逃げられない女

深上鴻一:DISCORD文芸部

逃げられない女

「わたしの思い出を、買って欲しいんです」

 ベッドに横たわった女性は、その横の椅子に腰掛けた私の目を、静かにみつめながら言った。

 その青い瞳の周りは、黄色く濁っている。ピンクのパジャマに包まれたその身体は、ひどく痩せ細っている。黄色い毛糸の帽子の中には、きっと毛髪はないだろう。

「とてもいい思い出なんです。悲しい最後を迎えるけれど、素敵な素敵な恋の思い出なんです。女の子ならきっと、誰もが欲しがると思います。もちろん、売った思い出が失われることは承知しています」

 私はただ、はい、とだけ答えた。私は記憶を売りたい人にできるだけ安い額を提示し、記憶を買いたい人にできるだけ高い額を提示する、スーツを着たただのサラリーマンに過ぎない。頭にキューブを取り付けるのは白衣を着た技術者たちの仕事だし、その記憶に値段をつけるのはよれよれのTシャツにジーンズを履いたオタクたちの仕事だ。その記憶の内容に興味はない。関係もない。いつもなら。

 この白い病室には、私の他に五人も同席している。その五人とは、私も言葉を交わしたことがないはるか上の地位にいる上司、当社が雇っている敏腕の弁護士、医者、心理士、看護士。たかだか記憶の買い取りなら、ずいぶんと大げさなことだ。

 彼女は言葉を続ける。

「一年の、たった一年の恋です。春。公園を染める桜の色。ボートに乗るわたしたち。小さな小さなふわふわの子犬。夏。海岸で打ち上げられる色とりどりの花火。それを見上げる、水着姿のわたしたち。かき氷の冷たさ。虫除けスプレーのハーブの匂い。秋。地面を埋める落ち葉の赤と黄の絨毯。その上をかさかさと音を立てて歩く、コート姿のわたしたち。甘くて濃厚な生牡蠣の味。芳醇なワイン。冬。ベッドの中で寄り添い合い、お互いの体温を感じる早朝。小さいけどてっぺんにぴかぴかな星のついたクリスマスツリー。暖炉の前で丸くなって眠る犬。彼のために買った新しいブーツ。わたしに贈ってくれたダイヤの指輪」

 彼女は、そっと泣いていた。

「出兵の朝。神様に祈り続ける日々。印が付けられていくカレンダー。そして突然に鳴る電話。悪い予感。泣き崩れるわたし。黒い服の男たち。黒い服の女たち。見たこともないような立派な棺桶。青空に鳴る空砲」

 長い間があった。

「もうだめです。つらいんです。こんな記憶、売り飛ばしてしまいたいんです。病でもう数ヶ月の命しかないわたしには、この思い出は眩しすぎてとても耐えられないんです。この気持ち、あなたにはわかりますか?」

 私は、はい、とも、いいえ、とも言わなかった。

「さあ、買ってください。お代はいくらでも構いません。わたしの頭の中からこの思い出をキューブで抜き取って、わたしを楽にしてください。お願いします」

 私は言う。言わなければならない。

「あなたのその思い出を、買うことはできないのです。なぜなら」

 はっきりと、私は告げる。

「あなたのその記憶は、買ったものだからです」


 私はできるだけ淡々と言った。

「買った記憶を、再び売ることはできません。そんなことをしたら世の中がめちゃくちゃに、いや、ますますめちゃくちゃになってしまうからです。法律でそう決まっているのです」

 弁護士が、うむ、と頷いた。

「なぜ私のような男がやって来て、こんな重要な事を告げているのかわかりますか。覚えていないでしょうが、私はあなたに、その記憶を売った男だからです。私には、あなたに真実を話す義務が生じているのです」

 彼女は、私の話を聞いていたのだろうか。

 その顔は大きく歪んでいる。

「ああ! わたしのこの思い出は、誰からか買ったものだったんですね! ああ、ああ!」

 それは笑顔のように見えた。悲しすぎる、引きつった笑顔。

「どうりで、こんなに美しいわけです! 何度も何度も思い出してしまい、そのたびにわたしの身体を熱くするわけです!」

 それから彼女は大きく泣き出した。

「なんて哀れな女! 誰か知らない人から買った思い出に酔いしれ、今度はそれに耐えきれず売ろうとしている! しかし、売ることはできないのですね! わたしはこの思い出に焼かれながら、死んで行かなければならないのですね!」

 私は、はい、と頷いた。

 彼女は目を閉じた。

 長い沈黙のあと、呟く。

「今まで、買った記憶だとは知らずに、それを売ろうとした人間は他にもいるのではありませんか?」

「数年に一人もいません。買った記憶は、その人が欲した記憶なのですから、手放す理由がないのです。困窮のために売る者も、じつはいません。記憶を買うなんてことにお金を使えるのは、そもそも裕福な者だけだからです」

「わたしはごく極めてまれな例外なのですね。これは罰なのでしょうか? 思い出を買った罰? それを売ろうとした罰? その両方なのかしら?」

「罰だなんて、そんなことはないと思いますよ」

「そうですね。あなたたちは、これで生活しているのですもの。罰だなんて認めるわけがありませんよね」

 私は椅子に座り直し、ふう、と息を吐いた。

 そして言う。

「私には、さらに本当のことを、あなたに告げる義務があるのです。法律でそう決まっているからなのですが」

「何かしら? いまさら、興味などありませんけれど」

「あなたのその記憶を、誰が売ったか、なのです」

 彼女は驚いたようだ。

「それを教えることは禁じられているのではありませんか? そんなこと、子供だって知っています」

「何事にも例外はあるのです。いいですか、良く聞いてください」

 私は告げる。

「あなたが買った記憶は、誰が売ったものなのか。あなたです。あなたは自分の記憶を、自分で買い戻していたのです」


 私は言わなければならないことを、淡々と言う。

「あなたは記憶を売りました。私たちは喜んで買いました。そして約半年後、あなたは、その売った記憶を買いました。私たちも商売です。喜んで売りました。あなたに教える義務はありません。しかし、その買った記憶をまた売ることはできないのです。だから私たちはこうしてやって来て、真実を話しているのです」

 彼女は泣いていた。

 今度は両手で顔を覆って。

 静かに、ただ静かに。

「世の中がますますめちゃくちゃになるから、と私は言いました。しかしそれは真実ではありません。本当は世の中ではなく、あなたを守るためなのです。我々も商売ですから、買った記憶は売らないと経営ができません。そのため、あなたはその記憶を売ったとしても、また買ってしまうでしょう。あなたは何度も何度も、寿命が尽きるまでそれを繰り返してしまうでしょう。私たちには、それがわかっているのです」

 心理士が頷いた。

 私は宣告する。

「あなたは、この記憶から一生逃げることはできないのです。あきらめてください」

 彼女の肩が震え始めた。

 医者が看護師に目配せをした。

 看護師は手のひらの中のボタンを押した。

 彼女は深い眠りに落ちた。

 上司が私の肩に手を乗せた。

 私はハンカチを取り出して、涙を拭いた。

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