第3話 簡単には逃げられない


 彼女が診療を受けている間、俺は考えた。

 彼氏がいるというのに、他の男に対して勘違いしかねない言動や行動を繰り返す理由。

 冷静になってみると、そんなものは限られていることに気付く。

 本当に彼氏のことを大事に思っているのであれば、他の男にくっついたり、露骨に甘えたりはしない。

 つまりだ。彼女は今、彼氏と上手くいっていないのではなかろうか?

 それで彼氏の気を引くために、人畜無害そうな俺を利用しようとしている。

 そう考えると辻褄が合ってしまう。

 逆に、さっき彼女が口にした「みんな配ってるのに自分だけ配らないわけにはいかない」という発言は辻褄が合わない。

 なぜなら、休んでいた俺には誰も義理チョコを渡していないからだ。みんな忘れているのだから、俺に限っては義理チョコを渡さなくても問題ないはずだ。

 要するに、義理チョコは俺に近付くための口実に過ぎないのだ。だから理由を説明しようとしなかった。

 うん、そうだ。そうに違いない。

 そうでなければ、年齢イコール恋人いない歴の俺のような男に、あんな可愛い子が……あんな可愛い子が……ちくしょうめ。

 ま、俺らしいといえば俺らしい惨めな結末だ。

 あるいは、ほんの一瞬とはいえ夢を見させてもらっただけで良しとすべきなのかね。

 なんだかんだ言ってもけっこう楽しかったしな。

 もう今日みたいなことは一生ないんだろうなぁ……。

 看護師に支えられた彼女が待合室に戻ってきた。

 彼女は俺の顔を見てホッと表情を緩めた。

「よかった、待っててくれて」

 隣に座った彼女が小声で言う。

「同僚だからな」

 俺は短く答えた。

「あれ? もしかして怒ってる?」

「怒ってはいないよ。ただ、待ってる間に冷静になっただけさ」

「そうなんだ……」

 すぐ横にいる俺が辛うじて聞き取れるくらい小さく言って、彼女は沈黙した。

 その後、受付で料金を払い、外に出てバス停に向かう。

 接骨院からバス停までは、ほんの十メートルほどの距離だったので、今度はおぶるのではなく肩を貸してそこまで歩いた。

 少しして、バスが来る。

「じゃあ、家までお願いね」

「わかった」

 送ってやるよ。同僚としてな。

 だが、送ったらすぐに帰る。問答無用で即刻だ。たとえ彼女がどんな誘惑をしてこようと、俺は絶対に乗らない。彼氏の気を引くための道具にはならない。その一線だけは死守してみせる。

 二十分ほどで彼女の住む二階建てアパートの前に到着する。

 いかにも一人暮らし専用といった感じの、こぢんまりとした建物だ。古くはないが新しくもない。バス停までは徒歩一分。周辺に大通りや線路はなく、騒音はさほど気にならない。収入の少ない新入社員が住む物件としては、なかなかの立地条件だ。

 図らずも同僚の女性の住居を知ってしまった。たったそれだけのことに罪悪感を抱くのは、俺が真面目だからか腑抜けだからか……。

 まあいい、早いとこ同僚の義務を済ませよう。

 万が一にも彼氏と遭遇してしまっては大変だ。なるべく早く、鮮やかに立ち去るぞ。

 彼女の部屋は二階の一番奥。近隣の住民が不意に出てこないことを祈りつつ、部屋の前まで肩を貸してやる。

 ほんの一分ほどのことで汗がにじむほど緊張したが、無事到着。

「ここならもう大丈夫だろう。じゃ、またな」

 そう言って早々に立ち去ろうとするも――

「待って」

 またもコートをつかまれ、動きを止められた。

「せっかくだから、中でお茶でも飲んでかない?」

 予想どおりだというのに、トクンと心臓が跳ねる。

 男ってのは単純だから、理性ではわかってても本能が喜んじまうんだな。

 だが、そんな話には乗らないぞ。

「遠慮しとくよ。彼氏でもない俺が部屋に上がるのはまずいだろう?」

 強引に手を振りほどくような真似はできないので、少しずつ彼女から距離を取ることで自然と手が離れるよう仕向ける。

 一瞬でも手が離れたら即時撤退だ。怪我をした彼女の足では俺に追い付けないし、ここなら彼女を置き去りにしたことにはならない。今度こそさよならだ。

 ところが、彼女は手にグッと力を込め、俺を離そうとしなかった。

「そんなの気にしなくていいよ。ちょっとお礼がしたいだけなんだから」

「俺が気にしなくても彼氏が気にする。俺だったら、自分の恋人が他の男と部屋で二人きりになるなんて断固反対だ」

「でも、小坂君に下心なんてないでしょ?」

「ああ、ないよ。でも本人がそう言ってるからって簡単に信用しちゃダメだ。ひょっとしたら部屋に入った途端、豹変するかもしれないぞ?」

「それをわざわざ教えてくれるってことは下心がない証拠じゃない?」

「それを見越してあえてそう言っているのかもしれない。あるいは、途中で気が変わる可能性だってある」

「大丈夫だよ、小坂君優しいし。わたしは小坂君のこと信用してるよ」

 くっ、嬉しいこと言ってくれる。

 でも今は喜んでいる場合じゃない。

「と、とりあえず手を離してくれないか? こんなところで話し込んでちゃ迷惑かもしれないだろ?」

 そう、ここはまだ部屋の外だ。

 誰に目撃され、どんな誤解をされるかわかったものじゃない。

 一秒でも早く立ち去りたい。

「やだ。だって小坂君、逃げるつもりでしょ?」

 彼女はムッとした表情をして、それまで片手でつかんでいた俺のコートを両手でギュッと握った。

「ぅ……」

 俺は言葉を返せない。

 見抜かれていたのか……。

 こうなると簡単には逃げられない。どうする?

 と、その時。

 後方でガチャリと鍵の開く音がした。

 まずい、隣の住人が出てくる!?

「小坂君、入って!」

 彼女が部屋の扉を開け、俺を引っ張ってきた。

 この場は従うしかなかった。

 結局、俺は一人暮らしの同僚の女性(彼氏あり)の家に入ってしまった。

「えへへ、間一髪だったね」

 なんか嬉しそうに笑ってるし。なんなの、この子?

 可愛い過ぎだろ、ちくしょうめ。

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