第8話 祈りの心(春日大社)
「晩秋に烈日を受けるなんて、こんなにさわやかな青空は見た事がないわ」
と和世は、父がわたし達を案内しているのだと信じていた。
「素晴らしい青空だわ」
由美は目を細めて額に手を置き日を避けて言った。
アラカシ・ナラヤエザクラ・エノキ・スギなどの樹木が立ち並ぶ春日の
一足早めの七五三参りなのか何組かの親子連れが修学旅行生や観光客に
「とっても綺麗だわ」
「可愛い」
と声をかけられ参道の玉砂利をゆっくりと踏みながら本堂に向かって歩いていた。参道の両側一帯には、大小さまざまな形をした石灯籠が立ち並んでいて、多くの参拝者が行き交うのに何故か静けさが保たれている。
「灯籠の数は日本一で質も良いそうです。石灯籠は6種類の1769基あり、釣り灯籠も814基あると言われてます。毎年2月の節分祭とお盆の8月14日と8月15の中元疫神祭の日には「万灯籠」と言われて、灯籠のローソクの火に一斉に点火されるのです。真っ暗闇の中でローソクの火だけが揺れて、老樹の間に並ぶ石灯籠のほのかな明りに映える社殿の美しさは、とっても幻想的で口には言い表せないですわ。お盆の「万灯籠」には、浴衣姿の女性はとっても美しくて良いもんですよ」
と社長の説明に二人は、その様子を目に浮かべていた。
「わたしも浴衣姿でここを歩いて綺麗と言われてみたいものです」
と由美はその気になっていた。
「お水取りも見たいでしょう。万灯籠にも来たいでしょう。そしたらずっと奈良に居なくてはならないわね、もう奈良に住みますか」
と和世が笑った。
「そうね、奈良も良い所だから住んでみたいと思うし……! でも博多も好きだから…! 困っちゃう」
と由美も苦笑い。
「ほらほら、あそこの女の子」
と由美は女の子を目で指して小声で言った。
本堂の前をなんと七五三参りの女の子が、今流行のあげ底コッポリを履き母親に手を引かれて石段を登ろうとしている、その姿はまるで舞子さんのようでとても綺麗だ。
父親は、わが子の晴れ姿をビデオカメラに収めようと一生懸命になっている。
「可愛い~、でも大丈夫かなぁ!」
ちょっと心配そうな和世が、私にもあんな日があったのね、と子供の頃に思いを寄せて大事に育ててもらった父と母に感謝をしていた。
側で言おうか言うまいか、どうしようと迷ってそわそわしていた社長が決意して静かな口調で和世に言った。
「和世さんいいですか、勇一さんの事でお話をしておきたい事があるんです」
「え~、父の事ですか?」
と不安な気持ちで尋ねた。
由美はそれを聞いて、すこし先に歩いた所で灯籠を見つめて待つ事にしました。
「うちの店は、家族も職人も見習いも一緒に生活をしながら働いていました。お互いに気を使うのは当然でありますが、それに慣れないのと仕事のえらいのとで家に帰りたい故郷に帰りたいと言って辞める人も多くいました。勇一さんも帰りたかったと思います、しかし故郷はあっても家がないのです。いや、故郷も捨てたとおっしゃっておられましたから故郷もなかったのですね。しかし今と違って、その頃はすぐに地方から集団就職で来てくれはったんですが、来る人と辞める人との入れ代わりが激しく、一人前になるまで辛抱出来る人は少なかったです。洗濯板で洗う冬の洗い物は、水が冷たくて手がしびれます。大釜での洗い物は、夏は暑くてとっても耐えられません。今では考えられない苦労ですが勇一さんは、悩み苦しみながらも本当に良く頑張って下さいました。一人前になって、もうそろそろ独立出来ると言われて奈良の何処かに店を持とうと胸をふくらませて頑張っておられたその頃でした。一度も休まなかった勇一さんが時々休むようになったんです。毎日微熱が続き、食欲もなくなり目まいがして、立つ事も辛くなり身体がとても気怠いとおっしゃって病院にいかれても原因はわからず、大変苦しんでおられたようです。おやじも、おふくろもとても心配したそうですが、よく休む勇一さんの分まで仕事をしなくてはいけない職人は、いい気をしていなかったそうです。職人の態度をうすうす感じていた勇一さんが、お盆休みに入って職人も見習いも、故郷に帰った13日の日に店に戻ってこられなかったので、勇一さんの行きそうな所を家族は必死で探しましたが何処にも居られませんでした。14日の日も帰ってこられなかったんです。今までに、勇一さんは家以外に泊ったことがなく、二日間も帰らないなんてきっと何かあったのに違いないと考え、しかたなく警察に捜索願いを出しました。15日の日も帰らず、家族は一睡もせずに探し尋ねて回りました」
「父にそんな事があったんですか。みなさんに大変迷惑をお掛けしたんですね」
和世は父が死ぬ気だったのではと思って聞いていた。
「16日の朝に、只今と帰ってこられ、家族で抱き合って喜びました。嬉しかったですわ、あの日の事は今も手に取るようにはっきりと覚えております」
「父は何処で何をしていたんですか?」
和世は早くその訳を知りたくてハンカチを強く握りしめ身を堅くしていた。汗をふきふき社長は話を続けた
「おやじから、後日聞いた話では、勇一さんは発病してからは、いつも原爆の悪夢にうなされ、もう駄目だと思い死ぬ気で、あちらこちらをうろうろしている間に、なぜか15日の「万灯籠」の日にこの場所を歩いていたそうです。暗闇に揺れる灯籠の灯を見ながら広島に原爆投下されたあの悲しい日が頭の中を過ぎり、苦しいよ、水がほしいよと言ってもがき死んでいった人々が現れて
「勇一、お前は生きるんだ生きて行ってくれ」
と言ったそうです。この人達の分まで生きなくてはと、頑張ってきたはずではなかったのかと思った時、ふと我に帰られたそうです。そして、人間死のうと思ったらなんにも出来ない。死んだ気持ちで頑張っていけば、なにも怖くないのだと心に言い聞かせて、みんなの分まで強く生きて行こうと決意されたそうです。そこがこの南門前だったからお話をしておきたかったのです」
と社長の目が潤んでいた。
「辛かったのでしょうね。その後、父は奈良でお店を出さずにどうして博多へ行ったのですか」
と和世は奈良を好きだった父がどうして博多に行ったのか、昨日の話の中でも気になっていた事で不思議に思い尋ねた。
「原爆病を隠してきた勇一さんが、家出をした事で誰が言うともなくだんだん被ばく者だと言う噂が広がり居ずらくなったんだと思います。福岡の兄弟子を頼って行かれ、健康も取り戻されてその後に独立されたんです。だから奈良が大好きだけれども来られなかったんです」
と社長は全てを語って気を楽にしてた。
「ありがとうございました。よく聞かせて下さいました」
と和世は頭を下げて、流れる涙をそっとわからないようにハンカチで押さえた。
父の事をこんな形で知る事となったのは、きっと父がわたしを奈良に導いてくれたに違いない、やっぱり父が案内してくれているのだと思うと、とてもさわやかだった。
「由美、待たせてごめんね、すぐに行くから……」
と和世は手を振って合図した。
鮮やかな朱色と白壁の南門は、みどり豊かな春日の杜で優美に建っている。
釣り灯籠が揺れている回廊で、父がよく思い止まってくれたと精巧緻密で荘重に造り上げられた本殿を見上げて和世は心から手を合わせていた。
もし父が生命を捨てていたら、今のわたしはこの世に存在していなかったと思うと、ただただ父に感謝をするばかりでした。春日の杜のみどりが和世に微笑んでいるようで、和世も、わたしの魂はここで生まれたんだと信じていた。
そして、春日大社は祈る心を教えてくれたと、石灯籠に挟まれた参道の玉砂利にしっかりと足跡を残す気持ちで春日大社を後にした。
真っ直ぐに伸びる参道から円を描き広がる綺麗な芝生の所に出た。
「ここが飛火野です」
と社長も、何かすっきりとした気持ちで指さした。
「芝生のみどりがとっても綺麗」
太陽の光を一杯に浴びた飛火野を由美は見渡した。
「あ~、気持ちがいいわ」
和世は両手を空に向けて思い切り伸ばした。
鹿もお出迎えをしてくれて居るのか、わたし達の側に集まって来た。
「可愛い仔鹿ですね、あなたは何時生まれたのですか」
と由美は仔鹿を撫でていた。
「鹿は一年に一頭を生みます。仔鹿を生んだ母鹿は敏感になり、仔鹿を守るためには誰も寄せ付けません。必死で仔鹿を守る姿は親子の愛を感じさせます」
と今度は、鹿が命をかけて仔鹿を守る親子の愛の美しさを社長は聞かせた。
時代がどんなに変わろうと、動物も植物もすべての生物が子孫繁栄の為に我が身を犠牲して生きているのに、学問を学び知識を身につける人間だけが、わが子をロッカーに入れて殺したり、真夏にわが子を車中に置いて、パチンコに夢中になって殺してしまったり、わが子に熱湯をかけたり、火傷をさせたりして虐待するのでしょう、子供は宝なのにと仔鹿を見つめてそう思う和世は、日本人はお金を持ったが、心をなくしたとも思った。
「あの鹿さん角を切られているわ。かわいそう」
と由美が雄鹿を指さした。
「鹿の角は伸びると人に害を及ぼす危険があるので、毎年10月に観光目的も兼ねて鹿の角切りが行われますが、闘牛のようなもので闘鹿ですわ。この飛火野では、鹿寄せが行われます。ホルンでベートゥベンの田園を鳴らすと、エサのさつまいもを貰えると知っておりますから、何処からともなく鹿が集まってきますので、この広い場所が狭くなりますわ」
「鹿は何頭ぐらい居るんですか?」
和世が尋ねた。
「鹿は千二百頭ほどおりますが全部は集まって来ません。でもすごい数の鹿が寄って来ます」
そう言って社長は、車をとりに駐車場に向かった。
「和世、社長さんの話って何んだったの」
由美は、心配そうに聞いた。
「心配かけてごめんね、父が苦しんでいて自殺をしようと思ったんだって」
「まさか、おじさまがそんな事を」
と由美は疑った。
「本当なの、父はとても辛かったと思う。わたしなら死んでいたでしょうね」
「そうだったの、そんなに苦しんでいられたの」
由美は同情した。
「父は原爆病を隠して奈良にクリーニング業を見習いに来たの、昨日話したでしょう。独立する前に微熱が続き、身体が気怠くてよく休んだらしいの。病院で検査をしたがお医者さんにも原因が分からないと言われ、発病は被ばくしたせいだと思い込み、死ぬ気で店を出て3日間もさまよって店に帰らなかったんだって」
「3日間もどうされてたの?」
由美も、お父さんの苦しみが分かる気がした。
「何処をさまよったかは分からず、気が付けば8月15日の春日大社の「万灯籠」の参道に居て灯籠の灯を見つめて歩いていると、父の頭に原爆で苦しみながら死んで行った犠牲者の顔が横切り、この人達の分まで生きなくてはいけないのに自分が死を考えるなんてと思った時、我に帰ったらしいの」
「良かったね、思い止まられて」
由美は、この世の中には目に見えない何か不思議な力があるのではと思っていた。
「そうなの、もし父が死んでいたらわたしはここに存在して居ないのよ」
と和世は重そうな口調で言った。
「本当だわ、和世と出会っていなかったのね。そう思ったらお父さんが思い止まってくれた事は大変意味深いものなのね。和世、お父さんに感謝しなさいよ。わたしも感謝しなくてはいけないわね、優しくて素敵な和世に出会えたのだから」
と由美も心の中で手を合わせた。そして、迎えに来て下さった社長さんの車に乗る二人だった。
「鹿は可愛いでしょう。奈良の男性もいいですよ」
と社長は雰囲気を明るくした。
「紹介して下さい! 縁があって結婚出来たら奈良に住めるわ」
と由美が苦笑いをした。
「わたしも奈良の男性と結婚して奈良に住もうかな!」
と和世も明るく言った。
「ハイ、二人には素敵な男性を探しておきます」
社長は明るい二人に安心していた。
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