第9話 奉仕の心(平城宮跡)
奈良市内で一番の大宮通りを西に向かって走った。左に警察署、右に奈良市役所そして百貨店が建ち並ぶ目抜き通りで、車も激しく行き交っている。高架を潜り抜けた時
「そこが朱雀門のある平城宮跡ですよ」
「こんな街の中に在るんですか?」
二人は奈良に来た時に、電車の中で見たあの広々とした平城宮跡が、どうしてビルが立ち並び車の行き交うにぎやかな所に在るのか疑った。車が大通から右に入ると、千三百年ぶりに復元された、高さ20メートル、重層の瓦屋根に朱色の柱と白壁、大屋根の両端には鴟尾が
「うわ~、なんて美しいのだろう」
と二人は急いで車から降りて朱雀門を見た。
「ここが奈良時代の首都・平城京で、710年(和銅3年)から74年間、わが国の政治、経済、文化の中心として
「あおによし・奈良の都はさく花の匂うがごとく・今盛りなり」
と歌われたほどの繁栄を誇った所ですわ」
とガイド役の社長が、平城宮跡の説明を始めた。
「平城京の中央北隅に平城宮があり、今で言えば、皇居と国会議事堂と霞が関の官庁街がひとつになったような重要な所で、天皇とその一族の居住部分である
「この道ですか? この真っ直ぐの道を4キロメートル先に行っても奈良ですか」
と由美は朱雀門の前に立って4キロ先の南の町を尋ねた。
「いいえ、4キロ先は金魚の町大和郡山市ですわ」
と社長が楽しい質問に、笑いながら返事をした。
「ねえ、和世潜りましょう」
と由美が誘った。
「電車で見た時から、朱雀門を潜ってみたかったの、昔は、大変だったのね、今ならこんなに簡単に潜れるのにねえ」
と和世が笑う。
朱雀門を潜った二人は、平城宮の広々とした全景の中に、セイタカアワダチソウの黄色と銀色のすすきが西日に映えている美しさを眺めて感嘆の声をもらした。
「朱雀門は何時復元されたのですか」
と和世は円柱を手で撫でながら尋ねた。
「復元までそれは、それは、長い道のりだったそうです。まずここに、平城宮跡が在るとどうして解ったかです。「大極殿」一帯が平城宮跡と知るが、そこは雑草が繁茂り瓦礫が散乱し牛馬のふんは垂れ流しの荒れ地だったのです。棚田さんは、奈良七朝の由緒ある土地「平城宮」の保存に身命をかけて見せると決意されたのです。明治以前から今日まで百五十余年、1852年(嘉永5年)伊勢国(三重県)津藩士の北浦定政が「平城大内裏坪割田」で正確な地図を作成し、平城宮の位置を推定したのに端を発しその後は、古社寺の保存修理にあたった関野貞博士がその研究を発展させ、奈良都跡村佐紀にあった「大黒の芝」と呼ばれる土壇が「大極殿」の跡とさぐり当てた着想が、「平城京及大内裏考」となって公刊され結実したのです。奈良の東笹鉾に住む、奈良公園植木植樹の植木商棚田嘉十郎が公園での作業中に「大極殿」は何処ですかと尋ねられる事が多くなり「大仏殿」はやっぱり人気があると思っていたら、「大仏殿」ではなく「大極殿」と知り「大極殿」に関心を持ち、遺跡の保護に乗り出したのは、時に明治33年で年齢が41才でした。宮跡の保存の理由と場所の地図を書いた印刷物一万枚と、さらに同様の春日扇も私費で作り、広く配布して世論の喚起につとめる一方、帝国議会にも請願するために何度となく、東京へもでかけ、家業もかえりみなかったのです。東京といっても今とちがって簡単には行けず時間もお金も掛かったから、生活も大変苦しくなったのです」
と社長は宮跡に生命をかけた人々の話を教えた。
「そんな人が本当におられたんですか?」
と由美が信じられないと言った顔で尋ねた。
「棚田さんは、実在の人物です。昔は、世のため人のためにといった考えの方は今よりは多く居られたと思います」
と説明を続けた社長。
「顕彰運動は一進一退で、家計は火の車になりそのうえ病に倒れ失明までされた棚田さんに協力されたのが溝辺文四郎であり、徳川頼倫を会長にした奈良県大極殿跡保存会も出来て、その運動も少しずつ進んで行ったが棚田氏は史跡の指定を知らずに大正10年8月16日に妻と子供を墓参りに行かせて、その留守の間に自刃してその生涯を閉じられたのです。
大正11年に史跡に指定され、昭和11年7月に宮跡の北部の遺構を中心に追加指定されました。昭和27年3月に特別史跡に昇格され、昭和45年5月に東院跡の追加指定で広さ130ヘクタールのほとんどが国有地となりました。
このように歴史がわんさと埋もれていた平城宮跡が発掘の時期を迎えられたのは、保存に身命をかけられた棚田嘉十郎さんはじめ、多くの人々の血と涙と努力が秘められているのです。奈良国立文化財研究所が中心となって発掘事業が開始され、いたるところでおびただしい遺物の出現に、埋もれていた奈良の都は歴史上に躍り出たのです。
遺物の出現の中で一番学術に貢献したのは、石や土でなく、その土層から出た木の
木簡は、藤原宮跡や飛鳥板葺宮跡の全国各地の古代寺院や古墳の周濠内からも発見されており、人々の関心も高まっていて平城宮跡から出た木簡でもいろいろな事が分かってきた時も、注目を集めたんですよ。たとえば、古代官僚の勤務評定とか、日本中(ただし東北と関東はない)の産物が分かった。穀物(白米・酒米・小麦・大豆)と酒類(清酒・白酒・木実酒)と調味料(塩・
千三百年前、年に一度だけ、官と民とがひとつになる「歌垣」がこの朱雀門前で行われたそうです。734年(天平6年)2月1日の事で、参加者は男女二百四十余人で、音楽を奏し、かけ合いで歌をうたったりで、今の盆踊りのようなものであったようです。
聖武天皇はじめ、多くの人々が見物し、歓楽を極めたと当時の記録に残っております。昨年も、4月17日から十日間、秋篠宮様をお迎えして、朱雀門と・東院庭園復元記念イベント「平城京98」が文化庁・奈良県・奈良市の主催で開催されました。
朱雀門の前で、歌手中村美律子さんが奈良市政百周年を記念して作られた「朱雀門」と「都なら」の歌を熱唱されたり、多彩な催しもあり参加された多くの人々が感激されました。これこそ官と民とがひとつになれた平成の「歌垣」であったと思っています」
と社長は奉仕の精神とボランティアの心の大切さと、そしてみんながひとつになってこそ何事もうまく行くのですよと言って聞かせた。
西の山に沈もうとしている太陽が最後の力を振り絞ぼって、青い空も白い雲もみどりの山並みもあかね色に染めているのは、お日さまが落陽を告げているのだろうか。
青葉が紅葉するのも葉っぱが散り逝く時を告げているのだろうか。
父はなにも告げずに死んで行ってしまった。和世は、父の二年余りの闘病生活に心から尽くせただろうか、奉仕の精神で看護が出来ただろうかと振り返った。和世は、ベッドで苦しみながら寝て居る父に、パジャマを着せ変える事もしなかった。もちろん、おしめを変える事もしなかったのです。身体を拭いてあげる事もしなかったし、すべて母まかせだった。何を言っても返事がなく、ただ苦しんでいる父の顔を見ているだけの毎日に疲れきっていたのだろうか
「お母さん、お父さんは死んでるのといっしょでしょ。もう、わたし病院には来ないからね」
と母を助けるどころか、母を困らせてばかりだった。
わたしを生むのに原爆病を心配する父と、どんな子供でも二人の子供ですよ、と強く言った母との優しい二人の愛情で生まれ介護福祉士として働くわたしが、他人の介護は一生懸命なのに、親の介護になるとどうして嫌ったのだろう。社長さんのお話のように、何事も奉仕の精神で一生懸命にやらなければいけなかったのにと思うと、悔やんでも悔やみきれずに悲しくなるばかりの和世だった。
「お空のお父さん、今日は奈良を案内して頂いてありがとう。親孝行できなかった和世を許して下さいね、もし来世が有るのなら百年後でも二百年後でも親子になって一緒に奈良の町を歩きたいです」
と落陽する空に向かって心で囁いた。その時、奈良の町は赤く燃えていたタ焼けが消えて薄明に変わった。
明りが灯り出した奈良の町を車はホテルに向かった。
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