第2話 感動の心(興福寺)

 奈良~なら~…… と車掌の声。電車が近鉄奈良駅に着いた。

 二人は、人の流れに混じってエスカレーターで上に登ると、広い道路を車が行き交っていた。右に東大寺大仏を建立するにあたり、寄付を集めて回り大いに協力して大僧正となった行基ぎょうき菩薩の像が、噴水の真ん中で東大寺大仏殿の方を向いてたたずむ。

 和世は、その行基菩薩の銅像の立つ噴水に、コインを投げ入れて手を合わせた。

 奈良に来て初めて仏像に手を合わせた事で、父の好きだった奈良に、そして一度は来たいと思っていた奈良の地に立っているんだと実感した。

 和世は、携帯電話で博多の母に報告をした

「もしもしわたし、いま奈良に着いたところです。お父さんの働いていた所にも寄って来ますから」

と弾んだ声だった。

「もう着いたの? 思ったより早かったじゃない。南光さんには、娘が夕方ごろに寄せていただきますので、と電話を入れておいたからね。南光さんには、くれぐれもよろしく言ってくださいね。由美ちゃんと一緒で大丈夫と思うけれど気をつけるのよ」

と母も元気よく言った。

 奈良は多くの作物が実る、秋本番の11月6日だった。

「由美、南光さんはクリーニング店で、今は営業中なので仕事の終わる夕方に訪ねて行く事になってるの。だから由美、夕方まで観光しましょう」

そう言って和世は、地図を取り出した。そして二人は、地図を頼りに東向商店街の道路を渡り、興福寺に向かった。少し坂を登り始めると、前方に若草山が少し顔を出した。

「あれ、若草山かなあ」

と和世が由美の耳元で囁いた。

「そうよ、若草山だわ」

と由美は相づちを打った。

 二人は、有名な若草山を見て顔を見合わせた。

 坂を登りきった時、若草色した芝生の奈良公園が広がった。

 左手には奈良県庁がどっしりと建っていた。

 県庁の前の信号を、大勢の人と一緒に鹿が、公園の方に向かって道路を渡っている。

「鹿だ」

と和世が指を差した。由美は、和世の差す指の方向に目を送った。

「鹿だ……」

「あっちにもいる」

「ほらほらほら、向こうにも」

と二人は、目をキョロ・キョロさせて子供のようにはしゃぎ小走りで鹿の方に寄っていった。

 鹿も

「ようこそ、奈良へ」

といった感じで、二人を囲んだ。

「ああ、側に寄ってきた~」

と由美は、じっと立ったままの状態で、右手のカバンを高く上げて

「この鹿、何もしないよね」

と困ったような顔をして言った。

 鹿は首を延ばして高く上げた由美のカバンに口を近付けた。

「だめよ鹿さん、あっちに行って」

と由美。その由美の滑稽な姿を和世は、パチリ、パチリとカメラに収めた。

 由美が突然

「キャ~! スカートをめくるのは誰」

といって振り向いた。

 そこには仔鹿がいた。

「もうHなシカちゃんね」

と由美はしゃがんだ。客待ちしている人力車の車夫も、由美を見て笑っている感じだった。

 電車を降りてから5分ほどで、こんな自然にふれられるなんて

「ラッキー、来てよかった」

「わたしも、そう思う。奈良に決めてよかった」

と嬉しそうな二人は、公園に挟まれた道路を歩きだした。公園の中で遊ぶ親子、ボール遊びをするグループ、ベンチの男女、横たわっている鹿、エサをねだる鹿、写真を写す人、絵を書く人、これが自然を満喫する奈良公園の光景なんだろうなと見つめて歩く二人だった。

 由美が、和世の耳もとで

「興福寺は、まだなの?」

と小さな声で聞いた。

 右側に五重塔の上の部分が見えて来た。

「ここが興福寺よ」

と和世が説明した。

「幸福になれるお寺」

と由美は真面目な顔。

「分かってないのね字が違うでしょう。でもいっぱい手を合わせたら、幸福になれるかも」

と和世は大人ぶった。そして二人は、興福寺国宝館に入って行った。

 1875年(明治8年)に取り壊された細殿さいでん食堂じきどうの跡に、宝物収蔵庫を1959年(昭和34年)に完成させたのが今の国宝館だそうだ。受付で、拝観券2枚を買って進むと正面に仁王頭部(木造・江戸時代)が飾られてある。

「ワ~、すごい」

と二人は、同時に顔を近付けた。

 大きな目玉が印象的ですべてを見つめている感じがした。

 奥に入って行くと、板彫十二神将像が並んでいる。

「やんちゃそうに跳ねてる感じの迷企羅(めきら)大将像が印象的」

と由美が和世に感想を言った。

 観光客も口ぐちに感想を言いながら静かにゆっくりと進んで行く。

 館内には、国宝諸仏がひしめく名品の群があり、新しい驚きを味わった二人だった。

 こうして一堂に集められるとさすがに壮観であり、興福寺の歴史の厚味がまざまざと思い知らされた。

 天平、鎌倉の優れた諸仏を博物館で見てもこれほどに感動するのだから、たとえどんな荒堂でも本来の場所に座った仏像は、見る者の心を暖かくし、見るものに優しく話し掛けてくれるだろう。

 ふとそう思う和世は、釈迦如来仏頭と阿修羅像をもう一度見たくなった。

 釈迦如来仏頭は、長くのびた眼線、高く筋の通った鼻、何か言いたそうな唇、ふっくらとした頬、明るい顔立で両手で触れてみたい気持ちになっていた。

 阿修羅像は、八部衆で守護神として武装している像の中で、上半身が裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけて胸飾りと腕輪を付けている。

 古時代に、ネックレスとブレスレットを付けているなんてすごくお酒落だと感じた。

 裳をまとって板金剛を履き両手を前で合わせている。

 左側に上下2本の手、右側も同じく上下2本の手、顔は正面と左右の三面で、奈良時代の采女うねめをモデルにしたと言われ、その美しさに魅了して、ただただ見とれてしまっていた。

 そして和世は、どうして3人を一つの像にしたんだろうかと考えていた。

 守護神像は武装しているのが一人前だから、まだ半人前である若者3人を一緒にさせて、仏を守らせたのが阿修羅像なんだろうか。それとも母とわたしと由美のように仲の良い3人を一緒にさせたのが阿修羅なんだろうかと思っていた。

 由美も、金剛力士立像の前で力強い像を睨んで考え込んでいた。

 和世は

「由美、行きましょ」

と小さな声で由美に言った。

 由美が振り返り和世に

「ねえ~、阿形と吽形ってすごいね。別名が仁王さんで、口を開いた阿形(あ)が最初を表し、吽形(うん)は最終を示している。この世のすべてに、最初と最後は必ずあるもんね」

と生と死を考えて淋しそうに言った。

 二人は、絵画・典籍てんせき文書などを真剣な顔つきで見つめながらゆっくりと進んだ。

 そしてもう一度、ひときわ大きい釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像に手を合わせた。

 和世は、父の冥福をも祈りながら、由美の幸せと由美と良い友達で居られるようにとお願いをした。

 そして、国宝諸仏に出会ったことで、父は奈良が好きだと言っていた訳がわかる気がして、本当に来てよかったと思う和世だった。

 まさに、興福寺の国宝館は人の心に感動を与える美の最高芸術が飾られてある。

 二人は気分爽快で青空の広がる外に出て、五重塔に近付いた。

 奈良の五重塔(国宝・室町時代)は京都東寺の五重塔の55メートルに次いで、2番目の高さで約50メートル、この塔は1426年(応永33年)に再建されたもので、各層3間四方瓦葺であると資料に書いてある。写真でしか見たことのない五重塔を二人は見上げた。

「空に向かって、伸びている感じがする」

「ワ~、目が回るわ」

と二人は五重塔に手を触れて、その感触に歴史をつかんでいる気分になった。そして二人は、東金堂から均整のとれた力強い南円堂に向かって歩きだした。左の土塀の前にはみやげを売る店が並んでいる。

 南円堂の白壁と朱色の柱、みどり色の格子窓が日に照らされて美しさを増している。

 その左隅に、南円堂を一回り小さくした程の、北円堂の八角堂が建っている。藤原不比等の冥福を祈願して長屋王が造立したが、治承の兵火で焼失し、鎌倉初期に再建されたこの八角堂は現在興福寺の中で一番古い建物である。

「デザインがいいね」

と北円堂を眺めて歩いていたが、南円堂より見学する人はなぜか少ない感じがした二人だった。

「世界遺産・古都奈良の文化財・興福寺・1998年12月、興福寺は、「古都奈良の文化財」のひとつとしてユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界遺産リストに登録されました。全世界の人々のために保護すべき遺産として特に愛されて普遍的な価値があるものが、このリストに登録されます」

と書かれた記念碑を眺めた二人が

「さっき通った時は、鹿に気を取られていたせいか、この碑があることには気が付かなかったわね」

と顔を見合わせた。そして松並木をまた、興福寺に入っていった。

 さっき通った道とは違い砂利道に石畳が敷かれてあり、その上を真っすぐに進み道路を渡り52段の石段を降りると、そこに竜神が住んだと伝わる猿沢池がある。

 池の真ん中で噴水が水しぶきを高く吹き出していて、その水音だけがシュウーと聞こえてくる。水は若草色で水面に五重塔と柳の影を浮かべて揺れている。

 池の西北隅には鳥居を背にして、謡曲の(采女うねめ)にちなむ采女神社がある。

 采女とは、古代に主として食事に関する仕事にたずさわった宮廷の女官のことで、天皇の心がわりを恨み、この猿沢池に身を投げたそうだ。そのとき衣をかけた柳(采女きぬかけの柳)とそれを示す碑が池の東にある。毎年、9月の中秋の名月の夜に秋の草花で飾った2メートル余りの花扇やミス采女、稚児たちを乗せた2隻の竜頭船が、雅楽の調べにのって猿沢池を周回する幻想的な催しの采女祭が営まれるそうだ。

 ますます奈良に来た気分も高まり、奈良を好きになってきた和世と由美だった。そして、ここでも写真を写すことにした。その時、和世は亀とコイが居るのに気付き、すぐにカメラを亀とコイに向けた。すかさず由美が

「何を写してるのよ、ちゃんと私を写してちょうだい。後ろの五重塔も入れてね」

「ハイ、ハイわかっていますよ」

 和世は由美に

「ハイ、ピース」

と言ってシャッターを押した。二人は、時のたつのも忘れて、猿沢池の光景をカメラに収めていた。しばらくしてベンチに腰をかけ手持ちのペットボトルのお茶で喉をうるおしながら正面を見つめると猿沢池が広がり、右上にさっきまで居た興福寺の五重塔の上の三重だけが顔を出している。左上には、興福寺の南円堂の綺麗な屋根が見える。

 二人は、うっとりと見とれ身体全体に奈良を感じていた。

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