義理チョコを意地でも受け取らない男と意地でも渡す女

ンヲン・ルー

第1話 お返しは三倍でよろしくね


 二月十四日。バレンタインデー。

 俺にとっては一年で最も鬱陶しい日だ。

 なぜかって?

 義理チョコを拒否しなければならないからさ。

 チョコレートが嫌いなわけじゃない(むしろ好きだ)。

 イベントの趣旨が気に入らないのだ。

 なにが悲しくて好きでもない女性とプレゼント交換しなきゃならないんだ?

 それじゃ、お歳暮と同じだろう?

 それで得をするのは誰だと思ってる? チョコレート作ってる企業だぞ。

 本命チョコならまだしも、義理チョコだの友チョコだの逆チョコだの、完全に商業戦略じゃないか。誰がそんなもんに乗せられるか!

 とはいえ、差し出されたものを突っぱねるのは容易ではない。

 よって、ここは例年どおり休む!

 学生だった去年までは仮病を使っていたが、社会人となった今年は有給休暇を使って堂々と休む。もっともらしい理由も考えた(本来、有給を使うのに理由は問わないはずだが?)。

 しかも、休むのはバレンタインデー当日だけではない。翌日に渡してくる律儀な人間もいるからな。念には念を入れて、二日続けて休む。

 さらに、運がいいことに今年は翌々日が土曜日で休みだ。つまり四連休。

 さすがに二月十八日になればお祭り騒ぎの熱も冷めている。今頃になってチョコを渡してくる人間はいまい。

 案の定、職場の空気はすっかり元通りになっていた。

 俺にチョコを渡していなかったことなど誰も覚えちゃいない。

 所詮は義理チョコ。そんなもんだ。

 ミッションコンプリート。

 これで俺は誰にもお返しをする必要はない。

 且つ、職場に無用な波風も立てなかった。完璧だ。

 そうして、いつもどおりの勤務を終え、帰ろうとしたところ――

「あ、小坂こさか君、お疲れ様。この間休みだったからまだ渡してなかったよね? はい、これ」

 事務員の女の子が、桜色に包装された小箱を差し出してきた。

 この大きさ、このデザイン、このタイミング。

 中身は問うまでもない。チョコだ。

 まさかの不意打ちに動悸が高鳴る。

 いや、早まるな! 期待するな!

 彼女の名前は星口ほしぐち。下の名前は覚えていない。俺と同期の子だ。

 だが、同期といっても、彼女とは部署が違うので一緒に仕事をしているわけではない。

 あいさつと、少々の世間話をしたことがある程度の間柄でしかない。

 よって本命チョコということはまずあり得ない。

 だが、四日も過ぎているのに、わざわざ持ってきてくれたのだ。

 俺は確認のため聞いてみる。

「ええと、もしかして義理チョコかな?」

「そうだよ。お返しは三倍でよろしくね」

 三倍だと!? 

 さして親しくもない相手に臆面もなく言うとは、なんて図々しい女だ。

 だが、この女が付け上がるのも無理はない。なにせ可愛い。しかも仕事ができる――と見せかけて時々小さなポカミスをやらかす、男性的には非常に守ってあげたくなるタイプなのだ。

 職場に若い女性が少ないこともあって、彼女は入社以来ずっとチヤホヤされてきた。学生時代もさぞチヤホヤされてきたのであろう。並みの男であれば喜んで三倍返しをしたくなるに違いない。

 だが、この俺を並みの男と思うなよ。

「悪いが、義理チョコは受け取らない主義なんだ。じゃあな」

 俺は素っ気なく告げて、踵を返した。

 いきなり三倍返しを要求してくる女に幻想を抱くほど坊やじゃないんでね。

「は? ちょっと待ってよ」

 意外にも、彼女は俺を追いかけてきた。

 早足で廊下を歩く俺の横に並び、強気な口調で言ってくる。

「そういうの困るんだけど」

「なんで?」

「みんなに配ったのに、小坂君だけなしってわけにはいかないでしょ?」

 配っただとさ。嫌な言い方だ。

 この女は俺のことなんか眼中にない。ただ社会的な義務感に従ってチョコレートという名のお歳暮を送っているだけなのだ。恋愛感情はおろか仲間意識すらあるかどうか。

 しかも俺が同期で控えめなタイプと見て、あからさまに三倍返しを要求してきやがった。

 冗談じゃない。可愛いってだけでなんでも許されると思ったら大間違いだぞ。

「いや、俺はいいんだ」

 冷たく言い放ち、歩く速度をさらに上げる。

 ヒールでこの速度に付いてくるのはキツいだろ? もう諦めな。

 会社の敷地から路上に出る。

 驚くことに、それでも彼女は付いてきた。

「あのね、そういうの良くないと思うよ。人がせっかく用意したものを受け取らないなんて」

 小走りで少しふらふらしながらも、俺に説教を垂れてくる。

 しつこいな。そこまで体裁が大事か。

「別に頼んでない」

「頼んだとかそういう問題じゃなくて、これは風習なの。社会の常識なの」

「おいおい、ここは日本だぞ。いつからキリスト教の風習が常識になった?」

「え? もしかして宗教上の理由でダメなの? でも今時、家がお寺でもそんな堅いこと言わないでしょう?」

「宗教は関係ない」

「じゃあどうして?」

「企業戦略に乗せられるのが嫌なんだよ」

 ハッキリ言ってやると、彼女はあからさまに眉根を寄せて口を尖らせる。

「はぁ? なにそれ? そんなの気にせず楽しめばいいじゃん」

 よく言うぜ。そりゃ、あげたものが三倍になって返ってくる方は楽しいだろうさ。けど、こっちは好きでもない女に貢がされるんだぞ。そんな行事を素直に楽しめる男は余程の女好きか金持ちか、さもなくば何も考えずに生きてる能天気野郎だけだ。

 だが、この女にそれを言っても通じそうもない。

 ここは適当に理由付けて逃げるとするか。

「あー、悪い」

 俺は唐突に声を上げ、腕時計に目をやる。

「今日、友達と約束があったの思い出した。悪いけど俺急ぐから、また今度な」

 一応あいさつはちゃんとした上で、俺は走り出す。

「え、ちょっと……!」

 今度こそ付いてこられまい。見栄を張って高いヒールなんか履くからだ。

「きゃっ!」

 後方で悲鳴がした。

 俺は反射的に足を止める。

 振り返って見てみると、彼女が横向きで倒れていた。

「お、おい、大丈夫か?」

 俺は彼女に駆け寄り、手を差し伸べる。

「イタタ……」

 自力で上体を起こした彼女は、俺の手を取るのではなく、持っていたチョコの箱を手に押し付けてきた。

「はい。チョコレートはちゃんと守ったよ」

「なに言ってんだ! それより大丈夫なのか?」

「へえ、心配してくれるんだ?」

 彼女は苦痛に顔を歪めながらも悪戯っぽい笑みを崩さず、グイグイと手に義理チョコを押し付けてくる。

「よ、よせって!」

 俺は手を引っ込めた。

「えー、受け取ってくれないの?」

「そんなことより怪我は? 一人で立てるのか?」

「ちょっと難しいかな。足首、捻っちゃったみたい」

 彼女の足元を見ると、ヒールの片方が根本からポッキリと折れていた。

 一人で立てないということは、捻挫か?

「どうする? 救急車を呼ぶほどじゃないよな?」

「当たり前。こんなんで呼ぶのは非常識だよ」

「じゃあ家族に迎えにきてもらうか?」

「わたし、一人暮らしだから」

「じゃあタクシーでも呼ぶか?」

「それはもったいないしなぁ……。バレンタインでけっこうお金使っちゃたし」

 だったら使わなきゃよかったのに。なんてこの女には言っても無駄か。

 なんにせよ、いつまでも倒れたままでは通行人からの視線が痛い。早くどうにかしたいが、どうする? 

 迷っているうちに、彼女が言う。

「ねえ、この先にある接骨院まで連れてってくれない? 三百メートルくらいだからタクシー使うまでもないでしょう」

「まあ、それくらいなら……。じゃあ、肩貸すから、そこまで歩くか?」

「えー、それは無理」

 ぶすっとした表情。

「じゃあどうすんだよ?」

「おぶって?」

 今度は上目遣い。

 こいつ、どこまで図々しいんだ。

 彼氏でも家族でもない男に、おぶってなんて言うか普通?

 っていうか、いいのか?

 おぶってもらうってことは、背中にむ……前面が密着するってことだぞ。

 それをそんな可愛い声で言われたら、大抵の男は勘違いするぞ。

「ねえ、地面冷たい。早くしてー」

 こどもか!

「ワガママ言うな。肩貸すからゆっくりでも歩いてくれ」

 俺はしゃがんで手を差し出す。

「えい」

 その手に、彼女はまたも小箱を押し付けてきた。

「こ、こら! そんなことやってる場合か!」

「だって、こうでもしないと受け取ってくれそうもないしー」

「チョコの話は後にしてくれ。こんなところに座り込んでたら迷惑だろう?」

「じゃあ、おぶって?」

 こいつ……なんというしたたかさ。俺がおんぶするより義理チョコを受け取る方を選ぶと見て、あえてワガママを言っているな。

 だが、その手には乗らんぞ。

 そんなにおぶってほしいなら、おぶってやろうじゃないか。

「わかったよ」

 俺は彼女に背を向けて、しゃがんだ。

 さあ、来るなら来い。ハッタリだってことはわかってるんだ。

「じゃあ、お願いね」

 え……。

 次の瞬間、フワリと石鹸のような香りがしたかと思うと、急に背中が暖かくなった。

 それから、ずしりと体重がかかってくる。

 ぐ……この女、ほんとにおぶってもらうつもりだったのか!

 いや、それより――

 真冬の外だから当然、俺も彼女もコートを着ているわけで、さすがにコート二枚越しでは柔らかさがあまり伝わってこなかった。惜しかったな。

「立てる?」

 彼女が耳元で囁いてくる。

 こうなった以上、今さら降りろとは言えない。

 体力に自信があるわけではないが俺も男だ。小柄な彼女をおぶって三百メートル歩くくらいはできる。

「うんしょっと」

 俺は腰を痛めないよう注意して立ち上がる。

「それじゃあ、行くぞ」

「うん」

 通行人の視線に晒されるのをグッと堪えながら、俺は歩き出した。

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