写生する人もいてなかなかにぎやかだ。

 池の中ではカモが群れをなしている。

 いくら見ていても飽かない景色に未練を残して車は西大寺に向かった。

「いよいよお別れですね、淋しくなりますわ」

と社長が辛そうに言った。

「父のお陰で、社長さんのような良い人にめぐり逢えて幸せです。これからも宜しくお願い致します。お店はもちろんの事ですが、奈良の観光の方も頑張って下さいね」

と和世は、この広い世界でお付き合いの出来る事がとても幸せだと思った。

「社長さん、本当にありがとうございました。また寄せていただきます。奈良は、なんと言っても日本のふるさとですし、世界共有の宝物の世界文化遺産が八ヵ所もある町なんですものね」

と奈良に未練たっぷりの由美でした。

 車は、西大寺駅の南側に着いた。ドアを開けて降りた二人に

「気をつけてお帰り下さいね、お母さんへのおみやげです。宜しく言っていたとお伝え下さい」

と大事な来賓でもお送りするように丁寧に頭を低く低く下げた社長。

「すみません。母にまで気を使っていただいて」

和世は、両手でみやげ物を受け取った時に、社長の目に光るものを見た。社長は、丁寧に頭を下げて涙を隠しておられたんだと思った和世は、なんて優しい人なんだろうと、社長の姿を見つめ直した。そして、心を改めて

「社長さん、母とわたしの、良き相談相手になって下さいね、お願い致します。わたしのふるさとは「古都みやこ奈良」だと思っております。サヨウナラ」

と言って和世は、どんな別れも別れは辛くて、淋しくて、悲しいものだと思うと胸が痛くなって行くのだった。

「勇一さんと思って何でもおっしゃって下さい。情けは人の為ならず、回り回って我が身に戻ってきます。人の為に働けたら幸せです。何事も協力させて頂きますから。何時でも来て下さいね。わたしも、奈良も皆さんをお待ち致しております。気をつけてお帰り下さい。サヨウナラ」

と言った社長。堅い握手を和世は社長と交わして別れを惜しんだ。由美も悲しそうに、社長と握手をして別れを惜しんでいた。

 その時、晴れていた空が薄暗くなったかと思うと、雨が降ってきた。

 1999年11月8日午前11時55分の事で、社長とサヨウナラする三分ほどの雨で、本当に不思議な出来事だった。和世は、社長との別れを惜しむ二人に変り、父が流した涙が雨になったんだと思って空を見上げていた。

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