48話 漫画家になりたい。
48漫画家になりたい
仙台駅に着いた。吹雪いていた。新幹線「やまびこ」は20分ほど遅れてプラットホームにすべりこんだ。母、危篤の連絡をうけての帰省だった。街はすっかり暮れていた。震災の影響は駅前の風景をみただけでは何も残ってはいなかった。空からはいく億という雪が舞い落ちていた。
ルーフに雪を積もらせてタクシーがならんでいる。タクシー乗り場にいこうとした。駅前で少女が手を振っている。姪の亜莉沙だった。わたしに似ている。見まちがうわけがない。小柄なので、幼く見えるが運転免許を取れる年になっていたのだ。
「さすように冷たいわね。わたしはこの寒風を忘れていたわ」
「つい先ほど、おばあちゃんは息を引き取りました。すみません携帯しようとしたのに、父に止められたので」
兄らしいと思った。死んでしまったものは、もうどうにもならない。あわてることはないのだ。そう、達観しているのだろう。わたしが母の反対をおしきって……。東京で同人雑誌をやっている男と結婚したときもそうだった。どうせ、ものにはならないよ。それより年金のつく官吏がいいよ。という母を説得してくれたのは兄だった。わたしが嫌ったのは、寒さだけではなかったのだ。両親の古い考えもいやだった。
わたしは理屈っぽい文学少女だったのだろう。結婚は許されなかった。スーツケースひとつで上京した。だから、家出同然の身だった。悲しかった。母にはあれいらい会っていなかった。震災でも見舞にかけつけることはしなかった。仙台に帰省したのも30数年ぶりだ。親の死に目に会えないなんて。許されないまま、母に逝かれてしまった。
フロントにふきつける雪をワイパーが音を立ててぬぐっている。商店街は人影も絶えていた。わたしはずっと黙ったままでいた。
すっかり忘れていた故郷の雪。感動はなかった。母の死を聞いた悲しみに、すっかり動揺していた。元気なうちに、いちど会っておくべきだった。心配をかけたことを詫びておきたかった。
「あたし、美智子おばさん、漫画家になりたい。代々木の「アニメ学院」にはいりたいの。
大森の家に下宿させてくれますか。それなら父は許してくれるとおもいます」
沈黙をやぶったのは亜莉沙だった。父は、ということは兄は許すが、義理の姉の友子は反対なのだろう。むりもない。
わたしの夫もついに同人誌の作家からぬけだすことができなかった。友達が、文学賞をとってはなばなしく世にでていくのを僻み。かなり無理な努力を長年続けた。昼は勤め。夜は創作に打ち込み。過労の日々。それがたたった。定年とともに人生にも別れをつげてしまった。いまなら、わかる。母がわたしの結婚に反対した気持ちがわかる。親というものは、子どもに無難な道を歩ませたがる。波乱のない、安定した人生を過ごしてもらいたいと願う。
小説家とか漫画家になろうとすることは――。この世でいちばんつらい人生を送ることになる。いまは、マスコミでハヤシタテルから。ごく一部の、成功したものたちが。幸運なひとたちが。華やかにみえる。でも、そのかげで、どれだけの若者が泣いていることか。
羽化することもなく。消えていくことか。わたしは、なんどか、死を考えたことがあった。
それに耐えられたのは、夫を愛していたからだろう。
子供には恵まれなかった。いまは独り暮らしだ。雪はよこなぐりに、車の窓をたたきだした。暗い洞窟のような道。車はのろのろ運転で、進んでいた。夜の底は雪明りでそこはかとなく明るかった。空には暗雲が立ちこめていた。暗かった。ヘッドライトに照らしだされた雪はあくまでも白かった。
闇と雪が渦を巻いて前方から迫ってくる。姪の隣の席から年寄りじみた声が答えていた。
「プロとして成功できなかったらどうするの。結婚する? 女はやはりフツウの人と結婚して。子育てをするのがいちばん幸せなのよ」
しわがれた声。ああこれは母の声だ。あのときの、母の考え方と同じだ。夫との長年の苦労で……。いつの間にか世俗の垢にまみれてしまっている。
わたしの声は母の声になっていた。人は一生夢をみつづけることはできない。悲しいことだが、いつか破綻がやってくる。夢をみつづけて死んでいった夫が恨めしかった。
雪はいつでも白い。美しい結晶。白の幻想をひとにあたえてくれる。だが、人は老いる。
美しく思われたものが、いつまでも美しく魅惑的であるとはかぎらない。命もつきるときがある。どんなに愛していても意見が、わかれる。長い間には、幻滅もおそってくる。とくに、逆境にある夫との生活では、そうしたことがたびたびあった。
「美智子おばさんのことは、父からもおばあちゃんからも聞いていました。意外なご返事です」
わたしが、消極的な反対意見をのべたことが、ショックだったらしい。わたしなら、亜莉沙の望みに賛成してくれる。そう思っていたのだろう。
「つらいこともあるのわよ」
返事はない。雪はさらにひどくなった。
「いますこしですから」
亜莉沙がしばらくしてからつぶやいた。
「おばさんなら、わかってもらえると思っていました。お会いできるのが、たのしみでした」
「はい、着きました」
タクシーの運転手がドアをあけてくれた。わたしはうとうとしていたらしい。亜莉沙はどこにもいない。
夢でもみていたのだろうか。だが車は懐かしい青葉区滝道の実家についていた。玄関に家族のものがそろっていた。
「お母さんだめだったの」
「どうしてそれを……」
兄がけげんな顔をした。さっさと、外に出ようとしている。すっかり老いた義姉の友子の顔も青い。何かおかしな雰囲気だ。ふたりとも、せっぱつまった顔をしている。亜莉沙の弟もいる。妹もいる。
「亜莉沙が……美智子さんを向かいにいく途中で、スリップ事故で……」
友子が咳き込んでいる。病院に駆けつけるところだという。不吉な予感。今までわたしと話をしていた亜莉沙は、ゴーストだったのか。
わたしは、兄の運転するワンボックスカーにあわただしく乗りこんだ。
「あの子は、漫画家になりたいなんていいだしたの」
幕張メッセのコミック・マーケット。自費で出した本をもって亜莉沙はなんども幕張まで出かけていった。と、友子がつぶやく。
「大森に寄ってくれればよかったのに」
「あなた、大丈夫よね。亜莉沙は死なないわよね」
「ごめんなさい。そんなに重態なの」
「昏睡状態らしい」
ああこれはだめだ。最悪だ。あの子は、わたしにお別れに来たのだ。果たせなかった夢を。わたしにだけは伝えておきたかったのだ。
座席に、亜莉沙のコミックブックがあった。
『旅たちの詩』
若い女の子が滝道の家から。雪の雑木林を背景に出かけていく絵だった。顔は私の娘時代に似ている。家族の伝説となっているわたしの家出。亜莉沙は、自分の願いをわたしの無謀な家出に重ねた。娘は真紅のロングマフラーで髪をおおつていた。前方をきっと見つめるおおきな目が美しかった。雪は金箔で表現れていた。黄金色に輝く夢。絵の中の雪。
わたしは才能を感じた。
ストーリーは東北の寒村に生まれた娘が、小説家を志し、太宰治の文庫本を片手に、旅立っていくというものだった。
病院の車寄せの庇には、雪があふれていた。雪は常夜灯の光を反射してきらめいていた。
いまにもちいさな雪崩となっておちてきそうだった。わたしたちは、無言で集中治療室にいそいだ。
「いま、気づきましたよ」
治療室からでてきた看護師かいった。ああ、よかった。助かる。亜莉沙は助かる。
担当の医師が寄ってきた。脳震盪をおこしていたのだという。
怪我も左肩を強く打っただけ。脳に異常はない。
少しなら話していいと許可が出た。
「美智子おばさん。わたし、わたし迎えにいけなくてごめんなさい」
「いいのよ。わかっているわ」
「おどかすなよ。ふたつ葬式を出さなくてはならないのかと……」
あとは言葉にならなかった。兄もすっかり老いていた。涙もろくなっていた。
亜莉沙。
あなたの願いは、もうわかっていますよ。
世に認めてもらえなかった夫の夢を。あなたと一緒に果たしたいわ。小説家と漫画家のちがいがあっても。願いは同じことよ。漫画家になること賛成。わたしも漫画の原案でも書こうかしら。
創作意欲が湧いた。夫の原稿の清書に明け暮れた。自分の作品を書きたい。それができなかった。
わたしはねばり強く、これからは小説を書いていこう。それが、母への供養に成る。
夫も喜んでくれるだろう。わたしも泣いていた。ここちよい涙がほほをこぼれおちていた。太宰の文庫本を手に家を出た情熱がよみがえった。
二人で、デビューを果たしたいわ。
「兄さん、友子さん、亜莉沙を養女にいただけないかしら」
「お母さんは、美智子はどうした。美智子に会いたいと、最期までいっていたぞ」
兄が涙声で言う。母はわたしを心の中では、許していたのだ。それはわかっていた。
世俗的な母の願いが理解できていた。死に水もとれないで、わたしは悪い娘だった。
親不孝者だった。わたしのほほを大粒の涙がこぼれおちていた。
お母さん、あなたの大切な孫をわたしにあずけてください。
立派に大成させてみせます。それが母への償いのように思えた。
亜莉沙も泣きだしていた。
友子も、すっかりものわかりのいい母親の顔になっている。
涙が目じりににじんでいた。
みんなの涙に、わたしは、亜莉沙を養女にすることへの暗黙の同意をみた。
涙がはらはらとこぼれおちた。
窓の外は雪がふりしきっていた。
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