よばちゃんの日々

荒城美鉾

前編

「里奈、洋子と暮らさない? しばらくの間でいいから」

 母がそう言ったのは、私が転職活動をしなくてはならないと漏らしてから一週間後のことだった。九月。契約社員として勤めていた企業で、年末は契約の更新がなされないことが決まっていた。

「え? なんで?」

 洋子、とは母の妹のことだ。小さい頃からようこおばちゃん、縮めてよばちゃんと呼んでいた。ずっと独身で、今も一人で母の実家に住んでいる。

「洋子とこの間話してたのよ。やっぱり一人は不用心ねぇって。あんたもここに住んで就職活動するよりやり易いんじゃない? 就職決まってから、また引っ越しちゃえばいいのよ。どうせ一人暮らしの方がいいんでしょ?」

 確かに私の実家は、就職を探しているO県からは通勤圏とはいえ隣県になる。交通費の面では不利には違いない。

「洋子ねぇ、実は年末に一度倒れたのよ。脳の血管がつまってね。その後すっと治ったらしいんだけど、不安がってるのよねぇ。まあおたがい大人だし、同居人とかルームシェアみたいなもんだと思えばいいじゃない」

 連休に実家に帰って来ていた私は、人数の多さにうんざりしていた。両親、祖母、弟、そして私。大人が五人もごろごろしているこの状況。実家に帰ってきて早々、一人暮らしの社宅が恋しくなっていた。まぁ、その社宅も出なくてはならないのだけれど。誰かと一緒に暮らすっていうのは疲れる。五人よりは二人の方がまだマシに違いない。利害が一致。いいよ、と私はうなずいた。こうして私は、よばちゃんと暮らすことになった。


 一月の初旬、いくらかの洋服やら何やらを持って、私はよばちゃんの家を訪れた。

よばちゃんの現在の住まい、母の実家はO県の県庁所在地の隣の市、今ではベッドタウンになっている街にあった。昔は畑ばかりだったそうだが、あれよあれよと言う間に大きな街になったのだという。

 母の実家に来たのは祖母が亡くなって以来、七年ぶりくらいだろうか。新築の住宅が並ぶなかで、ちらほらある古い家のうちの一つ。昔は茅葺きだった屋根をトタンで覆っている。

「里奈ちゃん、いらっしゃい」

 よばちゃんはそう言いながら、私を家の中に導いてくれた。よばちゃんの家は、入ってすぐは土間。昔の家に多い、応対をするための一段高い式台を抜けて襖を開けると、八畳の居間だ。土間の隅に踏み台が置いてあり、階段のような役目を果たしている。靴を脱ぎ、小さい頃のように両手をついて膝で式台の框に乗る。襖をあけると、懐かしい居間だった。

 家の中はしんとしており、ラジオの音だけが小さく鳴っていた。私が所在無くもじもじしていると、よばちゃんが面白そうに笑った。

「里奈ちゃん、懐かしいでしょ。好きに寛いでね。特に触ったり開けたりしたらまずいところもないし」

 居間から中庭を挟んで左右両側に家は分かれていて、右に行くと台所とよばちゃんの部屋、左に行くと四畳半と仏間。昔は仏間におじいちゃんとおばあちゃんが暮らしていた。今は四畳半を開け放ち、八畳と一続きの大きな居間として使っている。

「今、お茶入れるね」

 畳の上にテーブルとイスを置き、後は黒くて大きな棚が一つあるだけ。棚の中には、本やお茶の道具などが余裕を持って置かれている。棚からカップと急須と紅茶の缶を取り出して、コンセントに指しっぱなしのケトルでお湯を沸かし始めた。私は亀のように首をすくめながら居間を見回す。乱雑でごちゃごちゃした私の一人暮らしの部屋とはえらい違い。

「テレビとか……パソコンは?」

「パソコンはないの。テレビは……ええっと、これね」

 よく見ると、棚の中に小さなディスプレイが鎮座していた。ワンセグのテレビのようだ。

「……へぇ」

「里奈ちゃん、とりあえず荷物置いておいでよ。左の仏間をあけてあるんだけど……仏間でも平気? あっちの方が明るくていいかと思って……」

「平気。だってお仏壇の中にいるのはおじいちゃんたちでしょ? ありがとね」

 明るく言って、襖を開けて仏間に入った。電気の傘が古い。昔うちもこうだったなぁ、という、細い竹で編んだ傘。

 コートを脱いで、ジーンズとセーターになる。思いついて、荷物の中からニットソックスを出した。そう。この家は何しろ寒いのだ。

「ストーブ点けてるけど、寒かったらエアコンもつけようか?」

「いい、大丈夫。ありがとう」

 四畳半の部屋に据え付けた木目調の古びたエアコンを見上げる。よばちゃんのひっそりとした暮らしを、そのまま形にしたようなリビング。

「何もないんだね」

「おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったときに、全部片づけちゃったから」

 なんで、とは聞かなかった。次はよばちゃんの番だと思っているのだろう。よばちゃんは独身だ。私たちのほかに係累もいない。察したようによばちゃんは笑いながら言った。

「この年になると、要るものって本当に少ないのよ。あ、里奈ちゃん、クッキー焼いたんだけど、食べる?」

「食べる食べる。ありがとう」

 よばちゃんの作ったクッキーは、素朴でシンプルな卵と小麦粉の味がした。

「おいしい」

「お昼まだでしょ? お味噌汁と漬け物くらいならすぐあるけど、それでもいい?」

「ありがとう。でもあんまり気にしないで」

 わかってる、と言いながらよばちゃんは台所につながるガラス戸を開けた。台所に入ると冷蔵庫をあけて、ぬか床の入ったタッパーを取り出した。

「おばあちゃんのぬか床だ」

「そうよ。よく覚えてたね」

 これは、おばあちゃんから受け継いでいるぬか床なのだ。

「もっと大きい壺じゃなかった?」

 それはこっち。そういってよばちゃんは流しの下を開けた。黒いつやつやした瓶が、でんと座っている。台所の主のようだ。

「こっちは混ぜて古漬けを漬けてるだけ」

 よばちゃんはそう言いながら流しを閉じて冷蔵庫に向かった。

「沢山漬けても食べきらないうちに漬かり過ぎちゃうのよ。今はこのタッパーの分だけ」

 寂しくない? という言葉を飲み込んだ。

 テーブルにお味噌汁と漬物とご飯が並ぶ。

「里奈ちゃん、どう? おいしい? お味噌汁辛くない? こんな感じでいい?」

「ううん、ちょうどいい。おいしいよ」

「本当、よかった。今年は頑張ってお味噌仕込んでみようと思っているの」

「へぇ、すごいんだね」

 さっきからありがとうとおいしいばかりを繰り返している気がする。そのおいしさはお店で味わうおいしいではなく、自分で作ったなら普通のおいしいだ。けれど、作ってもらったら「おいしい」と言わなくてはならない。それがお礼になるからだ。よばちゃんの重たい優しさが染みこんだぬか漬けを咀嚼する。

 そういう、一つ一つの営みきっちりと感じさせる暮らし。それがよばちゃんの暮らしだった。じわじわと、優しいロープで正しくつながれるような。そうだ。思い出した。ひかえめに言って、私はよばちゃんが苦手だった。

 昔からずっと。


 よばちゃんとの日々が始まった。

 家賃と食費を入れること、朝は自分で、昼は別。晩ご飯はよばちゃんが作るけど、いらない日はちゃんと伝えること。よばちゃんは携帯を持っていないので、固定電話しか連絡方法はない。八時間働いていた日々が懐かしい。私はハローワークに行ったり市内の人材紹介会社に行ったりと予定はあるものの、概ね暇な日々。ハローワークからの帰り道は寂しい。今日の予定がこれで終わってしまったということをまざまざと感じるからだ。

 真っ直ぐ帰っても仕方ないし、本屋でも寄って帰ろうかと道を入ったところで、一軒の和菓子屋が目に入った。ガラスのショウケースが外を向いている。店自体は三畳ほど面積があるようだが、商品はショウケースに並んでいるものが全てのようだ。屋台とほとんど変わらないような店構え。どう考えてもこんなに毎日売れることはないだろう、という量の大福や草餅が、ちょこんと並んで私を見上げていた。

 ふと奥を見ると、店主のおじいさんがこちらに向かって獲物をねらう獣のように腰を浮かせていた。ぎょっとして後ずさる。焦りのあまり、買う気はないですよ、と体の向きをずらした。おじいさんは私を観察すると、厨房だろうか、奥に引っ込もうとした。ほっと胸をなで下ろす。立ち去ろうとして、再びショウケースが目に入る。いつでもいけますよ! という顔をして並んだ大福たち。面接ではきはきとやる気をアピールする自分と重なる。そのまま立ち去ることができなかった。

「すみません、大福四つ」

 袋を渡して店の奥に下がっていくおじいさんの後ろ姿は、さっきとは似ても似つかない老亀のようだった。


「でさ、なんかあまりにけなげに並んでるから、買ってきちゃった」

「わかるわー。でも、あそこのおじいさん、ちょっと怖くない?」

 よばちゃんのいれてくれた熱いお茶を飲みながら、私たちは笑いあった。二週間がたち、よばちゃんとの生活は、ゆっくりと形になっていった。私は少しずつ、誰かと暮らすということを思い出しつつあった。

 高校を卒業、大学進学と同時に家を出て、就職後も一人暮らしを続けていた私は、最初のうちは常に人がいるという事にたまらない居心地の悪さを感じていた。これはよばちゃんが他人だからというわけではなく、家族であってもそうだった。連休程度に帰る実家でさえ、リビングに常に誰かがいる状況を息苦しく感じていたのだから。

 おいしいとありがとうに満ちたよばちゃんの暮らしは相変わらず苦手だったけれど。


 土曜の午後、インターホンが鳴った。

「大和屋です。お米をお届けにあがりました」

 よばちゃんは市民ホールに講演を聞きにいくとかで留守にしていた。大和屋さんが来ることを知らされていた私は、インターホンに返事をすると、慌てて玄関を出た。

「すみません、お待たせしました」

 ドアを開けたところに立っていた若い男の子は、驚いた顔をして私を見た。

「あの……?」

「あ、すみません、えっと、浜村さんは?」

「よば……すみません、おばは外出してまして。お米を受け取るように伺ってます。こっちにお願いします」

 大和屋さんは、サザエさんでいうところの三河屋さんみたいなものだ。よばちゃんはたいがいのものは自分で買うのだけれど、一升瓶の酒や醤油、お米なんかの重い物だけは、昔からの馴染みの大和屋さんに届けてもらっていた。よばちゃんに言われていたとおりに、十キロのお米の袋を居間を抜けて台所まで運んでもらう。

「どこに置きましょう?」

「え? えーっと……」

 しまった。そこまでは聞いてなかった。

「し、しかるべきところに……」

 私は口ごもって台所を見回す。大和屋の彼は笑い声交りに「はい、ではしかるべきところに」と言った。

 いつもそこに置くのだろうか。台所の隅の棚の前にお米の袋を置くと、大和屋の彼はうーん、と腰を伸ばして私に視線を合わせた。たっぷり五秒は黙って私を見つめた後、にっこりと笑った。

「伊藤です。よろしくお願いします」

「えーっと……浜村の姪です」

 伊藤と名乗った大和屋の彼は、私よりずっと背が高い。私を見下ろしながら首をかしげるように言った。日に焼けた首がしなやかにカーブを描く。

「名前は?」

「山岡です」

「浜村山岡?」

「いや、なんでですか。名前は里奈です」

「里奈さん」

 にっと笑って、伊藤君は手を差し出した。

「よろしくお願いします」

 しまった、と思いながら、私は手を握り返した。やられた。私がいくら馬鹿でもわかる。ナンパされたのだ。そしてもう一度しまった、と思った。これだけで私は、恋に落ちてしまう女なのだ。


 何をしているんだ、私は。

「伊藤君からの御用聞きが突然増えたんだけど……里奈ちゃん、この間何かあった?」

「え? 別に……」

 そう言って雑誌に目を落としながら、内心は動揺していた。こんなわかりやすいアプローチをかけられたのは久しぶりだった。

「デートに行きませんか、里奈さん」

 それから数日、よばちゃんがいない日にかかってきた電話で、伊藤君はそう言った。

 私は、携帯の番号を教えてしまっていた。


 何をしているんだ、私は。

 二回目のデートで、伊藤君とキスをした。伊藤君が着ている濃紺のジャケットが目の前から離れていく。苦いたばこの匂いがした。

 ドライブの途中、夜景の見える駐車場で。なかったことにできてしまいそうな軽いキスだった。なんでもないことのように視線を夜景に戻して、伊藤君はコーヒーを飲んだ。私もドリンクホルダーに入ったチューハイに手を伸ばす。こんなキス、なんでもないよって自分に言い聞かせながら。

「俺、年上の可愛い人に弱いんすよね」

 そうか、私は年上の人なんだ。少し落胆して、でも可愛い人って言ってもらえたしまぁいっか、と浮上した。単純なのだ。私は。

「里奈さん、なんで浜村さん家で暮らしてるんすか?」

 伊藤君はたばこに火をつけながら言った。染めているのだろうか、抜けているのだろうか、わずかに茶色くて細い、長めの髪が一瞬ライターの火に照らされる。

「まぁ、三十にもなったら色々あるのよ」

「えっ、里奈さん、三十なんすか?」

 伊藤君は驚いたように言う。私は狼狽した。

「……そうだけど、悪い?」

「いや、見えないなぁ、と思って」

 私は自分の染めていないショートカットの髪をなでた。頬が明らかに紅潮した。見え見えのお世辞なのに、ダサい、私は。三十にもなって、男の子のいなし方一つ知らないのだ。見えないなぁ、とはきっと褒め言葉のつもりなのだろう。喜びの裏側に、自分の未熟さを突きつけられたような気がして黙った。

 伊藤君は二十五歳だと言っていた。

「里奈さん、あんまり無理しない方がいっすよ。大人ぶろうとしてるでしょ」

 私はぎこちなく固まってから、うなずいた。

 伊藤君の言葉は年頃の男の子には似つかわしくない正確さで、相手の弱点を突いていた。

 そうして、私は無防備にされていく。

「心配だなぁ」

 そう言って、伊藤君は私の手を握る。伊藤君の手は、やっぱりしなやかだった。不思議だ、力仕事のはずなのに。カチカチに固まっていた私の中身が、触れた手から割れた卵みたいに流れ出ていく。

「心配って?」

「悪い男につかまったりしちゃいそうで」

「そうかもしれない」

「不倫とか、引っかかっちゃ駄目っすよ。里奈さんみたいなタイプが、きっかけさえあればコロッと行ってのめりこんじゃうんだから」

 伊藤君は私の頭を引き寄せて、わしわしと髪をかき回した。私という人間が伊藤君の手のひらで優しくほぐされていく。

 どうして見抜かれちゃうんだろう。

 もっと伊藤君と早く出会っていたら、私はあんなつまらない失敗をしなかっただろうか。

 そっと目を閉じた。


 契約社員として入った会社で、声をかけてくれた上司。何度か飲みに行き、毎日ささいな相談をする仲になり、恋人になった。

――つもりだった。奥さんがいるなんて、知らなかった。

「でもいいでしょ? このままでも」

 うなずいた。一人だって平気だし、そもそも一緒に暮らすことで縛ったり縛られるなんてナンセンス。家族なんてくそっくらえ、古くて馬鹿馬鹿しい、くだらないシステム。そう言って、相手の家族も自分が将来持つかもしれない家族も切り捨てた。

 大事なものを切り捨てたら、守るもののない自分は強くなった気がした。個人主義というカッコイイ鎧をまとっているつもりだった。

 そして、切り捨てられた。いとも簡単に。

 契約を更新しないことを告げられた日、真っ暗な家に帰って、鍵をかけた瞬間、泣いた。玄関で、靴も脱がずに。

 泣いても、一人暮らしの家は静かだった。

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