第7話 寛大の心(東大寺)
東大寺参道の入口の右角には、三、四台の人力車が客を待っていて、左側にはみやげもの屋さんが十軒余り軒を連ねて建ち並び、修学旅行生や観光客が訪れて繁華街の雑踏を思わせるにぎわいである。公園では、色々な人が様々に紅葉を楽しんでいた。
なかでも、鹿にエサをやる親子連れに目がいってしまう。
今まで、登っていた若草山も手が届きそうで、すすきが白く光っているのも見える。
秋とは思えないほどの強い陽射しに、紅葉した樹木も燃え立っていて、芝生のみどりとのコントラストが見事で素晴らしい景観だ。
「美しいですねぇ」
二人はここでも感激した。
「美しいでしょう。綺麗でしょう」
と社長は、家の庭を案内しているように軽く言った。
「若草山に登れば、空に手が届きそうで、奈良公園はみどりの部屋だわ。樹木のみどりが壁で、芝生のみどりはジュウタンで、ぬいぐるみのような鹿と、リスがいっぱいいるし、部屋の飾り付けも季節で変わるの。春は、さくらのピンク色に。夏は、樹木がすだれになるわ。秋は紅葉して錦色に染まるでしょう。冬は小雪が舞って白色になるでしょう。公園からは、何時でも山に触れられるの。それも、樹齢何百年の原始林に。そして、その原始林から流れ出た水が、公園の中の吉城川を素敵なメロディを奏でながら曲線を描いて流れて行く。空と山と川がマッチして本当に美しいです。大き過ぎず小さ過ぎず、この自然の大きさが、人間といちばんマッチしているから奈良公園は美しいのだと思います。だから、奈良に住んで居られる社長さんは、この自然が身体の一部で家の庭なんでしょうね」
と和世は、社長をうらやましく思った。
「和世さんのおっしゃる通りですわ。歴史にも自然にも恵まれて奈良は本当によい所ですわ。何時も住んでいて当たり前だと思っているから、ありがたさがわからないのですね」
と社長は、しみじみと奈良の良さを感じていた。
社長の後をついて歩く二人は
「歴史のある場所なのに遊園地に来たように楽しい気持ちになれるのね」
と微笑んだ。
ふと和世は、社長さんが父であれば良いのに、と父を偲び父娘で来たかったと悔やんだ。万葉集にも詠まれた吉城川を渡ると、右手の鏡池には、大きな大仏殿が薄みどりの水面に写り静かに揺れている。
ここからの景色はまた格別で大仏殿を逆さまに見ると言う遊び心は、繊細な嘆美性があったからこそここに池を作らせたのであり、見る者に感動を与えている。
東大寺の世界文化遺産の記念碑を見ながら石畳を進むと、わが国最大の南大門が立ちはだかった。
「あ~和世、これ阿形と吽形だわ」
南大門の階段を上った入り口で、歴史を重ねて佇む金剛力士像を見上る由美でした。
「大きいでしょう、阿形は8メートル50で吽形は8メートル40もあって、ヒノキ材の木造仏で、仏師・運慶と快慶ら20人が、わずか百日あまりで仕上げた傑作」
と社長がガイド気分で説明をした。
「興福寺で見た阿吽の仁王さんより大きいわね。わたし達は小人みたいだわ」
とビックリした様子の由美。
大仏殿の正面に立つ金銅八角灯籠に近づいて社長は和世に言った。
「和世さん、勇一さんはこの灯籠が気に入っておられたのですよ。四面にある唐獅子の浮彫りと、もう四面にある音声菩薩像(天女)の笛を吹く優美な浮彫りは、天平時代の金工技術と工芸意匠で大好きだと言っておられました」
「この灯籠をですか?」
和世は、4メートル60余りの八角灯籠も、大仏殿の前では小さく見えるもんだとじっと見つめた。
「職人は一生修業や、しっかり修業せんとこのような立派な作品は出来ないよ。そしてこの灯籠は、兵火を二度もくぐり抜けて来て創建当初からここに建っている歴史的な遺品で、灯籠を見ているだけで励まされて勇気が湧いて来る。俺も、原爆を受けたけれどこうして生きているんや頑張るで、と言っておられました」
社長は、父の職人根性を伝えた。
「父は辛い時、ここで気を紛らわしていたんですね」
と和世は思った。
「和世、早くおいで~」
と由美に呼ばれて振り返ると大仏殿の屋根が伸び伸びと広がり、太陽に光る鴟尾が世の中に幸せの光を発しているようだと感じた和世は、急な石段を一気に上り大仏殿に入って行った。
高さ15メートルもある大仏さまに感動した由美は、首が痛くなるほど見上げていた。
「大仏さま、悩み苦しむ一人ぼっちの父に優しく微笑み、何時も良き相談相手になっていただき強い力を授けて頂きありがとうございました」
と両手を合わせた和世。
「和世、何をお願いしているのよ、大仏さまが大きいからといって大きいお願い事はだめよ」
と言いながら和世と社長の側に寄って来た由美は
「社長さん、大仏さまは本当に大きいですねぇ」
と驚き気味に言った。
「東大寺が華厳宗総本山と知る人は少ないでしょう。宝珠院・持宝院・知足院・金珠院・地蔵院他の18ヵ院で文化財は国宝29件、重文112件、重美7件他合計150件にのぼる。中でも国宝の大仏の鋳造と大仏殿の建立には画工・金工・鋳工・木工・石工など専門技術者をみごとに組織化した世界的レベルの技術集団で、労働者や工事に協力した信者の数は延べ260万程と記録が残っております。当時の国民の二人に一人が参画しグローバリズムで世界はひとつと願い、仏教の言葉をはっきりした形に現わす為の長期の大事業であったんでしょうね。犠牲者も多く出たそうですが、そのお陰でこんな立派な宝が完成した。まさに世界文化遺産です」
とまたまた社長はガイド気分で言った。
「そうでしょうね、これだけの物を創作したり建立するんですもの、大変な労力だったんでしょうね。現代のようにいろいろな機械もなく、人力が頼りの時代だったから」
ただ、ただ驚く二人は、創建当時の東大寺模型の前で観光客に説明するガイドさんの話に耳を傾けた。
「大仏殿の左右に、七重塔が建っていましたが千年前の地震で倒れてしまったのであります。このお話は資料がありますので自信(地震)があります。大仏殿計画で奈良時代はインフレになったそうですが、大仏さまを見学に来て下さる皆さんはイイフレンド(良い友)ですわ」
とユーモアあふれる話しかたに顔を見合わせて笑った。
廣目天像(5メートル45)が右手に筆を持ち、左手に巻物を持ってガイドさんの説明を書いているようだ。反対側の東北隅の丸柱に四角い穴があいていて、潜り抜けると健康と幸運がもたらされるといって、参拝者が試みられている光景に見とれていた。
心配そうに、多聞天像(5メートル45)も左手に宝搭を持って見おろしていた。
「みんなが、潜り抜けておられる。健康と幸せは間違いないわ」
と由美も願った。
「その通りよ、きっとみんな幸せになれるわ」
そして和世は、健康も幸せも一人じゃつかむことは出来ないし、人は弱い者だから、何かにすがるのだろう。父もここで健康と幸せを願い心を大きく持って強く生きていたのだと確信をもった。和世も、この場所で心を大きく持って強く生きますと大仏さまに誓っていた。
薄暗い所から、太陽が一杯の外に出て「お水取り」で有名な二月堂に向かった。
急な坂道を上ると、高さ3メートル・重さ26トンで日本三大釣鐘のひとつ東大寺の大釣鐘の鐘楼があり、そのほとりに甘酒やワラビ餅などを出しているお茶所があったので休憩をする事にした。お茶所に入ると、二月堂のお水取りの壮観なポスターが張ってあり、社長がお水取りの話を聞かせた。
「お水取りは(正しくは「
と社長のお話が終わったと同時に注文していたワラビ餅が出て来た。お茶所で一息ついた三人は、灯籠に挟まれた石段を登り始めた。
黒々と光って磨滅した石段を見つめて登ると、ここを登った人の多さを感じる。
「久し振りの運動で息が切れそう」
と社長は少し疲れ気味だった。
「もう少しですから頑張って下さい」
と言った二人も疲れ気味だ。
二月堂の欄干を回り奈良の街を見下ろした。
「あんなに登って来たのに、目の前の大仏殿の屋根と同じ高さじゃん」
と由美は大仏殿がいかに大きいかを
「本当だわ、随分に登ってきたのにねぇ。あれ~、五重塔が今度は左にあるわ」
和世は景色が違っているように思って驚いていた。
「若草山の頂上から、奈良盆地の全景を見て遠くにかすむ景色に感動したけれど、はっきりと部分的に見る景色もいいものですね」
と由美が、この舞台からの展望が美しいと気に入ったようだ。
「ここで籠松明をふるうのですか? すごいですねぇ」
二人は真下をみて言った。
「一度お水取りを見学に来て下さい。案内しますから」
社長が二人を誘った。
「来た~い、来ますから宜しくお願いします」
由美は両手を合わせた。
下りは、軽やかな足取りで石段を降りた三人は、法華堂に入っていった。
「このお堂には、六ツの名前があるんです。(三月堂・法華堂・羂索堂・金鐘寺・金光明寺・禅院)」
と社長がまた説明をし始めた。
「どうしてですか? 覚えるのが大変ですね」
二人はビックリ。
「今は、三月堂と呼ばれてます。それは、この堂で法華会が修せられる法会が3月に行われるためです」
三月堂の名前の由来を話す社長と、薄暗い堂内で16体の仏像が立ち並ぶ正面の椅子に二人が座った。参拝客が時々、三人を見つめて通り過ぎる。
「私達のこと、仏像と思っておられるのでしょうか」
と由美は小さく囁いた。
「ない、ない、そんな事は絶対にないですよ」
と和世も小さな声で答えて微笑んだ。
本尊の
「どうして、こんなに複雑な姿に作られたのでしょうね?」
由美が尋ねた。
「わたしは、専門家じゃないからわかりませんが、個人として思うには「羂」は獣を捕らえる網ならば「索」は魚を釣る糸を意味するので、網と糸とで悩み苦しむ多くの人々を救おうとされたのではないでしょうか。だから宝冠の中央には、衆生を救済するためにこの世に現れたと言う観音菩薩の本地仏、阿弥陀如来像が居られると思います。複雑な姿にしては調和が保たれた像だと思っております」
と社長は、必死で答えた。
なかなかのものですと拍手を送りたい気持ちの二人だったが堂内なのでやめることにした。本尊の回り、須弥壇をぐるりと取り囲む乾漆四天王立像(いずれも国宝・奈良時代)のことを由美が聞いた
「強そうですね………?」
「持国天立像は鋭く睨みつけて東の方角を守り、増長天立像は大きな目と大きな口を開けて来るなら来いと言った感じで南の方角を守っておられます。そして広目天立像が、目を細めて遠くを見つめておられるでしょう。西側を守っておられるんですよ。北側を守っておられるのがどんな音も見逃さない、多聞天立像です」
「わたしを守ってくれる人、一人でいいから早く現れて欲しいです」
と由美は真剣な顔でいった。
「日光・月光両菩薩立像は名前もいいし、寛厚な感じがします。どうしてお日さまとお月さまの名前を使ったのでしょうね?」
と今度は、和世が尋ねた。
「う~、難しいですね。たぶん、太陽も月も光を与えてくれる大切なものだったから、仏を守る守護神のように仏に光を与えるために左右に置いたのでしょう」
と社長は、顔の汗を拭き拭き話していた。
「社長さんの太陽は誰ですか? 月は誰ですか?」
由美が尋ねた。
「もちろん太陽は妻ですよ。月は子供ですわ」
とはっきり言った。
「仏の前ですもの嘘はつけませんね」
と二人は社長に言って微笑んだ。
父はどうだったのでしょう、社長さんと同じで、やはり太陽は母で月は私だったのでしょうか、と和世はふと父の顔を浮かべていた。
「由美、心がとてもさわやかになった感じがするわ」
「わたしもよ和世、とってもさわやかだわ」
「よかったですわ、奈良を気に入ってもらって」
と社長も奈良に生まれて良かったと感じている様子だ。
そして東大寺は、人の心を寛大にする何かすごい力があると信じた二人だ。
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