後編

「里奈ちゃん」

 土曜日の午後。土日は企業も休みになるので、面接もない。リビングに置かれたソファに座って雑誌を眺めていた私に、よばちゃんはテーブルから呼びかけた。

「就職活動、どう?」

「何? 突然。イイ感じだよ。今は三社が面接進んでる。二社は次が最終だから、もしそのどちらか通ったら決めちゃおうかなって」

「そう」

 よばちゃんは、そう答えると目を伏せた。言いたいことをすぐ言えないのはよばちゃんの悪い癖だ。しかも周りにそれがダダ漏れ。

「なに? どうしたの?」

「里奈ちゃん、就職が決まったら出てくの?」

「えっ?」

 予想外の質問に、ぎょっとしてよばちゃんを見た。よばちゃんは両手で握った湯飲みを見ている。

 それって、出て行って欲しいってこと? よばちゃんが私との同居をめんどくさいと思ってるってこと? 

 私はむっとした。多分――そう、私は、よばちゃんと同居してあげてる、のだと思っていたのだ。もちろんゆくゆくは同居を解消するつもりでいた。でも、それは私から言い出すことであるべきだ、と。

 よばちゃんの言葉が撫でた私の心の水面に、いくつもの黒い波が立った。

「私、何かした?」

 やっとそれだけ言う。なるべく冷静な声で。

「ううん、えっとね、あのね……」

「言いたいことあるなら言いなよ」

 よばちゃんは覚悟をしたように息をついた。

「大和屋の伊藤君と付き合ってるでしょう? あたし、それあんまり応援できなくて……」

 私は大げさに笑って見せた。

「何それ? 風紀委員みたい」

 ソファに足を組んで寝そべる。必要以上にだらしなくふるまう自分が、思春期の中学生のように矮小な存在に思えた。

「なるほど、家の風紀が乱れるから、私にいて欲しくないってことね」

「そんなことない! そうじゃなくて、里奈ちゃん、ここを出て行って一人暮らししたら、伊藤君と親密になっちゃうかなぁって」

 よばちゃんの言いたいことがわからない。私は首をかしげた。

「伊藤君……あんまり言いたくないけど、いい人だとは思わないの」

 つまり、伊藤君と付き合うな、そうならないように出ていくなってこと? 私は予想外な話題に、冷静に答えられなかった。

「私いい年だもん、恋人くらい自分で見極められるよ」

 全く説得力のない言葉。不倫して、敗走して、また性懲りもなく年下の男の子に夢中になっているくせに。でも、よばちゃんにだけは負けたくなかった。負けていると思いたくなかった。何を? そんなの知らない。それくらい、頭に血が上っていた。

だから、言ってしまった。

「私の恋愛なんだもの、自由にさせてよ。だいたいずっと一人でいるよばちゃんに何がわかるのさ! 親でもないくせに変なこと言わないでよ!」

 よばちゃんは目を丸くして手を顔の前で振った。否定していることはわかったけれど、口下手なよばちゃんはそのあとすぐに言葉を紡ぐことができない。私はよばちゃんに反論の機会を与えなかった。

「今日外でご飯食べてくる。遅くなるから」

 コートとバッグを掴むと慌ただしく外に出た。何か言わなくてはいけないと思ったのだろう、よばちゃんはいってらっしゃい、と場違いに口にした。引き戸を乱暴に閉める。

 振り返ると、曇り硝子の引き戸の向こうにたたずむよばちゃんのにじんだシルエットが見える気がして、前だけ向いて門を出た。


 あてはなかったけれど、とりあえず駅の方へ向かおうと歩みを進めた。冷たい風がちょっと落ち着けよと、鼻から脳に抜けていく。

 私はよばちゃんを下に見ていたんだ。だから、よばちゃんから同居の解消を匂わせる言葉を投げられて動揺した。それから、伊藤君とのことに口を出されていらいらした。

 自分はずっと一人で生きていけるなんてかっこいいこと思いながら、一人で暮らしてるよばちゃんを寂しい、恋人もいないなんてつまんない人生、と思ってたってことだ。

 よばちゃんを蔑むってことは、自分を蔑むってことなのに。

「ああ、私って嫌な奴」

 毒気が白い息になって空に昇った。


 どうやって帰ろうか。頭が冷えれば謝ることができないほど私だって子供ではない。

 それにしても寒い。私は駅前のカフェに入ることにした。

 チェーンのコーヒーショップのカウンターでカフェラテを注文したところで、覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「でさ、お前の新しい女、どーなん?」

「えー?」

 内緒話にもったいをつけるような笑い声。

 驚いて振り向く。見覚えのある濃紺のジャケットの背中。伊藤君だった。

 カフェラテとコップに入った水を受け取ると、そっと伊藤君の後ろの席に座った。ソファの背もたれを挟んで、背中合わせになる形になる。彼が窓の外を眺めるタイミングでちらりと顔を盗み見たけど、間違いない、伊藤君だ。なんだか自分の話をしているのが決まり悪くて、私は声をかけるタイミングを逃してしまった。

 まぁいいか。今度のデートの時にでも、実はあの時後ろにいたんだって話をするか。

 そう考えていた脳に刺さった声。

「いい感じになってたの、年上の女なんだけどさ、これがまた金持ってねーのよ。なんか失業中らしくて」

 固まった。悪口だ。まさか。ここにいることを知られてはいけない、とっさにそう判断して息をひそめる。

「おまけにそこんちのババァが俺とその女を遠ざけたいみたいでさ、注文切ってきやがった。店には俺の営業不足みたいに言われて怒られるしさー。散々」

 確かに最近よばちゃんは大和屋さんに注文していない。よばちゃんが伊藤君を私に近づけないようにしていたのか――。

「なんかバレンタインにでもかこつけて、一品二品買ってもらったらサヨナラかなー」

 ふぅ、と煙を吐く気配がした。

「暇つぶしにもつまんねー女だしな。ま、そもそもババァとアラサーの二人暮らしが面白いはずねーよな」

 一瞬、さっと手足が冷たくなった。指先が震える。ふいに、ぬか床を混ぜるよばちゃんの背中が浮かんだ。よばちゃんは一人でも、ずっとよばちゃんとして暮らしている。それを寂しいなんて、つまんないなんて言うことは、私はおろか、誰にだってできない。

 それから――突然、よばちゃんが切ってくれる茄子のぬか漬けの香りが鼻腔を通り抜けた気がした。なぜだろう、指先がほっこり温かくなった。胸が熱くなって、震えている場合じゃなくなってきた。

 よばちゃんのことをろくに知らずに、あのぬか漬けの味も知らずに、よばちゃんをこき下ろすなんて。よばちゃんだぞ。その姪たる私をこき下ろすなんて、なんて残念な奴。

 もう座ってなんてられなかった。こんな奴、こっちからサヨナラしてやる。立ち上がって、席を後にしようとした。だけど、思い立って振り返る。私は硝子のコップを彼の頭の上にかざした。

「あ、おい!」

 彼の前に座る友人の顔が驚きに変わる。

「え?」

 直後、伊藤君は声をあげて首をすくめた。私が彼の上でコップを逆さにしたから。驚いてこちらを振り返る、伊藤君の見開かれた目。

 けれど私は伊藤君ではないものに目を奪われていた。座った彼のその向こう、店の外でガラス越しに突っ立っている人影。今度は私が目を丸くした――。


 よばちゃんの荷物を受け取って、歩く。

 よばちゃんは、大和屋さんに注文をやめてから、重い物でも駅前のスーパーまで自分で買い物に出ていたのだという。しょうゆのボトルが入った袋は、私にとってはそんなには重くはない。

 伊藤君は怒っていたが、私が先ほどの話を聞いていたことを言うと、黙り込んだ。

大和屋さんに告げ口をされると困ると思ったのだろうか。そのまま、店を出てきた。

「伊藤君、びっくりしてたね」

「まぁね」

「里奈ちゃん、突然あんなことするからびっくりしたよ」

「私はよばちゃんがいたことの方にびっくりしたよ」

 私とよばちゃんの言葉が、交互に白い息になって浮かぶ。

「里奈ちゃん、晩ご飯要らないって言ったけど、なんだかやっぱり二人分作っておこうかなぁって……夜遅く家に帰ってきた時、いい匂いした方が嬉しくない? ちょうどしょうゆが切れてて、それは困るなぁって思って」

 よばちゃんはなぜだかちょっと恥ずかしそうにそう言った。さっき喧嘩したことなんて、すっかり忘れてしまっているような話し方だ。私が帰りやすい口実を考えてくれていたのだろうか。よばちゃんにとっては、私なんてずっと小さな子供のようなものなのかもしれない。もう数時間したら、きっと「ご飯できたから帰ってこない?」と留守電に入れてくれていたのだろう。

「よばちゃん、ごめんね。よばちゃんが言ってた通り、あの人、いい人じゃなかった」

 よばちゃんは、もう一度照れくさそうに俯くと、うん、と言った。

「よばちゃん、私、仕事が決まってももう少しよばちゃんと暮らしててもいいかなぁ?」

 よばちゃんは、驚いたように私を見た。

「もちろん、それはいいけど……」

「ほら、こんな風に私がいた方が、荷物も持てるし、良いことあるでしょう?」

 そう言うと、よばちゃんは笑った。

「そんなの、最初に里奈ちゃんがご飯を美味しい、って言ってくれた日から、ずっと里奈ちゃんがいていいなぁ、って思ってるよ」

 今度は私が驚いた。

「おいしいって? それだけで?」

「ご飯を作って、一番嬉しいのは美味しいって言ってくれる人がいること。一緒にご飯を美味しいねって言える家族がいることだよ」

「私たちって、家族? 他人だけど、家族?」

「家族に決まっているじゃない。もうそれは絶対に、家族」

 よばちゃんはそう断言した。そうか。家族って、血縁のことじゃないんだ。一緒にご飯を食べて、おいしいって言える誰かのこと。よばちゃんのきちきちとした生活は、誰かと家族になるための約束だったんだ。優しいロープは、家族を結ぶ、糸のようなもの。

「絶対に家族」

 口の中で呟いて、私はひっそり微笑んだ。

「ねぇ、よばちゃん、大福買って帰らない?」

「あのお店で? いいねぇ、そうしようそうしよう。草餅も買っちゃおう」

 よばちゃんと私は、角を曲がった。

 もうすぐ、難しい顔をしたおじいさんが座っているのが見えるはずだ。


                               了

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よばちゃんの日々 荒城美鉾 @m_aragi

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