第2話 男に選択権はなしか?


 この女、いったい何を考えている?

 バレンタインデーから四日も過ぎてからチョコを渡そうというだけでも近年まれに見る律儀さだというのに、走って転んで怪我をしても、まだ渡そうとしてくる。

 このしつこさは尋常じゃない。

 そうまでしてお返しが欲しいのか? いや、おそらくそれはない。

 さっき俺に差し出してきたチョコはせいぜい四、五百円程度のものだ。三倍返しをもらったところで千円分くらいの利益にしかならない。ヒールが折れた損失の方が遥かに高い。

 にも拘わらず、彼女はそれを惜しむ素振りを見せなかった。つまり、損得の問題ではないのだ。

 その上、たかが捻挫でおぶってほしいなどと言う。

 普通に考えれば、俺に気があるとしか思えない。

 だが、それはそれで不自然だ。

 同期とはいえ俺と彼女は部署が違うため、お互いのことはあまり知らない。

 あいさつとちょっとした世間話をしたくらいで恋愛感情が芽生えるだろうか?

 俺のスペックが高いのなら話は別だが、そんなことはない。俺はイケメンでもないし、営業成績もイマイチだし、スポーツが得意とかいったアピールポイントもない。

 極々平凡な一般青年だ。性格が根暗なことを考慮すれば、平凡より下かもしれない。

 可愛くて、愛想が良くて、社内でも人気の彼女が、そんな俺を好きになる理由など見当たらない。

 なにより彼女は、俺の「義理チョコかな?」という問いかけに対し、ハッキリ「そうだよ」と答えた。

 つまり、俺のことが好きだからという線はないはずなのだ。

 それなのに、ここまでする理由はなんだ?

 考えてもさっぱりわからないので、今まさに俺の背中に乗っかっている本人に聞いてみる。

「なあ、星口さんはどうしてそこまでして義理チョコを渡そうとするんだ?」

「さっき言ったよ? みんなに配ったのに、小坂君だけなしってわけにはいかないでしょ?」

 耳元で声を出されるのはこそばゆいものだな。でも、悪い気がしないのはなぜだろう。

「それは覚えてるよ」

「じゃあ、なんで同じこと聞くかな?」

 首筋と耳の後ろ辺りに、微かだが彼女の吐息を感じる。

「それだけとは思えないんだよ。普通、同僚ってだけでここまでしないだろう?」

「そうかな?」

 それに、さっきから感覚が変だ。

 いくら彼女が小柄とはいえ、数十キロもある人間の身体が妙に軽く感じる。

 真冬の寒空の下だというのに全然寒くない。

 密着している背中だけでなく、身体全体が暖かい。

「そうだよ。これはもう律儀ってレベルじゃない。何か他に理由があるんじゃないのか?」

「理由って、どんな?」

「いや、聞いているのはこっちなんだが」

「答えても納得してくれないから聞いてるんでしょ?」

 あくまでも自分から言うつもりはないらしい。あるいは、本当に俺が考え過ぎなだけか。

 仕方がない、思い切って言ってみるか。

「だから、ここまでされると、男ってのは勘違いするものなんだよ。ひょっとしたら、義理と言いつつ中身は本命なんじゃないかって」

「あ、それはないから安心して。わたし、彼氏いるから」

 さっぱりとした口調だった。

 一瞬、耳を疑った。でも、こんな近くでハッキリ言われて聞き違えるはずもない。

 彼氏……彼氏ね……。

 いや、うん……まあ……そうだろうな。

 よくよく考えてみれば、こんな可愛い子に彼氏がいないとか、あり得ないよな。

 わかってた。わかってたよ。

 それでも胸が痛むんだよ、男ってヤツは。ちくしょうめ。

 急に身体が冷えてきた。

 さっきまで忘れていた二月の寒さを、ひしひしと感じるようになった。

 心が冷めると身体も冷える、か。

 男ってのは悲しいまでに単純だな。

 まあいい。この子を接骨院まで運んだら、とっとと帰ろう。

 帰って暖かいココアでも飲もう――って、おいー!

 彼女が俺のコートのポケットに小箱をねじ込もうとしていた。

「ちょっ、なにやってんだ!?」

「あ、いや、ちょっと隙ありっぽかったからいけるかなーって」

 彼女は「てへへ」とごまかして、手を元の位置に戻した。

 まったく、人の気も知らないで……。

 俺は少しだけ怒りを込めて言う。

「怪我人なんだからおとなしくしててくれ。遊んでるなら降ろすぞ?」

「遊んでなんかないよ。わたし、けっこう真面目なんだからね」

「だったら断られた時点で諦めてくれよ。いらないって言ってるものを無理に押し付けるのが真面目な社会人のすることか?」

「それは小坂君が受け取ってくれないからでしょ? 社会人が義理チョコを断るなんてあり得ないよ」

「男に選択権はなしか? 世の中にはな、チョコが嫌いな人もいれば、経済的に余裕がなくてお返しを負担だと思う人もいるんだぞ?」

「でも、こういうのは好き嫌いの問題じゃないし、お金に余裕がないのは、わたしだって同じだよ」

「だったら無理せず自分のものを買えばいいじゃないか」

「そうはいかないよ。みんながチョコ配ってるのに、わたしだけ配らないわけにはいかないでしょう?」

 また振り出しに戻った。

 なんなんだこれは?

 あげる側も、もらう側も負担に思ってるのに、それでもやめられないって、誰得なんだよ、このイベント?

 ――って、チョコレート作ってる企業か。あと販売会社だ。

 そんな顔も知らない連中の利益のために、俺たちは否応なくこのイベントに参加させられている。

 どうしてこうなった?

 参加したい奴は参加して、参加したくない奴は参加しなくたっていいじゃないか。

 この『参加しない奴は非常識』みたいな空気はなんだ? おかしいだろう?

「あ、接骨院、ここ」

 彼女の声で、俺は足を止めた。

 いつの間にか目的地に着いたようだ。

 理由はとうとう聞けず終いだったが、まあいい。本命じゃなかったんだ。

 所詮は義理チョコ。どんな理由であれ、四日前彼氏に渡したであろう本命ほど重くはない。

 院内に入り、受け付けを済ませた後、彼女を待合室の椅子に座らせてやる。

 これで俺の役目は終わりだ。

「じゃ、あとは彼氏に連絡して迎えにきてもらうんだな」

「待って」

 彼女がコートの裾をつかんできた。

「なんだよ? 院内で騒いだら迷惑だぞ?」

「それはわかってる。チョコのことじゃないの」

「じゃなんだよ?」

 周囲に聞こえないよう、俺は彼女の隣に座って小声で聞く。

 彼女も小声で答える。

「今日は彼氏が仕事終わるの遅いの。だから迎えとか無理で……」

「まさか俺に家まで送れと?」

「ここからバス停まですぐだし、バス降りてからアパートまでもすぐだから、お願い!」

「お願いたって……」

 いいのか? 彼氏不在の時に一人暮らしの女性の家に行くなんて。

 たとえ下心がなくても見つかったら誤解は必至だぞ。

「ダメ?」

 彼女が、すがるように聞いてくる。

 もし彼女の話が本当なら放ってはおけない。怪我をした同僚を置き去りにはできない。

 しかし――

 ひょっとしたら、彼氏が予定より早く仕事を終えて彼女に会いに来るかもしれない。

 ちょうど家に着いたところで鉢合わせになってしまうかもしれない。

 そう思うと恐ろしくて、すぐには決断できない。

「星口さん、星口咲穂(さほ)さーん。診察室へお入りくださーい」

 なんでこういう時だけ早いんだよ!

「あ、ごめんね、呼ばれたから行くね。お願い、待っててね。ね?」

 彼女は胸の前で小さく手を合わせた後、女性看護師に支えられて診察室に消えた。

 俺は黙って待つしかない。

 ちくしょうめ、可愛いってのはつくづくお得だな。

 ……咲穂ね。覚えておこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る