50話 シーラカンスの記憶。

50 シーラカンスの記憶


 高田馬場の駅を降りて目白の方角に彼は歩きだしていた。西早稲田の娘の下宿とは反対の方角だ。その夜は、娘のところに泊めてもらうつもりだった。新宿の「アドホック」でKの出版記念会があった。

 それから、同人誌仲間と二次会をやった。Kを囲んで「焼酎屋」で飲んでの帰りだった。

 かなり酔っていた。jazzが歩道にながれていた。パブの扉が幽かに開いていた。誘われるように彼は扉を開いた。先客がいた。撮影の器具を足元に置いて飲んでいた。

「………が死ぬとはおもわなかったな」

「そうよね。すこし早すぎたわ」

 夭折したアメリカのjazzマンのことが話題にあがっていた。

 誰だったのか? あのときは、わかっていたはずなのに――。

 その店の名前も思いだせない。歩道から二段ほど下りた。自転車が三台ほど置いてあったのは覚えている。記憶があいまいになっている。

 作品を書く上で必要とすることが、記憶からぬけおちている。分厚い扉だった。なにかの拍子で、半開きになっていた。そんなことは鮮明に脳裏に浮かび上がってくる。彼は誘われたように、扉を大きく開いた。そこには、先客がいた。マスコミで働いている。言葉の節々にそれを誇示しているのが感じられた。その男の話に反発を感じたためか――。言葉が口をついてでていた。呂律がまわらない。酔いがまわってきた。彼はそれでも、話しつづけた。

「ジャズの帝王。ナベサダが宇都宮工業の学生で、よく鬼怒川の観光ホテルで演奏していました」

 彼はふたりの話題に割りこんだ。

「いつのことです」

 テレビ局の人間なのだろう。不愉快な顔。冷やかすような調子で彼に訊く。

「終戦直後のことです」

「古い話ですね。化石みたいなひとだ」

 オチョクラレテいる。そう。シーラカンスの記憶だ。

「水道橋のたもとに、『スウィング』て、ジャズ喫茶がありましたよね」

 彼が、バンダナをまいたママに聞いた。

「娘さんがすぐ近所でカレーライスの店をやってるわよ」

 そんな応えがもどってきたのはよく覚えている。

「デキシ―専門の」

「そうそう」

 先客はママが目当てで来ていたのだろうか。すごく不機嫌な顔になっていた。

「もうやっていないのだろうな」

「そうそう」

 そんな些細な会話が、よみがえってくる――。

 あのとき、遠いアメリカで死んだjazzマンはだれだったのだろう


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る