第4話 一番大事なのは


 部屋に入ったからなんだというのだ。

 彼女が手を離したら逃げれば済むことに変わりないじゃないか。

 そう思った俺が甘かった。

 逃げようとしたら、彼女は足の怪我のことも考えず、俺を追いかけようとしてきた。

 そして、転んだ。

「大丈夫か!?」

 俺は逃走を中断し、彼女に駆け寄った。

 彼女は苦痛に顔を歪めながらも、無理に笑ってこう言った。

「やっぱり、小坂君は優しいね。今、逃げられたのに、ちゃんと戻ってきてくれるんだもん」

「バ、バカ! そんなこと言ってる場合か! 無茶すんな!」

「じゃあ、逃げずにちゃんと話を聞いて?」

 まさか自分自身を人質にするとは……。

 そうまでして、いったい何がしたいんだ、この女は?

 なんにせよ、俺は逃げるに逃げられなくなり、彼女の家でお茶をいただくことになった。

「はい、どうぞ」

 この薬湯みたいな香りは、アールグレイティーか。

 それから、お茶請けとして出された皿の上には――真ん丸な形のトリュフチョコ。

「ちょっと待った。これってもしかして、さっきの義理チョコ?」

「……バレちゃいましたか」

 小首を傾げ、「てへへ」と苦笑い。

 まだ諦めてなかったのか。

 こんな搦め手まで使ってくるとは、小賢しい!

「もう細かいことはいいから食べてよ!」

 今度は勢いで押し切ろうとしてくる。

 だが、乗せられはしない。

「一応確認しておくけど、これ食べたらホワイトデーにお返ししなきゃならないんだよな?」

「え、当然でしょ?」

 しれっと言いやがるし。

「じゃあ、遠慮しておく」

 俺は紅茶だけを口にした。

「えー、なんで? そこまでお返ししたくないの? もしかしてお金に困ってる? 借金あるとか?」

「借金なんてないよ。お金の問題じゃなくて、ワケのわからん風潮に流されるのが嫌なんだ。だっておかしいだろ? 好きでもない相手のためにお金を使わなきゃならないなんて。そんなイベント楽しいか?」

 率直に聞いてやると、彼女は「いや……うん……」と曖昧に頷いてから言う。

「まあ、楽しくない部分もあるけど、それは仕方がないっていうか……」

「その〝仕方なく〟って部分がおかしいんだよ。仕事なら嫌なことでも我慢しなきゃならないのはわかる。だけど、個人のお金を使って嫌なことをやらされるなんて明らかに間違ってる。そうは思わないか?」

「それはそうだけど……」

「俺なら、そんな無駄金使うより、好きな人や家族のためにお金を使いたい。そういう考えの人間がいちゃおかしいか?」

「ぅぅ……」

 彼女は泣きそうな顔で縮こまってしまった。

 少し言い過ぎたか?

 いいや、見た目や仕草に騙されてはいけない。この女は強(したた)かだ。

 とはいえ、一方的に攻め立てるのは気が引けるので、俺は彼女からの言葉を待つ。

 しばしの沈黙の後、彼女は小さく口を開いた。

「じゃあ小坂君は、義理チョコじゃなくて本命チョコなら受け取ってくれるんだ?」

 またドキッとするようなことを言う。

 だが、この質問に深い意味はない。目の前の皿にある義理チョコが本命チョコに変わったりはしない。

 俺は鼓動を抑えつつ、冷静に答える。

「もちろんだ。本命なら喜んで受け取る。お返しは三倍どころか十倍だって惜しくない」

「そうなんだ……。でもでも、本命チョコだって元は企業戦略だよ? それでもいいの?」

「いい」

 俺は力強く頷きつつ断言した。

 そして、本心を語る。

「あのな、一番大事なのは本人が楽しいかどうかなんだよ。企業戦略だろうとなんだろうと、楽しければいいんだ。楽しいイベントにお金は払うのは普通のことだからな。別に本命チョコじゃなくたって、義理チョコだって友チョコだって、楽しいならいい。けどな――」

 ひと呼吸置いて、俺は続ける。

「楽しくないイベントにお金を払うなんておかしいだろ? 金だけ取って楽しませてくれないなんて詐欺同然じゃないか。そんなイベントは間違っている。間違ったイベントに俺は参加しない。ただそれだけのことなんだ」

 これで言いたいことはすべて言った。

 しかして、彼女の反応は――

「ほわぁ、そういう考え方もあるんだ……。やっぱり小坂君って、なんか普通とは違うなぁ」

 感心しているのか、いないのか、よくわからない様子だった。

 まあ無理もないか。

 たかが義理チョコを受け取るか否かでここまで深く考える人間など見たことも聞いたこともあるまい。

 そう、九分九厘の人間は何も考えちゃいない。

 みんながやるから自分もやる。それだけなのだ。

 しかし、彼女は九分九厘の側ではない。

「それを言うなら、星口さんの執念だって普通じゃないだろう? いい加減教えてくれないか? どうしてそこまでして義理チョコを渡そうとするのか」

 もし俺の予想どおり彼氏の気を引くための口実だと言うなら、今度こそ即帰る。怪我が悪化しようと知ったことじゃない。なにがなんでも帰る。

 答えをはぐらかした場合も同じだ。

 さすがにこれ以上、こんな茶番に付き合ってはいられない。

 数秒間の沈黙の後、彼女はうつむき加減でポツリと言う。

「小坂君が噂どおりの人かどうか、確かめたかったの」

「……噂?」

「うん。少し前に、事務所の方で小坂君のことが話題になってね。小坂君って飲み会とか全然来ないし、忘年会も来なかったじゃない? だから、付き合い悪い奴だなってみんな言うんだけど、本当にそうなのかなって思って」

 付き合いが悪いのは本当だ。俺は酒が飲めないため、飲み会のお誘いはことごとくお断りしてきた。

 俺はそれを悪いことと思っちゃいないが、考えの古い連中はそうは思わない。連中の頭の中では、飲み会は仕事の範疇であり(しかも無給)、ただ気が乗らないというだけで参加しない奴は非常識なのだ。ましてや忘年会まで欠席しては噂になるのも無理はなかろう。

 だが、彼女はそんな古い連中と付き合いつつも、違う考えを持っているらしい。

「小坂君は、飲み会や忘年会を強制するのはおかしいって話が、最近ネットでよく記事になってるのは知ってる?」

「ああ」

「わたしも、おかしいとは思うんだけどね。でも実際問題、場の空気に逆らうとか無理じゃない? 少なくともわたしには無理。だからね、割とハッキリ断る小坂君にね……」

 不意に彼女は声をすぼめ、うつむき加減で顔を赤らめる。

 それから、少し間を置いて、小さく言う。

「憧れてたの……」

「え? お、俺に?」

「うん」

 驚いた。可愛くて人気者の彼女が、俺みたいな協調性のない男に憧れるだって?

 この腐敗した社会で、そんなことがあるのか?

 彼女は控えめな声で続ける。

「わたし、断るのがすごく苦手で、ほんとは飲み会とか行きたくない時も、つい笑顔で返事しちゃうの。だから、嫌なことをハッキリ断れる小坂君はすごいなと思ってて、その……できたら、お近づきになれたらなぁって……」

「それで、あんな無茶を?」

「うん」

 そう言ってくれるのは嬉しい。嬉しいけど――

「こらこら、彼氏がいるのに別の男とお近づきになりたいとか言っちゃダメだろう?」

「あ、それ嘘。ほんとは彼氏いないの」

「はへ!?」

 あまりのことに、すっとんきょうな声を出してしまう俺。

「え、え? なんで、そんな嘘を?」

「あ、うん、だから、小坂君に勘違いされないように、彼氏いることにした方がいいかなって。小坂君のことは、あくまでも尊敬してるんであって、恋愛感情とは違うから」

「は、はぁ、そうでしたか……」

 確かに、彼氏の存在が防波堤にはなっていたが、その嘘で俺がどれだけ心苦しい想いをしたか……。

 まあ、今も苦しいんだけどね。恋愛とは違うってハッキリ言われちゃったからね。

「ところで、もう七時だし、お腹空いてるでしょ? これ食べてよ」

 彼女がトリュフチョコの乗った皿を俺の前に動かす。

 確かにもう腹ペコだ。しかも俺の好きなチョコレート。

 正直、食べたい。

 しかし、目の前にあるこれは、世間一般でいう義理チョコなのか? 

 少なくとも俺には、もっと価値のあるものに思える。

 どうでもいい会社の上司とかに配る義理チョコとは明らかに違う。

 恋愛感情ではないにせよ、このチョコには彼女の想いが込もっている。

 それを義理チョコごときと一緒にしていいのだろうか?

 さりとて本命でないことは明言されている。

 じゃあなんだ? このチョコは?

 なかなか手を伸ばさない俺に業を煮やしてか、彼女は言う。

「ねえ、義理チョコがダメならさ、準本命ってのはどうかな?」

「準本命? 準ってなんだ?」

「だから、義理と本命の中間ってこと。本命は誰にも渡したことないんだから、今のところは一番特別だよ?」

 特別……。

 しかも一番かぁ……。

 準ってのが少々気になるが、それなら受け取らないわけにはいかないな。

 俺は皿の上のトリュフチョコを手に取り、口に入れた。

 

                                         

                                         終

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義理チョコを意地でも受け取らない男と意地でも渡す女 ンヲン・ルー @hitotu

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